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六日目の朝。
マルコが死んだ。
六十七歳。元靴職人。王都では同業者としてダリオの工房の隣に店を構えていた老人。妻には先立たれ、子供はいない。難民の中で最も孤立した存在だった。配給が止まってからは、キャンプの隅で一人、毯に包まってうずくまっていることが多かった。
朝の巡回中、カイが防衛ラインの外側に真新しい血痕を見つけた。追跡した先に、マルコが倒れていた。
キャンプの外縁部——防衛ラインが縮小された境界の、五十メートルほど外。マルコが夜中にそこまで歩いた理由はわからない。食料を探しに行ったのか。あるいは、寒さで混乱して方向を見失ったのか。
小型の魔物——影狼と同種のもの——が首筋に噛みついた痕跡があった。即死ではない。出血が止まらず、力尽きたのだろう。一人で。暗闇の中で。
カイが即座にセレーナに報告した。
「死んだのはマルコという爺さんだ。六十七歳。元靴職人。家族はいない。キャンプでは一人で寝ていた」
セレーナは解析室の壁の図表を見た。
四十二人の名前の一覧。マルコの名前は上から三十七番目にあった。カイが初日に報告した全員のリスト。年齢六十七。職業欄には「靴職人(熟練)」と記されている。特記事項:独居、慢性的な腰痛あり。
配給停止のシミュレーションで、セレーナは死者ゼロを想定していた。致死的遭遇の確率は二パーセント以下と算出した。高齢者の夜間外出リスク。小型魔物の出現頻度。防衛ライン外縁部の危険度。全てを数式に組み込み、「統計的にゼロ」と結論した。
二パーセントはゼロではない。
統計的に正しかった。二パーセントの確率が発現しただけだ。百回同じ状況を再現すれば、九十八回はマルコは生きている。しかし、現実は百回のうちの一回ではない。現実は一回しかない。そしてその一回で、マルコは死んだ。
セレーナはその夜、一人で解析室にいた。
モルスが現れた。音もなく。いつものように。
「人間は死にますよ。それは循環です」
慰めではなかった。事実の提示。モルスの世界観では、死は失敗ではなく工程の一つに過ぎない。
セレーナは答えた。
「知っています。しかし——私の計算が、一人の命を失わせたことは事実です」
モルスは沈黙した。人間の感情のメカニズムに、数百年経っても完全には到達できない領域がある。しかし、セレーナの声に含まれている何かが、モルスの中の「かつて人間だった残滓」に触れたのかもしれない。
「……あなたの計算は統計的に正しかった。二パーセントが発現した。それは設計の欠陥ではなく、確率の本質です」
「わかっています」
「しかし、あなたはそれを受け入れていない」
セレーナは黙った。
モルスは正しい。受け入れていない。統計的に正しかったという事実と、マルコが死んだという事実が、頭の中で並立している。どちらも事実だ。どちらも消えない。そして、二つの事実を一つの結論に統合する方法が見つからない。
合理主義の限界。計算できないものは存在しないものとして扱う——その方法論が、ここで初めて破綻している。マルコの死は計算の外にある。しかし確かに存在している。
セレーナは目を閉じ、深く息を吐いた。そして目を開けた。
「精度を上げます」
声が変わっていた。揺らぎが消えていた。
「二パーセントを〇・五パーセントにします。バッファを厚くする。監視の頻度を上げる。高齢者と子供の位置情報をカイの監視網に組み込む。それでもゼロにはできない。しかし——限りなくゼロに近づける」
モルスは黙って聞いていた。そして、小さく頷いた。
「……あなたは、ティリアの王よりも、ましな設計者になるかもしれませんね」
設計者。為政者ではなく。かつてセレーナが訂正した言葉を、モルスは正確に使っていた。
独り言のような声だった。セレーナに向けたものかどうかも、定かではない。
モルスは去った。
セレーナは壁のリストを見た。マルコの名前。六十七歳。靴職人。
この名前を、忘れない。数字の中に溶かさない。統計を改善するための動機としてではなく——一人の人間として、覚えていく。
それが合理的かどうかは、わからなかった。しかし、それ以外にセレーナにできることはなかった。




