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第四章 赤腕のグランシェ

 演習場がリゼットの優雅な「お食事」によって歓喜と困惑に包まれていた、まさにその裏でのことである。アストリア公爵家が敷地内に所有する広大な別邸の広間は、静寂に包まれていた。夕闇が忍び寄り、窓から差し込む赤い光が、磨き上げられた大理石の床に長い影を落としている。その影のなかに、突如として異質な黒い影がいくつも揺らめいた。「——全員、配置に就いたか?」低い殺気を孕んだ声が、暗がりの中で小さく響く。黒い忍び装束に身を包み、顔の半分を布で覆った男たち。彼らは裏社会で「灰色の刃」と恐れられる、凄腕の暗殺者ギルドの一隊であった。その数、実に三十名。「ああ、首尾は上々だ。あの怪物じみた娘。リゼット・アストリアは今、第一演習場で能天気に魔法使いどもを弄んでいる最中だ」「フン……魔法を『食べる』などという異能、にわかには信じがたいがな。だが、奴の異常な食欲と異能の源泉は、この屋敷に保管されている古文書か、あるいは秘められた魔導具によるものという見方が強い」リーダー格の男が、腰の短剣に手を掛けながら冷酷に告げた。「狙うは、あの娘の『食事』の根幹を絶つことだ。屋敷の厨房、保管庫、そして秘められた魔導具をすべて破壊・放火する。食を奪われれば、いかに怪物といえど無力化する。邪魔する者がいれば、赤子だろうと老体だろうと容赦なく殺せ」「了解だ。……だが、あの娘の付き人である老執事はどうする?演習場に付き添っているはずだが」「フッ、ただの70過ぎの老いぼれだろう。今頃はお嬢様の珍行動に振り回されて汗を拭っているさ。仮にここへ戻ってきたところで、我ら三十名の精鋭の前に何ができる?」男たちはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。 彼らは依頼主から多額の報酬を受け取り、完璧な計画のもとでこの地に忍び込んだのだ。もはや成功は目に見えているはずだった。



だが——。



 「……ほう。わたくしの愛するお嬢様のお食事を『邪魔する』とおっしゃいましたか?」暗闇の中から、温厚で、しかし芯まで冷え切った静かな声が響いた。「!?誰だ!!」三十人の暗殺者たちが一斉に身構え、刃を抜く。金属音が静かな広間に鋭く響き渡った。大理石の廊下の奥から悠然と歩み出てきたのは、一人の老者であった。七十二歳という年齢を感じさせない、ピシッと背筋の伸びた姿勢。寸分のシワもない完璧に仕立てられた燕尾服。リゼット・アストリアに影のように寄り添う老執事、アルベール・グランシェその人であった。「な……いつの間に!?演習場にいたはずでは……!?」リーダーの男が目を見開く。演習場とこの別邸は、歩けば十分以上かかる距離にある。ほんの数分前までリゼットの傍らにいたはずの男が、なぜ何の前触れもなく自分たちの背後に立っているのか。「お嬢様が『お腹がいっぱいになって幸せですわ』とお休みになられましたのでね。わたくしは一足お先に、お嬢様の『お夜食』の準備のために戻ってまいりました」アルベールは穏やかな微笑みを絶やすことなく、恭しく胸に手を当てて一礼した。だが、その瞳の奥には、底知れない絶対的な「虚無」が宿っている。「ですが……聞き捨てなりませぬな。お嬢様のささやかな楽しみであるお食事を奪おうなどと。それは即ち、アストリア公爵家に……ひいてはわたくしアルベールの『存在意義』に対する挑戦と受け取ってもよろしくて?」「チッ、ハッタリを!ただの老いぼれが……殺せ!声を上げさせる前に細切れにしろ!!」リーダーの叫びとともに、瞬時に五人の暗殺者が跳躍した。影から抜け出すような変幻自在の踏み込み。毒が塗られた鋭利な短剣が、アルベールの首筋、心臓、眉間、脇腹へと同時に走り抜ける!常人であれば、回避どころか刃を認識することすら不可能な一閃。



しかし——。



「作法がなっておりませんね」



 アルベールは静かに胸ポケットから、銀色に輝く一本の「ディナーナイフ」と「ディナーフォーク」を取り出した。



次の瞬間。



シュパァァァンッ!!!!!



一筋の銀光が広間を交差した。



「ガ……ッ!?」



 跳躍していた五人の暗殺者が、空中盤でピタリと動きを止めた。そして、叫び声を上げる隙すら与えられず、そのまま崩れ落ちるように床へ叩きつけられた。 彼らの手首からは短剣が零れ落ち、その喉元には、正確無比に急所を突かれた小さな傷痕だけが残されていた。「な……何が起きた……!?」残留する二十五人の暗殺者たちの顔から、一瞬で余裕が吹き飛んだ。見えなかった。七十を超えた老人の動きが、刃を振るう軌跡すら、誰一人として視認できなかったのだ。「ナイフとフォークは、正しく使わねば美味しく召し上がれませんよ」アルベールは銀のナイフについた微かな血脂を、胸のハンカチで洗練された手つきで拭い取った。その佇まいは、まるで高級レストランで肉料理を切り分けているかのようであった。「ひ……ひいっ!化け物!囲め!魔法を使え!一斉に叩き潰せ!!」パニックに陥った暗殺者たちが、なりふり構わず魔力を練り上げる。広間に火球、氷柱、風の刃が渦巻き、一斉にアルベールへと放たれた。「無駄です」アルベールが一歩、踏み出した。ドッ……!!踏み出された足筋から生じた衝撃波だけで、迫り来る属性魔法の数々が弾け飛んだ。空間そのものが歪んだかのような錯覚。アルベールの姿が消えた。「がはっ!?」「ひギっ!?」次の瞬間から始まったのは、戦闘などと呼べるものではなかった。それは単なる「清掃」であった。暗殺者が一人、また一人と宙を舞う。アルベールが手に持った銀のナイフとフォークが、まるで神技のような精度で敵の神経を断ち、関節を外し、一撃で意識を刈り取っていく。

右へ一歩滑れば二人。左へ一閃すれば三人。燕尾服の裾ひとつ乱れることなく、彼の舞うような軌跡の後に残るのは、物言わぬ肉塊の山だけであった。



僅か——三秒。



 三十名いた凄腕の暗殺者ギルドの精鋭は、たった一人の老執事によって、文字通り「全滅」させられていた。「ハァ……ハァ……っ!」床にへたり込み、ガタガタと全身を震わせているのは、リーダーの男ただ一人であった。彼は目の前の凄惨な光景が信じられなかった。血の海の中で、老執事は静かに立ち尽くし、懐中時計を取り出して時間を確認している。「ふむ……三分遅れてしまいましたか。お夜食のスープが冷めてしまっては大変だ」「お……お前は……お前は一体何者なんだ……!?」リーダーの男は恐怖のあまり脱糞しそうになりながら、じりじりと後退した。その時、彼の視線が、アルベールの左腕の袖口に釘付けになった。激しい戦闘の拍子に、アルベールの左手の燕尾服の袖が僅かに捲れ上がっていたのだ。そこに露出していたのは、人間の皮膚ではない。鈍い黒光りを放つ特殊な魔導鋼で作られた、重厚かつ複雑なカラクリ仕掛けの「義手」であった。その表面には、無数の戦火を潜り抜けてきたことを物語る、悍ましい傷跡と古びた王家の紋章が刻まれている。「あ……あぁ……っ!その……その黒鋼の義手……そして紋章……!!」リーダーの男の脳裏に、かつて裏社会と戦場で語り継がれていた「最悪の伝説」が鮮明に蘇った。かつて大陸全土を揺るがした大戦において、たった一人で敵国の重装騎士団を全滅させ、あらゆる戦場を赤く染め上げた伝説の殺戮者。王国の将軍すら怖れ、その名を聞いただけで兵士が武器を捨てて逃げ出したという、絶対不可侵の神話。「グランヴェル王国の……元・総戦士長……!! “赤腕(せきわん)のグランシェ”……!!??」男の口から悲鳴のような叫びが漏れ出た。“赤腕のグランシェ”。数十年前に突如として表舞台から姿を消し、戦死したと噂されていた伝説の怪物が、なぜ……なぜ一貴族の「執事」などという姿でここにいるのか!?リーダーの男の叫びを聞いたアルベールは、ゆっくりと振り向いた。捲れ上がっていた左袖を、丁寧な手つきで元通りに直し、ボタンを留める。そして、義手である左手をそっと胸に当てると、男に向かってふっと柔らかく、穏やかな笑みを浮かべた。「……おや。そのような古い名で呼ばれたのは、いつ以来でございましょうか」アルベールの声には、先ほどまでの殺意も、かつての戦士長としての威厳すらもない。そこにあるのは、ただどこまでも優しく、温厚な老人の声であった。「ですが……お間違いなさらぬよう。その男は、遠い昔に死にましたよ」アルベールは穏やかな眼差しで、絶望に打ちひしがれる男を見下ろした。「今のわたくしは……お嬢様のお食事を温め、お召し物を整え、その可憐な笑顔をお守りするだけの……ただの老いぼれた執事ですよ」「ひっ……ひいいぃぃぃっ!!」男はあまりの恐怖に悲鳴を上げ、腰を抜かしたまま這いずるようにして窓から逃げ出していった。アルベールは逃げ去る男を追うこともせず、ただ静かに見送った。「さて……」アルベールは指を一つ鳴らした。すると、影の中からアストリア家に仕えるメイドたちが影のように現れ、無言で広間の惨状(転がった三十人の暗殺者たち)を素早く清掃し始めた。「血の匂いをお嬢様が嗅ぎつけられては、せっかくの食欲が失せてしまいます。完璧に消臭しておきなさい」「はっ!」密偵たちが一礼し、瞬時に痕跡を消し去っていく。わずか数分後。広間には血の一滴も、塵一つ落ちていない、元の完璧に磨き上げられた美しい大理石の空間が戻っていた。アルベールは満足そうに頷くと、燕尾服の胸元を正し、厨房へと向かって静かに歩き出した。「お嬢様は本日、多くの魔法をお召し上がりになられましたからね。消化を助けるために、今夜は温かい薬草のコンソメスープと、お口直しの軽いゼリーをご用意いたしましょう」老執事は、まるで何事もなかったかのような穏やかな表情で、鼻歌交じりに「お夜食」の準備へと戻っていくのだった。幼き日のお嬢様——リゼットが、小さな手で自分の裾を引っ張り「爺の作るスープが一番好き」と言ってくれたあの日から。彼にとっての戦場は、剣を振るう場所ではなく、一皿の料理を完璧に仕立てる厨房へと変わったのだ。お嬢様のお食事を邪魔する者は、神であれ悪魔であれ、この“赤腕”が容赦なく排除する。——最強の執事が支えるお嬢様の優雅な食卓は、今夜も平和に保たれるのであった。


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