8
その日は、何の前触れもなく来た。
訓練開始から八日目の午後。カイの監視網が、中規模の魔物群の接近を捉えた。影狼六頭と角猪二体。混成群。スタンピードではないが、訓練途上の民兵にとっては初めての実戦だった。
ヴェルナーは前に出なかった。
防壁の後方で腕を組み、見守った。大剣の柄には手をかけていない。万が一の時に備えてはいるが、自分が戦うつもりはない。
防壁の上に、ダリオたちが並んだ。
槍を握る手が震えている。膝が笑っている。隣の男の息づかいが荒い。後ろで子供たちが泣いている。
影狼が森の影から姿を現した。六つの黄色い目が、防壁の上の人間たちを見上げている。
ダリオが叫んだ。
「来るぞ——構えろ!」
ヴェルナーが教えた通り。槍を横に構え、壁の上から叩きつける。突くな。振り回せ。怯ませろ。
最初の影狼が壁に飛びかかった。ダリオの槍が狼の側頭部を打った。手応えがあった。骨が軋む感触が腕に伝わった。影狼は壁から落ち、一瞬だけ怯んだ。
「喉だ!」
隣の男が叫んだ。ダリオは槍を突き下ろした。影狼の喉に穂先が突き刺さった。
一頭目が倒れた。
完璧ではなかった。二頭目が壁を乗り越えかけ、三人がかりで押し戻した。角猪が壁を体当たりし、衝撃で二人が転倒した。左翼から回り込もうとした影狼を、カイが木の上から投じた毒のついた小石が目を潰して阻止した。
三十分の戦闘。怪我人は五人。重傷はなし。死者はゼロ。
魔物は撤退した。
防壁の上で、ダリオは膝をついた。
手が震えている。全身が汗だくで、槍を握っていた掌の皮が裂けて血が滲んでいる。靴職人の手に、戦士の傷が加わった。
しかし——生きている。
息子のトーマが防壁の下から駆け寄ってきた。
「父ちゃん! 父ちゃん、すげえ!」
ダリオはトーマを抱きしめた。血まみれの手で。泥だらけの腕で。
自分の手で、家族を守った。
奇跡ではない。祈りでもない。自分の手と、借り物の槍と、暗黒騎士に教わった構えで。
その夜、ダリオはセレーナの解析室を訪れた。
一人で。
セレーナは図表に向かっていた。新しいデータを書き込んでいる。今日の戦闘記録。敵の数、戦闘時間、負傷者数、使用した武器、消耗した防壁の修繕コスト。全てが冷徹な事実として記録されていく。
ダリオはその背中に声をかけた。
「悪魔でもなんでもいい」
セレーナの手が止まった。
「あんたのルールに従う。俺たちは——自分で立つ」
セレーナは振り返った。
紫水晶の瞳が、ダリオを見た。その目にはまだ感情がない——ように見えた。しかし、口角がわずかに上がった。本当にわずかに。見逃してもおかしくないほど微かに。
しかしその微かな笑みの奥に、マルコの死を知っている目があった。統計的に正しかったという事実と、一人の老人が暗闇で死んだという事実を、両方抱えている目。
「では——この場所に名前をつけましょう」
セレーナは机の上から新しい革紙を一枚取り、図表の書き込みに使っていた墨壺に筆を浸した。紙の最上段に、次のフェーズの設計図の題字を記す。いつもと同じ、淡々とした実務作業の手つきで。
『悪の帝国・基本要綱』。
ダリオは笑った。乾いた笑いだった。
「ひでえ名前だな」
「ええ。しかし正確です。私たちは王国にとっての悪党であり、ここは彼らの正義の外側にある。ならば——胸を張って悪を名乗りましょう」
セレーナはもう題字から視線を外し、その下に制度設計の項目を書き始めていた。名前をつけることは目的ではない。名前の下に載せる制度こそが本体だ。感傷に浸る時間は一秒もない。
その夜、辺境の荒野に、一つの国家が立ち上がった。
奇跡を持たず、光を持たず、勇者を持たない国。
あるのは泥と数字と、自分の足で立つことを選んだ人間たちだけ。
それで十分だった。
——まだ、十分ではない。だが、始まった。




