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朝日が森の梢を染めた。
ヴェルナーが、討伐軍の陣営の正面に現れた。一人。黒い鎧。大剣。
見張りが叫んだ。兵士たちが武器を手に取った。聖騎士団の残存部隊が隊列を組む。折れた聖剣の代わりに予備の長剣を手にしたオルトが、先頭に立った。
ヴェルナーは動かなかった。陣営の百メートル手前に立ち、ただ——待っている。一人の男が五百人の軍勢の前に立つ。その異常さが、討伐軍の全注意を引きつけた。
オルトが前に出た。予備の長剣を握り、白銀の鎧の損傷を隠すように肩布を巻いている。折れた聖剣の代用品。光を纏えないただの鉄。それでも先頭に立つのは、師を前にして下がれない男の矜持だった。
聖騎士団の残存部隊が陣形を組む。ヴェルナーを囲むように扇形に展開。弓兵が矢をつがえる。重装歩兵が盾の壁を作る。一人の男に対して百五十人が動いた。
その百五十人が——天幕の護衛から抜けた、ということだ。
天幕の中で、リオンが詠唱を始めようとしていた。ドミニクが傍に立ち、祈りの言葉を導いている。リオンの掌に光が灯る。微かに。まだ起動準備段階。
ドミニクは外の騒ぎに舌打ちした。「たかが一人の脱走者」に兵力の三分の一が割かれている。しかし、あの男がヴェルナーだと知っている。第九話で聖剣を折った男だ。放置すれば士気が壊滅する。仕方がない。
天幕には、ドミニクと三人の近衛兵だけが残った。
リオンの周囲が、薄くなった。
森の中を、影が走った。
カイだった。
気配遮断を限界まで引き上げている。呼吸は一分に四回。心拍は四十以下。体温は外気温に近づけてある。魔力はゼロ。カイは森の一部になっていた。木の幹と同じ温度、落ち葉と同じ質感、風と同じ速度で移動する不在の影。
討伐軍の陣営に入り込む。見張りのいない裏手から。物資の集積所の影を伝い、倒れている負傷兵の列を跨ぎ、天幕の布の隙間から内部を覗く。
リオンの背中が見えた。
三メートル先。金髪。白い衣。膝をついて祈りの姿勢を取っている。掌から微かに光が漏れている。詠唱が始まっている。傍にドミニクが立ち、低い声で祈りの句を唱えている。
セレーナの声が、魔術通信でカイの耳に届いた。
「接続点を確認。右肩甲骨の内側。深さ四センチ。心臓から七センチ。——カイ、位置の微調整をします。あと二センチ上。そこです」
カイは天幕の布を持ち上げ、中に入った。
音はなかった。
リオンの背後三メートル。二メートル。一メートル。
リオンの周囲を、星のエネルギーが渦巻き始めていた。光の粒子が空気中を泳ぎ、温度が上がっている。カイの肌が光の圧力で軋む。しかしカイは魔力を一切使わない。エネルギーの渦は魔力を持つ者を弾くが、「魔力ゼロ」のカイは渦の隙間をすり抜けられる。それが暗殺者の最大の武器になる瞬間。
カイはリオンの背中を見つめた。
近い。
初めて、勇者を至近距離で見た。金色の髪の隙間から覗く耳たぶ。祈りに組まれた指の白さ。衣の襟からわずかに見える首筋。——二十歳の青年の、無防備な背中。
その背中から、カイはリオンの横顔を見た。
目が閉じられている。祈りの表情。穏やかで、善良で、曇りがない。
——空洞だった。
何も自分で決めたことがない人間の顔。誰かに言われた通りに祈り、誰かに教えられた通りに信じ、誰かに用意された言葉を繰り返す。自分の頭で考えた形跡がない横顔。
カイは——その顔を知っていた。
殺し屋ギルドの仕事部屋で、命じられるままに刃を握っていた頃の自分の顔。鏡で見たことはない。しかし、きっとあんな顔をしていた。
カイの右手が短刀を抜いた。
琥珀色に染まった切っ先。一センチの精度で、接続点を穿つ。殺さない。しかし——この男の「全て」を奪う。勇者でなくなったリオンは、何者でもなくなる。
指は震えなかった。
九日前、裏切りの誘惑を退けた時には震えた。名前のない何かが手を止めた。
今は震えない。
しかし——手に、奇妙な重さがあった。刃の重量とは別の重さ。この一突きの意味の重さ。
殺す任務なら、考えることは何もなかった。対象を処理する。それだけ。
しかしこれは「生かす」任務だ。刺して、生かす。奪って、残す。その矛盾が、短刀を持つ手に凝縮されていた。
セレーナの声が届いた。
「カイ。——お願いします」
命令ではなく、対価の提示でもない。計算式を持たない、ただの——祈りのような一言。
カイは踏み込んだ。




