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第七話 本当の英雄

 黄金の聖剣が、俺の首を断った。


 痛みを認識するより早く、視界が上下へ分かれる。


 身体はその場へ残り、頭部だけが石畳へ落下した。


 既に斬首には適応している。


 本来なら、どれほど鋭い刃であろうと俺の首を落とすことはできない。


 だが、《英雄神話・クラウンオブグローリー》の前では関係なかった。


 刃が俺の防御を上回ったのではない。


 英雄が悪役を討つという結末へ合わせて、俺の首が落ちた。


「レオン!」


 ノアの声が響く。


 石畳へ転がった視界の中で、カイルが聖剣を握っていた。


 碧眼から涙が流れている。


「違う……」


 自分が何をしたのか理解できていないように、首を横へ振っている。


「俺は、止めようと……」


 止めようとした。


 それでも結果は変わらない。


 この劇場では、カイルが俺へ剣を向けた時点で勝利が決まる。


 過程など、後から世界が用意する。


『妾が覚えている』


 ノアの声が魂へ届く。


 身体から伸びた黒い血管が、落ちた頭部へ絡みついた。


 持ち上げられ、切断面へ戻される。


 骨と肉が接続し、視界が元の高さへ戻った。


「三度目、か」


 首を鳴らす。


 傷は残っていない。


 だが、殺された記憶と痛みまでは消えない。


「レオン……」


 カイルが後退する。


 聖剣を手放そうとするが、黄金の光が指を柄へ縫いつけている。


「違う。今のは、俺じゃない」


「お前の手で、お前の剣が俺の首を落とした」


「身体が勝手に——」


「分かってる」


 右手に黒い炎を集める。


「だから、恨む相手は後で決める」


 カイルへ踏み込む。


 黒い右腕で、顔面を殴り抜いた。


 手応えはあった。


 頬骨が砕け、カイルの身体が舞台の端まで吹き飛ぶ。


 白銀の鎧が観客席へ激突した。


 それでも倒れない。


 舞い上がった瓦礫と土煙が晴れたとき、カイルは無傷で立っていた。


 俺の拳は、カイルの頬へ届く直前で止まっている。


 いつ、止めた。


 止めていない。


 確かに殴った。


 それでも現実には、攻撃が届かなかったという結果だけが残っている。


「なるほどな」


 拳を引く。


「俺が強くなるほど、お前の逆転劇が盛り上がるわけだ」


「黙れ……」


「最高の主人公だよ、お前は」


「黙れ!」


 カイルが聖剣を振るう。


 避ける。


 黒い刃を形成し、受け止める。


 腕を切り落とし、あるいは聖剣そのものを破壊する。


 頭の中では、いくつもの対処方法が浮かんでいた。


 実際に身体も動いた。


 だが、すべての可能性がカイルの勝利へ収束する。


 避けた先へ刃がある。


 防いだはずの武器が、その前から壊れていたことになる。


 カイルの腕を切断しても、次の瞬間には傷が消え、俺の胸へ聖剣が突き刺さっている。


 ——結果が先にある。


 カイルが勝つ。


 その結果を成立させるため、世界が過程を書き直している。


「がっ……!」


 聖剣が心臓を貫いた。


 聖炎への耐性があるはずの肉体を、黄金の光が内側から焼く。


「レオン!」


 ノアが俺の身体へ手を伸ばす。


 触れる前に、《災厄》の影が彼女を拘束した。


「離せ!」


 ノアの身体が薄くなる。


 魔王の力が聖剣へ吸い取られ、黒い血管となってカイルの腕へ流れ込んでいく。


「俺を見ろ、カイル」


 口から溢れる血を拭う。


 聖剣に身体を貫かれたまま、目の前の男を見た。


「目を逸らすな」


「やめろ……」


「俺を殺してるのは、お前だ」


「違う!」


「なら、止めてみろ」


 カイルが両腕へ力を込める。


 聖剣を引き抜こうとしている。


 だが、動かない。


《英雄神話》は、悪役を討つまで終わらない。


「頼む……」


 カイルが泣いていた。


「もう、立ち上がらないでくれ」


「断る」


「俺はまた、お前を殺す」


「何度でも蘇る」


「どうしてだ!」


「お前の都合で、俺の最期を決めさせないためだ!」


 二つの心臓へ力を込める。


 聖剣に吸収されていた魔力を逆流させた。


 黒い炎が刀身を包む。


 カイルの両手が焼けた。


 聖剣が胸から抜ける。


 同時に、止まっていた心臓が再び鼓動を始めた。


 傷口を黒い血管が塞いでいく。


 俺が立ち上がる。


 カイルが再び聖剣を構える。


 何度繰り返しても同じ。


 俺は死なない。


 だが、カイルには勝てない。


 戦い続ける限り、俺の敗北とカイルの勝利が永遠に繰り返される。


「美しい」


 王城上部から、ユリウスが俺たちを見下ろしている。


「英雄は、倒れるたびに立ち上がる悪を打ち破る。悪が強大であればあるほど、勝利の輝きも増していく」


「これのどこが……勝利だ」


 カイルが声を絞り出す。


「俺は、自分の意思で戦っていない」


「英雄の意思など必要ありません」


 ユリウスが《原典聖書》の頁を捲る。


「人々が求めているのは、必ず自分たちを救う存在です。迷い、悩み、過ちを犯す一人の人間ではない」


「なら、俺である必要もないだろ」


「ええ」


 ユリウスは、あっさりと肯定した。


「器としての適性さえあれば、誰でも構いません」


 カイルの顔から、血の気が引く。


「あなたの人格も、記憶も、感情も、救済勇者の完成後には不要となります」


「俺を……消すつもりか」


「消すのではありません。永遠に英雄として保存するのです」


 上空へ巨大な術式が現れた。


 観客席を埋め尽くす民衆の胸から、白い光が一つずつ浮かび上がる。


 魂。


 あるいは、人間を人間として成立させている何か。


 光は《原典聖書》へ向かって吸い上げられていく。


「何をしている!」


 カイルが叫ぶ。


「彼らの信仰を、永遠のものへ変えます」


 観客席の民衆が、同じ言葉を繰り返し始める。


「勇者カイルを称えよ」


「勇者カイルを称えよ」


「勇者カイルを称えよ」


 表情が消えていく。


 瞳から意志が失われ、同じ笑みを浮かべた人形へ近づいていく。


「やめろ!」


 カイルが聖剣を振り上げる。


 王城のユリウスへ向けて光を放とうとする。


 だが、《英雄》の役割が許さない。


 刃は途中で軌道を変え、再び俺へ向いた。


「なぜだ!」


「英雄は悪と戦うものです」


 ユリウスの声は、どこまでも穏やかだった。


「語り手へ剣を向ける役割ではありません」


「俺が守りたかった人たちだぞ!」


「彼らは永遠にあなたを信じ続けます」


 民衆の身体が、足元から白い頁へ変わり始める。


「老いることもない。争うこともない。裏切ることもない。ただ勇者を称え、力を与え続ける」


「それのどこが救いだ!」


「迷いも苦しみも存在しない」


 ユリウスが微笑む。


「これ以上に幸福な結末があるでしょうか」


 カイルの手が震える。


 聖剣は、俺を殺せと要求している。


 民衆から吸収された魂が剣へ集まり、黄金の輝きを強めていく。


 俺を倒せば、カイルは救済勇者へ完成する。


 この王都にいるすべての人間を燃料として。


「カイル」


 黒い炎を消す。


 両手を下ろした。


 カイルが目を見開く。


「何をしている」


「お前との戦いは終わりだ」


「俺の身体は止まらない!」


「知ってる」


「なら、構えろ!」


「嫌だ」


 聖剣が勝手に振り上げられる。


 俺は防御しない。


「やめろ、レオン!」


 カイルが全身で抵抗する。


 刃は、ゆっくりと俺の首へ近づいてくる。


「避けろ!」


「お前が止めろ」


「できないから言ってるんだ!」


「できる」


 聖剣の刀身を指差す。


「その剣が、民衆の信仰をお前へ集めている」


 カイルが聖剣を見る。


「破壊すれば、《勝利戴冠》も《英雄神話》も消える。ユリウスがお前を操る経路も、民衆の魂を吸収する術式も止まる」


「そんなことをすれば……」


「お前は勇者ではなくなる」


「俺には、何も残らない」


「そうだ」


「もう二度と、お前に勝てない」


「今でも自分の力では勝ってないだろ」


 カイルの表情が歪む。


 容赦するつもりはない。


 こいつは俺を裏切った。


 俺の処刑を決定づけ、二度目の死を与えた。


 それがユリウスに利用された結果であっても、自分で選んだ事実は消えない。


「選べよ、英雄」


 首元へ迫る聖剣を見ながら告げる。


「俺を倒して、物語の主人公になるか」


 次に、観客席の民衆を見る。


「誰にも褒められないまま、守りたかった奴らを救うか」


 聖剣が止まった。


 刃は首まで、あと数センチ。


 カイルの腕が激しく震えている。


「俺は……」


 涙が石畳へ落ちる。


「英雄になりたかった」


「知ってる」


「お前の隣では、いつまでも俺は、お前に助けられた平民だった」


「ああ」


「剣で勝っても、魔法で勝っても、皆がお前を見ていた」


「一度も負けた覚えはないが」


「そういうところだ!」


 カイルが泣きながら笑った。


「お前は、何でも持っていた。家名も、才能も、領地も、エルシアも」


 聖剣を握る指から血が流れる。


「俺がどれだけ努力しても、お前は当然のように先を歩いていた」


「ああ」


「感謝していた。本当に、お前を親友だと思っていた」


「俺もだ」


「それでも……お前がいなくなれば、自分の力で立てると思った」


 初めて、カイルが自分の嫉妬を言葉にした。


「ユリウス猊下から証拠を見せられたとき、疑った。偽物ではないかと、何度も思った」


「それでも信じた」


「信じたかったんだ」


 カイルが俺を見る。


「お前が悪なら、俺は正義になれる」


「それで俺を売った」


「……ああ」


 短い肯定。


 言い訳はなかった。


「すまない」とも言わない。


 今さら一言で許されるとは、こいつも思っていないのだろう。


「それでも——」


 カイルが聖剣を自分の胸へ向ける。


「何をするつもりだ」


「この剣は、俺の魂へつながっている」


 白銀の鎧の中央。


 勇者の証である黄金の紋章が輝いている。


「外から折っても、民衆の信仰がある限り修復される」


「なら」


「内側から壊す」


 カイルが自分の胸へ、聖剣を突き立てた。


「がっ……!」


 刃が鎧を貫き、黄金の紋章へ突き刺さる。


 血が流れた。


 同時に、聖剣へ無数の亀裂が走る。


「カイル!」


 エルシアが叫ぶ。


 ユリウスの表情から、初めて笑みが消えた。


「やめなさい」


「嫌だ」


「あなたは英雄です」


「違う」


 カイルが聖剣をさらに押し込む。


 亀裂が刀身全体へ広がっていく。


「俺は、自分が英雄だと思いたかっただけだ」


「それがあなたの幸福でしょう」


「誰かに与えられた勝利しか持っていない俺が——」


 カイルの両手から血が噴き出す。


「そんな俺が、誰かの幸福を決められるわけがない!」


 聖剣を握り、横へ捻る。


「お前の隣に立ちたかった!」


 俺へ向かって叫ぶ。


「お前に勝って、自分にも価値があると証明したかった!」


 黄金の紋章が砕ける。


「それでも——俺が守りたかった人たちまで、英雄になるための道具にしたくない!」


 聖剣が、中心から折れた。


 澄んだ音が、劇場全体へ響き渡る。


 黄金の光が消える。


《英雄神話・クラウンオブグローリー》が崩壊した。


 カイルの頭上に浮かんでいた《英雄》の文字へ、亀裂が走る。


 そして、粉々に砕け散った。


「そんな……」


 観客席から声が上がる。


「勇者様の力が……」


「誰が、私たちを守るんだ」


 信仰を失ったカイルが、膝をつく。


 白銀の鎧から輝きが消えた。


 勇者の紋章もない。


 神々しい魔力も、世界から与えられた幸運もない。


 今のカイルは、胸から血を流す一人の人間だった。


「馬鹿だな、お前」


 倒れかけた身体を支える。


「……そうかもしれない」


「全部失ったぞ」


「ああ」


「俺にはもう勝てない」


「今度は、自分の力で追いつく」


「何年かかると思ってる」


「お前が待て」


「断る」


 カイルが力なく笑った。


 その瞬間。


 民衆の魂を吸収していた術式が止まった。


 白い頁へ変わりかけていた身体が、元の姿へ戻っていく。


 だが、完全には解除されていない。


《原典聖書》から新たな文字が放たれ、折れた聖剣へ集まり始める。


「エルシア」


 ユリウスが呼ぶ。


「《永劫聖櫃》を使いなさい」


 ステンドグラスへ磔にされたエルシアの身体が強張った。


「聖剣を、破壊される直前の状態へ固定するのです」


「嫌です」


「あなたは聖女です」


 頭上の《聖女》が輝く。


 エルシアの両手が、本人の意思に反して動き始める。


「勇者を癒やし、失われた力を取り戻させる。それがあなたの役割です」


 白い光が、折れた聖剣を包む。


 亀裂が塞がっていく。


 黄金の紋章が、カイルの胸へ再び形作られ始める。


「やめろ、エルシア!」


 カイルが叫ぶ。


「止められません……!」


 エルシアが白い鎖へ抵抗する。


 両腕から血が流れる。


「私の力が、勝手に……!」


「受け入れなさい」


 ユリウスが告げる。


「あなたはカイルを救い、永遠の英雄へ変えるために存在する」


「違います」


「何が違うのです?」


「私は——」


 エルシアの視線が、俺へ向いた。


「私は、レオンを愛していました」


 過去形。


 その言葉に、胸の奥が僅かに痛んだ。


「だから、彼が変わることを恐れた」


 白い光が、聖剣を修復していく。


「優しかった彼が怒り、憎しみ、私の知らない者へ変わってしまうことに耐えられなかった」


 エルシアの足元から、別の白い光が広がり始める。


「愛したままの姿で、永遠に残したかった」


 それは聖剣へ向かっていない。


 王都全体に広がる《原典聖書》の術式へ向かっている。


「エルシア?」


 ユリウスが僅かに眉を動かす。


「ですが今は——」


 エルシアが、白い鎖を自らの手首へ食い込ませる。


 肉を裂き、骨を削りながら腕を動かす。


 修復しかけていた聖剣から、光が離れた。


「彼が選び、変わっていく時間を守りたい」


 王都を覆う術式が、現在の状態へ固定される。


 民衆の魂の吸収も。


 聖剣の修復も。


《原典聖書》の次の頁が開くことさえ、停止した。


「なぜです」


 ユリウスが問いかける。


「あなたは変化を恐れていた」


「はい」


「変わらない幸福を、誰よりも望んでいた」


「今も怖いです」


 エルシアは否定しない。


「今のレオンを、まだすべて受け入れられたわけではありません」


「ならば」


「それでも、怖いからといって——彼の時間を奪う理由にはなりません」


 エルシアの頭上で、《聖女》の文字が砕けた。


 ユリウスの命令によって救済する聖女ではない。


 一人の少女として、自分が守りたいものを選んだ。


「第一階位——《宣誓》」


 足元から、エルシアの身体が白い結晶へ変わり始める。


「《永劫聖櫃・アークセレス》」


 術式の停止と引き換えに、彼女自身の時間まで固定されていく。


「エルシア!」


 カイルが手を伸ばす。


「来ないでください!」


 エルシアが叫ぶ。


「今、私へ触れれば、あなたまで固定されます!」


「でも、このままじゃ……!」


「これが、私の選択です」


 足から腰へ。


 腰から胸へ。


 白い結晶が身体を覆っていく。


「レオン」


 名前を呼ばれる。


「何だ」


「今度は、あなたを止めるためではありません」


 エルシアが微笑む。


「あなたが答えを選ぶ時間を、守るために」


「ああ」


「これで……少しは、あなたの意思を信じたことになりますか?」


「まだ足りない」


「厳しいですね」


「勝手に眠るな。目を覚ましてから続きを聞く」


「はい」


 エルシアの身体が胸元まで結晶へ変わる。


 それでも《聖櫃》を解かない。


 王都の人間たちを守るため、自分の時間を差し出している。


「実に愚かです」


 ユリウスがエルシアを見る。


「変化は喪失を生む。あなたは、それを誰よりも理解していたはずだ」


「喪失だけでは……ありません」


 エルシアが答える。


「変わったからこそ、もう一度出会えるものもあります」


 白い結晶が首元まで達する。


 頭上の《聖女》が完全に消えた。


 その直後。


 ノアの背後に立っていた《災厄》の影が、巨大な咆哮を上げた。


 聖剣と聖女を失った物語が、新しい終幕を作ろうとしている。


 英雄が魔王を倒せないなら、災厄が世界を滅ぼす。


 そうしてユリウス自身が救済者となる筋書きへ変化しようとしていた。


「ぐっ……!」


 ノアが胸を押さえる。


 黒い魔力が、強制的に彼女の身体から引き出されていく。


 王都上空へ、巨大な黒い球体が出現した。


 光を呑み込み、周囲の空間を歪めている。


 落下すれば、観客席の人間だけではない。


 王都そのものが消滅する。


「止めろ、ノア!」


「妾が……やっているのではない!」


《災厄》の文字が、ノアの魂へ食い込んでいる。


 百年前の憎悪。


 人間に殺され、歴史から存在を消された怒り。


 それらが黒い球体へ流れ込んでいく。


「人間など……」


 ノアの瞳が、再び黒く濁る。


「妾を忘れた者どもなど、滅びればいい」


「ノア」


「妾の名前を消した!」


「ああ」


「妾を理由もなく人類を滅ぼそうとした怪物へ書き換えた!」


「ああ」


「なぜ妾が、あやつらを守らねばならぬ!」


「守る理由はない」


 ノアが俺を見る。


「ならば——」


「守らなくていい」


「何?」


「お前が守りたいと思わないなら、見捨てろ」


 無理に救わせるつもりはない。


 人間のために犠牲になれと命じれば、それもユリウスと同じだ。


「だが、あいつの命令で殺すな」


 王城のユリウスを示す。


「誰を殺すかは、お前のものだろ」


 ノアが黒い球体を見上げる。


「妾は、人間を許さぬ」


「知ってる」


「今も、滅ぼしてやりたいと思っている」


「ああ」


「それでも——」


 ノアの指先が動く。


 黒い魔力へ抗うように、胸元へ手を置いた。


「妾が誰を殺すかまで、あの男に決めさせるつもりはない」


 頭上の《災厄》が激しく明滅する。


「レオン」


「何だ」


「妾の名を呼べ」


 深紅の瞳が、真っ直ぐ俺を見る。


「ノア・ヴァルプルギス」


「もう一度だ」


「ノア・ヴァルプルギス」


「忘れるな」


「忘れない」


 ノアが、王都の民衆へ向き直る。


 小さな身体から、黒い魔力とは異なる深紅の光が溢れ始めた。


「墓碑を砕け」


 静かな声が、劇場全体へ響く。


「歴史を焼け。我が名を記す文字のすべてを、灰へ変えるがいい」


 観客席にいる一人一人の魂へ、深紅の糸が伸びていく。


「それでも私は、お前の夜に残り続ける」


 ノアの姿が、王都にいるすべての人間の記憶へ刻まれていく。


「瞼を閉ざせば声となり、心を閉ざせば傷となり、魂を捨てれば呪いとなろう」


 民衆の脳裏へ、百年前の光景が流れ込む。


 理由もなく世界を滅ぼそうとした怪物ではない。


 名前を持ち。


 怒りを持ち。


 悲しみを持ち。


 忘れられることを恐れた、一人の少女。


「忘却こそ死であるならば——」


 ノアが両腕を広げる。


「私は永遠に死を拒む」


 深紅の糸を通じ、民衆へ降り注ごうとしていた黒い魔力が逆流を始めた。


 王都を消滅させる力が、すべてノアの身体へ戻っていく。


「刻め——この名、この声、この存在を」


 黒い球体が縮小する。


 代わりに、ノアの身体へ無数の亀裂が走った。


「第一階位——《宣誓》」


 王都にいるすべての人間が、その名を聞いた。


「《永劫刻印・メメントモリ》」


 黒い球体が消滅した。


 膨大な破壊の力を引き受けたノアの身体が、内側から崩れ始める。


「ノア!」


 倒れかけた身体を抱き留める。


 今度は、すり抜けない。


 その代わり、指先から黒い灰となって崩れている。


「これで……人間どもは、妾を忘れられぬ」


「随分と強引な自己紹介だな」


「百年分だ。少し長くなっても構うまい」


「少しで済んでるか?」


「黙れ」


 弱々しい声だった。


 それでもノアは笑っていた。


「妾は、災厄として人間を救ったぞ」


「格好よかった」


「当然だ。妾は魔王だからな」


 頭上の《災厄》に亀裂が走る。


 人間を滅ぼすために放たれた力で、人間を救った。


 ユリウスに与えられた役割が、現実との矛盾へ耐えられなくなる。


 黒い文字が砕け散った。


 残る配役は、一つ。


 俺の頭上に浮かぶ《悪役》。


「最後はあなたです、レオン」


 ユリウスが王城から見下ろしている。


「カイルは英雄を捨てた」


 俺が支えるカイルは、勇者の力を失っている。


「エルシアは聖女を捨てた」


 彼女の身体は、白い結晶へ包まれつつある。


「ノアは災厄であることを拒んだ」


 俺の腕の中で、ノアは崩壊を止めようと必死に実体を保っている。


「しかし、あなたは違う」


 ユリウスの金色の瞳が、俺を捉える。


「あなたは私を殺すために、ここへ来た」


「ああ」


「王国への復讐を望んでいる」


「ああ」


「親友の裏切りを許さず、婚約者があなたを殺したことも忘れない」


「そのとおりだ」


「ならば、あなたは悪役です」


 胸に刻まれた黒い文字が、強く輝く。


「復讐を望む限り、あなたは私の配役から逃れられない」


「逃げる必要があるか?」


 ユリウスの表情が、僅かに止まった。


「俺は、お前を殺す」


 右手へ黒い炎を灯す。


「王国を許すつもりもない」


「それこそが悪役の証明です」


「だから何だ」


「何?」


「お前が俺を悪役と呼ぼうが、民衆が俺を魔王と呼ぼうが、好きにすればいい」


 右手を、自分の胸へ押し当てる。


 黒い炎が《悪役》の文字へ燃え移る。


 激痛が全身を貫いた。


「俺の怒りは消さない」


 処刑台へ送られた記憶。


 首を落とされた痛み。


 カイルに心臓を貫かれた苦痛。


 エルシアが俺の意思を無視したこと。


 何一つ忘れない。


「復讐心も、この右腕も、全部持っていく」


 黒い鱗へ覆われた腕は消えない。


 魔王の力も失わない。


 善人へ戻ることで、悪役を否定するつもりはない。


「それでも、俺を一言で語るな」


 胸の文字を掴む。


「俺の憎しみも、俺が守った命も、お前の役名に収まるほど軽くない」


 黒い炎を、胸の内側へ叩き込んだ。


「ぐっ……ああああっ!」


 魂へ刻まれた文字が焼ける。


 それは、俺の一部になりかけていたもの。


 無理に剥がせば、自分自身も壊れる。


 それでも手を離さない。


「役名ごときで——」


 文字へ指を食い込ませる。


「俺を語るな、ユリウス!」


《悪役》の文字を、胸から引きずり出す。


 黒い炎で握り潰した。


 頭上の役名が砕ける。


 身体から力が抜けた。


 それでも、右腕の鱗は残っている。


 王国への憎悪も。


 ユリウスを殺す意思も。


 何一つ消えていない。


 ただ、誰かに与えられた悪役ではなくなった。


 四つの役割が、すべて崩壊する。


 王都を覆っていた《救世劇場》が揺れた。


 白銀の天蓋へ、巨大な亀裂が走る。


 閉ざされていた夜空が、その向こうに覗いた。


 観客席が崩れ、拘束されていた民衆が解放される。


 白い頁へ変えられていた建物が、元の石と木へ戻っていく。


《救世劇場・テアトルム・ディヴィヌム》が崩壊する。


「終わりだ、ユリウス」


 ノアを支えながら、王城を見上げる。


「お前の物語は、誰も救えなかった」


 ユリウスは答えない。


 崩れゆく舞台の上で、《原典聖書》を見つめている。


 怒ってはいない。


 絶望もしていない。


 ただ、自分が理解できないものを見るような表情だった。


「なぜです」


 小さく呟く。


「正しい役割を与えた」


 父が役割を守っていれば、村は滅びなかった。


 母が限界を超えなければ、家族は残った。


「迷わなくて済む道を示した」


 それでも俺たちは役割を捨てた。


 幸福を保証された物語より、間違える可能性のある選択を取った。


「なぜ、人は自ら苦しむ道を選ぶのです」


「苦しまないことだけが、生きることじゃない」


「理解できません」


「理解しなくていい」


 ユリウスがゆっくりと顔を上げる。


「いいえ」


 その瞳に、初めて明確な狂気が宿った。


「理解される必要があるのは、あなた方の方です」


 ユリウスが《原典聖書》の中へ、右手を差し入れる。


 腕が頁と文字へ分解されていく。


「何をするつもりだ」


「役者が役割を捨てるのであれば——」


 左手も、本の中へ沈んでいく。


「語り手である私が、物語を完成させましょう」


《原典聖書》がユリウスの胸へ食い込む。


 祭服が裂け、皮膚へ無数の文字が刻まれていく。


 身体が紙へ変わる。


 血管の代わりに黒い文章が全身を巡り、心臓の位置で新たな頁を形成する。


 背中から、巨大な翼が広がった。


 羽ではない。


 何千、何万という本の頁で作られた翼。


「ユリウス……」


 カイルが、その異形を見上げる。


「あなた自身も、最初から本の一部になるつもりだったのか」


「私は世界を救うための語り手」


 ユリウスの声へ、無数の声が重なる。


「物語が完成するのであれば、私個人の存在など必要ありません」


 頭上に、最後の役名が刻まれた。


 ——《世界を救う殉教者》。


 崩壊しかけていた《救世劇場》が、再び動き出す。


 ただし、今度は役者へ役割を与えるためではない。


 王都そのものを《原典聖書》の中へ取り込むため。


 建物が頁へ変わり始める。


 人間の身体が文字へ分解されていく。


 空に開いた亀裂が閉じ、世界全体が一冊の本へ圧縮されていく。


「物語に終わりが必要ならば——」


 頁の翼を広げたユリウスが、王都の上空へ浮かび上がる。


「私自身が、その終止符となりましょう」


 王都全体が、巨大な書物の中へ落下を始めた。

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