第10話 仮面の王女
「ところで、レオン」
「何だ」
「銅貨を拾え」
ノアが石畳を指差した。
奴隷商へ投げつけた革袋。
そこから飛び出した十三枚の銅貨が、周囲へ散らばっている。
「今する話か?」
「全財産だぞ」
「分かってる」
「ならば拾え。今夜の宿代すらないのだ」
黒い頁が消えた空を見上げる。
第二の物語。
簒奪王。
次なる語り手。
考えるべきことは幾つもある。
だが、金がないのも事実だった。
屈んで、足元に落ちた銅貨を拾う。
隣では、リィナも慌てて石畳へ手を伸ばしていた。
「私も手伝います」
「拾ったら、そのまま持って逃げてもいいぞ」
「逃げません」
「即答か」
「はい」
リィナが両手で銅貨を差し出す。
十三枚。
一枚も欠けていない。
「私は、レオン様についていくと決めましたから」
「様はいらない」
「ですが、ご主人様を呼び捨てにはできません」
「ご主人様もやめろ」
「では、ご主人様ではなく、レオン様とお呼びします」
「何も解決していないぞ」
「申し訳ありません、ご主人様」
「わざとか?」
リィナは真剣な表情をしている。
少なくとも、からかっているつもりはなさそうだ。
「諦めろ、レオン」
ノアが腕を組む。
「この娘にとって、お前は既に主人なのだ」
「役割を捨てろと言ったはずだ」
「長年染みついたものが、一日で消えると思うか?」
「面倒だな」
「お前が拾ったのだ。責任を持て」
「私は物ではありません」
「分かっておる。言葉の綾だ」
先ほどまで怯えていたリィナが、ノアには少しずつ言い返せるようになっている。
リィナの肩に刻まれていた黒い文字は消えた。
正確には、皮膚の奥へ沈んで見えなくなっただけだ。
俺が《所有者》として記されたことで、一時的に活動を止めているらしい。
首輪を壊しても、役割までは消えない。
「こいつらは、どうする?」
地面に倒れている奴隷商たちを見る。
二人は気を失い、最後の一人は仲間を置いて逃げた。
「財布を奪え」
ノアが即答した。
「魔王らしい答えだな」
「必要になったら奪うのであろう?」
「俺が言ったことだ」
「ならば実行しろ」
「……確かに」
倒れている男の懐を探る。
銀貨三十七枚。
金貨が二枚。
俺たちが持っていた銅貨十三枚より、遥かに多い。
「随分持ってるな」
「リィナを売れば、金貨二十枚だったのであろう?」
「そうらしい」
「では、前金かもしれぬな」
リィナの肩が僅かに震えた。
自分を買おうとしていた人間がいる。
役割の文章には、『奴隷は英雄の所有物である』と書かれていた。
「買い手に心当たりはあるか?」
「ありません」
「どこへ連れていかれる予定だった?」
「西です」
リィナが街道の先を見る。
「馬車の中で、男たちが話していました。西の国境を越えて、滅びた王国へ向かうと」
「滅びた王国?」
「名前までは……」
「十分だ。まずは戻るぞ」
「どこへですか?」
「宿だ」
「ですが、朝食の途中では……」
「だから戻る」
ノアが満足そうに頷く。
「賢明だ。妾のスープが冷めてしまう」
「まだ食うのか」
「朝食は一日の基礎だぞ」
「食べさせるのは俺だが」
「新しい従者がいるではないか」
ノアがリィナを見る。
リィナの顔が明るくなった。
「私がお手伝いします!」
「お前まで乗るな」
◇
宿へ戻る前に、露店でリィナの服を買った。
奴隷商から奪った金だ。
元々リィナを売って得るはずだった金なのだから、本人へ使っても問題はない。
問題があるとすれば、それは既製品の大きさだった。
「苦しくないか?」
「だ、大丈夫です」
宿の娘から浴室を借り、泥と血を洗い流したリィナが、部屋の前で服の胸元を押さえている。
淡い茶色のワンピース。
背丈には合っている。
だが、小柄な体格に合わせて選んだため、胸元だけが少し窮屈そうだった。
「別のものへ替えるか?」
「もったいないです。こんなに綺麗な服、初めてなので」
汚れを落とした亜麻色の髪が、柔らかく肩へ落ちている。
あどけなさの残る顔立ち。
首輪の消えた細い首。
頬や腕には、まだ幾つもの傷が残っていた。
それでも、路地裏で倒れていたときより表情は明るい。
「似合っておるぞ」
ノアが言った。
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも、先ほどの布切れよりはよい」
「ありがとうございます、ノア様」
「様は不要だ」
「ですが、魔王様なのでしょう?」
「……それもそうだな」
「お前も大概だな」
「妾は実際に偉大だからよいのだ」
リィナが室内へ入る。
すると、一直線に俺の前へ来て、床へ膝をついた。
「何をしてる」
「靴をお脱がせします」
「自分でできる」
「では、外套を」
「必要ない」
「朝食のお片づけを」
「宿の娘がする」
「それでは、お身体をお洗いします」
「自分で洗える」
「お背中を流します」
「いらない」
「ですが私は、ご主人様のお世話をするために――」
「リィナ」
名前を呼ぶ。
リィナの身体が強張った。
怒られると思ったのだろう。
「お前を拾ったのは、俺の世話をさせるためじゃない」
「では、私は何をすればいいのでしょう」
「知らない」
「え……?」
「自分で決めろ」
リィナが困ったように視線を伏せる。
「自分で決めると言われても……私には、何ができるのか……」
「なら、見つけろ」
「見つかるまで、ここにいてもよいのですか?」
「ああ」
「何もできなくても?」
「同じことを何度も言わせるな」
リィナが唇を噛む。
泣くのを堪えているようにも見えた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それでは、何をお返しすれば?」
「何もいらない」
「ですが――」
「どうしても何かしたいなら、俺が間違えたときに言え」
リィナが顔を上げる。
「私が……レオン様の間違いを?」
「ああ」
「怒りませんか?」
「内容による」
「理不尽だな」
ノアが呟く。
「黙れ」
「早速だ、リィナ。今の態度を注意してやれ」
「えっと……」
リィナが俺とノアを交互に見る。
少しだけ迷ったあと、おそるおそる口を開いた。
「女性には、もう少し優しくした方がよいと思います」
「ほう」
ノアが満足そうに頷く。
「見込みがあるではないか」
「お前の味方が増えただけだろ」
「ご、ごめんなさい」
「謝るな。言えと言ったのは俺だ」
リィナは目を瞬かせた。
やがて、ほんの僅かに笑う。
「はい」
初めて、怯えの混じっていない笑顔だった。
◇
日が落ちる頃。
「私は床で眠ります」
リィナが当然のように言った。
宿の部屋には寝台が二つある。
一つは俺。
もう一つはノアのために借りたものだが、今のノアは眠るとき、俺の心臓へ戻る。
つまり、一台余っている。
「寝台を使え」
「ですが、奴隷が主人と同じ高さで眠るわけにはいきません」
「奴隷の役割は捨てろと言った」
「それでも私は、レオン様に所有されています」
「文字が勝手にそう記しただけだ」
「でしたら……」
リィナが胸の前で両手を握る。
「レオン様と同じ寝台で眠ります」
「なぜそうなる」
「奴隷は、夜も主人のお世話をするものだと教えられました」
「誰にだ」
「奴隷商の方々に」
「忘れろ」
「でも、私のような奴隷を買う方は、それが目的だと……」
リィナの声が小さくなる。
自分が何を求められていたのかは、理解しているらしい。
両肩が震えている。
怖いのだろう。
それでも役割を果たさなければ捨てられると思い込み、必死に申し出ている。
「リィナ」
「はい」
「寝ろ」
「ど、どちらで?」
「あっちの寝台だ」
「ですが――」
「命令だ」
リィナが言葉を止めた。
「何もしなくていい。今夜は眠れ」
「……はい」
余っている寝台へ近づく。
だが、すぐには横にならない。
綺麗な敷布を汚すのが怖いように、端へ手を触れている。
「本当に、使ってもいいのですか?」
「俺の所有物を粗末に扱う趣味はない」
「所有物……」
なぜか、リィナの頬が赤くなった。
言い方を間違えたか。
「レオン」
ノアの声が、俺の胸から聞こえる。
「何だ」
『妾の寝台だぞ』
「お前は使わないだろ」
『だからといって、勝手に女へ与えるな』
「眠る場所が必要だ」
『お前の隣でよかろう』
「さっき俺が断った」
『妾が許可する』
「何の権限だ」
『正妻の権限だ』
「誰が正妻だ」
『心臓を共有しているのだぞ。これ以上の関係があるか』
「勝手に話を進めるな」
「あの……」
リィナが寝台から俺を見る。
「ノア様は、どちらに?」
「俺の中だ」
「中……?」
「心臓にいる」
リィナの顔がさらに赤くなった。
「それは、とても深い関係なのですね」
『分かればよい』
「誤解を招く言い方をするな」
『事実であろう』
ため息をつく。
どうして寝るだけで、これほど疲れなければならない。
「リィナ。さっさと寝ろ」
「はい。おやすみなさいませ、ご主人様」
「だから、その呼び方を――」
既にリィナは敷布へ潜り込んでいた。
目を閉じた顔には、僅かな笑みが残っている。
『嬉しそうではないか』
「そうだな」
『妾という女がありながら、別の女を寝室へ連れ込むとは』
「黙って寝ろ」
『妾はお前の心臓で眠るのだが?』
「出ていけ」
『死ぬぞ』
「……寝ろ」
ノアの笑い声が、胸の奥で響いた。
◇
深夜。
「レオン様」
声に目を覚ます。
寝台の脇に、リィナが立っていた。
「どうした」
「眠れなくて……」
「同じ部屋に俺がいるからか?」
「違います」
リィナが首を横へ振る。
「こんなに柔らかい場所で眠ったことがないので、目を閉じると怖くなるんです」
「怖い?」
「目が覚めたら、全部なくなっているような気がして」
服も。
寝台も。
自由も。
すべてが夢で、再び首輪を嵌められるのではないかと思っている。
「ここへ座れ」
寝台の端を示す。
リィナがおそるおそる腰を下ろした。
「手を」
「はい」
左手を差し出す。
リィナの細い指が、俺の手を握る。
「眠るまで、こうしていてやる」
「よいのですか?」
「一度しか言わないぞ」
「……ありがとうございます」
握る力が僅かに強くなる。
その瞬間。
リィナの瞳に、黒い文字が浮かび上がった。
「え……?」
「どうした」
「レオン様の中に……文字が……」
リィナの身体が震える。
「見えるのか?」
「はい」
俺の手を握ったまま、リィナが読み上げる。
「『処刑される悪役貴族』」
既に破壊したはずの役割。
「『魔王の器』」
ノアの心臓を持つ者。
「『脚本拒絶者』」
ユリウスの筋書きを拒んだ者。
「それから……『簒奪王』」
今朝、新たに与えられた役割。
「全部、黒い鎖でレオン様の魂へ繋がっています」
「外せるか?」
「分かりません。でも……」
リィナが目を細める。
「もう一つあります」
「何だ」
「まだ、名前がない」
俺の手を握るリィナの指が震える。
「ほかの役割よりも、ずっと奥にある。文字ではなくて……黒い墓標のようなものが……」
胸の奥で、ノアの心臓が脈打った。
『リィナ。その先を見るな』
ノアの声。
リィナが息を呑む。
「ですが――」
『今のお前では、呑まれる』
リィナの瞳から黒い文字が消える。
俺の手を放し、荒い呼吸を繰り返した。
「何だった?」
『分からぬ』
ノアが答える。
『少なくとも、《簒奪王》より古い。お前がレオン・アルヴァレスとして生まれる以前から、その魂にあるものだ』
「前世か?」
『それすら分からぬ』
「役に立たない魔王だ」
『九度目だぞ』
「もう増えたか」
『当然だ。妾は忘れぬ』
「レオン様」
リィナが再び俺の手を掴む。
「私、もっと上手に見られるようになります」
「無理をするな」
「でも、レオン様の役に立ちたいんです」
「さっき言っただろ。何もできなくていい」
「それでも、私がしたいんです」
真っ直ぐな瞳。
奴隷として命じられたからではない。
リィナ自身が選んだ言葉。
「勝手にしろ」
「はい」
嬉しそうに笑う。
俺の手を握ったまま、リィナは寝台へ頭を預けた。
間もなく、小さな寝息が聞こえてくる。
『随分と懐かれたな』
「拾ったからな」
『犬猫と同じように言うでない』
「本人がいないところでは優しいんだな」
『違う。妾の所有物を雑に扱われると腹が立つだけだ』
「いつからお前のものになった?」
『お前のものは妾のものだ』
「暴君か」
『魔王だ』
胸の中で、ノアが笑った。
その直後。
部屋の奥から、陶器が触れ合う音が聞こえた。
顔を上げる。
窓際に置かれた卓。
そこに、一人の女が座っていた。
白い仮面。
腰まで流れる漆黒の髪。
身体の線に沿った喪服のような黒衣。
細い指で茶器を持ち、勝手に宿の茶を飲んでいる。
「遅かったわね、簒奪王」
「誰だ、お前」
「あなたを王にしてあげる女よ」
「間に合ってる」
「あら。まだ何も持っていないでしょう?」
「今朝、奴隷を一人手に入れた」
「私は物ではありません……」
眠っているはずのリィナが、小さく呟いた。
女が仮面の奥で笑う。
「教育が行き届いているわね」
「何の用だ」
「依頼よ」
「断る」
「まだ内容も聞いていないのに?」
「勝手に部屋へ入る奴は信用しない」
「窓から出入りする男に言われたくないわ」
右腕へ黒い炎を纏う。
「どこで見ていた」
「本の中から」
女が一冊の本を卓上へ置いた。
今朝、リィナを救った場面。
俺が《簒奪王》と記された瞬間。
すべてが挿絵のように描かれている。
「お前が、次なる語り手か」
「正確には、候補者よ」
「ユリウスの後継者ということか」
「一緒にしないで」
女の声から、笑みが消える。
「あの男は《原典聖書》を信じた。私は、この本を心の底から憎んでいる」
「なら燃やせ」
「できるものなら、とっくにそうしているわ」
女が頁を開く。
そこには、一つの王国が描かれていた。
燃え上がる王城。
広場へ積み上げられた死体。
折れた王冠。
翼を奪われた黒鳥の紋章。
「三年前、私の国は滅ぼされた」
「誰にだ」
「英雄よ」
頁がめくられる。
白銀の鎧を纏った男が、人々から歓声を浴びている。
その足元には、殺された王族たちの姿。
「正確には、《救国王》という役割を与えられた英雄」
「誰を救った?」
「私の国を滅ぼした帝国を」
女の指が、英雄の姿をなぞる。
「彼は侵略を救済へ、虐殺を解放へ、略奪を正義へ書き換えた。そして、私たち王族を民衆を苦しめる悪として処刑した」
「お前だけが逃げたのか」
「ええ」
「その仮面は?」
「私が生きていると知られれば、残された民が殺される」
「それで死んだ王女を演じている?」
「逆よ」
女が白い仮面へ触れる。
「王女は死んだ。ここにいるのは、その国を滅ぼした者へ復讐するためだけに生きている亡霊よ」
リィナが目を覚ます。
仮面の女を見て、俺の手を強く握った。
「あの人……」
「知っているのか?」
「声を……聞いたことがあります」
リィナの顔から血の気が引く。
「馬車の中で、何度も。本の中から……私へ、逃げろと……」
仮面の女がリィナを見る。
「逃げられたのは、あなた自身が諦めなかったからよ」
「あなたが、助けてくれたんですか?」
「道を示しただけ。助けたのは、その男でしょう?」
女の視線が俺へ戻る。
「リィナは《救国王》へ捧げられる予定だった」
「何のために」
「新しい英雄譚を完成させるため」
卓上の本へ、文字が浮かび上がる。
『英雄は自らを庇った奴隷の死を目にし、真なる王として覚醒する』
「人間を一人殺すだけで、英雄が強くなるのか?」
「ただの人間ではないわ。彼女には、他者の役割を見る力がある」
リィナが自分の両手を見る。
「私に……?」
「あなたを殺し、その力を奪えば、《救国王》は自分と敵の役割を完全に把握できるようになる」
仮面の女が本を閉じる。
「そうなれば、誰も彼には勝てない」
「だから俺に守らせるのか」
「結果的にはね」
「自分で守れ」
「私にはできない」
「なぜだ」
「私もまた、物語に記されているから」
女が右手の手袋を外す。
白い肌。
その手首から腕へ、黒い文字が刻まれていた。
『亡国の王女は復讐を望む』
『彼女は簒奪王を利用し、祖国を取り戻す』
『されど最後には、簒奪王によってすべてを奪われる』
『名も、王冠も、命も』
『王女は男の腕の中で、自らの復讐劇を終える』
最後の一文だけが、赤く染まっている。
「俺がお前を殺すのか」
「そう記されているわ」
「それで俺を呼んだ?」
「ええ」
「馬鹿か、お前は」
「よく言われる」
女が再び手袋を嵌める。
「でも、あなたは決められた結末を拒絶できる」
「お前を助けるとは言ってない」
「助けてほしいとも言っていないわ」
仮面の奥から、鋭い視線が向けられる。
「私の国を奪った英雄から、すべてを奪い返してほしい」
「報酬は?」
「一つ目。ノアの実体を取り戻す方法」
胸の中で、ノアの鼓動が強くなる。
「二つ目。あなたの右腕と、二つの心臓に関する記録」
俺の黒い右腕を見る。
「三つ目は?」
「国」
「何?」
「私の国を取り戻したあと、その半分をあなたへあげる」
「随分と気前がいいな」
「どうせ最後には、あなたが全部奪うのでしょう?」
女が立ち上がる。
黒衣の裾が、夜の影へ溶けていく。
「私の名と素顔が欲しいのなら、まず一つ奪ってみせて」
「何をだ」
「私の国よ」
白い仮面の奥で、女が笑った。
「亡国を滅ぼした英雄から、私の王国を奪い返して」
「断ったら?」
「リィナを奪うため、明日にでも《救国王》の騎士たちがこの街へ来る」
俺の隣で、リィナが息を呑む。
「妾の復活方法も分からぬままだな」
ノアが少女の姿となり、俺の隣へ現れた。
「随分と都合のよい依頼だ」
「乗るのか?」
「決めるのはお前だ」
「リィナは?」
「私は……」
リィナが俺の手を握る。
「逃げたくありません」
震えている。
それでも、手を離さない。
「私を殺そうとしている人がいるのなら、その人からも逃げたくない」
「死ぬかもしれないぞ」
「怖いです」
「なら――」
「でも」
リィナが俺を見る。
「レオン様の隣なら、自分で選べる気がするんです」
奴隷として命じられた言葉ではない。
自分で選んだ答え。
「そうか」
仮面の女を見る。
「依頼を受ける」
「あら。もう少し悩むと思っていたわ」
「勘違いするな」
黒い右手を握る。
「お前の国を取り戻すためじゃない」
「では、何のため?」
「ノアを戻す方法を奪う」
胸の中で、魔王の心臓が脈打つ。
「リィナを殺すために来る英雄から、その役割を奪う」
俺の手を握る力が強くなる。
「ついでに、お前へ押しつけられた結末も気に入らない」
「つまり?」
「欲しいものを全部奪う。それだけだ」
仮面の女が、しばらく俺を見つめる。
やがて、静かに笑った。
「やはり、あなたを選んで正解だった」
「選んだのは俺だ」
「そういうことにしておきましょう」
女の身体が、黒い頁へ変わり始める。
「明日の夜。西門に馬車を用意するわ」
「待て」
「何?」
「名前を聞いていない」
「依頼を一つ終えたら教えてあげる」
「面倒な女だ」
「王女とは、そういうものよ」
「素顔もか?」
「それは――」
女が仮面へ触れる。
「私のすべてを奪えたときに」
黒い頁が舞い上がる。
次の瞬間、女の姿は部屋から消えていた。
卓上には、一枚の紙だけが残されている。
亡国までの地図。
そして、地図の端には新しい文章が記されていた。
『第二の物語』
『第一幕――簒奪王、亡国へ入る』
紙を手に取る。
「完全に、筋書きへ乗せられたな」
ノアが言った。
「違う」
「何がだ?」
「利用してるだけだ」
「向こうも同じことを考えておるぞ」
「なら、最後に全部奪った方の勝ちだ」
リィナが不安そうに俺を見る。
「レオン様」
「何だ」
「本当に、よいのですか?」
「何がだ」
「私のために、英雄と戦うことになってしまって……」
「お前のためじゃない」
「では、何のためですか?」
「気に入らないからだ」
「また、それですか?」
「ああ」
リィナが俯く。
拒絶されたと思ったのかもしれない。
続けて言う。
「だが、お前を奪い返しに来るというなら話は別だ」
リィナが顔を上げる。
「一度俺のものにした以上、誰にも渡さない」
亜麻色の瞳が大きく見開かれる。
「俺のそばにいたいなら、勝手にいろ」
「……はい」
頬を赤く染め、笑う。
「どこまでも、お供します」
「重いな」
「嫌ですか?」
「嫌なら拾ってない」
「では、ご主人様とお呼びしても?」
「それはやめろ」
「レオン様?」
「……そっちは許す」
「はい、レオン様」
リィナの笑みが深くなる。
ノアが呆れたように息を吐いた。
「女を増やすために旅へ出たのではないぞ」
「増やしたのはお前だろ」
「妾は増えておらぬ。最初からいる」
「そういう意味じゃない」
「ならば、どういう意味だ?」
答える前に、リィナが俺の腕へ身体を寄せる。
ノアの深紅の瞳が細くなった。
「娘」
「はい」
「その腕は妾のものだ」
「私はレオン様の所有物だそうです」
「ほう」
「ならば、レオン様のそばにいるのが役目かと」
「随分と口が回るようになったな」
「ノア様に、間違っていたら言えと教えていただきました」
「その教え方は間違えたかもしれぬ」
「自分で考えろと言ったのはレオン様です」
二人が俺を見る。
面倒なことになった。
王都を離れたときは、ノアと二人だった。
そこへリィナが加わり、今度は仮面の王女。
誰の本にも記されていないはずの旅が、いつの間にか新しい物語へ呑み込まれようとしている。
だが。
今度は、書かれるだけでは終わらない。




