5
帝国の陣地に戻ったヴェルナーは、木の幹に背を預けたまま崩れ落ちた。
モルスが待っていた。
灰色のローブがヴェルナーの傍に滑るように近づき、腕に触れた。壊死した組織の分解が始まる。死んだ細胞を材料にして、新しい細胞を再構築する。外部からのエネルギー注入ではない。ヴェルナー自身の「死んだ部分」を再利用する修復。
自己完結の原則は、治療においても守られている。
ヴェルナーは処置を受けながら何も言わなかった。目を閉じ、荒い呼吸を整えている。
モルスが淡々と作業しながら、一言だけ口にした。
「美しい制約ですね」
ヴェルナーは目を開けなかった。しかし、唇がわずかに動いた。
「……何がだ」
「他者から奪わないという原則。非効率ですが、美しい。私がこの言葉を使うのは、あなたに対してだけです」
ヴェルナーは答えなかった。モルスの言葉が、腕の治療よりも深いところに触れていた。
セレーナが戦果報告に来た。
「ゲリラ戦で討伐軍の進軍を三日遅延させました。敵の損耗率は補給を含めて二割。しかし兵力差は依然として圧倒的です。正面衝突すれば、帝国は持ちません」
ヴェルナーが目を開けた。消耗した体。蒼白の顔。しかし鉄灰色の瞳は、衰えていなかった。
「あの男——リオンは。自分で戦っていなかった」
セレーナの目が鋭くなった。
「軍の中心にいたが、剣を抜いていなかった。指揮もしていない。オルトと側近が全てを動かしている。リオンはただ——いるだけだ」
カイの偵察報告と一致する。勇者は象徴であって戦力ではない。
セレーナが頷いた。
「ええ。あの人は導管です。システムの一部品。——壊すべきは、部品ではなくシステムそのもの」
ヴェルナーが身を起こした。モルスの修復はまだ半ばだったが、上体を起こすことはできた。
「システムを壊す方法はあるのか」
セレーナは——微笑んだ。
紫水晶の瞳に、計算の光がある。闇魔法の研究者が、ようやく自分の仮説を実証する機会を見つけた時の目。
「あります。昨日、オルトの聖剣が折れた瞬間——あなたが光を断ち切った瞬間に、膨大な魔力の逆流が起きました。光のエネルギーが聖剣からオルトへ、オルトから勇者リオンへ、リオンから星の聖約へと逆流した。私はその逆流の経路をアナライズで辿りました。水が引く時に水路の構造が見えるのと同じ原理です」
セレーナの目に、研究者の光が灯っていた。
「逆流を辿った先に、星の聖約とリオンを接続している回路が見えた。リオンの体内にある接続点。あれを切れば、奇跡は止まる。リオンを殺さずに」
ヴェルナーが立ち上がった。モルスが「まだ修復中です」と言ったが、無視された。
「殺さなくていいのか」
「殺せば蓄積されたエネルギーが暴発します。半径二百キロが消し飛ぶ。殺すのは最悪の選択です。接続を切断し、エネルギーを安全に星に還流させる。——それが最も合理的な解法です」
カイが木の上から声を落とした。
「接続を切る。具体的にはどうやる」
「接続点はリオンの体内にあります。位置の特定は私がやる。そこに物理的に到達し、魔力回路を焼灼する。——精密な作業です。最も適任なのは」
セレーナの視線がカイに向いた。
カイの灰緑色の目が、わずかに見開かれた。
「……俺か」
「殺すのではなく、切る。あなたの精密作戦能力なら可能です」
カイは数秒間、黙った。短刀を持つ右手を見た。つい数時間前、裏切りの誘惑を退けた手。羊皮紙を破った手。名前のない何かに震えた手。
その手で、今度は——世界を救う。
いや。「救う」は大げさだ。カイの計算では、この作戦は「帝国の生存確率を最大化する最適解」に過ぎない。
「誤差の許容範囲は」
「一センチ以内」
カイは薄く笑った。
「ギルドの仕事より楽だ」
最凶の作戦会議が、始まった。




