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第八話 俺の終わりは俺が決める

 王都が、一冊の本へ呑み込まれていく。


 石造りの家屋が輪郭を失い、白い頁へ変わる。


 道を埋めていた人々の身体が、名前と役職だけの文章へ分解される。


 空も、大地も、そこに積み重ねられてきた歴史さえ。


 すべてが《原典聖書》へ記された、一つの物語に変えられようとしていた。


「レオン……!」


 腕の中で、ノアが声を絞り出す。


 彼女の身体も、指先から黒い文字へ変わり始めていた。


 実体を維持する力が残っていない。


《永劫刻印》によって王都市民の魂へ存在を刻んだことで、辛うじて意識だけは残っている。


「妾を……お前の心臓へ戻せ」


「戻れば助かるのか」


「消滅するまでの時間は延ばせる」


「助かるかと聞いた」


「分からぬ」


「正直で結構だ」


 ノアの身体を抱き寄せる。


 二つの心臓へ意識を集中する。


 彼女の輪郭が黒い光へ変わり、俺の胸へ吸い込まれていく。


 最後まで残った深紅の瞳が、俺を見つめていた。


『死ぬなよ』


「お互いにな」


 ノアの姿が消える。


 胸の奥で、弱々しい鼓動が一つ加わった。


「レオン……様……」


 別の場所から、エルシアの声が聞こえた。


 彼女は《永劫聖櫃》によって、王都を吸収する術式を停止させようとしている。


 だが、既に身体の大半が白い結晶へ変わっていた。


 顔の左半分と、胸から上の僅かな部分だけが人間の姿を保っている。


「もう……長くは、止められません……」


「十分だ」


 倒れているカイルを、崩壊から残された石畳へ横たえる。


 聖剣を破壊した傷は深い。


 それでも呼吸はある。


 自分の選択で手放した勇者の力は、もう戻らない。


 エルシアが自分の意思で引き受けた代償も。


 ノアが人間を救うために失った魔力も。


 なかったことにはできない。


 だが、ユリウスに押しつけられた結末だけは違う。


 王都が本へ変えられること。


 民衆が役割だけの存在へ変えられること。


 ノアの存在が消えること。


 それらを受け入れた者は、誰もいない。


「終わらせて、ください……」


 エルシアが俺を見る。


 紫水晶の瞳には、もう過去の俺だけが映っているわけではなかった。


「今度は、あなたが……選んだ結末を……」


「ああ」


 立ち上がる。


 王都の上空には、《原典聖書》と融合したユリウスが浮かんでいる。


 頁で作られた巨大な翼。


 全身を巡る、無数の文章。


 顔の半分は既に失われ、代わりに黒い文字が表情を形作っている。


 人間ではない。


 それでも本人は、穏やかな笑みを浮かべていた。


「諦めなさい、レオン」


 声が王都全体へ響く。


「カイルは力を失い、エルシアは自らの時間を止めた。ノアも、もはや実体を保てない」


「それで?」


「一人で何ができるのです」


「お前を殺せる」


 地面を蹴る。


 黒い魔力を足元で爆発させ、王城の上空へ跳躍した。


 右手へ黒い炎を集める。


 ユリウスの顔面へ、拳を叩き込んだ。


 確かな手応え。


 頁で作られた頭部が砕け、黒い文字が夜空へ散る。


 しかし。


『殉教者は、悪役の憎悪をその身に受けた』


 空中に、文章が浮かび上がる。


『その苦痛は、世界を救う新たな力となった』


 砕いたはずのユリウスの頭部が、元の形へ戻る。


 背中の翼が一層巨大になった。


《原典聖書》の吸収速度が上がる。


 地面へ着地するより先に、頁の翼が俺の身体を打ち払った。


「ぐっ……!」


 王城の壁を貫き、内部へ叩き込まれる。


 石ではなく、紙へ変わりかけた壁。


 触れた部分から、俺の身体にも黒い文字が這い上がってくる。


 ——悪役は敗北した。


 ——復讐者は、己の憎悪によって滅びた。


 皮膚の上へ刻まれる文章を、黒い炎で焼き払う。


 床を蹴り、再び外へ飛び出した。


「私を殺したいですか?」


 ユリウスが問いかける。


「ああ」


「ならば攻撃しなさい」


 両腕を広げる。


「あなたが私を傷つけるほど、《殉教者》の物語は完成へ近づく」


「復讐を諦めろと?」


「それも一つの選択です」


 頁の翼が王都を包む。


「私を殺せば、世界は本へ呑まれる」


 白い紙となった民衆が、《原典聖書》の中へ吸い込まれていく。


「復讐を捨てれば、私は生き残る」


 ユリウスの笑みが深くなる。


「どちらを選んでも、あなたの望みは叶わない」


「皮肉だな」


「何がでしょう」


「人間から選択を奪ってきたお前が、最後は俺の選択に賭けるのか」


「だからこそ、証明できる」


 金色の瞳だけが、人間だった頃と同じ輝きを残している。


「自由意志に従えば、人は必ず誤る」


「俺が復讐を選べば、王都が滅びるからか」


「はい」


「復讐を捨てれば?」


「あなたは、自分の人生を否定する」


 ユリウスは俺の中にあるものを理解している。


 怒りも。


 憎しみも。


 復讐心も。


 それを捨てれば、俺は処刑された自分さえ否定することになる。


「人間は正しい役割を与えられなければ、自分も他者も幸福にできない」


 ユリウスが断言する。


「あなた自身の選択によって、それを証明してください」


 なるほど。


 こいつは、最後まで俺を筋書きへ閉じ込めるつもりだ。


 復讐を選ぶ悪役。


 復讐を捨て、過去を否定する敗北者。


 二つの結末だけを提示し、どちらかを選ばせる。


「断る」


「選ばないと?」


「その二つからはな」


「他に結末はありません」


「それを決めるのは、お前じゃない」


 ユリウスが僅かに眉を動かす。


「まだ理解できないのですか。既に世界は《原典聖書》へ記された」


 周囲を、白い頁が覆っていく。


「あなたはゲームの悪役として生まれた」


 処刑台の光景が浮かぶ。


「物語の開始前に命を落とし、英雄の功績となる存在」


 断罪剣が首へ振り下ろされる。


「それが、あなたへ与えられた唯一の結末です」


 確かにそうだった。


 レオン・アルヴァレスは、物語開始前に処刑される悪役貴族。


 ゲームでは名前と罪状だけが語られる。


 どのように生きたのか。


 何を守りたかったのか。


 誰を愛していたのか。


 そんなものは必要とされていなかった。


 カイルを英雄へするため、処刑される。


 それだけの存在。


 現実でも同じだった。


 王国は俺を反逆者と呼んだ。


 カイルは俺を倒すべき悪だと信じた。


 エルシアは、変化する前に保存すべき婚約者だと決めた。


 ユリウスは、英雄に討たれる部品として俺を利用した。


 魔王の心臓を手に入れたことさえ、あいつの計画だった。


 何もかも、誰かに決められていた。


 ——本当に、そうか?


 ノアへ自分の命を半分渡したのは、俺だ。


 復讐を望んだのも。


 領民を助けるため、王都へ戻ったのも。


 エルシアの救済を拒んだのも。


 カイルへ選択を突きつけたのも。


 誰かに決められたことではない。


 与えられた始まりは選べなかった。


 押しつけられた状況も変えられなかった。


 それでも、そこから何を選ぶかだけは、俺のものだった。


『レオン』


 胸の奥から、ノアの声が聞こえる。


『お前の《葬命反転》は、死へ慣れるだけの能力ではない』


「分かってる」


『ならば、その渇望を世界へ示せ』


 一度目の死。


 首を落とされ、終わりを押しつけられた。


 俺はそれを拒絶した。


 二度目の死。


 魂まで焼かれ、存在の消滅を決められた。


 ノアと共に、それを拒んだ。


《葬命反転・ネクロリベル》。


 その本質は、死を力へ変えることではない。


 誰かに確定された自分の終幕を、受け入れないこと。


 第一階位《宣誓》では、自分に与えられた死だけを覆した。


 ならば次は。


 この渇望を、世界へ広げる。


「我は知る」


 言葉が、自然に溢れ出した。


 詠唱と呼ぶには静かだった。


 それでも、一言ごとに《原典聖書》の頁が震える。


「すべての生は終幕へ至り、すべての物語は結末を求める」


 ユリウスの表情が変わる。


「何を——」


「されど問おう」


 右腕の黒い鱗へ、赤い文字が浮かび上がる。


「その一行を記した者は誰だ」


 首に残る処刑の傷が、黒い光を放つ。


「我が敗北を定め、我が墓碑へ終止符を刻んだ者は誰だ」


 王都を構成する頁が、落下を止めた。


「やめなさい」


 ユリウスが初めて、明確な焦りを見せる。


「その先は、あなたに許された筋書きではない」


「神か」


 頁の翼が、俺へ向かって振るわれる。


「王か」


 黒い炎で受け止める。


 全身の骨が軋み、両足が大地へ沈む。


「世界か」


 翼を押し返す。


「否」


 右腕を振り抜き、頁の翼を引き裂いた。


「そのいずれにも、我が明日を譲りはしない」


 世界へ、黒い亀裂が走る。


 白い頁で覆われた王都の向こうから、本来の夜空が覗く。


「定められた敗北を葬り」


 《原典聖書》へ記された、俺の敗北が黒く塗り潰される。


「押しつけられた死を反転し」


 ノアの消滅を告げる文章が、逆向きに崩れていく。


「奪われた未来を、ここに奪い返す」


 紙へ変わっていた民衆が、肉体を取り戻していく。


「やめろ!」


 ユリウスが叫んだ。


 穏やかな仮面が崩れ、初めて感情を剥き出しにする。


「その物語は存在しない! あなたはここで死ぬ! そう記されている!」


「なら、その頁を破るだけだ」


 両腕を広げる。


 俺の内側にしか存在しなかった渇望が、世界へ展開される。


「筆を折れ」


 《原典聖書》に亀裂が走る。


「頁を裂け」


 王都を包んでいた本の表紙が、内側から開いていく。


「終幕を騙るすべての言葉へ——葬送を」


 胸の中で、二つの心臓が同時に脈打った。


「第二階位——《渇界》」


 黒い炎が世界を覆う。


 熱はない。


 建物も、人間も焼かない。


 他者によって確定された結末だけを見つけ、灰へ変えていく炎。


「《終幕葬送・リベル・ネクロロギア》」


 王都が反転した。


 頁へ変わった建物が、文字を吐き出しながら現実へ戻っていく。


 《原典聖書》へ吸収された民衆が、空中から街路へ降り立つ。


 役名だけへ変えられていた者たちが、名前と記憶と肉体を取り戻す。


 ノアの消滅を記した文章が燃えた。


 胸の奥で、弱々しかった鼓動が強くなる。


『本当に……出鱈目な男だ』


「お前ほどじゃない」


 だが、すべてが元へ戻ったわけではない。


 カイルの聖剣は砕けたまま。


 勇者の力も戻らない。


 彼が自分で選び、失ったものだからだ。


 エルシアの身体も、白い結晶に覆われたまま。


 彼女が自らの意思で《永劫聖櫃》を使った代償だから。


 ノアの魔力も回復していない。


 人間を守るため、自分で使った力だから。


《終幕葬送》は、本人の選択までなかったことにはできない。


 消せるのは、他者によって押しつけられた終幕だけ。


「認めない」


 ユリウスの声が、低く響く。


「そのような結末を、私は認めない!」


 破れた頁が、ユリウスの身体へ集まる。


 右腕が巨大な紙の刃へ変わった。


 先端には、処刑台で使われたものと同じ断罪剣が形作られている。


「レオン・アルヴァレスは処刑される!」


 ユリウスが空中から急降下する。


「それが、正しい物語だ!」


 断罪剣が振り下ろされる。


 黒い右腕で受け止めた。


 刃が鱗を裂き、骨まで食い込む。


《終幕葬送》は、攻撃を無効化する能力ではない。


 痛みも。


 傷も。


 選んだ戦いの代償も消えない。


 ただ、その攻撃によって俺が死ぬと押しつけられた結末だけを拒絶する。


「があああっ!」


 刃を腕から引き抜く。


 黒い血が噴き出した。


 ユリウスの腹へ拳を叩き込む。


 頁で作られた身体がへこみ、大量の文字を吐き出す。


 今度は傷が物語へ変わらない。


 殉教者の筋書きは、《終幕葬送》によって葬られた。


「なぜだ!」


 ユリウスの翼が、左右から俺を挟み込む。


 無数の頁が刃となり、全身を切り刻む。


「なぜ、苦しみを選ぶ!」


 右肩が裂ける。


 左脚の骨が折れる。


 それでも前へ進む。


「正しい役割へ従えば、誰も間違えずに済む!」


「そんなものは、生きているとは言わない」


「間違えれば、誰かが死ぬ!」


「ああ」


「あなたの選択で、再び誰かが苦しむ!」


「それでも——」


 紙の刃を掴み、引きちぎる。


「誰かの正解に殺されるより、自分で間違える方がましだ!」


 ユリウスが後退する。


 頁の翼が、新たな文章を生み出す。


『悪役の足は砕け、二度と前へ進めない』


 左脚が折れる。


 膝をついた。


「レオン!」


 カイルの声が聞こえる。


 勇者の力を失った身体を引きずり、こちらへ向かおうとしている。


「来るな!」


「でも——」


「お前は自分で選んだものを守れ!」


 カイルの周囲には、混乱する民衆がいる。


 崩壊した建物。


 負傷者。


 今のカイルに、奇跡を起こす力はない。


 それでも助けを求める人間はいる。


「行け」


 俺は立ち上がる。


 折れた左脚を、黒い血管が無理やり固定する。


「今度は、誰にも決められずに人を救ってみろ」


 カイルが唇を噛む。


 やがて、俺へ背を向けた。


「負傷者を広場へ集めろ!」


 勇者の権威はない。


 命令へ従わせる力もない。


 それでも自ら一人目の負傷者を抱き上げる。


 何人かの兵士が、カイルの行動を見て後へ続いた。


 誰にも称えられない。


 特別な力もない。


 それでも人を救う姿は、以前よりも英雄らしく見えた。


「まだ余所見ができる立場ですか!」


 ユリウスの断罪剣が胸へ突き刺さる。


 刃が背中へ抜けた。


 口から血が溢れる。


 心臓へ届く直前で、刃を両手で掴んだ。


「捕まえた」


「何を——」


 断罪剣を持つユリウスの腕を引き寄せる。


 額を、その顔へ叩き込んだ。


 眼鏡が砕ける。


 残っていた人間の顔が、血に染まった。


 ユリウスが初めて痛みに顔を歪める。


「これは……」


「お前が俺の首を落とした剣だ」


 胸から断罪剣を引き抜く。


 頁で再現された刃。


 それでも、俺を処刑した記憶を持つ武器。


 両手で刀身を掴み、黒い炎を流し込む。


 砕いた断罪剣の破片。


 王都へ散らばっていたその記憶が、《終幕葬送》の内部へ集まってくる。


 欠けた刃が埋まり、折れた柄が再構築される。


 俺を殺した大剣が、黒い炎を纏って蘇った。


『行け、レオン』


 胸の奥から、ノアの声が届く。


『妾が覚えている』


「なら、俺も忘れない」


 断罪剣を構える。


 ユリウスと《原典聖書》をつなぐ、最後の頁。


 そこへ向けて刃を振り下ろした。


「やめろおおおおっ!」


 ユリウスの絶叫。


 黒い斬撃が、最後の頁を両断する。


 《原典聖書》から、すべての文字が消えた。


 頁の翼が崩れる。


 ユリウスの身体から、与えられていた役割が一つずつ剥がれ落ちていく。


《大審問官》。


《語り手》。


《世界を救う殉教者》。


 すべての文字が消えた。


 残ったのは、灰白色の髪と金色の瞳を持つ、痩せた一人の男。


 ユリウスは空中から落下し、俺の前へ倒れた。


 黒い祭服は破れ、白銀の外套も失われている。


「私は……」


 ユリウスが、自分の両手を見る。


 何も記されていない手。


 役割も。


 命令も。


 果たすべき使命もない。


「役割を失った私は……何者として生きればいい?」


 俺を見上げる。


 その顔は、世界を支配しようとした大審問官ではない。


 妹を失い、自分の生き方を決められないまま大人になった少年のものだった。


「そんなもの、俺が決めることじゃない」


「では、誰が……」


「今からお前が選べ」


「私が……?」


「ああ」


「間違えたら、どうするのです」


「責任を取れ」


「誰かを傷つけたら?」


「償え」


「選び直すことは、許されるのですか」


「生きている限りはな」


 ユリウスが俯く。


 目の前には、崩壊しかけた《原典聖書》が落ちている。


 文字を失った白紙の本。


 それを拾えば、再び語り手へ戻れるかもしれない。


 拾わなければ、何者でもない一人の人間として生きることになる。


 俺は剣を下ろした。


 選ぶ時間を与える。


 ユリウスの右手が、僅かに動いた。


 こちらへではない。


《原典聖書》へ伸びていく。


「私は……」


 震える指が、本の表紙へ触れた。


「正しい物語を、完成させなければならない」


 本から、黒い文字が這い出す。


 ユリウスの腕へ絡みつき、再び身体を取り込もうとする。


 それが、こいつの選択。


「そうか」


 断罪剣を構える。


 ユリウスが俺を見る。


「殺すのですか」


「ああ」


「私へ選択を与えたのでは?」


「お前は選んだ」


 一歩踏み込む。


「だから俺も、俺の望みを選ぶ」


「復讐を」


「忘れるつもりはない」


 断罪剣を振り上げる。


「俺を殺した報いを受けろ、ユリウス」


 ユリウスが僅かに笑った。


 諦めか。


 安堵か。


 最後まで、その意味は分からなかった。


「それが、あなたの物語ですか」


「違う」


 黒い刃を振り下ろす。


「俺の人生だ」


 ユリウスと《原典聖書》を、まとめて両断した。


 閃光。


 遅れて、王都全体を揺らす爆発が起きた。


 黒い文字が空へ舞い上がる。


 一つ一つが炎に包まれ、夜空へ消えていく。


 ユリウスの身体も、灰白色の光となって崩れ始める。


 声はなかった。


 最期まで《原典聖書》へ手を伸ばしたまま、世界から消滅した。


 残された本も、炎の中で灰へ変わる。


「終わったぞ、ノア」


 胸へ手を当てる。


 返事はない。


「おい」


 鼓動はある。


 だが弱い。


「勝手に眠るな」


『……うるさい』


 微かな声が返ってきた。


『少しくらい、休ませろ』


「死んでないな?」


『妾を誰だと思っている』


「心臓しか残っていない魔王」


『……六度目だぞ』


「まだ数えてたのか」


『当然だ。妾は忘れぬ』


 思わず笑った。


 右腕の鱗は残っている。


 胸には魔王の心臓。


 全身は傷だらけで、折れた左脚もまともに動かない。


 それでも生きている。


 俺たちは、二人とも。


     ◇


 三日後。


 王都中央広場には、処刑台の跡だけが残されていた。


 ユリウスが消滅したことで、彼の渇界律によって現実へ変えられていた証拠や罪状も、本来の姿へ戻った。


 俺が領民を虐殺したという記録。


 魔王軍へ軍事機密を渡したという密書。


 国王暗殺を企てたという証言。


 そのすべてが捏造だったと明らかになった。


 何より、王都の民衆はユリウス自身の告白を聞いている。


 ノアの《永劫刻印》によって、あの劇場で起きた出来事を忘れることもできない。


 俺の無実は証明された。


 だからといって、すべてが元どおりになるわけではない。


 死んだ俺は戻ってきた。


 だが、処刑されたという事実は消えない。


 裏切られた記憶も。


 魔王の心臓も。


 人間ではなくなった右腕も。


 何一つ、元へ戻らない。


「レオン」


 広場の端で、カイルが待っていた。


 白銀の鎧は身につけていない。


 聖剣もない。


 簡素な服の上から、胸の傷へ包帯を巻いている。


「身体は大丈夫なのか」


「お前に心配されるほどではない」


「その言葉、そっくり返す」


「俺は死んでも戻る」


「便利だな」


「毎回痛いぞ」


「……そうだな」


 カイルが視線を落とす。


「今さら、何を言っても許されるとは思っていない」


「ああ」


「ユリウスに利用されていたとしても、最後に証言したのは俺だ」


「ああ」


「お前が悪だと信じたかった」


「聞いた」


「それでも、言わせてくれ」


 カイルが俺を見る。


「すまなかった」


 短い謝罪。


 言葉だけで首の傷が消えるわけではない。


 以前の関係へ戻れるわけでもない。


「許さない」


「ああ」


「少なくとも、今はな」


「それでいい」


 カイルは逃げなかった。


 俺の答えを受け止める。


「これから、どうする」


「王都に残る」


「勇者でもないのに?」


「だから残るんだ」


 広場では、ユリウス崩壊後の混乱を収めるため、兵士や住民たちが動き回っている。


「これまで俺は、力があるから人を救っていた」


 カイルが自分の両手を見る。


「今度は何もない状態で、自分に何ができるか確かめたい」


「随分と時間がかかりそうだな」


「ああ」


「その間に、俺はもっと強くなるぞ」


「次に会ったときは、俺自身の力でお前に勝つ」


「まずは、自分が何者か決めてから来い」


「今度は決める」


「なら——」


 カイルへ背を向ける。


「借り物の英雄よりは、期待しておく」


「レオン」


 呼び止められる。


 振り返らない。


「次は、親友として会えると思うか」


「知らない」


「そうか」


「次に会ったときのお前を見て決める」


 それだけ告げ、広場を後にした。


     ◇


 エルシアは、大聖堂の最奥へ安置されていた。


 白い結晶に覆われた身体。


 顔の右半分だけが、辛うじて人間の姿を残している。


 治癒術師たちによれば、命は失われていない。


 ただし《永劫聖櫃》が彼女自身を固定しているため、外部から解除することはできない。


「一人にしてください」


 聖堂にいた司祭たちを退出させる。


 誰も反対しなかった。


 今の俺を恐れているのだろう。


 あるいは、魔王の心臓を持つ俺なら、聖女を救えると思っているのか。


 どちらでもいい。


 エルシアの前へ立つ。


「俺の《渇界》でも、お前を元へ戻せなかった」


 反応はない。


「お前が、自分で選んだ結果だからだ」


 ユリウスに強制された結末なら反転できる。


 だが、自らの意思で引き受けた代償までは覆せない。


「勝手に人を守って、勝手に眠る」


 白い結晶へ手を触れる。


「相変わらずだな」


 冷たい。


 それでも奥から、僅かな温もりが伝わってくる。


「次に目を覚ましたとき」


 結晶の中にある紫水晶の瞳を見る。


「それでも今の俺を見たいと思えたなら——そのときは、もう一度話そう」


 エルシアの瞼が、僅かに動いた。


「……はい」


 声が聞こえた。


 結晶の奥から響く、消え入りそうな声。


「今度は……私が、追いかけます」


 それを最後に、エルシアの意識が深い眠りへ落ちる。


「待つとは言ってないぞ」


 返事はない。


 いつか目覚める。


 根拠はない。


 それでも、そう思った。


 エルシアの結末もまた、俺が決めることではない。


     ◇


 ユリウスの死後。


 王国上層部は、俺へ公爵位と領地を返還すると申し出た。


 処刑は教会の陰謀によるもの。


 王国は騙されていた。


 俺の名誉を回復し、すべてを元どおりにしたい。


 随分と都合のいい話だ。


 裁判を認めたのは王国。


 ユリウスの証拠を疑わず、俺を処刑したのも王国。


 民衆の前で断罪剣を振り下ろした責任まで、死んだ大審問官一人へ押しつけるつもりらしい。


 爵位も領地も断った。


 ガレスには、領民を連れて好きな土地へ移るよう伝えた。


 それでもアルヴァレス領へ残りたいという者がいるのなら、王国には手を出させない。


 俺が貴族へ戻らなくても、守る方法はある。


「本当に、捨ててよかったのか?」


 王都から続く街道。


 夕暮れの中を歩きながら、ノアが尋ねる。


 三日間、心臓の中で休んだことで、少女の姿を取れる程度には回復していた。


 ただし輪郭は以前より薄く、時折足元が透けている。


「元々、王国に奪われたものだ」


「取り戻したのであろう?」


「返されたから受け取る気にはなれない」


「貴族でなければ、金も兵も手に入らぬぞ」


「必要になったら奪う」


「悪役らしい答えだ」


「役名ごときで俺を語るな」


 ノアが笑う。


「それで、どこへ向かう?」


「決めてない」


「無計画だな」


「百年前の魔王に案内してもらおうと思ってる」


「現在の地図など知らぬぞ」


「役に立たない魔王だ」


「七度目」


「本当に全部覚えてるのか」


「妾の渇望を忘れたか?」


「忘れてない」


 街道の先には、まだ見たことのない世界が広がっている。


 ゲーム『聖冠のアルカディア』の本編なら、ここからカイルとエルシアが魔王討伐の旅へ出るはずだった。


 だが、カイルは勇者の力を失った。


 エルシアは眠りについている。


 魔王は、俺の隣を歩いている。


 物語は完全に変わった。


「レオン」


「何だ」


「人間へ戻りたいか?」


 ノアの視線が、俺の右腕へ向けられる。


 黒い鱗。


 鋭い爪。


 外套で隠しても、人間の腕には見えない。


「その心臓も、右腕も、もはや人間のものではない」


「ああ」


「このまま力を使い続ければ、さらに魔王へ近づく」


「ああ」


「最後には、人間としての姿も失うかもしれぬぞ」


 王都から離れる足を止める。


 夕日に照らされたノアを見る。


「お前は?」


「何?」


「俺がどんな姿になっても、俺だと分かるか」


 ノアが呆れたように眉を上げる。


「妾を誰だと思っている」


 深紅の瞳が、真っ直ぐ俺を映している。


「世界のすべてがお前を忘れようと——妾だけは、最後まで覚えていてやる」


「なら、戻る必要はない」


「人間でなくてもよいと?」


「お前と生き残れるなら、化け物で構わない」


 ノアが目を見開く。


 やがて、ゆっくりと笑った。


 魔王としての尊大な笑みではない。


 年相応の少女のような、僅かに照れた笑顔。


「よかろう」


 ノアが俺の左手へ手を伸ばす。


 指先は半透明。


 それでも今度は、俺の手をすり抜けなかった。


「ならば共に行こう、レオン」


「ああ」


「どこまでも」


 二人で、王都へ背を向ける。


 俺たちを待つ物語は、もうどの本にも記されていない。


 正しい道かどうかも分からない。


 失敗するかもしれない。


 再び誰かに裏切られるかもしれない。


 それでも構わない。


 間違えれば、選び直す。


 死ねば、終わりを拒む。


 俺の人生は、俺が生きる。


 そして——。


 俺の終わりは、俺が決める。


     ◇


 王都の地下深く。


 誰も立ち入ることのない旧封印施設。


 崩壊した《原典聖書》の灰の中から、一枚の頁が浮かび上がった。


 炎に焼かれたはずの白い紙。


 何も記されていなかった表面へ、黒い文字が一つずつ現れる。


『第一の物語、修復失敗』


『悪役個体による脚本拒絶を確認』


『第二の物語を開始する』


 頁が黒い炎に包まれる。


 燃え尽きる寸前。


 そこへ最後の一文が記された。


『次なる語り手を選定せよ』


 遠く離れた場所で。


 顔の見えない何者かが、新しい本を開いた。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


本作はこれにて完結となります。


「続きも読んでみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想で応援していただけると嬉しいです。皆様からの反応が良ければ、第二部以降の長編化も検討しています!


また、復讐と魔王との共闘を描いたダークファンタジー、


『終焉を拒む蛇 ~妹を殺された俺は、魔王とともに人類の敵となる~』


も連載しております。


本作を楽しんでいただけた方には、きっとこちらも楽しんでいただけると思います。ぜひ、零と魔王リリスの物語も覗いてみてください!

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