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カイは踏み込んだ。
一歩。右足。地面を蹴らない。重心を前に倒すだけ。足音がゼロになる歩法。ギルドで叩き込まれた、対象に気づかれないための最後の一歩。
リオンの背中が目の前にある。白い衣の布目が見える。肩甲骨が祈りの姿勢でわずかに盛り上がっている。右肩甲骨の内側。セレーナの声が耳の中で座標を指し示している。
「あと一センチ上——そこ」
カイの右手が動いた。
短刀が弧を描かなかった。弧を描けば空気が鳴る。空気が鳴れば気づかれる。だから——真っ直ぐに。紙に針を刺すような一突き。
琥珀色の切っ先がリオンの背に沈んだ。
衣の繊維を貫き、皮膚を裂き、筋肉の層を四センチだけ進む。心臓の七センチ隣。骨には触れない。血管を避けている。カイの指先は、刃が組織の中をどう進んでいるかを、振動として読み取っていた。
致命傷ではない。
しかし——刃の先端に塗られたモルスの遮断剤が、接続点の魔力構造に触れた。
世界が、鳴った。
音ではない。音よりも深い振動。星の聖約と勇者を繋ぐ回路が焼灼された瞬間、膨大なエネルギーの流れが——止まった。水道管を閉めた時のような、圧力の消失。しかし規模が違う。星一つ分のエネルギーが通っていた回路が閉ざされた。
セレーナが解析室で闇魔法を起動した。
カイの短刀が焼灼した接続点の残骸を、アナライズで捉え、分解再構築する。接続の「形」そのものを消し去り、再接続が不可能な構造に書き換える。遠隔操作。指先の震えもなく、呼吸を止めて、セレーナは魔力の最深部に意識を沈めた。
数秒。
接続が——消えた。
リオンの体内で脈打っていた星の聖約の回路が、跡形もなく分解された。かつてモルスの魔力に契約を刻んだ時と同じ技術。しかし今度は刻むのではなく、消す。
蓄積されていたエネルギーが動き始めた。暴発ではない。セレーナが分解再構築で「安全な帰還経路」を設計したからだ。エネルギーはリオンの体を通さず、接続が消えた穴から直接——星へ。
空が、淡く光った。
夜明けの光とは違う。もっと柔らかく、もっと深い光。大気の中を、無数の光の粒子がゆっくりと上昇していく。地面から。木々から。水源から。長い間引き抜かれ続けてきた星の命が、少しずつ、元の場所に還っている。
光の粒子は森の外にも広がっていた。辺境の枯れた農地の上を、灰色だった土壌の上を、涸れた川床の上を。光が通り過ぎた場所で、何かが——まだ微かに、ほとんど見えないほど微かに——脈動を始めていた。死にかけていた大地が、最初の呼吸を取り戻そうとしている。
帝国の防壁の上で、民兵たちがその光を見上げていた。武器を握ったまま、口を開けて、空を見ていた。ダリオの目に、光の粒子が映っていた。彼の隣に立つ若い民兵の頬を、涙が一筋伝った。なぜ泣いているのか、本人にもわからないようだった。ただ——空が、綺麗だった。
森の木々の葉が、微かに揺れた。風ではない。星の命が還ってきた微震。木々が、呼吸を深くした。




