第一章 ウォータージャベリン
落ちこぼれ令嬢の憂鬱な演習日和王都の空は、憎らしいほどに澄み渡っていた。 青天井の下に広がるのは、王立セルリアン魔法学院が誇る広大な第一演習場である。古代石で強固に囲まれたその円形グラウンドには、数百人もの生徒たちが立ち並び、すり鉢状の観客席からは好奇と嘲笑の混ざった熱気がむっと押し寄せていた。「おい見ろよ、あの場所に立っているの……アストリア公爵家のリゼット様じゃないか?」「公爵家のお嬢様が、なぜ実技試験の場に?あの方は魔力をまったく放出できない『落ちこぼれ』だろう?」「対戦相手を見ろよ。水属性の天才と名高いルイス・バーク男爵令息だぞ。いくら公爵家の威光があろうと、実技で手加減してもらえるわけがないじゃないか」観客席から投げかけられる心ない囁きは、風に乗って演習場の中央まで届いていた。 だが、その渦中に立つ当の本人はといえば——。「まあ……今日も良いお天気ですわね、爺」「左様でございますね、リゼットお嬢様。絶好の行楽日和……いえ、お散歩日和でございます」可憐なミルクティーブロンドの長い髪を風になびかせ、リゼット・アストリアは心底のんびりとした声を漏らしていた。アイボリーと淡いブルーを基調とした、露出の少ない上品な貴族ドレス。繊細なレースがあしらわれた袖口から覗く指先は、戦いとは程遠い柔らかさを保っている。とてもこれから命がけの魔法実技演習に臨む者の姿ではない。
その背後に控えているのは、アストリア家に長年仕える老執事、アルベール・グランシェであった。七十二歳という高齢でありながら、背筋は定規で引いたようにピンと伸びている。仕立ての完璧な燕尾服を身に纏い、白手袋をはめた手には、なぜか一本の銀のスプーンとシルクのハンカチが握られていた。
「……おい!聞いているのか、リゼット・アストリア!」
正面から突き刺さるような大声が上がった。対戦相手として対峙している青年ルイス・バークが、青筋を立てて額に汗を浮かべながら怒鳴り散らしている。その手には高級な魔導宝石が埋め込まれた杖が握られていた。「名門アストリア家の面汚しめ!学園長の前だからと容赦はせんぞ!魔力をろくに扱えぬ貴様のような出来損ないが、この私と同じ学院に集っていること自体が不愉快なのだ!」「まあ……そんなに大声を出すと、喉が乾いてしまいませんこと?」「戯言を!そのふざけた態度、後悔させてやる!私がどれほど血の滲むような努力をして水魔法を極めたか、その身に刻むがいい!」ルイスが激昂し、手に持った杖を天高く掲げた。一瞬にして演習場内の大気が湿り気を帯び、ひんやりとした冷気が渦を巻き始める。彼を中心に生成された濃密な魔力が、青い粒子となって空中に輝き出した。周囲の生徒たちから感嘆のどよめきが漏れる。「すごい……!ルイス様の魔力制御だ!」「あんな密度の魔力、学生の領域を超えているぞ!」だが、リゼットの頭の中にあったのは、世間の評価でもルイスの怒りでもなかった。
(……あら?)
リゼットの淡いエメラルドグリーンの瞳が、ちょこんと首を傾げると同時に、かすかに輝いた。彼女の視界に映っているのは、殺気立つ男の姿ではない。ルイスの頭上に集まりつつある、透き通った美しく青い魔力の結晶であった。(なんて綺麗な……澄み渡るような青。まるで、山頂の氷河から湧き出たばかりの清涼な天然水のようですわ)
ぐぅ。
誰にも聞こえないほどの小さな音が、リゼットの可愛らしいお腹の奥から鳴った。朝食は毎朝欠かさず摂っているリゼットであったが、今日のメニューは少し控えめなパンとスープだけであった。時刻はちょうど正午近く。お日様は真上に上がり、お腹の虫が自己主張を始めるにはうってつけの時間帯である。「お嬢様」背後から、アルベールが静かな、しかし確固たる声で囁いた。「お腹が空いていらっしゃいますね?」「……爺には隠し事ができませんわね。ですが、今は授業の最中ですもの。我慢しなければ……」「お言葉ですがお嬢様。目の前に出されたお料理を前にして我慢するなど、美食を愛する者としての礼義に反します。それに……あれほど新鮮な魔力は、王都の高級店でも滅多にお目にかかれるものではございません」「爺……」リゼットは困ったように微笑んだ。そう、リゼット・アストリアには、誰にも理解されない。理解してもらえるはずもない『秘密』があった。彼女にとって、世間一般で言う「魔法」とは、攻撃手段でも兵器でもない。 ただの『お料理』なのである。属性ごとに異なる香り、魔力量によって変化する喉越し、術者の熟練度による味わいの違い。 人々が恐れ敬う魔法の全貌は、彼女の目には色鮮やかな「お品書き」として映っていたのだった。
「ハッハッハ! 恐怖のあまり動くこともできんか!」ルイスの杖の先に、極限まで圧縮された水の質量体が形成されていく。ただの水ではない。魔力によって硬度を高められ、高圧で回転する水の殺戮兵器。水滴の粒が放つ摩擦音が、キリキリと不気味に響き渡っていた。「我が一族に代々伝わる、研ぎ澄まされた水撃の鋭利さを思い知れ!貫け『ウォータージャベリン』!!!」ルイスが叫びとともに杖を振り下ろした。
ドガァァァン!!
破空音が鳴り響き、巨大な水の槍が一直線にリゼットへ向けて放たれた。速度は弾丸のごとく。直撃すれば、強化魔法を纏っていない人間など容易く吹っ飛び、骨の数本は砕け散るであろう威力を秘めている。「ひいっ!本当に殺す気か!?」「避けろ、リゼット!」観客席から悲鳴が上がる。審判を務める講師が慌てて遮断結界を張ろうと手を伸ばしたが、水の槍の速度はそれを遥かに上回っていた。逃げ場はない。迫り来る死の圧力を前にして、リゼットはただ静かに、その場に佇んでいた。
(まあ……近くで見ると、ますます美味しそうですわ)
目の前に迫る『ウォータージャベリン』。 渦巻く水の粒子、溢れ出る圧倒的な魔力の奔流。それはリゼットの目には、冷たく冷やされた最高のデセール、あるいは搾りたてのフレッシュジュースのように見えていた。リゼットは、ドレスの裾を優雅に少しだけ持ち上げ、迫り来る槍に向かってそっと一歩を踏み出した。そして、可愛らしく首を傾げると——。
「……え?」
ルイスに向けて、心底不思議そうな、おっとりとした声を投げかけた。
「食べても宜しいの?」
「……は?」
ルイスの思考がフリーズした。『食べても』? 今、この女は何と言った? 自分の耳がおかしくなったのだろうか。目の前から勢いよく突進しているのは、自分を殺しかねない中級攻撃魔法なのだぞ。「何をわけの分からんことを——」ルイスが言い終えるよりも早く。リゼットはほんのりと微笑み、口元を小さく開いた。「とても美味しそうですわ」効果音すら置き去りにするような、あまりにも自然な所作。リゼットは迫り来る巨大な水の槍の先端へ向けて、すっと自分の顔を近づけた。
そして——。
パクッ。
静寂。演習場全体が、まるで時が止まったかのように静まり返った。「……え?」ルイスの口から、情けない声が漏れた。見間違いではない。自分が全魔力を込めて放ったはずの、高密度で回転する殺傷能力抜群の『ウォータージャベリン』。それが、リゼットの小さな口の中に吸い込まれるようにして——消えた。水しぶきひとつ飛散していない。衝撃波すら発生していない。ただ、リゼットが口を「パクッ」と合わせた瞬間に、激しい殺気を放っていた水の槍が、この世界から跡形もなく消失したのである。「え?パ、パクって……そ、そういう意味じゃあ……」ルイスの手から杖が落ちそうになる。観客席の生徒たちも、口をぐうの音も出ないほど開けて固まっていた。審判の講師に至っては、魔法の発動を忘れて呆然とリゼットを見つめている。当のリゼットはといえば。
「…………」
目をキュッと閉じ、両手を自分の頬にそっと添えていた。その頬はほんのりと桜色に染まり、うっとりとした幸福感に満ち溢れている。
「……あぁ……♪」
うっとりとした吐息が、リゼットの口元からこぼれ出た。「な、なにが……『あぁ』だ……!?私の……私の魔法はどこへ行った!?」取り乱すルイスの叫びなど、今のリゼットの耳には届いていなかった。彼女は口の中で、じっくりと「それ」を味わっていたのである。「まあ……!なんて素晴らしい透明感……」リゼットは目を開き、そのエメラルドグリーンの瞳を輝かせながら食レポを始めた。「一口含むと、まず感じられるのは清涼感あふれる天然水の風味。高密度に凝縮された魔力が、お口の中でまるで極上のゼリーのように、つるりと弾けて広がっていきますわ……!この冷やし具合も絶妙ですわね」「な、何を言っているんだ貴様は!?」「そして、噛めば噛むほど……あぁ、凄いですわ!無数の海の幸の豊かな香味が、お口いっぱいに広がり上がってまいります!後味はすっきりとしているのに、かすかなミネラルの甘みが残る……。実に洗練された仕上がりですわね!」リゼットは心底感心したように深く頷いた。「あ、あの……?」ルイスは顔を引きつらせ、じりじりと後ずさりしながら尋ねた。「それ……私の……私の魔法なんですが……?」「まあ!」リゼットはぱっと表情を明るくした。「とても美味しい魔法ですわね!ルイス様は普段からどのようなお食事を召し上がっていらっしゃるのかしら?魔力の質にこれほど雑味がなく、クリアな味わいに仕上がっているのは、きっと素晴らしい料理人の手によるものか、ルイス様ご自身の丁寧な魔力練成の賜物ですわ!」「料理人……?魔力練成……?」ルイスの頭の中で、常識という名のネジが音を立てて弾け飛んでいく。 自分は魔法を放った。相手を倒すために。 だが、相手はそれを「食べた」。そして、「美味しかった」と評価している。意味が分からない。理解が追いつかない。
「…………」 静まり返る場内。
「…………」 困惑しきった表情で固まるルイス。
「…………」 リゼットは上品な所作で、背後に立つアルベールへ視線を向けた。
「爺」「はい、お嬢様」「とてもすっきりとしていて、美味しくいただけましたわ」「お気に召したようで、何よりでございます」アルベールは手持ちのシルクのハンカチをリゼットに差し出し、恭しく一礼した。そして、リゼットが上品に口元を拭うのを確認すると、アルベールは少しだけ眉をひそめて言った。「……しかしながらお嬢様」「なぁに、爺?」「立ち食いは感心いたしませんな」「あっ……!」リゼットはハッとしたように自分の足元を見た。 確かに自分は、演習場の真ん中で、立ったまま口を開けて魔法を食べてしまった。「そうでしたわ……!わたくしとしたことが、あまりの美味しさに我を忘れて、立ったまま召し上がってしまうなんて……! お嬢様として、何たる不覚……!」「ええ、できればテーブルと椅子を用意し、ナイフとフォークをお使いになって召し上がっていただきたかったところでございます」「次回からは気をつけますわ、爺!」「お前ら、会話の次元が狂ってるだろぉぉぉ!!」ルイスの叫びが演習場に響き渡った。
「化け物……!貴様、いったいどんな不気味な呪具を使っているんだ!私の『ウォータージャベリン』を消滅させるなど、そんな芸当ができるはずがない!」ルイスは狂乱したように杖を振り回した。自分が誇りにしてきた魔法を「食べ物」扱いされた屈辱と、底知れない恐怖が彼の理性を焼き切っていた。「消したんじゃないなら……喰ったというのか!?魔法を直接食う人間がいてたまるかぁぁぁっ!」「あら、ルイス様」リゼットは心底不思議そうに目を丸くした。「食べることは、生き物としてごく自然な営みですわ。美味しいものを美味しいと表現することの、どこがおかしいとおっしゃるのです?」「全部だよ!!存在自体がおかしいんだよ!!」「まあ……そんなにお怒りにならないでくださいませ。せっかくの綺麗な魔力が濁ってしまいますわ」リゼットはふう、と小さく溜息をついた。そして、少しだけ申し訳なさそうな、けれど期待を隠しきれない瞳でルイスを見つめた。(……すっきりとしていて美味しかったけれど、少しだけ物足りないかしら)『ウォータージャベリン』は確かに絶品であった。しかし、いかんせん量が少なかった。前菜のスープをスプーン一口分だけ味わされたような、生殺しの感覚である。お腹の虫は、むしろ先ほどよりも激しく自己主張を始めていた。リゼットは両手を胸の前でそっと合わせ、上目遣いでルイスを見つめた。
「……あの、ルイス様?」
「な、なんだ……!?命乞いでもする気か!?」
「……その……」
リゼットの淡いエメラルドグリーンの瞳が、キラキラと輝きを増す。
「おかわりはございませんの?」
「…………」
ルイスの顔から、すべての血の気が引いていった。おかわり。つまり、あの恐ろしい勢いで相手を消し去る(食い尽くす)現象を、もう一度見せろということか。自分の全魔力をかけた大技を、ただの「おかわり」として要求しているのか。「あ……ああ……」ルイスの膝がガクガクと震え出す。 目の前に立っているのは、華奢で可憐な十六歳のお嬢様などではない。自分の誇りも、魔法も、魔力も、すべてをごちそうとして平然と平らげてしまう——底知れぬ胃袋を持った『美食の怪物』だ。
「ない……」
「え?」
「ありません!!」
ルイスは腹の底からの悲鳴を上げると、手にしていた高級な杖を地面に投げ捨て、なりふり構わず脱兎のごとく演習場から逃げ出した。
「ひいぃぃぃっ!食われる!魔法ごと食われるぞぉぉぉっ!!」
「あ、ルイス様!待ってくださいませ!」
リゼットが手を伸ばしたが、ルイスの逃げ足は速く、あっという間に第一演習場の出口へと消えていった。静寂が、再び演習場を包み込む。「……行ってしまわれましたわね」リゼットはぽつりと呟き、心底残念そうに肩を落とした。「お見事な食しぶりでございました、リゼットお嬢様」アルベールがすっと隣に寄り添い、温かい眼差しを向ける。「でも爺、残さずいただくのがマナーとはいえ……逃げられてしまっては『おかわり』もいただけませんわ」「ご安心くださいませ。学院にはまだまだたくさんの『料理人』……失礼、魔法使いの生徒様がいらっしゃいます。本日の演習は、まだ始まったばかりでございますよ」「まあ! 本当ですの?」リゼットの顔に、ぱっと明るい花が咲いたような笑顔が戻った。「ふふ、次の魔法はどんな味がするのかしら?少し香ばしい『火炎魔法』や、お口の中がピリピリする『雷魔法』も食べてみたいですわね……♪」可憐なお嬢様の楽しげな独り言が、澄み渡る秋空へと吸い込まれていく。観客席でその様子を見ていた生徒たちと講師は、ただただ震え上がるしかなかった。——こうして、アストリア公爵家の落ちこぼれ令嬢による、常識破りな「魔法フルコース」の幕が開いたのである。




