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ムンクの赫い絶叫  作者: てっぺい


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10/10

最終話 巨匠は犬と暮らす

 1909年、精神科クリニックでのスパルタ電気ショック治療を経て、完全に「健全なオジサン」へとクラスチェンジしたエドヴァルド・ムンク。


 彼は故郷ノルウェーに帰国するなり熱狂的な大歓迎を受け、国家からの勲章まで授与されるという、完全なるハッピーエンドを迎えてしまった。


 当時の彼はまだ四十五歳。現代で言えば働き盛りだが、当時の平均寿命からすれば、そろそろ人生の終盤に差し掛かるお年頃である。


「いやー、空気がうまい! ご飯が美味しい! 今日もすこぶる体調がいいぞ!」


 かつて「風が吹けば魂が抜ける」と震えていたネガティブ・ボーイは、今や毎朝ラジオ体操でもしそうな勢いで元気に目覚めていた。


 彼は有り余る財力を使って、オスロ郊外のエーケリーという場所に広大な敷地を持つお屋敷を購入した。そして、外界との煩わしい関わりを断ち、悠々自適ゆうゆうじてき隠遁いんとん生活をスタートさせたのである。


 しかし、ここで彼にとって「芸術家としての最大の問題」が浮上する。


「よし、今日も絵を描くぞ! ……えーっと、何をどうやって描けばいいんだっけ?」


 エドくんは、真っ白なキャンバスの前で腕を組んで首をひねった。


 かつての彼なら、ここで「死の恐怖!」とか「ドロドロの嫉妬!」とか叫びながら、あかや黒の絵の具をキャンバスに叩きつけていたはずだ。しかし、今の彼にはそのダークネスのストックが完全に底を突いている。


「ダメだ……。今朝食べた焼き立てのパンと温かいスープが美味しすぎて、ちっとも絶望的な気分になれない。空を見ても『ああ、いい天気だなあ』としか思えないし、誰も僕の命を狙ってないから不安もない……!」


 健康と平和は、皮肉にも「狂気の芸術家ムンク」の筆を大いに鈍らせた。


 彼はもう『叫び』や『吸血鬼』のような、人々のトラウマをえぐる絵を描くことはできなかった。


 代わりに彼が描き始めたのは、農作業をするたくましいお百姓さんや、元気に走る馬、そして雪景色など、極めて健全で明るい、どこにでもある普通の風景画であった。


 のちにオスロ大学の講堂のために依頼された巨大な壁画では、輝くばかりの巨大な『太陽』を描き上げた。かつて血のように赤い夕焼け空を見て「ヒョエエエエ!」とパニックを起こしていた男が、まばゆいばかりの光を大絶賛するようになったのである。


「やっぱりお日様は最高だね! ビタミンDが生成されて骨も丈夫になるし!」


 もはや誰だお前は、と言いたくなるほどの健康オタクぶりである。


 そんな健康的な余生を送る彼のお屋敷には、女性の姿は一人もなかった。


 ピストルで左手の中指を吹き飛ばされたトラウマは伊達だてではない。「女=最終的に物理攻撃で僕を殺しにくる生き物」という公式が完全に定着してしまったエドくんは、生涯独身を貫くことを決意していた。


 その代わり、彼の広大な屋敷には、大量の「犬」が走り回っていた。


「よしよし、フィード! ボイ! お前たちはいい子だな。決してピストルを撃たないし、フリーラブとか言い出さないからな!」


 彼は犬たちを我が子のように溺愛できあいし、時には犬を映画館に連れて行き、犬がスクリーンに向かって吠え出すと「すまない、この映画はうちの犬の好みではなかったようだ」と言って堂々と途中退室するほどの過保護ぶりを発揮していた。


 また、彼にはもう一つ、奇妙な性癖……いや、習慣があった。

 それは、自分の絵に対する異常なまでの執着である。

 若い頃は貧乏で絵を売るしかなかったが、大金持ちになった今、彼は「自分の絵が手元からなくなること」を極端に嫌がった。


「おお、いかん! 僕の可愛い子供たち(絵)が、見知らぬ他人の家に嫁に出されるなんて耐えられない! 売ってしまったものも、全部僕が買い戻す!!」


 なんと彼は、過去に売ってしまった自分の作品を、オークションなどで大枚を叩いて片っ端から買い戻し始めたのである。


 買い戻した大量の絵や新たに描いた絵は、広大な屋敷の壁という壁にズラリと飾られ、時には屋外の雪の中に無造作に放置された。


「いいかお前たち! 厳しいノルウェーの自然に打たれて、たくましく育つのだぞ!」と、絵画に対してスパルタ教育を施すという奇行も楽しんでいた。


 まさに、お金を持て余した独身貴族の、やりたい放題のロスタイムである。


 しかし、そんな平和すぎる日々に、やがて世界の大きなうねりが押し寄せてくる。


 第二次世界大戦の勃発ぼっぱつである。

 1940年、ナチス・ドイツがノルウェーに侵攻。国中がファシズムの軍靴ぐんか蹂躙じゅうりんされる中、ナチスはムンクの絵画を「退廃芸術たいはいげいじゅつ」に指定し、ドイツ国内の美術館から次々と没収したのである。


「ムンクの絵は、健全なアーリア人の精神を汚染する狂気の落書きである! 即刻排除せよ!」


 ナチスからの名指しのバッシング。普通のお爺ちゃんならショックで倒れるところだが、ここで七十代後半になったエドくんの心に、かつての「炎上王」としての誇りがわずかによみがえった。


「……ふふっ。ナチスの連中め、僕の絵を『退廃的で危険』だと認定したか。つまり、僕のダークネスは、あの軍隊を震え上がらせるほどにまだまだ健在だということだな!」


 かつての狂気を少しだけ取り戻したエドくんは、ナチスに自分の「子供たち(絵画)」を奪われないよう、屋敷の二階に膨大な数の作品を隠し、自らは一階で猟銃を持って犬たちと共に籠城ろうじょうした。


 そして、ナチスの将校が「ノルウェーの誇る巨匠を我が陣営に迎え入れたい」と表敬訪問に来ても、「私は老いぼれで耳も遠いのでね」と冷たくあしらい、決して彼らにこびを売ることはなかったのである。


 ——1944年。

 冷たい風が吹き荒れる一月の終わり。

 エーケリーの屋敷で、一人の老人が静かに息を引き取った。


 彼の周りには大量の犬たちと、彼が愛し、手元に残した二万点にも及ぶ膨大な作品群(絵画、版画、スケッチなど)が残されていた。


 彼の遺言により、これらの「子供たち」はすべてオスロ市に寄贈され、のちにムンク美術館として世界中の人々に公開されることとなる。


「……パパ。ソフィエ姉さん。母さん」

 薄れゆく意識の中で、エドくんはかつて自分を置いて旅立っていった家族の顔を思い浮かべていた。


「すぐ死ぬ、今日の夕方にでも死ぬって怯えていた僕だけど……なんだかんだで、長生きしちゃったよ」


 享年、八十歳。

 生まれた時から「明日は死ぬかもしれない」と怯え、結核と精神病の恐怖にさいなまれ続けた北欧一の虚弱なネガティブ・ボーイは、なんと当時の平均寿命を遥かに超え、天寿を全うしたのである。


 同世代の画家たち——ゴッホは三十七歳で自らを撃ち、ゴーギャンは南の島で梅毒に苦しみながら五十四歳で孤独死し、ロートレックはアルコール依存によって三十六歳の若さで夭折ようせつした。


 彼ら破滅型の天才たちが次々と若くして散っていく中、「一番最初に死にそうだった男」が、皮肉にも一番長生きしてしまったのだ。


 自分のトラウマや不幸をすべてキャンバスという外部ストレージに吐き出し続けたからこそ、彼は彼自身の命を長く保つことができたのかもしれない。


 彼がこの世にのこした、両手で耳を塞ぐあの奇妙な男は、今もどこかで誰かの不安や絶望を代わりに引き受け、血のように赫い夕焼けの下で、無言の叫びを上げ続けている。


fin



『ムンクの赫い絶叫』を最後までお読みいただき、本当にありがとうございます!


今回は「死の恐怖」や「精神の崩壊」という、美術史の中でもトップクラスに重くて暗いテーマを、あえて「超・ネガティブ男子のドタバタ生存コメディ」として描いてみましたが、いかがだったでしょうか?


不安に怯えながらも、最後は誰よりも長生きしてしまったポンコツ巨匠の愛すべき人生を楽しんでいただけたなら嬉しいです。


さて、本作を読んで「どこからどこまでが史実で、どこからが作者の妄想なの?」と疑問に思った方も多いはず。そして、作中に登場した名画の数々には、どんな本当の歴史が隠されているのか。


読者の皆様のそんな疑問にお答えすべく、全話の裏側に隠された「ガチの美術史」と「作品解説」をたっぷりお届けします!


【ガチの史実:現実は小説より奇なり】

病と死の連鎖、そして狂信的なパパ: これはガチです。結核で母と最愛の姉ソフィエを亡くし、軍医である父が医学よりも祈祷にすがり、夜な夜な地獄の話を聞かせてエドヴァルド少年に深刻なトラウマを植え付けたのは歴史的事実です。


泥沼の恋愛デスゲーム: ベルリンの地下酒場「黒仔豚亭」で、魔性の女ダグニーを巡って欧州トップクラスの天才男たち(ストリンドベリなど)がドロドロの愛憎劇を繰り広げたのは、誇張抜きの史実です。


ヤンデレ令嬢とピストル暴発事件: まるでサスペンスドラマのようなトゥラ・ラーセンとの修羅場ですが、これも完全な史実。狂言自殺でムンクを呼び出し、揉み合いの末にピストルが暴発してムンクの左手中指の一部が吹き飛びました。しかも、彼女がその直後に別の若い画家とあっさり結婚したのも事実。ムンクがブチ切れて彼女を悪役に仕立て上げた絵を描いたのも本当です。


陽キャ・クリニックでの大復活と大往生: コペンハーゲンのヤコブソン博士のクリニックで、電気ショック療法や食事療法(最先端の科学的治療)を受け、アルコール依存と幻覚から「完全に健康なオジサン」として復活を遂げたのも事実。その後、当時の平均寿命を遥かに超える80歳まで超元気に生き延びました。


【本作ならではのコメディ演出(創作)】

エドくんの「ヒョエエエエ!」: 作中ではリアクション芸人のように叫ばせましたが、実際のムンクはもっと内に籠もるタイプの深刻な神経症でした。


コミカルな掛け合い: カレンおばさんのキレッキレのツッコミや、イェーガーたち不良インテリとのコントのようなやり取りは、物語を楽しくするためのエンタメ用の脚色です。


絵の具の「馬の治療」: 買い戻した自分の絵を雪の中に放置してスパルタ教育を施したエピソード自体は事実ですが、作中のように「逞しく育つのだぞ!」と叫んでいたかは定かではありません。彼なりの風化作用を狙った独自の芸術実験でした。


【作中登場作品・徹底解説】


作中を彩った名画たちの背景を知ると、物語がさらに深く味わえます。気になった作品はぜひ画像検索してみてくださいね!


1. 病める子(The Sick Child)


作中の登場シーン: 第1話で原体験として語られ、第2話でキャンバスをガリガリ削りながら描き上げ、大炎上したデビュー作。


史実の解説: 15歳で結核で亡くなった最愛の姉・ソフィエを描いた、ムンクの原点となる作品です。命が削られていく絶望感を表現するため、絵の具をキャンバスに塗り、それをナイフで削り落とすという暴力的な手法で描かれました。しかし当時の保守的な批評家からは「未完成の落書き」「不快だ」と酷評され、大バッシングを浴びました。


2. 星月夜(The Starry Night)※ゴッホ作


作中の登場シーン: 第5話、パリでエドくんが衝撃を受け、「生命のフリーズ」構想を閃くきっかけとなった絵。


史実の解説: 美術史の頂点に立つゴッホの傑作。パリ滞在中のムンクが、ゴッホやゴーギャンなどポスト印象派の作品に触れたのは事実です。現実の色ではなく「内面の感情や狂気を色彩と筆致で表現する」という手法は、その後のムンクの作風に決定的な影響を与えました。


3. 吸血鬼(Vampire) / マドンナ(Madonna)


作中の登場シーン: 第6話、ベルリンの「黒仔豚亭」で魔性の女ダグニーに翻弄され、トラウマと欲望をキャンバスに叩きつけた絵。


史実の解説: 女性に対する極度の不信感と、抗えない魅力への欲望が入り交じった傑作群です。『吸血鬼』は赤い髪の女が男の首筋に噛み付き生気を吸い取るような恐ろしい構図。『マドンナ』は聖母のタイトルでありながら、官能的な恍惚の表情を浮かべており、額縁には精子や胎児が描かれているバージョンもあります(愛と生と死が同居する、まさにムンクならではの表現です)。


4. 叫び(The Scream)


作中の登場シーン: 第7話、フィヨルドの赤い夕焼けの下で「自然の絶叫」を聞き、恐怖で耳を塞ぐ男を描いた最大の傑作。


史実の解説: 世界で最も有名な絶望のパッケージ。作中でも触れましたが、あの人物は「叫んでいる」のではなく、「自然を貫く果てしない叫び声に耐えかねて、耳を塞いでいる」のが正解です。背景の異常に赤い空は、インドネシアのクラカトア火山の大噴火による火山灰の影響だという説が有力です。


また、オスロ国立美術館所蔵バージョンの左上には「狂人にしか描けなかっただろう!」という鉛筆の書き込みがあります。長年アンチの落書きと思われていましたが、近年の赤外線調査でムンク本人の筆跡と確定し、批判に対する強烈な皮肉であったことが判明しました。


5. マラーの死(The Death of Marat)


作中の登場シーン: 第8話、ピストル事件の直後に別の男と結婚したヤンデレ令嬢・トゥラへの復讐として描いた絵。


史実の解説: フランス革命期の暗殺事件(革命家マラーが暗殺者シャルロット・コルデーに浴槽で刺殺された事件)に見立て、全裸のトゥラと、血を流してベッドに横たわるムンクを生々しく描きました。フラれた腹いせと自分を被害者とする怨念を、美術史に永遠に残すという執念深すぎる一枚です。


6. 太陽(The Sun)


作中の登場シーン: 最終話、精神病院を退院してすっかり「健康なオジサン」になった後に描いた、眩いばかりの巨大な壁画。


史実の解説: オスロ大学の講堂のために描かれた巨大な壁画です。岩礁の向こうから昇る、力強く光り輝く太陽が画面いっぱいに描かれています。かつてのドロドロとした狂気や死の不安は一切なく、圧倒的な「生命の賛歌」へと作風が180度変わったことを象徴する名作です。


【おまけニュース! あの絶叫に出会うには?】


ムンクが「日本にやってくる!」という特大ニュースがあれば良かったのですが、現在、日本国内での大規模なムンク単独の回顧展の予定は発表されていません。


「ええっ! じゃあ、あの『叫び』の本物はどこで見られるの!?」


ご安心ください。彼の作品のほとんどは、祖国ノルウェーのオスロに大切に保管されています。


実は2021年、オスロのウォーターフロントに、ムンクが遺した約2万7000点もの作品を収蔵する超巨大な新「ムンク美術館(MUNCH)」がリニューアルオープンしました!


13階建てのモダンなタワー建築で、彼が描いた複数のバージョンの『叫び』が、時間交代制で展示されているという超・激アツスポットです。一生に一度は訪れてみたいですね。


「ノルウェーは遠すぎる!」という方は、徳島県の大塚国際美術館に足を運んでみてください。陶板で原寸大に再現された大迫力の『叫び』と一緒に、両手で頬を押さえて記念撮影(ヒョエエエ!)をすることができますよ。


いつかまた日本に「不安と狂気の魔王」がやってくる日を夢見つつ、皆様も健康第一で、フィヨルドの風邪にはお気をつけてお過ごしください!


それでは、また次の「赤」が輝くキャンバスの前でお会いしましょう!

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