4
翌朝。難民たちは働かなかった。
農地は空だった。建設現場に人影はなかった。採集班は出発せず、防衛訓練にも誰一人現れなかった。
全面ストライキ。
四十二人の難民のうち、二十六人がダリオの呼びかけに応じて労働を拒否した。残りの十六人は——態度を決めかねて居住区に引きこもっているか、あるいは子供や老人で最初から労働に参加していない者たちだった。
ダリオを先頭に、二十六人がセレーナの解析室の前に集まった。
拠点の中心部。防壁の内側。セレーナの解析室は木と土で作られた素朴な建屋だが、壁面に描かれた図表と計算式の群れが、ここが拠点の「頭脳」であることを示している。
ダリオが声を上げた。
「セレーナ・ヴァルモント! 出てこい! 俺たちの要求を聞け!」
セレーナは出てきた。
一人で。
ヴェルナーは防壁の上にいた。腕を組み、事態を見下ろしている。武装はしているが、剣には手をかけていない。セレーナから制止されている——のではなく、これが「政治・経済の判断」に属する事態であり、ヴェルナーの専門領域ではないことを、契約に基づいて理解しているからだ。
ただし。ヴェルナーの目は、群衆の中で最も体格の良い三人の位置を既に特定していた。万が一の場合に最初に制圧すべき対象。軍人の本能は止められない。
カイは——どこにいるかわからない。しかし確実に、この場のどこかにいる。
モルスは研究室から出てきていない。「人間の政治に興味はありますが、当事者として参加する必要性は感じません」と言っていた。合理的といえば合理的だった。
セレーナが難民たちの前に立った。
銀灰色の髪。紫水晶の瞳。感情のない顔。素手。
ダリオが一歩前に出た。
「要求は三つだ。一、税の撤廃。二、労働時間の削減。三、屍役の排除。これが俺たちの総意だ」
セレーナは黙って聞いた。
背後の二十五人が声を合わせる。
「税をなくせ!」「俺たちは家畜じゃない!」「あの化け物を追い出せ!」
怒号が重なり合い、拠点の空気が震えた。二十六人の怒りが、一人の銀髪の女に向けられている。
セレーナは、全ての声が止むまで待った。
沈黙が落ちた時、セレーナは口を開いた。
「一つずつ回答します」
声は低く、平坦で、怒号に一切動じていなかった。
「第一の要求。税の撤廃。現在の三割の税収は、防衛費、食料備蓄、インフラ維持に充てられています。これを撤廃した場合のシミュレーション結果を報告します」
セレーナは数字を述べた。淡々と。
「防衛費がゼロになれば、防壁の補修と武器の製造が停止します。次の魔物の襲撃——過去三週間の頻度から推定して四日以内——で拠点の外壁が決壊する確率は七割。壁が破られれば、居住区に魔物が侵入します。推定死者数、十五人」
群衆が静まった。
「第二の要求。労働時間の削減。現在の労働時間は一日八時間です。これを六時間に短縮した場合、食料生産量が四割低下します。現在の備蓄と消費量から逆算して——二十三日後に全員が飢えます」
静寂が深まった。
「第三の要求。屍役の排除。現在、屍役は伐採、土木、基礎工事の重労働を担当しています。これを全て人間の労働に切り替えた場合、負傷率は現在の三倍になります。過去二週間の作業量から推定して、骨折以上の重傷者が月に四人から五人発生します。治癒魔法はこの拠点にはありません。骨折は自然治癒を待つしかなく、その間は労働力から脱落します」
全ての数字を述べ終えた後、セレーナは一拍だけ間を置いた。
「以上が、あなたたちの要求を全て受け入れた場合のシミュレーションです。四日以内に壁が破られ、二十三日後に全員が飢え、月に五人が重傷を負う。これがあなたたちの望む未来ですか」
沈黙。
数字を突きつけられた難民たちは、反論の言葉を持たなかった。しかし——怒りは消えていなかった。むしろ、「正しいことを言われた」ことへの屈辱が、怒りに新たな燃料を注いでいた。
ダリオが叫んだ。
「数字で人を語るな!」
それは理屈ではなかった。論破できない正論への、魂の拒絶だった。
「俺たちは数字じゃない! 勇者様はこんな冷たい言い方はしなかった! 勇者様は——勇者様は、いつも笑って、俺たちを救ってくれた!」
「そうだ!」「勇者様を呼べ!」「祈ろう、祈れば奇跡が来る!」
群衆の怒りが再び燃え上がった。論理は正しい。しかし正しさは、怒りを鎮めない。人間は合理だけでは動かない。
石が飛んだ。
誰が投げたのか、群衆の中からは特定できなかった。拳大の石が弧を描き、セレーナの左頬を掠めた。
鮮血が一筋、白い肌を伝った。
防壁の上で、ヴェルナーの大剣の柄がミシリと鳴った。半歩——黒いブーツが踏み出しかけた。しかしセレーナの左手が上がった。制止の合図。たったそれだけで、ヴェルナーのブーツは縫い止められる。不愉快そうに舌打ちを一つ落とし、男はゆっくりと柄から手を離した。
セレーナは血を拭わなかった。
左頬から顎へ、鮮血が一筋滑り落ちる。しかし紫水晶の瞳は瞬き一つせず、呼吸の速度すら変わらなかった。群衆の熱狂を冷水で満たすような、あまりにも静かな声が響いた。
「わかりました」
群衆が一瞬、息を呑んだ。
「あなたたちの意思を尊重します」
何かが変わった。セレーナの声のトーンが変わったのではない。内容が変わった。
「明日から、配給を停止します」
沈黙。
意味を理解するのに、数秒かかった。
「は——」
「私たちの食料を、私たちの制度を、私たちの屍役を、あなたたちは拒絶しました。その意思を尊重します。明日から、あなたたちへの配給、防衛支援、インフラの共有を停止します。あなたたちは自由です。自由に、自分たちの力で生きてください」
ダリオの顔から血の気が引いた。
「待て——待ってくれ。それは——」
「あなたたちが要求したことの、論理的帰結です。税を払わないなら、拠点のサービスは受けられない。労働しないなら、食料は生産されない。屍役を使わないなら、重労働は全て自分たちで行う。私は何も奪っていません。あなたたちが手放したのです」
群衆は凍りついていた。
怒りが、恐怖に変わる瞬間だった。
セレーナは踵を返し、解析室に戻った。
扉が閉まる音が、広場に響いた。
石のように動けなくなった群衆の頭上で、ヴェルナーが防壁の上から見下ろしていた。大剣の柄から手は離していた。もう、武力で制圧する必要はなかった。
セレーナの言葉が、暴力よりも確実に、群衆を貫いていた。




