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ゲリラ戦の三日目の夜。
カイは討伐軍の陣営の外縁を偵察していた。気配を完全に消し、木の上から地上を見下ろす。いつもの仕事。いつもの呼吸。いつもの——
木の根元に、一人の斥候が立っていた。
カイは即座に警戒した。しかし、この斥候の動きは奇妙だった。周囲を見回しているが、カイを探している様子ではない。むしろ——見つかりたがっている。わざと足音を立て、わざと枝を折り、わざとカイの監視ルート上に立っている。
罠か。
しかし、斥候は一人だった。武器を腰に差してはいるが、手は上げている。片手に、小さな羊皮紙を持っている。
カイは動かなかった。三分間、木の上から斥候を観察した。体格。呼吸の間隔。目の動き。嘘をついている人間に特有の微細な緊張。——見つからなかった。この男は本気で、交渉しに来ている。
カイは枝を軽く揺らした。
斥候が顔を上げた。闇の中に灰緑色の目が二つ。それだけが見える。
「話がある。上の命令だ」
斥候が羊皮紙を差し出した。
カイは枝から降りなかった。代わりに、斥候が羊皮紙を木の根元に置くのを待ち、男が十歩下がったのを確認した。一瞬だけ地面に降り、羊皮紙を掴む。拾い上げた刹那、同じ動作で枝に跳び戻った。地上にいたのは二秒以下。安全な高さまで戻ってから、木漏れの月明かりで素早く目を通した。
内容は単純だった。
「悪の帝国の防衛配置図を提供せよ。対価として、王都における新たな身分と安全な住居を保障する。報酬は金貨五百枚」。
署名はない。しかし文章の格式と用いられた暗号記法から、王国の情報機関——おそらく顧問官ヴィクトルの直轄——からの正式な取引提案であることは明白だった。
カイの思考回路が起動した。
短期的な計算。帝国がこのゲリラ戦に勝てる確率は——高くない。討伐軍は兵力で圧倒している。ゲリラ戦で遅延はできても、最終的に物量で押し潰される可能性がある。この取引を受ければ、カイ個人の生存確率は大幅に上昇する。王都の身分保障。金貨五百枚。新しい人生。
カイは羊皮紙を見つめた。
五秒。十秒。
長期的な計算に切り替えた。
王都は崩壊しつつある。エネルギーの枯渇が加速し、経済は破綻し、インフレが進行している。そこで保障される「身分」に、何年の価値がある。金貨五百枚は、半年後にはパン百個分の購買力しかないかもしれない。
一方、帝国は自給自足の循環経済を構築している。星のエネルギーに依存しないインフラ。持続可能な食料生産。長期的な生存基盤として、帝国は王都よりも遥かに堅牢だ。
結論は明白だった。帝国に残る方が、長期的な生存確率は高い。
完璧な結論だった。
だが、カイは動けなかった。
羊皮紙を破るべきだという結論は出ている。出ているのに、指が動かない。枝の上で、月明かりの中で、カイはただ紙切れを見つめていた。
腹が減れば食える場所。寝る場所がある拠点。槍を教えてくれる男の、無愛想な声。薬草の報告に「お願いします」と返す女の、平坦な声。不気味だが、一度も約束を破らなかった化け物の気配。
それらが計算式のどこに入るのか、カイにはわからなかった。
カイは羊皮紙を破った。
二つに。四つに。八つに。
斥候が目を見開いた。
カイは破片を地面に捨て、斥候の喉元に短刀の切っ先を向けた。月光が刃に一筋の光を走らせた。
「帰って伝えろ。次に来たら殺す」
斥候は走り去った。
一人になった森の中で、カイは自分の右手を見た。
短刀を握ったままの手が、微かに震えていた。
恐怖ではない。カイは恐怖で震えたことがない。
これは——何だ。
名前がわからなかった。わからなかったので、暗殺者は考えるのをやめ、偵察に戻った。手の震えは、三十秒で止まった。




