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森の最深部は、別世界だった。
外縁部の荒々しい原生林とは違い、ここには古い木々が静かに立ち並んでいた。幹の太さは人の胴を優に超え、枝が天蓋のように空を覆っている。地面は分厚い苔に覆われ、足音すら吸い込まれる。空気は湿り、冷たく、そして不思議なほど澄んでいた。
スタンピードの轟音は遠い。ここまで大型魔物は入ってこなかった。木々の密度が高すぎて、角猪や牙熊の巨体は通れない。セレーナの予測は正しかった。
しかし、安堵とは程遠い状況だった。
ヴェルナーは、動けなかった。
古木の根元に背を預け、荒い呼吸を繰り返している。鎧の下から血が染み出し、苔の上に黒い染みを広げていた。自傷による出血と、戦闘中に受けた打撲。血剣の代償が全身に回っている。顔色は土のように白く、唇は青紫色。鉄灰色の瞳だけが、まだ鋭い光を保っていた。
セレーナは魔力を消耗し切っていた。アナライズを数時間にわたって全力稼働させた代償で、頭が鈍く痛む。視界が時折ぼやけ、指先の感覚が曖昧になっている。闇魔法は外部の魔力を再利用するため、「枯渇」はしない——しかし、術者の集中力と体力には限界がある。
カイは無傷だった。気配遮断のおかげで魔物との接触をゼロに抑えたからだ。しかし食料の備蓄はゼロ。拠点にあった保存食は全て焼失した。水筒の水が半分。それだけが、カイの全財産だった。
モルスだけが平然としていた。
元から食料を必要とせず、睡眠も不要で、魔物に襲われても「死ぬ」のかどうかすら怪しい存在だ。灰色のローブに汚れ一つなく、最深部の苔の上に腰を下ろして、周囲の生態系を興味深そうに観察していた。
焚き火をカイが起こした。
正確には、焚き火の「許可」を求めた。暗殺者として、光と煙を出す行為は自殺に等しい。しかし今はヴェルナーの体温が危険域にある。火がなければ夜を越せない可能性がある。カイはその計算を瞬時に行い、小さな火を熾した。煙が最小限になるよう、乾燥した細い枝だけを選んで。
暗殺者の技術が、味方の生存を支えている。本来の用途とは真逆の使い方だ。カイ自身はそんなことは考えていない。ただ「こいつが死ぬと生存確率が下がる」という計算があるだけだ。
四人が初めて、同じ焚き火の前にいた。
会話はなかった。
ヴェルナーは目を閉じて呼吸を整えている。カイは火の番をしながら闇を警戒している。セレーナは消耗した頭で、今夜のデータを反芻している。
モルスが口を開いたのは、火が安定した頃だった。
「以前にも、こういう夜がありました」
誰に向けた言葉でもなかった。独り言のように、しかし明瞭に。
「もっと大勢いたのですが。朝には私だけになっていた」
焚き火の炎が、ローブの奥にわずかな光を投げかけた。フードの闇の中で、何かが揺れた——目か、あるいは目のように見える何かが。
セレーナが訊いた。疲弊した声で、しかし知性だけは消えていない声で。
「いつの話ですか」
モルスは少し間を置いた。思い出しているのか、あるいは、どこまで話すか計算しているのか。
「たぶん……三百年ほど前です」
焚き火が爆ぜた。カイの手が反射的に短刀に触れ、すぐに離れた。
「ある都市国家がありました。ティリアといいます。今はもう、地図にも載っていない。砂の下に埋もれてしまいましたから」
モルスの声に感情はなかった。いつもと同じ、性別のない平坦な声。しかし——語っている内容の重さだけが、静かに空気を変えていた。
「ティリアは、地脈のエネルギーを汲み上げる技術を開発しました。無尽蔵の力。飢えは消え、病は治り、都市は数十年で大陸最大にまで膨れ上がった。人々はそれを祝福と呼びました」
セレーナの指先が、微かに動いた。
「——今の王国と、同じ構造ですね」
「ええ。名前が違うだけです。ティリアは地脈、王国は星。汲み上げる対象が違うだけで、仕組みは同じ。有限のものを無限であるかのように消費する」
沈黙が落ちた。焚き火の爆ぜる音だけが、森の静寂に小さな穴を開けている。
「結末は?」
カイだった。暗殺者の少年は火の向こうから、灰緑色の目でモルスを見ていた。初めてモルスに対して、自発的に言葉を発した。
「地脈は枯れました」
モルスの声は、事実を述べる時と同じ温度だった。
「最初に水が消えました。泉が涸れ、川が干上がった。次に森が消えた。木が立ったまま枯れていく。根から水を吸い上げられなくなったのです。最後に土が死にました。何を植えても芽が出ない。灰色の砂だけが残りました」
「……人は?」
「散り散りになりました。都市を捨てて、まだ水のある土地へ。ただ、そういう土地はすでに別の人々が暮らしていますから——奪い合いになりました。争いは長く続きましたが、最終的にはティリアの民もそうでない民も区別がつかなくなって、静かに歴史の中に溶けていった」
モルスはそこで言葉を切った。
「私は、それを見ていました。最初から最後まで。見ているだけでした」
長い沈黙があった。
ヴェルナーは目を閉じたままだったが、呼吸の間隔からして起きている。聞いていたのだろう。しかし何も言わなかった。
カイが小さく呟いた。
「……また同じことが起きてる、ってことか」
モルスは答えなかった。
しかし答えないこと自体が、肯定だった。
セレーナは焚き火の炎を見つめていた。
三百年前の都市国家。地脈のエネルギーを汲み上げ、繁栄し、枯渇し、滅びた。今、王国は星のエネルギーを汲み上げ、勇者の奇跡で繁栄を維持している。構造は同じ。スケールが違うだけだ。地脈一本分の崩壊と、星一つ分の崩壊。
今夜のスタンピードは、その崩壊の余波に過ぎない。
勇者の奇跡が一回行使されるたびに、世界のどこかでこういうことが起きている。魔力のバランスが崩れ、生態系が乱れ、魔物が暴走し、人が死ぬ。それを誰も——勇者本人すら——知らない。
セレーナは視線を焚き火から上げ、空を見た。
木々の隙間から、星が見えた。アナライズの視界で見ると、星の魔力がかすかに脈動しているのが分かる。規則的なリズム。しかしその振幅が——セレーナの理論が正しければ——年々小さくなっているはずだ。星が弱っている。
今の自分には、それを証明する手段がない。
研究室は学術院に没収された。論文は握りつぶされた。測定器具はおろか、まともな筆記用具すらない。手元にあるのは自分の頭脳と、焼け出された結界の残骸だけだ。
それでも——仮説は頭の中にある。
データは今夜、新たに増えた。スタンピードの規模、魔力攪乱の波形、森の生態系の反応。全てセレーナの脳に記録されている。
そして、三百年前の実例が、今夜初めて加わった。
モルスが見た都市国家の崩壊。それは伝聞ではない。目撃証言だ。数百年を生きた存在が「同じことが起きている」と語った。
ここで死ぬわけにはいかない。
まだ証明していない仮説がある。そして今夜、その仮説を裏付ける証言者が目の前にいる。




