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第9話 役割を売られた少女


 俺たちを待つ物語は、もうどの本にも記されていない。


 ――王都を出たとき、俺は確かにそう思っていた。


 あれから、二十一日。


「レオン。金がないぞ」


 街道沿いの安宿。


 卓上に並べた銅貨を見下ろしながら、ノアが厳かに宣告した。


 全部で十三枚。


 昨夜の宿代は既に払ってあるが、今夜も泊まるなら十枚が消える。


 残る三枚では、まともな夕食すら食べられない。


「見れば分かる」


「では、どうする?」


「必要になったら奪う」


「そう言って王都を出たな」


「ああ」


「実際に必要になったぞ」


「……働くか」


「悪役らしくない答えだ」


「うるさい」


「誰かから仕事を与えられなければ生きていけぬとは、お前もまだ人間らしいな」


「働かずに百年間眠っていた奴には言われたくない」


「封印されていたのだ!」


 俺の正面に座っているノアは、王都を出たときより実体を取り戻している。


 もっとも、完全とは言い難い。


 長い銀髪も、白い肌も、深紅の瞳も、見た目だけなら以前と変わらない。


 だが、窓から差し込む朝日が、その身体を薄く透過していた。


 椅子に座っているように見えて、実際には僅かに浮いている。


 力を抜けば床をすり抜けるためだ。


 物へ触れられる時間も短い。


 ノアが銅貨へ指を伸ばすと、その指先は硬貨をすり抜け、卓上へ沈んだ。


「……む」


「まだ掴めないか」


「今の妾は本来の力を失っておるだけだ。完全に復活した暁には、覚えておれ」


「そのためにも金が必要だ」


 銅貨を革袋へ戻す。


 王都を出てから、既に三つの街を回った。


 目的は二つ。


 ノアの失われた魔力と肉体を取り戻す方法を探すこと。


 そして、俺の中にある二つの心臓と、人間ではなくなった右腕について知る者を見つけること。


 どちらも、今のところ成果はない。


 魔王に関する文献は教会によって禁書に指定され、各地の聖堂へ封印されている。


 それを閲覧するには、金か身分が必要だった。


 公爵位と領地を受け取っていれば、苦労はしなかったかもしれない。


 だからといって、後悔はない。


 俺を処刑した王国から与えられた地位など、首輪と変わらない。


「妾を戻す方法など、探す必要はないぞ」


 ノアが窓辺へ移動する。


 歩いてはいない。


 足先が床から僅かに浮いたまま、音もなく横へ滑っていく。


 本人は優雅に歩いているつもりらしい。


「誰がお前のためだと言った」


「では、何のためだ?」


「夜中に心臓から文句を言われると眠れない」


「妾が実体を取り戻せば、もっと近くで文句を言えるな」


「やっぱり戻さなくていいか」


「貴様!」


 ノアが頬を膨らませる。


 百年前に世界を恐怖させた魔王の姿には見えない。


 そのとき、扉が叩かれた。


「お客様。朝食をお持ちしました」


 宿の娘がパンとスープを運び、卓上へ置いた。


 宿泊料金に含まれている朝食は、一人分だけだった。


 ノアが眉を寄せる。


「娘。妾の分は?」


「え?」


 娘はノアの立つ窓辺を見た。


 正確には、その向こうを見た。


「ほかにも、お連れ様がいらっしゃるのですか?」


 ノアの表情から感情が消える。


 輪郭が薄くなっているせいで、魔力を持たない者には姿が見えないことがある。


「いや。何でもない」


「そうですか?」


「ああ。一人分でいい」


 娘が扉を閉めるまで、ノアは何も言わなかった。


「食べるか?」


「いらぬ」


「味くらいは分かるんだろ」


「人間の粗末な食事など、妾の口には合わぬ」


 そう言いながら、スープを見つめている。


 木匙を差し出す。


「持てぬと言っておるだろう」


「口は動くな?」


 スープを掬い、ノアの前へ差し出す。


「……妾は魔王だぞ」


「知ってる」


「子供ではない」


「見た目は子供だ」


「違う。これは魔力を節約するための姿で――」


「いらないなら俺が食う」


「誰もいらぬとは言っておらぬ!」


 ノアが木匙へ食いついた。


 触れられるものと触れられないものの違いは、本人にも制御できていないらしい。


 スープを飲み込み、僅かに目を細める。


「どうだ?」


「薄い」


「もういらないか」


「次はもう少し多く掬え」


「魔王の威厳はどこへ行った?」


「腹が満たされたあとで取り戻す」


 もう一度、木匙をスープへ沈める。


 そのとき。


 宿の外から、何かが割れる音が響いた。


 続いて、男の怒声。


「捕まえろ!」


「裏へ回れ! 脚を折っても構わん!」


 ノアと視線を交わす。


「朝から騒がしいな」


「放っておけ」


「意外だな。見に行くと言うかと思った」


「妾は食事中だ」


「食わせてるのは俺だが」


 椅子から立ち上がる。


 窓の外を覗く。


 宿の裏手にある細い路地。


 麻袋を積んだ荷車の陰を、小さな人影が走り抜けた。


 年の頃は十八前後だろう。


 汚れた亜麻色の髪に、あどけなさの残る顔立ち。背は低く、手足も細いため、実際の年齢より幼く見える。


 ただ、華奢な体つきに反して、粗末な服の胸元だけは豊かに膨らんでいた。


 何度も体勢を崩しかけながら、それでも少女は裸足の足を止めなかった。


 足首には鉄の輪が嵌められ、千切れた鎖を引きずっている。


 少女の背後を、革鎧姿の男たちが追っていた。


「逃がすな!」


「商品に傷をつけるなよ!」


 先頭の男が、少女へ向けて鞭を振るう。


 革紐が背中を打った。


 少女が石畳へ倒れる。


 追いついた男が、その髪を掴んで引き起こした。


「手間をかけさせやがって」


「離して……!」


 少女は振り返ると、髪を掴んでいる男の手へ噛みついた。


「ぐあっ!」


「私は……商品じゃない……!」


 頬を殴られる。


 小柄な身体が石畳へ転がった。


 それでも少女は立ち上がろうとした。


 細い腕を震わせ、何度倒されても地面へ手をつく。


 その目だけは、まだ死んでいなかった。


「この……商品風情が!」


「私は、リィナ……!」


 少女は血の滲む唇を動かす。


「ちゃんと、名前がある……!」


 男がリィナの腹を蹴り上げた。


 身体が折れ、口から息が漏れる。


 それでも男を睨むことだけはやめなかった。


「お前の役目は買い手へ従うことだ。余計なことを考えるな」


「いや……」


「命令されたとおりに生きて、命令されたとおりに死ね。それが奴隷だ」


「いや……!」


 少女の首には、鉄製の首輪。


 奴隷商の紋章が刻まれている。


 珍しいものではない。


 王国でも奴隷売買は認められている。


 借金を返せなかった者。


 戦争で故郷を失った者。


 犯罪者として身分を剥奪された者。


 理由はいくらでもある。


 俺が介入する義理はない。


 ――本来なら。


「レオン」


 ノアの声から、先ほどまでの軽さが消えた。


「あの娘を見ろ」


「ああ」


 少女の右肩。


 破れた服の下に、黒い文字が浮かんでいる。


 刺青ではない。


 《原典聖書》によって人間を役割へ変えた、ユリウスの文字と同じもの。


 少女が抵抗するたび、文章は生き物のように皮膚の上を這い回っていた。


『奴隷は主人へ忠誠を誓う』


『奴隷は主人を庇い、その命を捧げる』


『その死によって、英雄は新たな力へ目覚める』


 胸の奥で、魔王の心臓が強く脈打った。


 見間違えるはずがない。


「《原典聖書》は消滅したはずだ」


「そのはずだ」


「では、あれは何だ?」


「確かめる」


 窓枠へ足をかける。


「待て。ここは二階だぞ」


「ちょうどいい」


「何がだ?」


「近道だ」


 窓から飛び降りた。


 石畳へ着地する。


 宿の壁を透過して降りてきたノアが、隣に浮かんだ。


「もっと穏便に出られぬのか」


「急いでた」


「扉を使っても数秒しか変わらぬぞ」


「階段を戻るのが面倒だった」


「そのような理由で二階から飛び降りるな!」


「お前は壁をすり抜けただろ」


「妾と一緒にするでない!」


 少女の髪を掴んでいた男が、こちらを見る。


「ああ? 何だ、お前は」


「その女を放せ」


「こいつは商品だ。部外者が口を出すな」


「その商品はいくらだ?」


 男が俺の身なりを確認する。


 旅で汚れた黒い外套。


 剣すら持っていない。


 金を持っているようには見えないだろう。


「金貨二十枚だ」


「高いな」


「珍しい魔術適性がある。貴族様から予約も入っている上物だ」


「そうか」


 革袋を投げる。


 男が受け取り、中を覗いた。


 十三枚の銅貨が転がり落ちる。


「……ふざけてるのか?」


「全財産だ」


「金貨二十枚と言ったんだ!」


「交渉決裂だな」


 右腕を覆う外套を外す。


 黒い鱗が朝日を受け、鈍く輝いた。


 男たちの顔色が変わる。


「ま、魔族……?」


「半分くらいはな」


「殺せ!」


 三人が同時に武器を抜く。


 一人目が剣を振り下ろす。


 半歩だけ横へ動き、刃をかわす。


 黒い右手で男の顔面を掴み、地面へ叩きつけた。


 石畳が砕ける。


 二人目の槍を右腕で受け止める。


 穂先が鱗へ弾かれた。


「な――」


 槍を掴み、引き寄せる。


 近づいた男の腹へ膝を叩き込み、そのまま背後の壁まで蹴り飛ばした。


 三人目は戦わなかった。


 リィナを盾にし、短剣をその首へ突きつける。


「動くな!」


 リィナの身体が震える。


「武器を捨てろ! こいつを殺すぞ!」


「持ってない」


「右腕を下ろせ!」


「嫌だ」


「本当に殺すぞ!」


「やってみろ」


 男の表情が引きつる。


 短剣を持つ手に力が入った。


 切っ先がリィナの首へ食い込み、赤い血が流れる。


「レオン」


「ああ」


 俺にも見えている。


 リィナの身体へ刻まれた文字が、強く輝いていた。


『奴隷は主人を庇い、その命を捧げる』


 リィナの意思とは無関係に、身体が動き始める。


 男を庇うように、俺の前へ立とうとしている。


「いや……」


 リィナが、自分の脚を押さえる。


「違う……私は……こんなこと……」


「逆らうな!」


 男が首輪から伸びる鎖を引く。


「お前は奴隷だ! 命令されたとおりに死ね!」


 文字がリィナの首まで這い上がる。


 役割が、意思を塗り潰そうとしている。


 ユリウスは死んだ。


 《原典聖書》も破壊した。


 それでも、同じものがここにある。


「そういうことか」


 俺はリィナへ向かって歩き出した。


「止まれ!」


 男が叫ぶ。


「命令されたとおりに死ね、か」


 一歩。


 リィナの瞳が俺を見る。


「随分と懐かしい台詞だ」


 二歩。


 男が短剣を引いた。


 リィナの首を切り裂くために。


 黒い炎を右腕へ纏う。


 踏み込む。


 男が腕を振るより早く、その手首を掴んだ。


「ぎゃああああっ!」


 骨を砕く。


 落ちた短剣を左手で受け止め、そのまま首輪へ突き立てた。


 金属が弾ける。


 リィナを縛っていた鎖が、石畳へ落ちた。


「な……」


 奴隷商の男が後退する。


「首輪を壊した……?」


「次はお前の首にするか?」


「ひっ……!」


 男は仲間を置き去りにして逃げ出した。


 追う必要はない。


 足元に座り込んだリィナを見る。


 リィナは自由になった首へ触れながら、呆然としていた。


「立てるか」


 左手を差し出す。


 リィナは手を伸ばしかけ、途中で止めた。


「どうして……」


「何がだ」


「どうして、私を助けたんですか」


「目障りだった」


「え……?」


「お前に書かれているものがな」


 リィナの肩へ視線を向ける。


 黒い文章は消えていない。


 むしろ先ほどより濃くなっている。


『悪役は物語へ介入してはならない』


 新たな文章が、リィナの皮膚へ出現する。


『奴隷は定められた主人のもとへ戻る』


『筋書きから外れた者には、死による修正を与える』


 文字がリィナの身体から溢れ、黒い鎖へ変わる。


 鎖の先端が宙を裂き、俺の胸へ伸びてきた。


 右腕で掴む。


 触れた瞬間、頭の中へ声が響いた。


『第二の物語への干渉を確認』


『悪役個体、レオン・アルヴァレス』


『あなたに、この物語への介入権限は存在しない』


「また本か」


『与えられた役割へ従いなさい』


「断る」


 黒い炎を鎖へ流し込む。


 文字が悲鳴のような音を上げた。


『警告』


『これ以上の脚本拒絶は、物語全体への反逆と認定されます』


「勝手にしろ」


 鎖を握り潰す。


 炎が文章を逆流し、リィナの肩まで駆け抜けた。


 しかし、文字は燃え尽きなかった。


 表面だけが崩れ、その奥から新しい文章が現れる。


『奴隷は英雄の所有物である』


『悪役に、その所有権は認められない』


 所有権。


 役割。


 正しい主人。


 最後まで、人間を人間として扱うつもりはないらしい。


「おい」


 リィナの前へ膝をつく。


「家族は?」


 リィナが首を横へ振る。


「帰る場所は?」


 もう一度、首を振る。


「これからどうしたい」


「分かりません……」


「そうか」


 答えられないのも当然だ。


 自分の意思を持つことさえ、許されてこなかったのだろう。


「なら、決めるまで俺についてこい」


「あなたに……?」


「ああ」


「私を、買うんですか」


「金がない」


「では、何をすれば……」


「何もしなくていい」


 リィナが理解できないという顔をする。


「そんなことはありません。奴隷は主人のために働いて、命令されたら、何でも――」


「奴隷の役割なんて知るか」


 リィナの言葉を遮る。


「死ぬための役しか与えられていないなら、そんな役は捨てろ」


 肩へ浮かぶ文章を指差す。


「だが、こいつはお前を元の筋書きへ戻そうとする」


「逃げられないんです。どこへ行っても、私は……」


「なら、そいつより厄介な相手に奪われればいい」


「え……?」


 リィナの左手を掴む。


 細い指。


 傷だらけの手。


 それでも確かな温度がある。


「今日から、お前の主人は俺だ」


 リィナが目を見開いた。


 胸の奥で、二つの心臓が重なる。


 右腕の黒い鱗から、《葬命反転》の炎が溢れ出す。


「お前に死ねと命じる奴がいるなら、俺が殺す」


「どうして……そこまで……」


「気に入らないからだ」


「それだけで?」


「俺が動く理由は、俺が決める」


 リィナの手を引き、立ち上がらせる。


 その瞬間。


 少女の肩に刻まれた文章が、内側から裂けた。


『奴隷は英雄の所有物である』


 その一文へ、黒い線が走る。


『所有者――未定』


 文字が激しく明滅する。


『修正』


『所有者――レオン・アルヴァレス』


 ノアが俺の隣へ降り立つ。


「お前、また随分と面倒なものを拾ったな」


「捨ててくるか?」


「それを妾に聞くのか?」


「一応な」


 ノアはリィナを見る。


 深紅の瞳へ、魔王の光が戻っていた。


「娘」


「は、はい……」


「妾たちと来れば、以前より酷い目に遭うかもしれぬ」


「……はい」


「追われるぞ」


「はい」


「人間でいられなくなる可能性もある」


 ノアの視線が、俺の右腕へ向く。


「それでも来るか?」


 リィナは迷った。


 当然だ。


 出会ったばかりの男と、半透明の魔王。


 信用できる要素など一つもない。


 だが、リィナは俺と繋いだ手を見つめたあと、小さく握り返した。


「行きます」


「理由を聞いてもよいか?」


「この人の手が……温かかったから」


「趣味が悪いな」


「おい」


「だが、悪くない答えだ」


 ノアが笑う。


「妾はノア。偉大なる魔王だ」


「魔王……?」


「信じられぬか?」


「少し、透けています」


 ノアの笑みが固まった。


「レオン」


「何だ」


「この娘を返してこい」


「今さら遅い」


「妾への敬意が足りぬ!」


「私は、物ではありません」


 リィナが小さな声で抗議した。


 ノアが満足そうに頷く。


「訂正できるなら上出来だ。今後もこやつが間違えたら、遠慮なく言え」


「お前はどっちの味方だ?」


「強いて言えば、妾自身の味方だ」


「役に立たない魔王だ」


「八度目!」


 ノアが即座に言い返す。


「……本当に数えていたのか」


「言ったであろう。妾は忘れぬ」


「妙なところで執念深いな」


「九度目に数えてもよいぞ?」


「今のは役立たずとは言ってない」


「似たようなものだ!」


 リィナが、僅かに笑った。


 泣き腫らした目。


 泥と傷に覆われた顔。


 それでも初めて、自分の意思で浮かべた表情だった。


 ――直後。


 空中へ、黒い頁が現れた。


 俺たちの頭上。


 何もない空間から滲み出すように、一枚の紙が落ちてくる。


 右手で掴む。


「レオン、待て!」


 ノアの制止は間に合わなかった。


 頁へ触れた瞬間、世界から音が消えた。


 宿の前を行き交う人々。


 遠くで荷車を引く馬。


 地面へ倒れた男たち。


 すべての動きが停止する。


 動けるのは俺だけ。


 手の中にある頁へ、文字が浮かび上がる。


『第二の物語への介入を確認』


『奴隷役の所有者が変更されました』


『第一の物語における脚本拒絶』


『語り手、ユリウス・アルカディアの消滅』


『以上の事象を参照』


『悪役個体レオン・アルヴァレスを、第二の物語における主要登場人物へ指定します』


 紙面を黒い炎で燃やそうとする。


 だが、炎は頁へ触れる直前で静止した。


 少なくとも、今の黒炎では届かない。


 《原典聖書》とは異なる法則が、この一枚を守っている。


 さらに文字が続く。


『既存の役割――悪役貴族』


『再定義を開始』


『死を奪う者』


『役割を奪う者』


『物語を奪う者』


 三つの文章が重なり、一つの名へ変わる。


『新規配役――簒奪王』


 文字が消えた。


 止まっていた世界が動き出す。


 紙は俺の手の中で燃え上がり、灰すら残さず消滅した。


「レオン?」


 ノアが俺を見る。


「何が書いてあった?」


「俺に新しい役をくれるらしい」


「何だ?」


「簒奪王」


 一瞬の沈黙。


 ノアは、心底呆れたようにため息をついた。


「似合っているではないか」


「いらない」


「既に一人、奪った直後だぞ」


「こいつは拾った」


「私は物ではありません」


 リィナが再び抗議した。


「だそうだぞ」


「お前が言わせたんだろ」


「妾は正しい教育を施しただけだ」


 騒ぐノアを横目に、空を見上げる。


 第二の物語。


 次なる語り手。


 あの本は、ユリウスの死で終わったわけではなかった。


 俺たちが筋書きを抜け出したのなら、新しい筋書きを用意する。


 それが何者の意思かは分からない。


「面白い」


 自然と、笑みが浮かんだ。


 俺をもう一度、物語の中へ閉じ込めるつもりなら。


 今度は、その物語ごと奪ってやる。


     ◇


 同刻。


 遥か西方。


 地図に名を記されていない、滅びた王国の地下。


 無数の書架が並ぶ暗闇の中で、一人の女が本を開いていた。


 顔の上半分を覆う、白い仮面。


 腰まで流れる漆黒の髪。


 華奢な身体を包む、喪服のような黒衣。


 開かれた本には、国境都市を歩く三人の姿が描かれている。


 黒い右腕を持つ男。


 半透明の魔王。


 首輪を失った奴隷少女。


 女は頁へ指を這わせる。


「ようやく見つけた」


 仮面の奥で、細い唇が笑みを形作る。


「原典へ逆らい、語り手を殺し、与えられた役割さえ奪う男」


 女の背後。


 巨大な壁には、既に滅びた王国の紋章が刻まれている。


 折れた王冠。


 翼を奪われた黒鳥。


 その周囲を埋め尽くす、無数の処刑者の名前。


「私の国を滅ぼした物語を――」


 女は本の中にいるレオンへ手を伸ばす。


「今度は、あなたが滅ぼして」


 新たな頁がめくられる。


 誰も触れていないはずの白紙へ、黒い文字が浮かび上がった。


『第二の物語』


『簒奪王と、亡国の王女』


 女はその題名を見つめ、静かに告げた。


「歓迎するわ、レオン・アルヴァレス」


 地下書庫に、鐘の音が響く。


「私の復讐劇へ」

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