第八章 喰魔の真実
一夜明け、第一演習場にはいつにも増して刺々しく、そして政治的な意図を感じさせる暗い重圧が立ち込めていた。観客席の上階、特別な貴賓席からゆっくりと降りてきたのは、豪奢な金糸の刺繍が施された深紅の法衣に身を包んだ老者であった。学院の諮問機関であり、王国魔導幹部会の長を務める教導卿、ヴァルハルト・フォン・セルゲイ。彼の背後には、異形の魔導具で全身を固定された黒装束の親衛隊「煉獄の爪」が十数名、機械のように整列して佇んでいる。「……見苦しいな。学院の威信をかけた対抗戦が、いつからこのようなおぞましい怪物の見せ物に成り下がったのだ?」ヴァルハルトの声は低く、演習場の隅々にまで響き渡った。彼が足を踏み出すと、足元から黒い魔力の波紋が広がり、生徒たちが息を呑んで静まり返る。「教導卿ヴァルハルト様……!なぜあのようなお方が直々に演習場へ……!?」「アストリア家の落ちこぼれ令嬢を処分するために決まっている……!」ヴァルハルトの冷酷な視線が、演習場の中央で悠然と立ち尽くすリゼット・アストリアへと向けられた。「リゼット・アストリア。いや……『魔を喰らう種』、魔法食の残党よ」その言葉が発せられた瞬間、観客席からざわめきが起こった。「魔法食……?そんな存在、歴史の禁書でしか聞いたことがないぞ……!」「魔法を無効化するんじゃない……食らうだと……!?」ヴァルハルトは不快そうに顔を歪め、杖を強く地面に突いた。「貴様がやっていることは、優雅なお食事などという甘っちょろい戯れ言ではない。術者が膨大な魔力と精神を注ぎ込んで生み出した魔法……即ち『世界に介入する現象』そのものを胃袋へ押し込み、強引に解体・吸収する異端の暴挙! 魔法体系の根幹を揺るがす、歩く災厄……いや、ただの『喰種』だ!!」言い放たれた「化け物」「魔法食」という剥き出しの蔑称。演習場全体に嫌な緊張感が走り、アルベール・グランシェの目が鋭く光った。彼の手が静かに胸元へと伸び、いつでも黒鋼の義手を放てる構えを取る。
しかし——。
当のリゼット本人はといえば、至極可憐に首を傾げていた。「まあ……魔法食?なんだか美味しそうなお菓子の名前のようですわね、爺」「……お嬢様、あちらは最大級の侮蔑を込めて申し上げているようでございます」アルベールが呆れ混じりに溜息をつく。リゼットはヴァルハルトの怒号など意に介さず、ただ自身の美しい爪をそっと見つめていた。
「白々しい演劇は終わりだ!」
ヴァルハルトは腕を掲げ、背後の親衛隊に命じた。「知るがいい、全校生徒ども!この女の異能の真実を!奴は単に『魔法を食べている』のではない!『魔力によって成立しているあらゆる存在——空間、概念、生命活動そのものを自らの糧として取り込む規格外のバグ』なのだ!!」ヴァルハルトの叫びとともに、親衛隊が一斉に禁忌の魔導具を解放した。空中に描かれたのは、古代の封印を解く三層構造の超複合魔法陣。「奴の胃袋は無次元のブラックホール!放っておけば学院どころか、この都市の魔力脈すら喰い尽くしかねん危険因子!故に……ここで我が『絶界の拘束陣』をもって、存在ごと消滅させる!!」
ドゴォォォォォンッ!!!!!
演習場の上空が割れ、そこから照射されたのは、純粋な魔力の塊ではない。周囲の空間そのものを圧殺し、存在の定義を上書きして消滅させる「概念固定の光柱」であった。地上の石畳が分子レベルで崩壊し、重力が歪んで観客席の手すりがひしゃげていく。「これぞ魔導幹部会の絶対の威光!概念そのものを削り取る光だ!これすら喰えるというなら喰ってみせるがいい、化け物め!!」全校生徒が悲鳴を上げ、目を背けた。それは一生徒が立ち向かえる魔法の規模を超えていた。国家の防衛結界すら一瞬で穿つ、絶対的な破壊の光。迫り来る「存在消滅の光柱」。アルベールが前に出ようとした瞬間、リゼットがそっとその肩を制した。「お嬢様……!?」「いいのです、爺。あちらの老紳士……何だか難解な講釈を垂れていらっしゃいますが……」リゼットはすうっと深く息を吸い込んだ。彼女の瞳に宿っていたのは、恐怖でも諦めでもない。ただただ——呆れ果てたような、圧倒的な「格の違い」であった。迫り来る破壊の光を真っ正面から見据えながら、リゼットは静かに、そして演習場全体に届く通る声で言い放った。「空間がどうの、概念がどうの……規格外のバグとおっしゃいましたかしら?」彼女の周りに、これまでで最も美しく、真白な光の領域——固有能力『ひとときの食卓』が最大展開された。ペルシャ絨毯が広がり、マホガニーのテーブルが現れる。 だが今回のテーブルは、演習場全体を覆い尽くすほどの規格外のスケールであった。「わたくしには……そんな難解で小難しい理屈など、どうでもよろしくてよ!!」リゼットの背後に、まるで宮殿の晩餐会のような幻想的な光の銀食器たちが何百と浮かび上がる。「理由がどうであれ!仕掛けがどうであれ!わたくしの目の前に運ばれてきた以上……それは全て『お料理』ですわ!!」「な……なに……!?」ヴァルハルトが絶句する。「目の前にお出されたお料理を……残さず美味しくいただくこと! それこそが、アストリア公爵家筆頭令嬢としての、最低限の嗜みであり、絶対のマナーでございます!!」リゼットは両手を大きく広げ、迫り来る概念消滅の光柱に向かって、小さな口を美しく開けた。
——ズズズズズズズズズズズズズッ!!!!!
演習場全体が激しく揺動した。天地を裂くはずだった絶界の光柱が、彼女の領域に触れた瞬間、巨大な「極上のシャンパンの泡」のようにシュワシュワと弾け、銀のグラスの中へと一滴残らず吸い込まれていく!「な……バ……バカな!!?概念消滅の光だぞ!?存在そのものを消す術式だぞ!? なぜ……なぜ飲み込める!!?」ヴァルハルトは叫び、血走った目で杖を振り回した。「魔法食め……! 化け物め!! どれだけの胃袋を持っていれば気が済むのだ!!」「化け物とお呼びにならないでいただけます?」リゼットは銀のグラスを持ち、シュワシュワと弾ける光の泡を、優雅に一口含んだ。ごくっ。「ふう……♪少し炭酸が強すぎますけれど……食前のスパークリングとしては、爽快で悪くありませんわね」リゼットは可憐に微笑むと、手元の銀のスプーンをすっとヴァルハルトとその親衛隊へと向けた。「貴方がたが何と叫ぼうと、わたくしはわたくしの美学に従うだけ。……さあ、次はどんなお皿をご用意していただけますの?」その瞬間——リゼットから放たれたのは、威圧感などという生温いものではなかった。あらゆる攻撃、あらゆる権威、あらゆる理屈すらも「美味しく完食してしまう」という、絶対的な存在の格の違い。自立した一人の令嬢としての、揺るぎない誇りと美学。「ひ……ひいっ……!!」ヴァルハルトの膝がガクガクと震え出した。数十年の間、王国の裏舞台で権力を振るってきた老魔導師が、たった一人の十六歳の少女の前に、完全な「食材」として見下されているのだという恐怖。「ひ、ひるむな!全員で攻撃しろ!出せる限りの最高級魔法を叩き込めぇぇぇっ!!」ヴァルハルトの狂気じみた叫びに、親衛隊の十数名が一斉に動いた。火、水、風、土、雷、光、闇——あらゆる属性の極大攻撃魔法が、百花繚乱のごとく演習場を埋め尽くす。それは一国を滅ぼすに足る、暴力的で圧倒的な魔力の濁流であった。
しかし——。
「まあ……! なんて豪華なバイキング(ビュッフェ)でしょう!」リゼットの瞳が、最高潮の輝きを放った。「爺!お皿の準備をお願いしますわ!」「御意にございます、お嬢様!」アルベールがパチンと指を鳴らすと、演習場全体に浮かぶ無数の銀のクロッシュ(蓋)が一斉に開いた。
シュウゥゥゥン! シュウゥゥゥン! シュウゥゥゥン!
迫り来る十数人の極大魔法が、まるで引き寄せられる磁石のように、次々と銀の皿の上へ吸い込まれていく。炎は「熱々のグラタン」へ。風は「爽やかなハーブサラダ」へ。雷は「パチパチ弾ける特製キャンディ」へ。土は「じっくり焼き上げたベイクドポテト」へ。ものの数秒で、襲撃者たちの命がけの攻撃は、テーブルの上に並べられた豪華絢爛な「大バイキング料理」へと姿を変えてしまった。「パクッ!モグモグ……♪あぁ、こちらのグラタンはホワイトソースが濃厚で絶品ですわ!」「こちらのサクサクとしたお芋も、香ばしくてたまりませんの!」カチャカチャと心地よい銀食器の音を立てながら、次々と襲撃者の魔法(お料理)を平らげていくリゼット。「あ……あぁ……」親衛隊の男たちは、己の全魔力が一瞬にして「おかず」として処理されたショックにより、一人、また一人と膝から崩れ落ち、魔力切れと精神疲憊で昏倒していった。そして最後に残されたのは——棒立ちでガタガタと震えるヴァルハルト一人であった。リゼットは最後のポテト(土魔法)をパクリと口に入れると、ナプキンで上品に口元を拭い、静かに立ち上がった。「ごちそうさまでした」完璧なお辞儀。その瞬間、ヴァルハルトの足元の魔力脈が完全に枯渇し、彼の着ていた豪奢な法衣が光を失って破れ飛んだ。「あ……我が魔力が……我が権威が……喰われた……完食された……!!」ヴァルハルトは泡を吹いて白目をむき、豪快に後ろ倒れになって気絶したのだった。「勝者……リゼット・アストリア……!」審判の講師が、完全に腰を抜かした状態で、かろうじて声を張り上げた。演習場を包んだのは、静寂の後の——割れんばかりの爆発的な大歓声であった。「見たか!?教導卿を一網打尽だ!!」「化け物なんかじゃない!あのお方は……あのお方は俺たちのヒーローだ!!」「リゼット様ぁぁぁ!カッコよすぎます!!」かつて「落ちこぼれ」「異端」と蔑まれていた令嬢は、いまや全校生徒の憧れと畏怖を一身に集める存在となっていた。だが、リゼット本人は歓声にも浮かれず、ただ自分の少し膨らんだお腹を愛おしそうになでていた。「ふぅ……さすがに今回は、少しお腹がいっぱいになってしまいましたわね、爺」「お見事でございました、リゼットお嬢様」アルベールが心底感服した様子で一礼する。「教導卿なる老者、お嬢様を『喰種』などと非難しておりましたが……結局のところ、お嬢様の高潔な食の美学の前には、どのような理屈も無力でございましたな」「ええ。わたくしが何者であろうと関係ありませんわ」リゼットは空を見上げ、晴れやかに微笑んだ。「作法を守り、作られたものに感謝を込め、残さず美味しくいただく。……それさえできれば、わたくしはいつだってアストリア家のお嬢様ですもの」「左様でございますね。……さて、お嬢様。本日の大バイキングも無事に終了いたしました。お屋敷へ戻り、消化を助ける特製のハーブティーをお入れいたしましょう」「まあ、嬉しいですの! 急いでお帰りになりましょう、爺!」可憐にドレスの裾を持ち上げ、軽やかな足取りで演習場を後にするリゼット・アストリア。彼女の固有能力の真実が明かされようと、敵対勢力がどんな罠を仕掛けようとも、彼女のやることは変わらない。出された魔法は、残さず美味しくいただく。ただそれだけのシンプルな美学が、これからも世界を、そしてあまたの強敵(料理人)たちを平伏させていくのだ。——最強にして最可憐なる美食の令嬢の伝説は、これからも永遠に紡がれていく。




