第2話 悪いお友達
さてさて、父親による深夜の地獄レクチャーという英才教育を受けていたエドくんも、ついに大きくなった。十八歳である。
相変わらず顔色は青白く、少し強めの冷たい風が吹けば「ああ、死神が僕の肺をノックしている……」と呟いて布団に引きこもる、最高に面倒くさい多感な時期に突入していた。
一度は「ちゃんとした大人になる!」と意気込んで工科学校に入学したエドくんだが、難しい数式よりも「僕の心の闇を表現する黒い絵の具」を求めて、わずか一年で学校を脱走。
「父さん、僕、エンジニアじゃなくて画家になる。物理学にはダークネスが足りないんだ」
これには軍医であるパパのクリスチャンも、手に持っていた聖書を床に落とすほどの衝撃を受けた。
「主よォォォ!! なんという試練ですかァァァ!!」
パパの悲鳴がクリスチャニア(現オスロ)の冷たい空気を切り裂く。
「エドヴァルド! 画家だと!? あんなものは芸術の皮を被った悪魔の使いだ! 裸の女のモデルをジロジロ見て、夜な夜な酒場で度数の高い酒を呷り、頽廃の沼に沈むつもりか! お前、地獄の釜茹でコース予約済みだぞ!!」
「いや父さん、僕、地獄の釜茹では五歳の頃から毎晩夢で予習してるから大丈夫。むしろ最近はホームグラウンド的な安心感すらあるから」
「そんな安心感はいらん!! ああ、神よ! 息子から邪悪な絵筆を取り上げ、代わりに聴診器と『正しい道徳』をお与えください!」
狂信的なパパの猛反対。普通ならここで「なら勘当だ! 出て行け!」と泥沼の修羅場になるところだが、ここでまたしてもムンク家の絶対的守護神、カレンおばさんが割って入った。
「お義兄さん、落ち着きなさい。エドヴァルドは廊下を歩くたびに『あ、今魂が抜けた気がする』とか言うくらい虚弱なんですよ。他人の血を見るお医者さんなんてどっちみち無理に決まってます。家で喀血して倒れられるより、部屋の隅で大人しく絵の具で絨毯を汚されている方が、まだ私の掃除の負担が軽いです。好きにさせなさい」
「カレンおばさん……! 好き……一生ついていく……!」
カレンおばさんの「どうせ長続きしないでしょ」的な温かい放置プレイと極めて現実的な判断により、エドくんはクリスチャニアの王立美術学校へ進学することになった。
ところが。
「……違う。僕が求めているのは、こんなキラキラした世界じゃない」
当時のノルウェー美術界は、ありのままの風景や静物を綺麗に描く「自然主義」が圧倒的なブームであった。
美術学校の先生が「さあ、このピカピカのリンゴの瑞々《みずみず》しさを、正確なデッサンで描きなさい」と言えば、エドくんは一人だけ瞳を暗く潤ませて質問した。
「先生。このリンゴの皮の裏側で渦巻く『いつか腐って土に還るという死の恐怖』を表現するには、どの黒い絵の具を使えばいいですか?」
「……ただのリンゴだ。普通の赤で塗れ。あと、お前のその目の下の真っ黒なクマをなんとかしろ。こっちが不安になる」
エドくんは絶望した。
綺麗なお花、美味しそうなリンゴ、のどかなフィヨルドの風景。そんな健康的なものを描いても、僕の心に巣食う「悪魔との追いかけっこ」は一ミリも終わらない。
「もっと……もっとドロドロした、悪い大人たちはいないのか? 僕のこのダークネスを『わかるわかる~』って受け入れてくれるような、過激な場所は……!」
そんな中二病をこじらせたエドくんが、夜の街を彷徨した末に迷い込んだのが、街の不良インテリたちの溜まり場「グランド・カフェ」であった。
人呼んで、『クリスチャニア・ボヘミアン』。
厳格なプロテスタントの道徳観が支配する当時のノルウェー社会において、彼らの存在はまさに劇薬であった。
ギィィ……と重い木製の扉を開けると、強烈な紫煙と安酒の匂いが立ち込める空間の向こう側で、一人の男がテーブルの上に土足で立ち上がり、絶叫していた。
「聞け、若者たちよ!! キリスト教の忌まわしき道徳なんてゴミ箱に捨てろ! 我々は自由だ! 好きなだけ酒を飲み、好きなだけ恋愛をし、そして最後は……最高にカッコよく自殺するのだ!!」
(……ヒョエエエエ!! ガチでヤバい奴がいる!!)
エドくんは本能的に逃げようとした。
その男の名は、ハンス・イェーガー。北欧最狂の無政府主義者であり、著書が発禁処分になり、警察からも常にマークされている「危険すぎるお兄さん」だった。
「おや? 新顔だね。ひどく青白い顔をしているが、君も古い道徳をぶち壊しに来たのかい?」
イェーガーが、入口でブルブル震えているエドくんに鷹のような鋭い目を向けた。
「あ、いえ。僕はその、学校でリンゴを赤く塗るのがどうしても嫌で……」
「リンゴ! アダムとイヴの禁断の果実! 原罪の象徴だね! 素晴らしい、君も我々の同士だ! さあ、これを飲んで古い価値観をぶっ壊せ!」
イェーガーは有無を言わさずエドくんを椅子に座らせると、アルコール度数のバカ高い酒をなみなみと注いだ。
エドくんは流されるままに酒を呷り、イェーガーが提唱する「ボヘミアンの九カ条」なるものを聞かされることになった。
「いいかいエドくん。我々ボヘミアンの鉄則はこうだ。一つ、自分の人生をそのまま描け。二つ、親との家族的な紐帯を断ち切れ。そして、何よりも不道徳に生き、最後は自らの意志で命を絶つのだ!」
「なるほど、自分の人生をそのまま描く……。親との絆を断つ……。それは、僕が求めていた本当の自由かもしれない!」
エドくんの目がキラリと光った。
綺麗な風景を描く必要はないのだ。自分自身のトラウマ、病気、死への恐怖。それをそのままキャンバスにぶちまけていいのだ!
「そうだ! 自分の内面を赤裸々にさらけ出すんだ! 恥部も、苦悩も、全部だ! そして最後に……カッコよく死ぬのだ!!」
「えっ」
エドくんは、持っていたグラスを取り落としそうになった。
「いや、ちょっと待ってくださいイェーガーさん。最後、なんて言いました?」
「自殺だよ。誰かに決められた寿命ではなく、自らの意志で命を終わらせることこそ、究極の自由だからね!」
(……無理無理無理無理!! 死ぬのが怖すぎて毎日震えながら絵を描いてんのに、なんで自分から死神に会いに行かなきゃならないんだよ!!)
エドくんの心の中の生存本能が、けたたましいアラートを鳴らした。
忘れてはいけない。エドくんは「風邪をひいただけでお葬式の準備を始めるほどの極度の不安症」なのだ。自殺など、逆立ちしてもできるわけがない。
「あ、あの……僕はまだ死にたくないというか……死ぬのが怖すぎて夜も眠れないくらいなんですが……」
「ハハハ! 冗談が上手いねエドくん! 死を恐れるなんて、古い道徳に縛られている証拠だ! さあ、死が怖いなら、まずは『自由恋愛』から楽しもうじゃないか! 結婚制度などクソくらえだ! 嫉妬なんて捨てて、愛をみんなで共有するんだよ!」
「フ、フリーラブ……? よくわからないけど、とりあえず『自分のトラウマを描いていい』ってことですよね?」
「そうだ! 描け! お前の魂の闇を!!」
エドくんは、イェーガーの「自殺」と「フリーラブ」という極めて不穏な単語をそっと脳内のゴミ箱に捨て、「自分の内面を描く」という部分だけを都合よくインストールした。
——数日後。
自宅の薄暗いアトリエに引きこもったエドくんは、真っ白なキャンバスに向かっていた。
「自分の人生を描く……。僕の魂の闇……。一番のトラウマ……」
脳裏に浮かんだのは、自分が十四歳の時に亡くなった、大好きなお姉ちゃん・ソフィエの姿だった。
血を吐き、青白い顔でベッドに横たわっていた姉。その横で、ただ祈ることしかできなかった無力な父と自分。
「描くんだ。綺麗なリンゴじゃない。あの日の、あの絶望の空気を。僕の心に永遠にこびりついている、あの死の匂いを!!」
エドくんは絵筆を握りしめ、パレットの上の暗い緑や灰色、そして血のような赤をキャンバスに叩きつけた。
しかし、普通に描いただけでは、どうしても「ただの看病の絵」になってしまう。綺麗すぎるのだ。
「違う……! こんなんじゃない! あの時、僕の心はもっとズタズタに引き裂かれていたんだ!!」
エドくんは突如、パレットナイフを手に取ると、せっかく描き上げたキャンバスの表面を、ガリガリと力任せに削り落とし始めた。
「エド……おやつにクッキーを焼いたわよ。……って、何してるの!?」
様子を見に来たカレンおばさんが、悲鳴を上げた。
部屋の中央では、エドくんがキャンバスを親の仇のようにナイフで削り、傷つけ、その上から再び絵の具を擦り込み、また削るという奇行に及んでいた。
「なんで削ってるの! せっかくソフィエの顔が綺麗に描けてたのに!」
「カレンおばさん! 違うんだ、キャンバスに傷をつけないと、僕の心の痛みが表現できないんだ! 絵の具を削り取ることで、姉さんが命を削られていった絶望感を定着させているんだよ!」
「絵の具がもったいないでしょ!! 絨毯が削りカスだらけじゃないの!!」
芸術の狂気よりも掃除の手間を気にするカレンおばさんの怒号を無視し、エドくんは数ヶ月にわたり、描いては削り、描いては削るという暴力的なレイヤー作業を繰り返した。
それは、これまでのノルウェー美術界の常識を根底から覆す、あまりにも生々しく、痛々しく、見る者の心をざわつかせる一枚の絵だった。
「完成だ……。タイトルは、『病める子』」
エドくんは、絵の具まみれの手で息を荒げながら、自分の力作を見つめた。
これこそが、僕の魂の叫びだ。イェーガーさんもきっと絶賛してくれる。これを展覧会に出せば、世界中の人が僕のダークネスに刮目し、共感の涙を流すに違いない!
1886年。意気揚々と秋の展覧会に『病める子』を出品したエドくんであったが——。
『なんだこの未完成のラクガキは!?』
『絵の具が削り取られてボロボロじゃないか! 途中で描くのを諦めたとしか思えん!』
『不快だ! 気持ち悪い! 縁起でもない! 我々をバカにしているのか!』
当時の保守的な批評家や観衆からの評価は、完膚なきまでのフルボッコ。新聞紙上でも名指しで批判されるという、文字通りの喧々囂々《けんけんごうごう》たる大炎上であった。
「ヒョエエエエ!! なんでだよォォォ!! 僕の魂を込めたのにィィ!!」
展示室の片隅で、エドくんは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「言わんこっちゃない! 神への祈りを忘れ、あんな気味の悪い絵を描くから天罰が下ったのだ!」
パパのクリスチャンが、新聞を丸めて怒鳴り込んでくる。
「ハハハ! 素晴らしいぞエドくん! これだけ大衆から唾棄されるということは、君が古い道徳を見事に破壊した証拠だ! 最高の前衛芸術だ!」
イェーガーは的外れなエールを送りながら大爆笑している。
パパの説教、大衆からのバッシング、そして不良インテリからの狂った称賛。三つ巴のカオス空間の中心で、エドくんの被害妄想はさらに加速していく。
「誰も……誰も僕をわかってくれない……! 世界が怖い! 他人の目が怖い!!」
こうして、エドくんの画家デビューは、華々しい「大炎上」と共に幕を開けた。
しかし大丈夫だ。この「誰も僕を理解してくれない……世界が怖い!」という強烈な疎外感と震えこそが、のちにあの『叫び』を生み出すための、最高にドロドロとした栄養分になるのだから。
さあ、エドくん。
次はイェーガーさんが言っていた「魔のフリーラブ」という名の、底なしの恋愛地獄が君を待っているよ!




