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ムンクの赫い絶叫  作者: てっぺい


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3/10

第3話 人妻特急フリーラブ号

 自身のトラウマをキャンバスに叩きつけたデビュー作『病める子』が、保守的なノルウェー美術界から完膚なきまでに大炎上させられたエドヴァルド・ムンク。


 批評家たちから石を投げられ、パパからは聖書で叩かれ、すっかり人間不信をこじらせたエドくんは、今日もアトリエの隅で膝を抱えて「ヒョエエエ……」と震えていた。


「もうダメだ……誰も僕の芸術を理解してくれない。世界は敵だらけだ。やっぱり僕なんか、ベッドの中で大人しくフィヨルドの風景画でも描いて、誰にも迷惑をかけずに静かに死んでいくべきだったんだ……」


 そんな極限まで卑屈になったエドくんの肩を、バンッ!と力強く叩く手があった。

 クリスチャニア最狂の無政府主義者であり、不良インテリのボス、ハンス・イェーガーである。


「嘆くことはないぞエドくん! 大衆に理解されないのは、君が時代を先取りしている天才の証拠だ! 今君に必要なのは、落ち込むことじゃない。魂を解放するための『愛』だ!」


「愛……? そんなもの、うちの家族はみんな結核で死んじゃったし、パパの愛は『地獄の業火レクチャー』という名のスパルタだし……」


「家族の愛の話なんかしていない! 私が言っているのは男女の愛、いや、我々ボヘミアンの至高の教義である『自由恋愛フリーラブ』のことだ!」


 イェーガーはタバコの煙をプハーッと吐き出しながら、エドくんの耳元で悪魔のように囁いた。


「いいかエドくん。キリスト教が押し付けてくる一夫一婦制なんてものは、人間の自然な感情を縛り付ける忌まわしき桎梏しっこくに過ぎない。愛は鳥のように自由であるべきだ! 君も恋をしたまえ! それも、常識をぶち壊すような、最高に不道徳な恋をね!」


「ふ、不道徳な恋……?」


「そうだ! 愛の苦悩と歓喜こそが、君の芸術を次の次元へと引き上げてくれるはずだ! さあ、街へ出て女を口説け!」


 イェーガーに無理やり背中を押され、エドくんは恋を探すことになった。


 しかし、忘れてはいけない。エドくんは「女性経験ゼロ」の純情な青年であり、何より父親から「罪を犯せば悪魔に尻を刺される」という地獄の英才教育を受けて育った男である。女の子とすれ違うだけで「あっ、今目が合った! これは罪!? 地獄行き!?」とパニックを起こすレベルの奥手であった。


 そんなエドくんの前に、ある日、一人の圧倒的な美女が現れた。

 彼女の名は、ミリー・タウロウ。


 社交界の華であり、洗練されたドレスを着こなし、蠱惑的こわくてきな笑顔で男たちを次々ととりこにする、最先端のモダンガールであった。


「あら、あなたがエドヴァルドね。噂は聞いているわ。とってもセンセーショナルな絵を描く、影のある天才青年なんでしょ?」


 ミリーは長いまつ毛を伏せ、甘い香水を漂わせながらエドくんに微笑みかけた。


「ヒョッ……! あ、はい……センセーショナルというか、ただ怒られただけで……」


「ふふっ、可愛い。私、そういう古い常識に縛られない芸術家って、大好きなの」


 エドくんの心臓は、これまでの病弱な人生で一度も経験したことがないほどの爆音を鳴らした。


 これが……恋! イェーガーさんの言っていた、魂を解放する愛!

 僕のこの暗い人生に、ついに太陽のような女神が降臨したんだ!


 すっかり舞い上がったエドくんであったが、この女神には、一つだけ「致命的なバグ」が存在した。


 彼女は、エドくんの親戚の兄さんの「奥さん」だったのである。


「……えっ。ミリーさん、結婚してるの?」


「ええ。でも気にしないで。私の夫は古いタイプの退屈な男なのよ。私、もっとスリリングで、燃えるような恋がしたいの」


 ウィンクを飛ばすミリーを前に、エドくんの脳内でけたたましいサイレンが鳴り響いた。


(人妻! 親戚の奥さん! ダメだ、これは完全にアウトだ! 聖書にも『汝、隣人の妻をむさぼるなかれ』ってめっちゃ太字で書いてあった! 姦淫かんいんの罪は地獄の釜茹で直行コースだ!!)


 エドくんは本能的に逃げ出そうとした。

 しかし、彼の背後には、イェーガーの「不道徳こそ芸術だ!」という悪魔の囁きが響いている。


 そして何より、ミリーのあまりにも美しく、危険な魅力が、エドくんの理性を完全に麻痺させてしまったのである。


「エドヴァルド……今夜、森の入り口で待っているわ」


「……はいぃぃぃっ!」


 こうして、童貞エドくんの「人妻特急フリーラブ号」が、猛スピードで発車してしまったのである。


 二人の逢瀬おうせは、常にスリルと隣り合わせだった。

 クリスチャニアの暗い森の中や、人目のつかない路地裏で、彼らは密かに唇を重ねた。


「ああ、ミリー……君は僕のすべてだ……!」


「エド、もっと強く抱きしめて……」


 燃え上がるような恋の情熱。

 しかし、エドくんの精神状態は、決して「幸せいっぱい」ではなかった。むしろ、常に極限のパニック状態であった。


(ヒョエエエエ!! 今、茂みが揺れた! 誰かが見ている!? パパに見つかったら殺される! いや、それより神様が見ている! 上空から神様が僕の不倫をバッチリ監視しているゥゥ!!)


 ミリーを抱きしめながらも、エドくんの頭の中では「父親の怒顔」と「三叉の槍を持った悪魔」が阿波踊りを踊っていた。


 彼にとって、この恋は「極上の甘さ」と「致死量の罪悪感」がブレンドされた、猛毒のカクテルだったのである。


 さらに不運なことに、エドくんは彼女に対して本気になりすぎてしまった。

 彼はミリーとの未来を夢見、「いつか夫と別れて、僕と一緒になってくれるはずだ」と信じ込んでいた。


 だが、相手は社交界を泳ぎ回るプロのモテ女であり、「ボヘミアンの自由恋愛」をファッション感覚で楽しんでいるだけのスリルの探求者であった。


 ウブで重苦しくて、常に「地獄が〜!」と震えている青白い病弱な青年など、彼女にとっては「ちょっと変わった面白いオモチャ」に過ぎなかったのである。


「ミリー! 今日も会えるよね!? 僕、君のために新しい詩を書いたんだ!」


「ごめんなさいエド。今日は夫とパーティーなの。それに……最近あなた、ちょっと重いわ」


「えっ……」


 次第に、ミリーはエドくんを露骨に避けるようになっていった。

 他の男と親しげに腕を組んで歩くミリーの姿を、エドくんは街角の物陰から血走った目で見つめることしかできなかった。


「嘘だ……あんなに愛し合ったのに。僕にあんな甘い言葉を囁いたのに……!」


 そして数ヶ月後、ミリーは完全にエドくんに飽き、別のイケメンの軍人へと乗り換えてしまったのである。


 ポイ捨てである。

 人生初の恋、しかも地獄の恐怖に耐えながらすべてを捧げた禁断の恋は、あまりにも残酷であっけない終わりを迎えた。


「ああああああああああッ!!」


 暗い自室のアトリエで、エドくんは魂が千切れるほどの絶叫を上げた。

 失恋の痛み。騙されたという屈辱。そして「姦淫の罪を犯したのに、結局何も残らなかった」という神への言い訳の立たなさ。


「女は……女は悪魔だ! 男の純情を喰い物にし、魂の精気を吸い尽くしてポイ捨てする、恐ろしい吸血鬼ヴァンパイアなんだァァァ!!」


 この瞬間、エドくんの脳内に、女性に対する決定的な「恐怖と不信感」のプログラムがガッチリとインストールされてしまった。


(※のちに彼は、このトラウマから『吸血鬼』という、男の首筋に噛み付く女の恐ろしい絵を描くことになる。また、日記の中では彼女の本名を隠すため「ハイベルグ夫人」という仮名で呼び、生涯にわたってこの失恋の傷を引きずり続けた)


「イェーガーさんの嘘つき!! フリーラブなんて、ただの地獄の片道切符じゃないか!!」


 涙と鼻水で顔をグチャグチャにしながら、エドくんは狂ったようにキャンバスに向かった。


 失恋の痛みを、ドロドロの嫉妬を、女という生き物に対する底知れぬ恐怖を、すべて絵の具に変えて叩きつけるのだ。


「見てろよミリー……この痛みも、絶望も、全部芸術にしてやる! 僕の心をズタズタにしたお前たちを、永遠にキャンバスに呪縛してやるからな!!」


 大炎上、そして初恋のトラウマ。

 度重なる精神的ダメージにより、エドくんの内なる「ダークネス」は、もはやノルウェーという狭い国には収まりきらないレベルにまで膨れ上がっていた。


「こんな国、もう嫌だ! パパも、批評家も、冷たい女もいない場所に行きたい! そうだ、芸術の都……パリへ行くんだ!!」


 失恋の傷を癒やすため、そして新たな芸術の光を求めるため、エドくんは国からの奨学金を何とか勝ち取り、花の都パリへの逃亡(留学)を決意する。


 しかし、彼が逃げ込んだ先であるパリで、さらなる身内の悲劇が彼をどん底へと突き落とすことになるとは……。


 エドくんの受難の旅は、まだ始まったばかりである。

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