第8話 消し飛んだ左手の中指
世界で最も有名な絶望のパッケージ『叫び』を発表し、美術界にその名を轟かせたエドヴァルド・ムンク。
彼はついに「不安と狂気の魔王」として覚醒し、己のトラウマを金と名声に変える術を手に入れた。
しかし、名声を得たからといって、彼の精神状態が健康になるわけでは決してない。むしろ、「僕は呪われている」「いつか狂う」という強迫観念は、年齢を重ねるごとに深刻さを増していた。
「……結婚? 家庭を持つ? 冗談じゃない! 僕の血管には、結核と精神病の呪われた血が流れているんだ! 僕が子供を作れば、この呪いを後世に伝えることになる。芸術家にとって、結婚は『死』と同じだ!!」
かつて初恋のミリー(人妻)にポイ捨てされ、ベルリンでダグニー(魔性の女)に振り回されたエドくんは、女性不信を拗らせた末に、「生涯独身」を固く心に誓っていた。
彼は、女性と恋愛関係になりそうになると、相手が本気になる前に「あ、ごめん、僕の恋人は芸術なんで!」と自ら関係を断ち切るという、極めて身勝手な防衛本能を身につけていたのである。
そんな「こじらせ独身貴族」のエドくんの前に、1898年、彼にとって生涯最恐のラスボスとも言える女性が現れた。
彼女の名は、トゥラ(本名マティルデ)・ラーセン。
ノルウェーの裕福なワイン商の令嬢であり、エドくんより五歳年下。自立心に溢れ、エキゾチックな美貌を持つ、いわゆる上流階級のお嬢様であった。
「エドヴァルド。あなたの絵、とても素晴らしいわ。その暗くて深い瞳も……私、あなたと結婚したいの」
「ヒョエッ!? け、結婚!?」
トゥラは、エドくんを見るなりロックオンした。彼女は欲しいものは何でも手に入れてきたお嬢様であり、エドくんのような「影のある天才芸術家」は、彼女の所有欲を猛烈に刺激したのだ。
普通なら、金持ちの美人令嬢からの逆プロポーズなど、狂喜乱舞して受け入れるところである。しかし、相手は極度の結婚恐怖症のエドくんである。
「む、無理です! 僕の家系は結核と狂気で……! それに僕は芸術と結婚しているので!」
「大丈夫よ、私があなたを支えてあげる。私たちは最高の夫婦になれるわ。さあ、結婚誓約書にサインして」
「話を聞いて!!」
ここから、エドヴァルド・ムンクの人生における、最も長く、最も恐ろしい「鬼ごっこ」が始まった。
トゥラの愛は、現代の言葉で言えば完全なる「ヤンデレ」であった。彼女はエドくんと結婚するためなら、手段を選ばなかった。
「逃げるぞ! ノルウェーにいたら彼女に捕まって、無理やり教会に連行されてしまう!」
エドくんはトランク一つで逃亡生活を始めた。ベルリンへ、パリへ、そしてイタリアへ。
しかし、トゥラの実家は超金持ちである。エドくんがどこへ逃げようと、彼女は莫大な資金力と情報網を駆使して、執拗に彼を追いかけてきた。
「エド、見つけたわ。イタリアの空気は最高ね。さあ、結婚しましょう」
「ヒョエエエエエエ!! なんでフィレンツェのホテルまで追ってくるんだよォォォ!!」
逃げても逃げても、背後にはウェディングドレスを着た(幻覚の)トゥラが迫ってくる。エドくんの被害妄想は極限に達し、ついには酒の量も爆増。アルコール依存症にも拍車がかかっていた。
「別れよう」「嫌よ、結婚して」の無限ループが、なんと数年間も続いたのである。
そして1902年。
長期にわたる逃亡生活に疲れ果てていたエドくんのもとに、共通の友人から一通の切羽詰まった電報が届いた。
『エド! トゥラがモルヒネを飲んで自殺を図った! 今は一命を取り留めたが、危篤状態だ。君に最後に会いたいと言っている!』
「な、なんだって……!?」
エドくんの顔色から、ただでさえ少ない血の気が完全に消え失せた。
いくら逃げ回っていたとはいえ、自分が原因で女性が死にかかっているのだ。パパから「罪悪感」を植え付けられて育った彼が、これを無視できるはずがなかった。
「僕のせいだ……僕が逃げたから! 行かなきゃ、急いで彼女のもとへ!」
エドくんは、大慌てでノルウェーのオースゴールストランにあるトゥラの夏の別荘へと駆けつけた。
ドアを蹴り開け、寝室に飛び込むエドくん。そこには、ベッドに横たわる瀕死のトゥラがいるはずだった。
しかし。
部屋の真ん中には、ピンピンして健康そのもののトゥラが、仁王立ちで彼を待ち構えていた。
「……えっ? あれ? モルヒネは……危篤は……?」
「あらエド、来てくれたのね。やっぱりあなたは私を愛しているのよ」
嘘だったのである。
トゥラはエドくんを呼び寄せるため、友人たちまで巻き込んで「狂言自殺」の罠を張っていたのだ。
「騙したのか!? 君という女は、そこまでして僕の自由を奪いたいのか!!」
エドくんの怒りと恐怖が爆発した。しかし、トゥラのヤンデレゲージは、すでにエドくんの想像を絶する領域に達していた。
「あなたが私と結婚してくれないなら……いっそ、二人で死にましょう!」
チャカッ、と。
トゥラの手には、鈍く光る本物のピストルが握られていた。
「ヒョエエエエエエエ!! 銃!? なんでお嬢様が銃を持ってるのォォォ!!」
エドくんはパニック状態に陥った。自殺も他殺もご免である。
彼は慌ててトゥラに飛びかかり、彼女の手からピストルを奪い取ろうとした。
薄暗い別荘の一室で、結婚したくない男と結婚したい女による、文字通りのガチの修羅場が繰り広げられる。
「離して! 結婚しないなら撃つわよ!」
「やめろトゥラ! 僕にはまだ描かなきゃいけない絵が……!」
その時だった。
揉み合う二人の手の中で、ピストルの引き金が引かれた。
パーーーンッ!!
耳を劈くような銃声が別荘に響き渡った。
エドくんは、自分の左手に走った強烈な激痛と衝撃に、思わず床にうずくまった。
「あああああッ!! 痛い! 血が!!」
なんと、暴発した銃弾は、エドくんの左手の中指の第二関節を見事に粉砕し、そのまま壁にめり込んでいたのだ。
「きゃああああ!! エド!!」
血まみれになった彼の手を見て、トゥラもようやく正気を取り戻して悲鳴を上げた。
急いで医者が呼ばれたが、エドくんの左手の中指の先端は完全に吹き飛んでおり、切断手術を余儀なくされた。
「……僕の……パレットを持つ大事な左手が……」
包帯でぐるぐる巻きにされた自分の左手を見つめながら、エドくんの心の中で、トゥラに対するすべての感情(恐怖、同情、わずかな愛情)が、完全に「殺意と憎悪」へと変換された。
「もう二度と、僕の前に顔を見せるな。君は、僕の芸術の命である手を奪ったんだ」
エドくんの氷のように冷たい拒絶。
さすがのトゥラも、取り返しのつかないことをしてしまったと悟ったのか、泣きながら彼のもとを去っていった。
こうして、四年間にも及んだ泥沼のヤンデレ逃走劇は、「左手の中指の一部」という高すぎる代償を払って、ついに終わりを迎えたのである。
——しかし、この物語には、エドくんにとってさらに屈辱的な「最悪のオチ」が待っていた。
あの事件から、わずか数ヶ月後。
左手に革手袋をして欠けた指を隠し、失意のどん底で絵を描いていたエドくんのもとに、とあるニュースが飛び込んできた。
「……え? トゥラが……結婚した?」
そう。あんなに「エドと結婚できないなら死ぬ!」と銃まで持ち出して大騒ぎしたトゥラが、エドくんと破局した直後に、あっさりと別の若い芸術家と結婚したのである。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?」
エドくんの怒りの咆哮が、ノルウェーのフィヨルドを震わせた。
「ふざけるな!! あれだけ僕を追い回して、僕の指を撃ち飛ばしておきながら! 数ヶ月で別の若い男に乗り換えるだとォォォ!? あのピストル沙汰は何だったんだ!! 僕の指を返せェェェ!!」
「結婚したくない」と逃げ回っていたのはエドくん自身である。にもかかわらず、「自分への愛ゆえに発狂した」と思っていた女が、あっさり別の男に切り替えたことで、彼の中の面倒くさい男のプライドがズタズタに引き裂かれたのだ。
「絶対に許さない……。あの魔女め、僕の芸術の力で、永遠に歴史の悪者にしてやる!!」
エドくんの怨念は、凄まじい筆致となってキャンバスに叩きつけられた。
彼は、フランス革命期の有名な暗殺事件をモチーフにした『マラーの死』というテーマで、自分自身を「ベッドの上で血を流して死んでいる男」、そしてトゥラを「全裸で男を殺した直後の冷酷な女」として生々しく描き出したのである。
さらに、彼の手元に残っていたかつてのトゥラとのツーショット画『マドンナ』のキャンバスを、親の仇のように真っ二つに切り裂いた。
「自分をポイ捨てした女」に対する、執念深く、猟奇的なまでの芸術的復讐。
しかし、このピストル事件とトゥラの裏切りは、エドくんの精神を完全に臨界点へと追いやっていた。
失った指の痛み。毎晩のように見る悪夢。増え続ける酒の量。
そして、彼の頭の中に、再び「あの声」が聞こえ始める。
かつて父が予言した、逃れられない狂気の足音が。
エドヴァルド・ムンクの精神が完全に崩壊し、精神病院の鉄格子の向こう側へ足を踏み入れる日は、もう目前に迫っていた。




