表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『追放された悪役令嬢は、最凶の悪党たちと辺境で【悪の帝国】を建国する』  作者: 冷やし中華はじめました
暗黒騎士の証明

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/72

2

ゲリラ戦の三日目の夜。

カイは討伐軍の陣営の外縁を偵察していた。気配を完全に消し、木の上から地上を見下ろす。いつもの仕事。いつもの呼吸。いつもの——

木の根元に、一人の斥候が立っていた。

カイは即座に警戒した。しかし、この斥候の動きは奇妙だった。周囲を見回しているが、カイを探している様子ではない。むしろ——見つかりたがっている。わざと足音を立て、わざと枝を折り、わざとカイの監視ルート上に立っている。

罠か。

しかし、斥候は一人だった。武器を腰に差してはいるが、手は上げている。片手に、小さな羊皮紙を持っている。

カイは動かなかった。三分間、木の上から斥候を観察した。体格。呼吸の間隔。目の動き。嘘をついている人間に特有の微細な緊張。——見つからなかった。この男は本気で、交渉しに来ている。

カイは枝を軽く揺らした。

斥候が顔を上げた。闇の中に灰緑色の目が二つ。それだけが見える。

「話がある。上の命令だ」

斥候が羊皮紙を差し出した。

カイは枝から降りなかった。代わりに、斥候が羊皮紙を木の根元に置くのを待ち、男が十歩下がったのを確認した。一瞬だけ地面に降り、羊皮紙を掴む。拾い上げた刹那、同じ動作で枝に跳び戻った。地上にいたのは二秒以下。安全な高さまで戻ってから、木漏れの月明かりで素早く目を通した。

内容は単純だった。

「悪の帝国の防衛配置図を提供せよ。対価として、王都における新たな身分と安全な住居を保障する。報酬は金貨五百枚」。

署名はない。しかし文章の格式と用いられた暗号記法から、王国の情報機関——おそらく顧問官ヴィクトルの直轄——からの正式な取引提案であることは明白だった。

カイの思考回路が起動した。

短期的な計算。帝国がこのゲリラ戦に勝てる確率は——高くない。討伐軍は兵力で圧倒している。ゲリラ戦で遅延はできても、最終的に物量で押し潰される可能性がある。この取引を受ければ、カイ個人の生存確率は大幅に上昇する。王都の身分保障。金貨五百枚。新しい人生。

カイは羊皮紙を見つめた。

五秒。十秒。

長期的な計算に切り替えた。

王都は崩壊しつつある。エネルギーの枯渇が加速し、経済は破綻し、インフレが進行している。そこで保障される「身分」に、何年の価値がある。金貨五百枚は、半年後にはパン百個分の購買力しかないかもしれない。

一方、帝国は自給自足の循環経済を構築している。星のエネルギーに依存しないインフラ。持続可能な食料生産。長期的な生存基盤として、帝国は王都よりも遥かに堅牢だ。

結論は明白だった。帝国に残る方が、長期的な生存確率は高い。

完璧な結論だった。

だが、カイは動けなかった。

羊皮紙を破るべきだという結論は出ている。出ているのに、指が動かない。枝の上で、月明かりの中で、カイはただ紙切れを見つめていた。

腹が減れば食える場所。寝る場所がある拠点。槍を教えてくれる男の、無愛想な声。薬草の報告に「お願いします」と返す女の、平坦な声。不気味だが、一度も約束を破らなかった化け物の気配。

それらが計算式のどこに入るのか、カイにはわからなかった。

カイは羊皮紙を破った。

二つに。四つに。八つに。

斥候が目を見開いた。

カイは破片を地面に捨て、斥候の喉元に短刀の切っ先を向けた。月光が刃に一筋の光を走らせた。

「帰って伝えろ。次に来たら殺す」

斥候は走り去った。

一人になった森の中で、カイは自分の右手を見た。

短刀を握ったままの手が、微かに震えていた。

恐怖ではない。カイは恐怖で震えたことがない。

これは——何だ。

名前がわからなかった。わからなかったので、暗殺者は考えるのをやめ、偵察に戻った。手の震えは、三十秒で止まった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ