第9話 さよなら僕のダークネス
1908年、秋。
ヤンデレ令嬢トゥラ・ラーセンとの壮絶なピストル暴発事件を経て、左手の中指の一部を失ったエドヴァルド・ムンク。
物理的な欠損もさることながら、彼の精神はすでに「修復不可能」な危険領域へとどっぷり突入していた。
「誰も信じられない……。みんなどこかで僕を笑っているんだ。トゥラの差し金に違いない! 僕を暗殺しようとしているんだ!!」
極度の女性不信と猜疑心の塊となったエドくんは、不安を紛らわすために浴びるように酒を飲み続けた。
もはや「酒を飲んで絵を描く」のではなく、「絵を描くためにアルコールで脳を麻痺させる」という本末転倒な状態である。
かつてはアトリエで一人震えているだけの大人しいネガティブ青年だったが、アルコールの過剰摂取は彼を非常に攻撃的にした。バーで隣に座った見ず知らずの客に「お前、今僕の指を見て笑っただろう!」と因縁をつけて大乱闘を起こし、親友だった画家とも殴り合いの喧嘩をして絶交するなど、生活の破綻は誰の目にも明らかだった。
そして、逃亡先のデンマーク・コペンハーゲンのホテルで、ついに「その時」が訪れる。
「……ヒョエエエエエ!! いる!! そこにいるゥゥゥ!!」
深夜のホテルの部屋で、エドくんは一人、 虚空に向かって絶叫した。
壁のシミが蠢き、窓の外にはパパが言っていた地獄の魑魅魍魎が三叉の槍を持って彼を睨みつけている。
耳元では、かつて自分を捨てた女たちの冷たい笑い声が、大音量でリフレインしていた。
「やめろォォォ! 僕を地獄に引きずり込まないでくれ!! 助けて、パパ! カレンおばさぁぁぁん!!」
重度のアルコール依存症による、強烈な幻視と幻聴。さらに、手足の痺れと麻痺まで引き起こしていた。
エドくんの頭の中に、かつてパパが予言した言葉が蘇る。
『我が家系には、狂気と病の血が流れている。お前もいずれ狂うだろう』と。
(……ダメだ。僕は完全に壊れてしまった。このままじゃ、妹のラウラみたいに精神病院の鉄格子の中で一生を終えるか、野垂れ死ぬかの二択だ……!)
最後の最後で、彼の心の中にある「生存本能」が勝った。
エドくんは、幻覚に怯えながらも自ら電話をかけ、助けを求めたのである。
翌日。
コペンハーゲン郊外にある、ダニエル・ヤコブソン教授の精神科クリニックに、一人のボロボロの男が運び込まれた。
「よく来たね、ムンク君! 君の脳みそは現在、アルコールとニコチンで完全に腐りかけている! だが安心してくれたまえ、この私が完璧に治してあげよう! ワハハハ!」
エドくんを担当することになったヤコブソン博士。
彼は、かつてゴッホの最期を看取ったあの「ウツ病のガシェ医師のとは対極に位置する、超絶ポジティブで自信に満ち溢れた、ガチの「陽キャ精神科医」であった。
「せ、先生……。僕は狂ってしまったんです……。幻覚が見えるんです……。でも、脳を治したら、僕の芸術の源泉である『不安』まで消えちゃうんじゃないでしょうか……?」
「馬鹿を言いたまえ! 不安なんてものは健康な体には不要だ! 真の芸術は健全な肉体から生まれるのだよ! さあ、治療開始だ!!」
ヤコブソン博士のクリニックは、最新の科学的アプローチを取り入れた、超・スパルタな療養施設だった。
まず、アルコールとタバコは完全なる御法度。
「酒の代わりに、栄養満点のスープと新鮮な野菜を山ほど食いたまえ! そして、毎日マッサージ師に全身の凝りを解させるのだ!」
「ヒョエッ! 血流が良すぎて怖い! 体がポカポカするゥゥ!」
そして、当時の最先端医療として行われていたのが、これである。
「さあムンク君、ベッドに横になりなさい。弱った神経に刺激を与えるため、微弱な電流を流す『電気療法』を行うぞ!」
「で、電気!? ちょっと待って先生、雷の実験みたいな機械が見えるんだけど!? それ痛くないの!?」
ビリビリビリッ!!
「アギャアアアアアッ!! パパァァァ!! これ絶対パパの言ってた地獄の拷問器具だよォォォ!!」
禁酒、健康的な食事、そして強制的な電気ショック。
この科学的かつ物理的な荒療治により、エドくんの体内に蓄積していたアルコールの毒素は、みるみると抜けていった。
数ヶ月後。
驚くべきことに、エドくんの幻聴や幻視はピタリと止んでいた。
青白かった顔には血色が戻り、目の下の黒いクマは消え、朝になれば小鳥のさえずりと共に爽やかに目を覚ます。まさに「憑き物が落ちた」状態である。
「……あれ? なんだか僕、すごく体調がいいぞ。世界が……明るい……」
ヤコブソン博士の陽キャ・オーラと適切な治療のおかげで、エドくんは人生で初めて「健康」という名のステータスバフを獲得したのである。
すっかり元気になったエドくんは、感謝の印としてヤコブソン博士の肖像画を描くことにした。
「よし、先生の絵を描くぞ……。キャンバスに向かうのは久しぶりだ」
筆を握るエドくん。
しかし、出来上がったキャンバスを見て、彼自身が一番驚くことになった。
「こ、これは……」
そこに描かれていたのは、かつての『叫び』や『病める子』のような、ドス黒い闇や、ねじ曲がった狂気など微塵も存在しない、堂々とした体躯のヤコブソン博士であった。
背景は明るい色調で彩られ、対象のフォルムも非常に現実的で、生命力に満ち溢れている。
どこからどう見ても、「心身ともに健康な画家が描いた、立派な肖像画」であった。
「僕の……僕の心のダークネスが……消えちゃった……」
エドくんは、愕然とした。
健康を手に入れたことで、彼を天才たらしめていた「狂気」と「死への異常な執着」という名の毒が、体内からすっかり抜け落ちてしまったのだ。
もはや、夕焼けを見ても空が叫んでいるようには感じない。ただの「綺麗な夕焼け」にしか見えなくなってしまったのである。
1909年、春。
およそ八ヶ月の療養生活を終え、エドくんは完全に「健全なオジサン」となって退院した。
ヤコブソン博士と固い握手を交わし、長年の逃亡生活と放浪に終止符を打ち、ついに故郷ノルウェーへと帰国することにしたのである。
「……ノルウェーに帰ったら、また『こんな不道徳な絵を描きおって!』って大炎上して、石を投げられるんだろうな。でも、今の健康な僕なら、批判も笑って受け流せる気がするぞ」
エドくんは、帰国後のバッシングを覚悟してクリスチャニア(現オスロ)の駅に降り立った。
しかし、彼を待っていたのは、全く予想の斜め上をいく光景であった。
「おお! 我が国の誇り、偉大なる芸術家エドヴァルド・ムンク先生が帰国されたぞォォ!!」
「万歳! ムンク先生万歳!!」
「……えっ?」
エドくんは目を丸くした。
駅のホームには、石を持った暴徒ではなく、花束を持った市民や、彼を熱烈に歓迎する新聞記者たちが押し寄せていたのだ。
さらには、かつて彼を「精神病の落書きだ!」と酷評していた保守的な批評家や、政府の重役たちまでが、ニコニコとすり寄ってくるではないか。
「いやぁ、先生! 我々は最初からあなたの才能を見抜いておりましたよ! 人間の深層心理を描き出す、まさにノルウェーの至宝だ!」
「今回、ノルウェー国立美術館であなたの大規模な回顧展を開催することが決定しました!」
「ヒョエエエ……な、なんだこの凄まじい掌返しは……!?」
エドくんが療養院で電気ショックを受けている間、ヨーロッパの美術界では「表現主義」の価値が確固たるものとなり、彼の名声はもはや不動の頂点に達していたのである。
ノルウェーという国は、ドイツやフランスで大絶賛されている自国の天才を、手のひらを返したように「国民的英雄」として持ち上げ始めたのだ。
極め付きは、帰国から直ちに届いた一通の書状であった。
「エドヴァルド・ムンク殿。あなたの芸術における多大な功績を讃え、ノルウェー国王より『聖オーラヴ勲章』を授与します」
「く、勲章!? この僕が!? パパに『地獄行き確定』って言われてた、不道徳の極みみたいな僕が!?」
大炎上から一転、国家からの大勲章。
エドくんは、ピカピカに輝く勲章を胸につけられながら、完全にキャパオーバーを起こし、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でフリーズしていた。
(おかしい……。誰も僕に怒らない。女の人も、僕にナイフやピストルを突きつけてこない。それどころか、健康で、お金持ちで、みんなからチヤホヤされている……。なんだこの世界は! ここは僕の知っているダークネスな地球じゃない!!)
幸か不幸か。
四十五歳にして、エドヴァルド・ムンクは「死の不安」からも「借金」からも「炎上」からも完全に解放され、すべてを手に入れてしまったのである。
だが、これは一人の芸術家にとって、ある意味で最も残酷な『ハッピーエンド』でもあった。
狂気と絶望という名のガソリンを失った彼に、この先、何を描けばいいというのか。
次回、最終話。
健康で大金持ちになったネガティブ・ボーイの、あまりにも平和すぎて逆に持て余してしまう、「巨匠の超ロング・ロスタイム」が幕を開ける。




