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エルザは天幕に戻り、蝋燭に火を灯した。
記録帳を開き、「最後の奇跡」の試算データを丁寧に書き写した。別の紙に。影響範囲。推定エネルギー量。起動に必要な詠唱時間。発動までのタイムリミット。全てを、セレーナなら読み解ける精度で。
手が震えていた。
筆が紙面に染みを作った。書き直す。また染み。三度目でようやく、文字が形を成した。
これを帝国に届ければ、セレーナは対策を立てられる。起動のタイミングと規模を正確に把握できれば、阻止する方法があるかもしれない。
あるかもしれない。——ないかもしれない。
エルザには、それを判断する能力がなかった。彼女は記録者だ。解析者ではない。データを集め、整理し、保存する。判断は他の誰かが下す。そういう人生を選んできた。いつも。
セレーナなら。
あの女なら、このデータを見て、答えを出す。
学術院の図書室で、二人で論文を読んだ夜のことを思い出した。セレーナは原稿の余白に次々と計算式を書き込み、著者の結論を三行で論破した。エルザは同じ論文を読んで、結論を疑いはしたが、論破する勇気はなかった。いつもそうだった。二人の間にある差は、知性ではなく——手を動かすかどうかだった。
今、手を動かしている。
数年遅れの、最初の一歩。
エルザは書き写した紙を折り、胸元に仕舞った。
天幕を出た。野営地の外縁に向かう。夜闘の巡回路を避け、物資の集積所の裏を抜ける。記録係として野営地の構造を把握しているから、見張りの死角を歩くことは難しくない。
伝令路に紛れ込ませる方法を考えた。しかし討伐軍の伝令は全て検閲されている。直接——誰かに託すしかない。
森の外縁に立った。
暗い木々の隙間に目を凝らす。何も見えない。当然だ。帝国の偵察者は見えないことを仕事にしている。
エルザは紙片を木の根元に置いた。
その上に小石を一つ。風で飛ばないように。
それだけ。
置いて、振り返り、野営地に戻った。紙片が届くかどうかはわからない。誰かが拾うかもしれないし、雨に濡れて読めなくなるかもしれない。
しかし——黙っているだけの自分を、今夜は終わらせた。
遅すぎる勇気。セレーナが追放された日から数年遅れた、臆病者のささやかな反逆。
天幕に戻ったエルザは、蝋燭を吹き消した。闇の中で、記録帳を胸に抱いて横になった。眠れなかった。しかし、初めて——泣いてはいなかった。




