第三章 ひとときの食卓
第一演習場に漂っていた香ばしい熱気と焦げ臭さは、突如として吹き荒れた不気味な湿り気によって押し流された。「ククク……ルイスにドノバン、揃いも揃って無様な失態を晒してくれたものだ。魔法を飲み込むだの、立ち食いに苦言を呈すだの……下らん茶番もそこまでにしてもらおうか」煙の立ち込める中央へ悠然と進み出たのは、黒いフード付きのローブを深く被った青年。三年生の召喚科筆頭、ゼルギウス・ヴェイルであった。 その手には、妖しい紫色の光を放つ古びた羊皮紙の巻物が握られている。彼が足を踏み出すたびに、演習場の古代石がじわじわと黒く染まり、不快な腐敗臭が周囲に充満していった。「見ろ、あの衣装……!召喚科のエース、ゼルギウス先輩だ!」「召喚魔法は直接的な魔力の放出じゃない。異界から契約した概念や魔獣を呼び出す高次元の術だぞ!」「そうだ……!単なる属性魔法ならともかく、実体を持った異界の魔獣まで『食べる』なんてできるはずがない!」観客席の生徒たちが息を呑み、固唾をのんで見守る。 ゼルギウスは周囲の恐怖を煽るように、ニヤリと惨酷な笑みを浮かべた。「聞きしに勝る珍妙な術を使うようだが、アストリア家の娘よ。私の召喚術は、純粋な魔力の塊ではない。異界の泥と怨念より生み出されし、実体ある暴虐の獣たちだ。それを口に入れようものなら、内臓から喰い破られて終わりだな」粘つきのある不快な殺気が、演習場全体を重く押し潰す。だが、その不穏な空気の中で、リゼット・アストリアは可憐な首を傾げ、うっとりと鼻を鳴らしていた。(まあ……!なんて深みのある熟成された香り……)ゼルギウスが展開し始めた紫黒色の魔力。それはリゼットの目には、長期間じっくりと熟成された最高級のフォンドボーや、深いコクを持つ極上のビターソースのように映っていたのだ。
ぐぅぅぅ。
可愛らしいお腹の音が、静かな演習場にひっそりと響く。ルイスの水魔法は前菜の清涼なスープ。ドノバンの火炎魔法は香ばしいロースト。だが、どちらも「立ち食い」という失態により、リゼットの満足度は六割にとどまっていた。「お嬢様」背後に佇む老執事アルベール・グランシェが、静かに、そして誇らしげに語りかけた。「ご準備が整いました」「ありがとう、爺。今度こそ……お嬢様として相応しいお食事を執り行いますわ」リゼットは胸の前で小さく拳を握り締め、凛とした表情で前を見据えた。「血を求めよ、異界の飢えた咎人ども!我が呼び出しに応え、目の前の肉塊を喰い散らかせ——『グラットン・サモン』!!!」ゼルギウスが巻物を大きく広げ、叫んだ。粘つくような黒紫色の魔力が地面に巨大な魔法陣を描き出し、そこからドロドロとした怪異の群れが溢れ出してくる。角を生やした巨大な漆黒の狼、鎌のような鋭い腕を持つ巨大なムカデ、異形の羽を羽ばたかせる怪鳥——いずれも異界の殺気を全身から撒き散らす、おどろおどろしい召喚獣の群れであった。
「グルァァァァッ!」
「キシャァァァッ!」
数十体もの召喚獣が咆哮を上げ、地面を蹴って一斉にリゼットへと襲いかかる。その光景はまさに、地獄の蓋が開いたかのような絶望的な地獄絵図であった。「ひいっ! やりすぎだ、ゼルギウス!」「あんな化物どもに襲われたら、一瞬で肉片にされてしまうぞ!」悲鳴が上がる中、リゼットは逃げる素振りすら見せなかった。彼女はそっと淡いブルーのドレスの裾を持ち上げ、優雅に優しく微笑むと、その可憐な口唇を開いた。
「——『ひとときの食卓』」
鈴の鳴るような澄んだ声が響いた瞬間。シュン……!演習場の中央、殺伐とした戦場の真っただ中に、まばゆい純白の光が広がった。「な……なに!?なんだこの光は!?」ゼルギウスが眩しさに目を細める。光が収まった時、そこに現れたのは——異様なほど洗練された「極上の空間」であった。殺風味な古代石の地面の上に敷かれた、高級なペルシャ絨毯。 その中央には、雪のように真っ白なシルクのクロスが掛けられた、上質なマホガニー製のダイニングテーブル。そして、繊細な彫刻が施された椅子が優雅に設置されていた。「な、なんだこれは……!?空間錬成魔法……?いや、幻術か!?」困惑するゼルギウスを他所に、襲いかかっていた召喚獣の群れが、テーブルの周囲に展開された目に見えない絶対不可侵の領域へと突入した。
次の瞬間。
シュウゥゥゥン……!
「ガ……ギ?」
「キシャ……!?」
襲いかかっていた恐ろしい異界の怪物たちが、テーブルの領域に触れた瞬間に次々とその禍々しい姿を分解されていく。角も、鎌も、漆黒の毛並みも、すべてが色鮮やかな「魔力のエッセンス」へと還元され——テーブルの上に整然と並べられた銀のクロッシュ(蓋付きお皿)の中へと、吸い込まれるように収まっていったのだ。カチャン、カチャン、と銀の食器が心地よい音を立てる。煙が晴れると、テーブルの上には湯気を立てる豪華絢爛な料理がズラリと並んでいた。漆黒の狼は、濃厚な赤ワインソースがたっぷりとかけられた極上の煮込みハンバーグへ。巨大なムカデは、香ばしいハーブとともに香ばしく焼き上げられたグリッシーニ風のパイへ。怪鳥の群れは、色鮮やかな夏野菜とともに美しく盛り付けられた前菜のテリーヌへ。「な……ななな……何が起きた……!?」ゼルギウスは目を剥き出しにして絶句した。 自分の契約召喚獣たちが、一瞬にしてフルコースの料理へと変貌を遂げていたのだから当然である。リゼットは静かな足取りでテーブルへ近づくと、引き出された椅子へ、まるで宮殿の晩餐会であるかのようにしなやかに腰掛けた。背筋をピンと伸ばし、ひざの上に真っ白なナプキンを丁寧に広げる。背後には、完璧な角度でお辞儀をする老執事アルベール。彼は恭しい手つきで銀のクロッシュを静かに持ち上げ、料理の芳醇な香りを周囲へと解き放った。「まあ……! なんて素晴らしい香りでしょう」リゼットの瞳が、宝石のようにキラキラと輝く。そこに広がるのは、もはや凄惨な戦闘の場ではない。高級貴族の三つ星レストランの特等席であった。リゼットは胸の前でそっと両手を合わせ、可憐な笑みを浮かべて呟いた。
「Bon appétit.(ボナペティ)」
静かな宣言とともに、リゼットは右手で銀のナイフを、左手で銀のフォークを握った。カチャ。まずは前菜であるテリーヌ——元・異界の怪鳥の魔力塊——へ、優雅にナイフを入れる。すっと吸い込まれるような柔らかさ。一口大に切り分けると、フォークでそっと口元へと運んだ。モグ……モグ……♪「~っ♪」リゼットの頬がほんのりと桜色に染まり、うっとりとした幸福感で満たされていく。「さわやか……!異界の魔力が持つ独特の複雑な苦味が、添えられたハーブの香りと組み合わさることで、深みのある大人の味わいに変化しておりますわ!噛むたびに溢れる旨味がたまらなく贅沢ですの……!」「テ、テリーヌだと……!?俺の召喚獣が、テリーヌのように食されているだと……!?」ゼルギウスが頭を抱えて叫んだ。しかし、リゼットの優雅なフルコースは止まらない。続いてメインディッシュである、元・漆黒の狼の煮込みハンバーグへ。フォークを差し込むと、中から溢れ出る濃厚な肉汁(高密度魔力)。
パクリ。
「あぁ……!なんてコク深い味わいでしょう!時間をかけて丁寧に熟成されたフォンドボーのような重厚感……!口の中でとろけるような脂の甘みが、舌を優しく包み込んでまいりますわ……!」
カチャ、カチャ。
完璧なマナーと洗練された所作で、次々と皿の上の料理(召喚魔法)を平らげていくリゼット。立ち食いを反省した彼女の動きには一切の無駄がなく、見る者を魅了するような美しさすら漂っていた。「バカな……バカなバカなバカな!!」ゼルギウスは発狂したように羊皮紙の巻物を振り回した。「出よ!我が最強の契約獣!地獄の業火を纏いし黒炎竜!!あいつを……あのおかしな女を噛み殺せぇぇぇっ!!」ズザザザザッ!演習場の上空に巨大な黒い魔法陣が展開され、そこから体長十メートルを超える漆黒の竜が姿を現した。周囲の空間を歪めるほどの黒炎を吐き出しながら、急降下してリゼットのテーブルへ向かって突き進む!「ハッハッハ!これほどの巨体と熱量なら、皿に収まるはずもない! テーブルごと焼き尽くして——」シュウゥゥゥン……!黒炎竜がテーブルの領域に触れた瞬間、その巨大な体がみるみるうちに小さくなり、ぎゅっと圧縮されていく。
そして——。
ぽんっ。
テーブルの端に置かれたデザートグラスの中に、色鮮やかな「漆黒のベリーソースがかけられた極上チョコレートパフェ」として可愛らしく収まった。「……え?」ゼルギウスの顎が外れそうなほど開いた。リゼットは嬉しそうに目を輝かせ、小さな銀のスプーンを手にとった。「まあ!食後のデザートまでご用意していただけますなんて……!ルイス様、なんて気の利くサービスでしょう!」「ゼルギウスだよ!!あとそれサービスじゃなくて俺の最強の召喚獣だよ!!」リゼットはスプーンでパフェ(黒炎竜)をすくい、パクリと口に含んだ。「~っ!濃厚なビターチョコの甘みの中に、ピリッとした黒炎の刺激がアクセントになっていて……絶品ですわ!!」
数分後。
テーブルの上に並べられていた無数の銀の皿、そしてデザートグラスは、一切の食べ残しもなく綺麗に空っぽになっていた。満足そうに息を吐いたリゼットは、シルクのハンカチで上品に口元を拭い、ひざの上のナプキンを綺麗に畳んでテーブルの上に置いた。そして、静かに椅子から立ち上がると、深く感動した様子で胸に手を当てた。
「Merci pour ce délicieux repas.(メルシー プール ス デリシュー ルパ)」
完璧なお辞儀とともに、透明感のある声で感謝を捧げる。「この美味しいお料理を、本当にありがとうございました。前菜からメイン、そしてデザートに至るまで、趣向を凝らした素晴らしいフルコースでございましたわ」その言葉は、煽りでも嫌味でもなく、心からの本気のお礼であった。だからこそ——。「あ……あ……」ゼルギウスの精神は、完全に崩壊した。自分が長年かけて異界の悪魔と契約し、血の滲むような修行の末に手に入れた最強の召喚術。それが……すべて「美味しく調理されて完食された」。「俺は……」ゼルギウスは力なく膝をつき、両手を地面についた。「俺は……いったい何を見せられているんだ……!?」ぽろぽろと目から涙が零れ落ちる。戦いに敗れた悔しさではない。圧倒的な「食文化の違い」を見せつけられたことに対する、根本的な存在否定の絶望であった。
パチン。
リゼットが指を鳴らすと、周囲を展開していた『ひとときの食卓』の空間が、光の粒子となって儚く消えていった。ペルシャ絨毯も、テーブルも、椅子も消え、そこにはただ、打ちひしがれて涙を流すゼルギウスと、満足げにお腹をさするリゼットだけが残された。「お見事でございました、リゼットお嬢様」アルベールが恭しく一礼する。「ええ、爺。今回は椅子に座って、マナーを守っていただくことができましたわ。これなら……お嫁にいけますかしら?」「勿論でございますお嬢様。これほど優雅にお食事を召し上がるお方など、世界中を探してもお嬢様ただ一人でございます」「ふふ、良かったですわ!」嬉しそうに微笑むリゼット。だが、そのやり取りを聞いていた観客席の生徒たちの心境は、一言で言えば「恐怖」であった。「見たか……?召喚獣がパフェになったぞ……」「アストリア家の落ちこぼれ令嬢なんて言ったの誰だよ……化け物じゃないか……」「次は誰が食われるんだ……!?」演習場全体を包み込む、戦慄と混乱。しかし、リゼットの瞳はすでに、次なる「ごちそう」を求めて、ワクワクと輝き始めていたのであった。——お嬢様の至高のフルコースは、まだまだ終わらない。




