第二章 食事作法
第一演習場に静まり返っていた空気は、一人の男が踏み出した重い足音によって破られた。「おいおいおい!ルイスの奴、水なんて生ぬるい魔法を使ってるから不覚を取るんだよ!お生憎様だったな、アストリア家の落ちこぼれ嬢ちゃん!」ドサリと、身の丈ほどもある巨大な赤銅色の魔導斧を地に突き立てたのは、二年生のドノバン・ヴァルターであった。 筋肉質の体躯に、火属性魔法の誇りを示す真っ赤なマントを羽織った男である。学内でも有数の攻撃力を誇る武闘派として知られており、その獰猛な笑みには狂気が滲んでいた。「ルイスの奴がどうやって魔法を消したのか知らんが、からくりなんざ力でねじ伏せれば関係ねぇ!俺の炎はな、水なんぞとは比べものにならんほど高温で、何物も一瞬で灰に変えるんだよ!」観客席の生徒たちが、ドノバンの登場に再びざわめき始める。「ドノバン先輩だ……!あの人の火属性魔法は学年トップクラスだぞ!」「ルイス様の『ウォータージャベリン』は不可解な形で消されたが……ドノバン先輩の『メガ・フレアストローム』を喰らえば、消す間もなく蒸発してしまうんじゃないか!?」周囲の不安と期待が入り混じった視線を受け、ドノバンは豪快に笑い声を上げた。だが、その威圧的な佇まいを前にしても、リゼット・アストリアは少しも動じる気配を見せない。「まあ……とても情熱的な方ですわね、爺」「左様でございますね、リゼットお嬢様。ですが、少々火気が強すぎるように見受けられます。お召し物が焦げてしまわないか、わたくし心配でございます」背後に立つ老執事、アルベール・グランシェは燕尾服のシワひとつ乱さず、冷ややかな視線をドノバンへ向けていた。 リゼットはといえば、淡いエメラルドグリーンの瞳を細め、ドノバンの周りに立ち上り始めた赤橙色の魔力をうっとりと見つめている。(まあ……!なんて芳醇で香ばしい魔力……)ドノバンが全身から放出する火属性の魔力。それはリゼットの目には、赤々と熾った炭火のようであり、極上のスパイスを惜しみなく振りかけた特製ソースのようにも映っていた。
ぐぅ。
先ほどルイスの『ウォータージャベリン』を一口分だけいただいたとはいえ、あれはあくまで冷たい前菜のスープに過ぎない。いまやリゼットのお腹は、本格的なメインディッシュを求めて切実な悲鳴を上げていた。「ふふ、ドノバン様とおっしゃいましたかしら?準備はいつでもよろしくてよ」「ハッ! 後悔しても知らんぞ!その澄ました顔が苦悶に歪むのが楽しみだぜ!」ドノバンが巨大な魔導斧を大きく振りかぶった。斧頭に埋め込まれた赤色の魔晶石がドックンと脈打ち、周囲の空気が一瞬にして焼けるような熱気に包まれる。
「吹き荒れろ、過酷なる不滅の業火!すべてを灼熱の灰へと変えよ——『メガ・フレアストローム』!!!」ドノバンが叫びとともに、全力で魔導斧を地面へと叩きつけた。
ゴオオオオオオオッ!!!!!
炸裂音が演習場全体を揺らした。叩きつけられた地面から亀裂が走り、そこから噴出したのは、単なる火柱などではない。巨大な炎の竜巻と化した灼熱の濁流である。赤とオレンジ、そして高温を示す青白い炎が混ざり合い、渦を巻きながらリゼットへと襲いかかる。熱風だけで周囲の芝生が一瞬で黒く焦げ付き、観客席の生徒たちが「熱い!」「下がれ!」と悲鳴を上げて後退した。「ハッハッハ!どうだ!逃げる隙すら与えん広範囲の超火力!骨すら残さず焼き尽くしてやるわ!」狂喜するドノバンの視界の先で、渦巻く灼熱の炎がリゼットを完全に飲み込んだ。あまりの熱量に空気が歪み、彼女の華奢なシルエットすら見えなくなる。誰もが「終わった」と思った。いくら何でも、あの火力を生身で受けて耐えられる人間など存在するはずがない、と。
しかし——。
(まあ……!なんて素晴らしい火入れ加減……!)
炎の渦の中心で、リゼットは感動に打ち震えていた。全身を包み込む圧巻の熱気。けれど、リゼットの特別な消化能力の膜が、その破壊的な熱量をすべて「芳醇な香りと温かさ」へと変換していく。鼻腔をくすぐるのは、上質な肉を直火でじっくりと焼き上げたときのような、たまらなく香ばしい燻製の香り。(表面はカリッと香ばしく……中はとろけるような濃厚な熱量!これは……これは極上のローストですわ!!)リゼットはゴクリと唾を飲み込んだ。 目の前に広がる、山のような炎の御馳走。 食欲という名の本能が、お嬢様としての理性を少しだけ上回ってしまった。「……いただきますわ!」リゼットは両手を大きく広げると、迫り来る巨大な炎の竜巻へ向けて、その小さな口を大きく開けた。効果音すら焼き尽くすような、凄まじい吸引音。
ズズズズズズズズッ……!!
演習場全体を埋め尽くしていたはずの『メガ・フレアストローム』が、まるで巨大な掃除機に吸い込まれるかのように、リゼットの口元へと集中していく。渦巻く炎の竜巻が、急激に細くなっていく。赤橙色の光が、彼女の可憐な喉の奥へとすうっと吸い込まれていく。
そして——。
パクッ。
ごっくん。
最後のひとすじの火の粉までを綺麗に飲み込むと、リゼットは満足そうに口を閉じた。静寂。先ほどの猛烈な熱風が嘘のように消え去り、演習場にはただの生温かい風が吹き抜けるだけとなっていた。焦げた地面の中央に、衣類ひとつ焦がさずに佇む可憐な美少女。 その口元からは、ぽすっと可愛らしい一筋の白い煙が昇っていた。
「へ……?」
魔導斧を構えたまま、ドノバンの思考が完全に停止した。『メガ・フレアストローム』。 自分の全魔力を注ぎ込んだ、城門すら破壊できる最高峰の火属性攻撃魔法。それが……丸ごと飲まれた?消えたのではない。確かに、目の前の少女は「飲み込んだ」のだ。「ぐ、むむっ……!?ば、化け物め……!さすがに……さすがに内臓が焼き切れて悶絶しているんだろ!?そうなんだろ!!」ドノバンが必死に自分を納得させようと叫ぶ。実際、リゼットの表情は激しく歪んでいた。淡いエメラルドグリーンの瞳には涙が浮かび、可憐な顔は青ざめ、肩は激しく震えている。
「あ……あぁ……っ!」
リゼットは苦しそうに胸元を押さえ、その場にガクリと膝をついた。
「ハハハ! 見たか 強がりやがって!内側から焼き尽くされたんだ!ざまあみろ——」
「わ、私ったら……!」
絶叫したリゼットの声に、ドノバンの言葉が途切れた。
「私ったら……!またしても……またしても立ったまま……!あんなに大きな魔法(お料理)を……咀嚼もせず一口で飲み込んでしまいましたわぁぁぁっ!!」
「……は?」
ドノバンは耳を疑った。リゼットは地面に突伏し、悲痛な面持ちで涙をぽろぽろと零していた。「あぁ、なんてことでしょう……!テーブルも椅子もなく、立ったまま口を大きく開けて……噛み砕きもせず一飲みにするなんて……!これではただの意地汚い食いしん坊ではありませんか……!わ、私……こんな下品な所作を見せられて……お、お嫁にいけませんわぁぁぁん!!」本気でショックを受けた様子で、シクシクと泣き崩れるリゼット。その瞬間、背後から疾風のごとき速度で影が飛び出してきた。「お、お嬢様ぁぁぁぁぁっ!!」老執事アルベールである。 彼は普段の冷静沈着さを完全にかなぐり捨て、悲痛な叫びを上げながらリゼットの傍らへ膝をついた。「お嬢様!自分を責めてはなりません!そのようなことは決してございませんぞっ!」「いいえ爺!擁護は無用ですわ!貴族の令嬢として、食事のマナーを守れなかったのは紛れもない事実……!あんなに美味しそうな火炎魔法を前にして、我慢ができなかったわたくしの浅ましさが原因ですのよ……ううっ」「お嬢様ぁ……!魔法を一口で召し上がった程度で、アストリア公爵家筆頭令嬢たるお嬢様の価値が損なわれることなど、断じてございません!」アルベールは胸に手を当て、力強い声で宣言した。「たとえ世界中の人々がお嬢様を『立ち食い令嬢』と蔑もうとも、わたくしアルベール、生涯をかけてお嬢様のお味方でございます!」「爺……!本当ですの……?」「はい!……まあ、できれば椅子にお掛けになってから召し上がっていただきたいところではございますが」アルベールがふっと、心底申し訳なさそうに視線を泳がせた。リゼットの表情が一瞬で凍りついた。「……やっぱりダメじゃないですのぉぉぉぉん!!」「いえ!そういう意味ではございませんお嬢様ぁぁぁっ!ただ作法としての理想を申し上げただけであって、お嬢様の可憐さに一分の曇りもございませんっ!!」「嘘つき!爺の嘘つき!やっぱり立ち食いするような女はお嫁にもらってもらえないんですわぁぁ!」「違いますお嬢様!落ち着いてくださいませ!わたくしが!わたくしが全国から最高の椅子とテーブルを買い揃えてまいりますからぁぁ!」主従二人が繰り広げる、泥沼の(?)押し問答。涙を流して嘆く可憐な令嬢と、それを滝のような汗を流しながら全力で慰める老執事。その光景を、演習場にいる全員が呆然と見つめていた。そして——。「いや、問題そこなの!?!??」ドノバンの魂の底からのツッコミが、秋空に高く響き渡った。ドノバンは魔導斧を放り出し、頭を抱えて叫んだ。「お嫁に行けるかどうかの話じゃねえだろ!!俺の『メガ・フレアストローム』だぞ!?城門を吹き飛ばす超火力だぞ!?なんでノーダメージなんだよ!なんで『一口で飲んだ』ことの方を深刻に落ち込んでんだよ!!」ドノバンの血吐くような叫びに対し、リゼットは涙を拭いながら、すっと上品なお顔を上げた。「あら、ドノバン様。お料理の質と食事のマナーは別問題ですわ」「料理って言うな!!」「ですが……ドノバン様の火炎魔法、本当に素晴らしかったですわ」リゼットはほんのりと頬を染め、うっとりとした表情で語り始めた。「表面のカリッとした香ばしさと、奥深いスパイシーな刺激……。まるで極上のローストビーフをいただいているような、重厚感のある味わいでしたわ。ただ……」「ただ……なんだよ!?」思わず聞き返してしまうドノバン。「立ったまま一口で飲み込んでしまいましたので、じっくりと舌の上で脂の旨味を噛み締めることができませんでしたの。そこだけが、本当に悔やまれますわ……」「食レポの反省まで立ち食いの話かよ!!」ドノバンは膝から崩れ落ちた。自分の誇りである火炎魔法が、完全に「喉越し重視のファストフード」のような扱いを受けている。戦う意欲どころか、魔法使いとしての尊厳が粉々に打ち砕かれていく感覚だった。「ひ……怯むな、ドノバン!」観客席から、別の生徒の声が上がった。「あいつはハッタリだ!魔法を食べられるなんて、そんなのあり得るはずがない!何かしらの特殊な魔法具を使っているに違いないぞ!」「そうだ!連続で攻撃すれば、絶対にキャパシティを超えるはずだ!」周囲の歓声に背中を押され、ドノバンはフラフラと立ち上がった。 その目に、再びやけっぱちの光が宿る。「そ、そうだ……!喰いきれないほどの炎を叩き込んでやれば……!」ドノバンが再び魔導斧を構え、残りの全魔力を練り上げ始めた。「喰らえぇぇぇ!『メガ・フレアストローム』三連撃ぇぇぇっ!!」ドノバンの命を削るような叫びとともに、先ほど以上の巨大な炎の渦が、三層に重なって襲いかかる!
ドゴォォォン! ゴオオオオッ!
演習場全体が赤く染まり、圧巻の熱量が再びリゼットを包み込もうとした。しかし——。「まあ」リゼットの瞳が、今度は落ち込みから一転して、キラキラとした歓喜の輝きを放ち始めた。「爺!おかわりですわ!」「お嬢様!お待ちください、今度こそ椅子を——!」「待っていられませんわ!冷めてしまったら料理人に失礼ですもの!」リゼットは軽やかな足取りで、迫り来る三連の炎の渦へと自ら飛び込んでいった。
ズズズズズズズズッ……!!
パクッ! パクッ! モグモグ……ごっくん♪
一瞬にして消え去る、ドノバンの命の炎。「あぁ……♪今度は少し咀嚼してみましたけれど、噛むたびに香ばしいスパイスの香りが弾けて、実に美味ですわ……!」うっとりと頬を手で包み込むリゼット。そして地面には——全魔力を使い果たし、燃え尽き症候群のように白目をむいて倒れるドノバンの姿があった。「勝者……リゼット・アストリア……!」審判の講師が、震える声で宣言した。静まり返る演習場で、リゼットは上品に服の塵を払い、優雅にお辞儀をした。「ごちそうさまでした、ドノバン様」こうして、第二の「料理人」もまた、お嬢様の底知れぬ胃袋の前に敗れ去ったのである。しかし、リゼットの表情には、まだどこか晴れない曇り空が残っていた。「……爺」「はい、お嬢様」「次の戦闘(お食事)では……絶対に、椅子に座っていただきたいですわ」「……かしこまりました。すぐに特設のダイニングセットを手配いたします」老執事は深々と頭を下げ、怪しい光を放つ通信魔導具を取り出すのだった。——お嬢様の食事作法を巡る戦いは、まだ始まったばかりである。




