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ムンクの赫い絶叫  作者: てっぺい


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7/10

第7話 そして伝説へ……

 ベルリンの地下酒場『黒仔豚亭』での泥沼の恋愛デスゲームと、連日のアブサン(度数七十パーセント超えのヤバい酒)の過剰摂取により、エドヴァルド・ムンクの精神と胃粘膜は限界を突破していた。


 ダグニーという魔性の女に翻弄され、ストリンドベリたちと嫉妬の炎を燃やし尽くした結果、エドくんの青白い顔はさらに土気色へと変貌し、歩くたびに「あ、今、脳細胞が百個くらい死んだ気がする……」と呟く、完全なる廃人一歩手前となっていた。


「……ダメだ。ドイツのソーセージもビールも、ドロドロの愛憎劇も、もうお腹いっぱいだ。少し静かなところで休まないと、本当に死神に肩を叩かれてしまう……」


 心身ともにズタボロになったエドくんは、療養を兼ねて故郷ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)へと一時帰国することにした。


 美しいフィヨルド。澄み切った北欧の空気。静寂。

 普通ならここで「ああ、故郷って素晴らしい!」と心身がリフレッシュされるはずなのだが、ネガティブの申し子であるエドくんに限って、そんな健全な回復イベントは用意されていなかった。


 ある日の夕暮れ時。

 エドくんは、気分転換のために二人の友人を誘って、クリスチャニアの街を一望できるエーケベルグの丘へと散歩に出かけた。


 この二人の友人、エドくんとは対照的に、心身ともに健康で、悩みといえば「今日の夕飯は何を食おうかな」くらいしかない、極めて真っ当な「陽キャ」であった。


「いやー、いい天気だなエド! 風が気持ちいいぜ!」

「お前もベルリンの暗い酒場にばかりいないで、こうやって自然の空気を吸えよな! ワハハ!」


 友人の陽気な笑い声を聞きながら、エドくんは一人、冷や汗をかきながらトボトボと後ろを歩いていた。


 実はこのエーケベルグの丘、景色は良いのだが、エドくんにとっては最悪のロケーションであった。

 丘の下には、クリスチャニア最大の屠殺場とさつじょうがあり、風向きによっては動物たちの断末魔の鳴き声がかすかに聞こえてくる。さらに反対側には、エドくんの妹であるラウラが重度の精神疾患で収容されている瘋癲院ふうてんいん(当時の精神病院)があったのだ。


(動物の悲鳴と、心を病んだ患者たちの叫び声……。ダメだ、こんなのちっともリフレッシュにならない。むしろ僕の心のダークネスをガンガン刺激してくるじゃないか……!)


 エドくんの極度に過敏な神経が、ギリギリと悲鳴を上げ始めた。

 そして、時刻は日没。太陽がフィヨルドの地平線に沈みかけた、まさにその時だった。


「……えっ?」


 エドくんは、足を止めた。

 空が、あり得ない色に染まり始めたのだ。


 美しいオレンジ色や茜色あかねいろではない。それは、まるで誰かが空に巨大なバケツ一杯の鮮血をぶちまけたような、おどろおどろしい、ドス黒いあかだった。


(※のちの気象学者の研究によれば、この頃、遠くインドネシアのクラカトア火山の歴史的・破滅的な大噴火により、世界中の成層圏に火山灰が到達。その影響で、北欧でも異常なほどの赤い夕焼けが観測されていたという説が有力である)


「な、なんだあれは……空が……空が血を流している……!」


 ただでさえメンタルが逼迫ひっぱくしていたエドくんの脳内で、火山灰が作り出した自然の異常現象が、「世界の終わり」という最悪の幻覚へと完全変換されてしまった。


 血のような空の下、青黒く沈みゆくフィヨルド。屠殺場からの幻聴。瘋癲院にいる妹の絶望。

 それらすべてが混ざり合い、一つの巨大な「自然の叫び声」となって、エドくんの鼓膜を物理的につんざいたのである。


「ギイィィィィィィィィィィィッ!!」


 エドくんは、あまりの轟音(幻聴)に耐えきれず、両手で耳を力一杯塞いだ。


「ヒョエエエエエエエエエ!! なんだこの音はァァァ!! 自然が、世界そのものが狂ったように叫んでいるゥゥゥ!!」


 顔面蒼白になり、膝をガクガクと震わせ、欄干らんかんに寄りかかって両手で頬(耳)を激しく押さえるエドくん。


 そう。のちに世界中を震撼しんかんさせる、あの『叫び』のポーズが、現実世界で誕生した瞬間である。


 しかし、そんなパニック発作を起こして絶望の淵に立っているエドくんをよそに、二人の陽キャの友人たちはというと——。


「おーいエド、何やってんだ? 早く来いよー!」

「綺麗な夕焼けだなー! 腹減ったから早くパブに行こうぜー!」


 なんと、彼らは後ろで「ヒョエエエ!」と震えているエドくんに全く気づかず、そのままスタスタと歩き去ってしまったのである。


(お、お前ら……! この空が、この世界の絶叫が聞こえないのか!? なんで普通に『綺麗な夕焼け』とか言って晩メシの話ができるんだよ!! 狂ってるのは僕か!? それとも世界か!?)


 圧倒的な孤独。誰とも共有できない恐怖。

 エドくんは、恐怖で一歩も動けないまま、自然を貫くその果てしない絶叫を、一人で全身に浴び続けたのである。


 ——数日後。

 なんとかアトリエに生還したエドくんは、熱に浮かされたようにキャンバスに向かっていた。


「描かなければ……あの日の、あの圧倒的な恐怖を。僕だけが聞いた、あの『自然の叫び』を!」


 彼は、血のような夕焼けと、うねるようなフィヨルドの背景を、赤や青、黄色の原色で暴力的に塗りたくった。


 問題は、「絶叫を聞いた僕自身」をどう描くかである。

 普通にエドくんの自画像(青白いイケメン風の顔)を描いて両手で耳を塞がせても、単に「うるさい場所で耳を塞いでいる神経質な若者」にしか見えない。


「違う……。あの時、恐怖のあまり、僕の自我は完全に崩壊していた。僕は人間ではなく、ただ恐怖に反応するだけの『抜け殻』になっていたんだ……」


 エドくんの絵筆が、キャンバスの中央に奇妙な生物を描き出した。

 髪の毛はなく、骸骨がいこつのように落ち窪んだ目と頬。性別も年齢もわからない、まるで宇宙人のようなツルッとした顔の不気味な人物。


 それこそが、恐怖によって個人の特徴をすべて剥ぎ取られた、人間の「普遍的な不安の象徴」であった。


「そうだ……この顔だ! 口を大きく開け、両手で耳を塞ぐんだ。僕が叫んでいるんじゃない。世界が叫んでいるから、その音から逃れるために耳を塞いでいるんだ!!」


(※美術史における最大の誤解の一つであるが、あの絵の人物は「叫んでいる」のではなく、「自然の叫び声から耳を塞いでいる」のである。タイトルも当初は『自然の叫び』であった)


 背景には、エドくんを置き去りにしてスタスタと歩き去っていく、二人の冷酷な友人たちのシルエットも忘れずに描き込んだ。


「完成だ……。これこそが、僕の人生のすべてを凝縮した、最恐にして最高のパッケージ……『叫び』だ!!」


 エドくんは、パステル、テンペラ、油彩など、様々な画材を使ってこの『叫び』を何枚も作成し、ついに世間へと発表した。


 その結果は、言うまでもない。

 ノルウェーやドイツの美術界は、これまでの炎上すら可愛く思えるほどの、ガチの戦慄せんりつに包まれた。


『なんだこれは……! 見てはいけないものを見てしまったような気がする……!』


『胎児のミイラか!? この絵の前に立つと、言い知れぬ不安に襲われて吐き気がする!』


『もはや芸術ではない。精神病患者の脳内を直接覗き込んでいるようだ……!』


 大炎上どころか、観衆に本気で「生理的嫌悪と恐怖」を植え付けることに大成功したのである。


 あまりの反響とバッシングに、ある批評家は新聞でこう書き立てた。


『こんな狂気に満ちた絵、正気の沙汰ではない。描くことができたのは、狂人に違いない』と。


 しかし、エドくんはもう、批評家からのバッシングで泣き崩れるような昔のビビリ青年ではなかった。


 彼はのちに、オスロ国立美術館に所蔵されることとなる『叫び』のキャンバスの左上の赤い絵の具の部分に、鉛筆で小さく、しかしハッキリと、こう書き込んだのである。


――『Kan kun være malet af en gal Mand!(狂人にしか描けなかっただろう!)』と。


(※この落書きは長年「アンチによるイタズラ書き」だと思われていたが、近年の赤外線スキャンと筆跡鑑定により、ムンク本人が後から書き足した「皮肉」であることが判明した)


「そうだとも。狂人にしか描けないさ。だって、この世界の本当の姿は、狂気に満ちた地獄なんだからな!」


 エドくんは、世界中を恐怖のどん底に叩き落とした自分の最高傑作の前で、ニヤリと笑った。


 こうして、「北欧のネガティブ・ボーイ」は、完全に「不安と狂気の魔王」へと覚醒し、美術史の頂点へと上り詰めたのである。


 しかし、『叫び』を描き上げてすべてがスッキリ解決……とはいかないのが、エドヴァルド・ムンクの人生の厄介なところである。


 魔王として覚醒した彼を待っていたのは、さらなる破滅的な恋愛トラブルと、銃声が響く血みどろの愛憎劇だったのだ。

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