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解析室の扉が閉まった瞬間、セレーナの膝が折れかけた。
壁に手をついて、体を支えた。
石が当たった左頬が熱い。血がまだ流れている。痛みは——ある。しかし、それは些細なことだった。
問題は、今の判断の精度。
配給を停止する。それが最も合理的な選択肢だったか。計算を頭の中で再確認する。
武力で鎮圧した場合:短期的には秩序が回復するが、難民の恐怖が不信に変わり、いずれ暗殺や逃亡が頻発する。カイが指摘した通り、「恐怖で支配すると情報が死ぬ」。
要求を受け入れた場合:拠点の崩壊が確定する。計算は明白。
現状維持(何もしない)の場合:ストライキが長引き、生産が止まり、緩やかに全員が飢える。
配給を停止する場合:難民が自力で現実に直面する。飢えと魔物の脅威が、祈りでは解決しないことを「体験」する。その結果として——自発的に制度に戻るか、あるいは森を去るか、二択を自分で選ぶ。
四つの選択肢の中で、配給停止が最も死者が少ない。
——統計的には。
統計の外に、マルコがいないことを、祈るしかない。
セレーナは目を閉じた。祈る。合理主義者が祈るという行為は、矛盾そのものだ。しかしこの瞬間、セレーナの頭の中にあるのは確率と統計と、そして——確率では救えない「一人」の影だった。
扉が開いた。カイだった。
「頬、見せろ」
小さな薬の小袋から粉末を取り出し、傷口に押し当てた。止血と消毒を兼ねた薬草の調合物。暗殺者の毒物技術の、民生利用。
「判断は正しい」
カイは治療しながら、短く言った。
「武力じゃ解決しない。放置しても解決しない。あの連中が自分で気づくしかない」
「……わかっています」
「あんたの計算では、何日持つ」
「食料の残りから見て、七日が限界です。七日以内に戻らなければ——」
セレーナは言葉を切った。
「七日あれば十分だ。飢えは三日で人を変える」
断言だった。推測ではなく、経験則の響きがあった。セレーナはそれ以上訊かなかった。カイも何も付け足さなかった。
「監視は続ける。暴動が武力化したら報告する」
「お願いします」
カイは音もなく去った。
セレーナは一人になった解析室で、壁の図表を見つめた。
四十六人の名前が並んでいる。カイが初日に報告した全員の名前と年齢と経歴。数字ではなく、名前。セレーナは全員の名前を記憶していた。ダリオ。リーネ。トーマ。メイラ。
ダリオは「俺たちの名前すら覚えてないだろう」と叫んだ。
覚えている。全員。
しかし、それを告げるのは非合理的だった。感情を見せれば、交渉の構造が変わる。管理者が民に感情を見せた瞬間、それは「利用できる弱点」になる。
だから名前を覚えていることは、誰にも言わない。
黙って、数字の裏側で、一人ずつの名前を抱えていく。
それが、セレーナ・ヴァルモントの選んだ孤独だった。




