第四話 愛したあなたのままで
地下施設を抜ける頃には、空が赤く染まり始めていた。
出口は王都東部の森に隠された、廃礼拝堂の地下へつながっていた。
崩れかけた祭壇を押し退け、地上へ出る。
数時間ぶりに吸い込んだ外の空気には、雨の匂いが混ざっていた。
「夜明けまで、あとどのくらいだ」
「八時間といったところか」
ノアが沈みかけた太陽を見上げる。
「妾が封じられている間に、一日の長さが変わっていなければな」
「百年程度で変わってたまるか」
「人間は百年もあれば、国の名前も、神の教えも、正義の意味すら変える。太陽の都合まで変えていても驚かぬ」
「人間を何だと思ってる」
「自分たちに都合がよければ、昨日の神を今日には悪魔と呼ぶ生き物だ」
否定しようとして、やめた。
ノアの名前と過去を消したのも人間だ。
俺を英雄の親友から、王国を裏切った悪役へ変えたのも人間だった。
少なくとも今の俺に、人間の一貫性を弁護する資格はない。
森の外へ出る。
ここから王都東門までは、徒歩で一時間ほど。
アルヴァレス領から王都へ入るには、必ずこの街道を通ることになる。
「先に行った護送隊の痕跡を探す」
「必要ない」
ノアが街道の先へ顔を向けた。
遠くから、車輪の音が聞こえる。
地面を踏み鳴らす、規則正しい足音も。
「向こうから来てくれたようだぞ」
木々の陰へ身を隠し、街道を確認する。
先頭には教会の紋章を掲げた騎馬兵。
その後ろに、鉄格子で覆われた護送車が何台も続いている。
荷台へ押し込まれているのは、罪人ではない。
老人。
女。
幼い子供。
見覚えのある顔もあった。
俺の屋敷で働いていた使用人。
領都の商人。
兵士の家族。
俺と一度でも関わったというだけで、反逆への協力者として連行された人々だ。
護送車の中から、子供の泣き声が聞こえる。
「静かにしろ!」
教会騎士が鉄格子を剣の柄で叩く。
「次に騒いだ者は、王都へ着く前に処分する!」
泣き声が途切れた。
怯えた母親が、子供の口を両手で塞いでいる。
胸に刻まれた《悪役》の文字が熱を帯びた。
怒りに呼応して、右手の指先が黒く染まり始める。
「全部で二十四人」
ノアが護送隊を観察する。
「先頭に騎兵が四。護送車の左右に八。後方に十二」
「領民は?」
「二百十三人。記憶で見た人数と、ほぼ同じだな」
「全員生きているか」
「衰弱している者はいるが、死者はいない」
間に合った。
懐へ手を入れ、《救世勇者計画》の記録が残っていることを確認する。
ユリウスの筋書きでは、俺は領民を助けるために姿を現す。
そして教会騎士を殺し、彼らを魔王軍へ加える悪役になるのだろう。
「どうする?」
「決まってる」
木陰から街道へ出る。
護送隊の先頭に立ち、道を塞いだ。
馬が嘶く。
先頭の騎士が手綱を引き、俺を見下ろした。
「何者だ!」
「これから処刑する相手の顔くらい、覚えておけ」
外套の頭巾を外す。
首に残る断頭の傷が、夕日に照らされた。
騎士たちの間に動揺が走る。
「レオン・アルヴァレス……!」
「死んだはずでは……」
「大審問官猊下の布告どおりだ! 魔王の力で蘇ったぞ!」
既に情報は伝わっているらしい。
騎士たちは護送車を背に、素早く陣形を整えた。
胸元の聖印が白く輝く。
二十四人の頭上へ、同じ文字が浮かび上がった。
——《断罪執行者》。
「反逆者レオン・アルヴァレス!」
隊長らしき男が剣を抜く。
「大審問官ユリウス・クロイツェル猊下の名において、貴様を断罪する!」
騎士たちの魔力が、一斉に膨れ上がる。
罪人と認識した相手へだけ、攻撃力を増加させる配役。
俺の頭上には今も、《人類を裏切った悪役》という役名が刻まれている。
相性は最悪だろう。
「そうか」
俺も地下施設で奪った剣を抜く。
「それなら俺も、アルヴァレス公爵家当主として命じる」
「貴様の爵位は剥奪された!」
「王国が奪っただけだ。俺が捨てた覚えはない」
護送車の中にいる領民たちを見る。
恐怖。
驚愕。
疑念。
その中に、僅かな希望が混ざっていく。
「そこにいる全員は、俺の領民だ」
胸に刻まれた《悪役》が、俺の言葉を拒むように痛みを与える。
構わず続ける。
「俺の領民を罪人と呼ぶなら、まず俺を通せ」
騎士隊長が片手を振り下ろす。
「執行せよ!」
二十四人が、同時に動いた。
最初に迫ったのは四騎の騎兵。
聖なる光を帯びた槍が、四方向から俺へ突き出される。
避けない。
左から迫る一本を掴む。
手の皮膚が裂けた。
《断罪執行者》の補正によって、通常の武器以上の力を得ている。
それでも、カイルの聖剣には遠く及ばない。
「軽いな」
槍を引き寄せる。
馬上の騎士が体勢を崩した。
奪った剣の峰で胸を打ち、地面へ叩き落とす。
その騎士を巻き込まないよう、残る三頭の馬が僅かに進路を変えた。
狙いどおりだ。
空いた中央を駆け抜ける。
二本の槍が脇腹と肩を掠めた。
傷口から黒い血が飛ぶ。
だが止まらない。
馬の横腹を掌で押し、黒い聖炎を流し込む。
馬ではなく、鞍だけを焼く。
三人の騎士が鞍ごと地面へ落下した。
「まず四人」
『随分と手慣れてきたではないか』
ノアが俺の背後を、歩くようについてくる。
「二度も死ねば、嫌でも慣れる」
『妾としては、三度目も見てみたいがな』
「お前も一緒に痛い思いをするぞ」
『それは困る』
左右から八人の騎士が迫る。
剣を合わせる必要はない。
足元へ黒い聖炎を走らせる。
「陣形を崩せ!」
隊長が叫ぶ。
騎士たちが散開した。
だが炎の狙いは、最初から彼らではない。
護送車の車輪をつないでいた金属部品が、黒い炎で焼き切れる。
傾いた護送車を避けるため、騎士たちの動きが乱れた。
その間を通り抜ける。
一人目の手首を打ち、剣を落とす。
二人目の膝裏を蹴り抜く。
三人目の盾を掴み、後ろの二人ごと押し倒す。
残った三人が同時に剣を振り下ろした。
身体を回転させ、剣を擦れ違わせる。
三本の刃が俺の頭上で衝突した。
互いの武器を弾き合い、腕が上がる。
空いた胴体へ、黒い魔力を纏った拳を叩き込んだ。
三人の鎧が同時にへこみ、街道の外まで吹き飛ぶ。
誰も殺していない。
それでも圧倒できる。
処刑台で二度死んだ代償が、確かに俺の力へ変わっている。
「化け物め……」
隊長が後退する。
「そうしたのは、お前たちだろ」
後方にいた十二人は、護送車の扉へ移動していた。
俺を攻撃するのではない。
捕らえた領民たちの喉へ剣を向けている。
「動くな!」
隊長が叫ぶ。
「それ以上近づけば、反逆者の協力者を処刑する!」
護送車の中から悲鳴が上がった。
「レオン様……!」
「お願いです、逃げてください!」
「我々のことは構わずに!」
何を言っている。
俺がこいつらを見捨てれば、誰が助けるというのだ。
「武器を捨てろ、レオン・アルヴァレス!」
隊長の剣が、一人の老人へ向けられる。
「三つ数える! 三——」
数え終わるより先に、俺は剣を地面へ落とした。
「レオン?」
ノアの声が低くなる。
「言われたとおりにしただけだ」
両手を上げる。
隊長の顔に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。
「そのまま跪け!」
「それは断る」
「何?」
「武器は捨てた。だから——素手で十分だ」
街道を蹴り砕く。
一歩で、隊長との距離を消した。
「な——」
反応する暇も与えない。
伸ばされた剣を素手で握る。
聖なる刃が掌へ食い込むが、構わずへし折った。
「さっき見せたはずだ」
折れた剣を放り捨てる。
「俺を殺した聖剣でさえ、もう俺には通じない」
隊長の顔を掴み、そのまま地面へ叩きつける。
首は折らない。
だが、しばらく立ち上がれない程度の衝撃は与えた。
残る騎士たちが領民を斬る前に、ノアが指を鳴らす。
彼女の姿は騎士たちには見えていない。
それでも俺の心臓を通じて放たれた黒い魔力が、護送車の錠前へ流れ込んだ。
すべての鉄格子が同時に開く。
「今だ! 伏せろ!」
領民たちが一斉に床へ身を伏せる。
騎士たちの視界から人質が消えた。
地面を蹴る。
黒い炎の軌跡を残しながら、十二人の間を駆け抜けた。
一人につき、一撃。
顎。
鳩尾。
こめかみ。
意識だけを正確に刈り取る。
最後の一人が倒れるまで、十秒もかからなかった。
静かになった街道へ、風が吹き抜ける。
護送車の中で、誰も動かなかった。
死んだはずの領主。
首に処刑の傷を残し、黒い炎を操る男。
恐れるのも無理はない。
「怪我人を外へ運べ」
沈黙を破って命じる。
「夜明けまで時間がない。動ける者は、動けない者へ肩を貸せ」
それでも、誰も動かない。
仕方がない。
俺が最初の護送車へ近づいたときだった。
「お待ちください」
奥から低い声が響いた。
領民たちを分け、一人の男が前へ出る。
四十代後半。
短く刈った灰色の髪。
左の額から頬へかけて、古い傷が走っている。
両手には魔力封じの枷。
鎧も武器も奪われていたが、その立ち姿だけは騎士のものだった。
「ガレス」
ガレス・バルハルト。
父の代からアルヴァレス家へ仕え、領軍を率いてきた騎士団長。
裁判が始まる前、領民を逃がすよう命じたはずだった。
「お前まで捕まったのか」
「面目次第もございません」
「責めてはいない。顔を上げろ」
ガレスは答えない。
俺を見たまま、枷を嵌められた両手を剣の柄へ近づけるように動かした。
今の姿を警戒している。
それでいい。
忠誠と盲信は違う。
「俺が魔王に身体を奪われたと思うか?」
「分かりません」
ガレスは正直に答えた。
「私が知るレオン様は、黒い炎を操ることも、断たれた首をつなぐこともできませんでした」
「ああ」
「ですが——」
ガレスが周囲へ目を向ける。
倒された教会騎士たちは、全員生きている。
護送車にいた領民にも、一人の犠牲者も出ていない。
「ご自身の命より領民を優先されるお方を、私は一人しか存じ上げません」
ガレスがその場へ片膝をついた。
枷の鎖が鳴る。
「お姿が変わろうと、その行いまでは変わっておりません」
深く頭を下げる。
「ならば私がお仕えするのも、以前と同じレオン様です」
護送車の中から、嗚咽が聞こえた。
一人の老人がガレスに続いて頭を下げる。
母親が子供を抱き締めたまま、涙を流す。
「レオン様……」
「本当に、レオン様なのですね」
「生きておられた……」
次々に人々が護送車から降り、俺へ頭を下げていく。
胸に刻まれた《悪役》が、焼けるように痛んだ。
人間を支配し、従わせろという衝動が流れ込んでくる。
だが、目の前の者たちは操られているわけではない。
俺がレオンであると、自分たちで選んで信じている。
それをユリウスの配役と同じものにするつもりはない。
「頭を上げろ」
領民たちへ告げる。
「俺は王国から反逆者とされ、魔王の力を得た。俺と行動すれば、お前たちも人類の敵になる」
誰かが息を呑む。
「俺への忠誠を強制するつもりはない。王国側へ戻りたい者は戻れ。ここで見たことも、俺の行き先も、好きに話せばいい」
「レオン様は、どちらへ?」
ガレスが尋ねる。
「王都へ戻る」
「ユリウスを討たれるのですか」
「ああ」
「でしたら、私も——」
「駄目だ」
即座に拒絶する。
「お前には、領民を安全な場所へ逃がしてもらう」
「しかし!」
「ガレス」
名前を呼ぶと、騎士団長が口を閉じた。
「二百人を守りながら、俺は戦えない。これはお前にしか任せられない役目だ」
ガレスが拳を握る。
戦いたいのだろう。
俺を一人で死地へ戻したくないのだろう。
それでも最後には、感情より役目を優先した。
「承知いたしました」
もう一度頭を下げる。
「この命に代えましても、皆をお守りいたします」
「死ぬな。生きて守れ」
「……御意」
ガレスの枷を黒い聖炎で焼き切る。
続けて領民たちの拘束を解いていく。
最後の一人の枷が外れた、そのとき。
街道の先から、鐘の音が響いた。
教会の鐘ではない。
澄んだ、静かな音。
一度聞いただけで、荒れていた魔力が鎮められていく。
「この気配……」
ノアが、初めて明確な警戒を見せる。
「レオン。下がれ」
「知っているのか?」
「知らぬ。だが、妾の力を抑え込もうとしている」
街道の先へ、白い光が降り注ぐ。
光の中から、一人の少女が歩いてきた。
腰まで伸びる淡い銀髪。
白と金の聖衣。
紫水晶の瞳は、真っ直ぐ俺へ向けられている。
エルシア・ルミナリエ。
俺の元婚約者。
「レオン……」
名前を呼ぶ声が震えていた。
処刑台で見たときよりも顔色が悪い。
泣き腫らした目元。
それでも俺を見失わないように、瞬きすら我慢している。
「こんなところまで、何をしに来た」
「あなたを迎えに来ました」
「カイルは?」
「治療を受けています。命に別状はありません」
「そうか」
「ご心配なのですか?」
「一応、二度殺された相手だからな。簡単に死なれては困る」
エルシアの表情が苦痛に歪む。
俺の首に残る傷。
胸元に残る聖剣の痕。
それを見て、自分が何を選んだのか思い出しているのだろう。
「やはり……あなただったのですね」
「カイルは、俺じゃないと言い張っていたぞ」
「私は、あなたを見間違えません」
エルシアが一歩近づく。
ノアが俺と彼女の間へ入る。
「それ以上近づくな、聖女」
初めて、エルシアの視線がノアへ向いた。
「あなたが……魔王ノア」
「妾が見えるか」
「聖女の瞳は、魂の形を見分けます」
エルシアの紫の瞳が、ノアの胸元へ向けられる。
「レオンの心臓から離れてください」
「断る」
「あなたさえ離れれば、まだ彼を救えます」
「救う?」
ノアが嘲るように笑った。
「一度殺した男を、今度はどう救うつもりだ?」
エルシアの肩が揺れた。
それでも視線を逸らさない。
「俺も聞きたい」
ノアの隣へ立つ。
「なぜ、俺を殺した」
「それは……」
「牢獄では何も答えなかった。今度は話せ」
エルシアが両手を胸元で握り締める。
「神託を受けたのです」
「神託?」
「あなたが魔王となり、王都を滅ぼす未来を見ました」
黒い炎に包まれた王都。
砕かれたカイルの聖剣。
無数の死体の中に立つ俺。
その隣で笑うノア。
エルシアは、自分が見た未来を一つずつ語った。
「ユリウスに見せられたのか」
「大審問官猊下が、神託を与えたわけではありません」
「教会の神託機構を管理しているのは、誰だ?」
エルシアが言葉を失う。
懐から《救世勇者計画》の書類を取り出し、彼女の足元へ投げる。
「読め」
エルシアは書類を拾い上げる。
頁を捲るごとに、顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
「俺の処刑は、ノアの心臓を覚醒させるための儀式だった。お前もカイルも、最初から利用されていた」
「違います」
「何が違う」
「大審問官猊下は、あなたの魂を救うと約束してくださいました」
声に必死さが混ざる。
「肉体を処刑し、魔王へ変わる前の魂を《聖櫃》へ保存する。いつか安全な器が完成したとき、あなたを蘇らせると」
「その間、俺の意思は?」
「え……?」
「俺はそれを望んだのか?」
「ですが、そうしなければあなたは魔王に——」
「俺へ話したか?」
「それは……」
「俺が何を選ぶか、聞いたのか?」
エルシアの唇が震える。
「聞けなかったのです」
「なぜだ」
「あなたなら、必ず戦うと言うからです!」
エルシアの叫びが、街道へ響いた。
「未来を知っても、あなたは一人で背負おうとする! 自分が傷つくことも、死ぬことも恐れず、最後には本当に人間ではなくなってしまう!」
「だから、俺を先に殺した?」
「あなたを失いたくなかった!」
「殺しておいてか」
「魂は残るはずだったのです!」
エルシアの瞳から涙が溢れる。
「今のあなたに理解していただけなくても、いつか必ず元へ戻せると信じていました! 私を憎んでも構いません。二度と愛していただけなくてもいい。それでも——あなたがあなたでなくなるよりは……!」
嘘ではない。
エルシアは本気で俺を愛している。
自分が嫌われることも、憎まれることも覚悟していた。
俺を救うためなら、婚約者としての未来すら捨てるつもりだった。
だからこそ、許せなかった。
「俺を見ろ、エルシア」
「見ています」
「違う」
一歩近づく。
「お前が見ているのは、処刑される前の俺だ」
「あなたは今も——」
「俺は復讐を望んでいる」
エルシアの言葉を遮る。
「ユリウスを殺す。俺を陥れた王国も許さない。必要なら魔王の力も使う」
「それは、ノアに心を侵されているからです」
「俺がそう選んだと言ったら?」
「違います」
「なぜ、お前に分かる」
「私はあなたを愛しているから!」
迷いのない答えだった。
「レオンは、そんなことを望む人ではありません。優しく、誰よりも領民を想い、憎しみに身を任せるような人では——」
「妾には、そうは見えぬがな」
ノアが口を挟む。
「黙ってください」
「嫌だ」
ノアが深紅の瞳でエルシアを見据える。
「お前が愛しているのは、この男ではない」
「何を……」
「自分の記憶の中で、都合よく笑っている人形だ」
エルシアの周囲に、白い魔力が溢れ始める。
「あなたに、私の何が分かるのですか」
「分からぬ。だが、こやつを見れば分かる」
ノアが俺の胸へ手を添える。
実体の薄い指が、心臓の位置へ重なった。
「怒りも、憎しみも、殺意も、この男のものだ。妾が与えたのではない」
「あなたが増幅させているのでしょう」
「否定はせぬ」
ノアが僅かに笑う。
「妾はこやつへ、復讐をやめろとは言わぬ。魔王になるなとも、人間でいろとも言わぬ」
「それは救いではありません」
「そもそも、こやつはお前の救いなど求めておらぬ」
「あなたは——」
エルシアがノアを睨む。
「レオンが苦しむことを、許しているだけです」
ノアの笑みが僅かに消えた。
「それを自由と呼び、彼が憎しみに染まり、壊れていく姿を楽しんでいる」
「……ほう」
「あなたはレオンを救いたいのではありません。自分と同じ魔王へ堕ちていく仲間が欲しいだけです」
白い魔力と黒い魔力が、街道の中央で衝突する。
どちらの言葉も、完全な間違いではない。
エルシアは俺を愛している。
ノアは俺の自由を認めている。
同時に、エルシアは俺の意思を無視し、ノアは俺が破滅へ近づくことを止めようとしていない。
「レオン」
エルシアが俺へ片手を伸ばす。
「戻りましょう」
「どこへ」
「あなたが、あなたでいられる場所へ」
「それを決めるのは、お前じゃない」
「今は分かっていただけなくても構いません」
聞き覚えのある言葉。
牢獄でも、彼女はそう言った。
何を答えても、エルシアは自分の選択を変えない。
俺が何を望んでいるかではなく、自分が正しいと信じた救済を与えようとする。
「今度こそ、私があなたを守ります」
エルシアの背後へ、巨大な光輪が現れた。
ステンドグラスを思わせる色鮮やかな光。
ノアが俺の腕を掴む。
「来るぞ」
エルシアの唇から、静かな詠唱が紡がれる。
「花は散り、雪は溶け——」
吹いていた風が止まる。
木々から落ちかけていた葉が、空中で静止した。
「愛した面影さえ、時の彼方へ失われる」
夕日が動きを止める。
空を飛んでいた鳥が、翼を広げた姿のまま固定される。
「なぜ、すべては変わってしまうのですか」
エルシアの涙が、頬を伝う途中で止まった。
「なぜ、この手に残ることを許されないのですか」
ノアが黒い炎を放つ。
炎はエルシアへ届く前に空中で固定され、燃え広がることも、消えることもできなくなった。
「ならば私は、時を閉ざしましょう」
足が動かない。
逃げようと命令しても、筋肉が次の状態へ変化できない。
「傷つく前の微笑みを」
右腕を覆っていた黒い色が、僅かに薄れる。
「穢れる前の魂を」
胸に宿るノアとの接続が、凍りつくように弱まっていく。
「愛したままのあなたを」
「やめろ、エルシア」
声だけは出た。
彼女は止まらない。
「救いとは、失わぬこと。慈悲とは、変わらぬこと」
心臓が、次の鼓動を打てない。
止まったわけではない。
鼓動と鼓動の間へ、永遠に閉じ込められている。
「どうか眠ってください」
エルシアが俺の前へ立つ。
頬へ触れようと、白い指を伸ばす。
「永遠が、あなたを奪えなくなるまで」
紫水晶の瞳に、過去の俺が映っている。
「第一階位——《宣誓》」
光が、俺の全身を包み込んだ。
「《永劫聖櫃・アークセレス》」
すべてが止まった。
死ねない。
生きることもできない。
身体が変化しないため、《葬命反転》も発動しない。
ノアとの接続も、途切れる寸前で固定されている。
意識だけが残り、肉体は永遠の一瞬へ閉じ込められた。
「レオン!」
遠くでノアの声が聞こえる。
反応できない。
エルシアの手が頬へ触れる。
温かい。
幼い頃、教会の式典から逃げ出した彼女の手を引いたことを思い出す。
あの頃と同じ手。
「もう、苦しまなくていいのです」
エルシアが微笑む。
「怒る必要も、誰かを憎む必要もありません」
優しい声だった。
「今度こそ、永遠に私がお守りします」
これがエルシアの救い。
死なない。
傷つかない。
変わらない。
何も失わない代わりに、何も選べない。
——こんなものを、生きているとは呼ばない。
「エルシア!」
ノアが何度も黒い炎を放つ。
すべて空中で固定される。
エルシアは俺を抱き締めたまま、ノアへ視線を向けた。
「あなたとレオンの接続も、現在の状態で固定しました」
「妾を消すつもりか」
「いいえ。あなたには、レオンを蘇らせていただいた恩があります」
「ならば解放しろ」
「それはできません」
エルシアが首を横へ振る。
「接続を維持したまま、あなたの意識だけを眠らせます。そうすればレオンは消滅せず、あなたが彼を変えることもありません」
「どこまでも勝手な女だな」
「レオンを破滅させるあなたには、言われたくありません」
「破滅するかどうかも、こやつ自身が決めることだ!」
「本人が誤った選択をしようとしているなら、止めることも愛です!」
「愛という言葉を、鎖の名前に使うな!」
ノアの叫びが響く。
エルシアの《聖櫃》は揺らがない。
俺の意識も、少しずつ薄れていく。
このまま眠れば、二度と目を覚ませない。
処刑よりも静かな終わり。
痛みもない。
復讐を諦めれば、楽になれる。
エルシアの腕の中で、愛されていた過去の自分へ戻れる。
『レオン』
ノアの声が、微かに聞こえた。
耳からではない。
記憶の奥から響いている。
『妾の名を呼べ』
呼べない。
唇も、声帯も固定されている。
『声にする必要はない』
ノアの姿が見えなくなる。
エルシアが彼女の意識まで固定し始めたのだろう。
『妾を覚えていろ』
深紅の瞳。
尊大な笑み。
心臓しか残っていないくせに、魔王を名乗る少女。
俺が何へ変わっても、その選択を否定しなかった女。
『妾も、お前を覚えている』
ノアの声が消えた。
同時に、別の場所で何かが動く。
俺の身体ではない。
エルシアの記憶。
彼女の魂へ、ノアが自分の存在を刻み込んでいく。
「何を……」
エルシアの表情が歪む。
彼女の中へ、俺の記憶が流れ込む。
断罪剣が首を落とした瞬間。
石床へ転がり、歓声を聞いた絶望。
カイルの聖剣に心臓を貫かれ、魂まで焼かれた苦痛。
ノアに名前を呼ばれ、再び目を覚ました瞬間。
領民を助けるため、自分の意思で王都へ戻ると決めたこと。
処刑される前の俺だけではない。
復讐を望み、魔王の力を受け入れた今の俺が、エルシアの記憶へ刻み込まれる。
「違う……」
エルシアが俺から離れる。
「これは、レオンでは……」
否定しようとして、できない。
ノアの《永劫刻印》によって与えられた記憶は、偽物ではない。
俺が実際に経験し、選んだもの。
エルシアの中に存在する「保存すべきレオン」が二つへ分かれる。
処刑前の、彼女が愛した俺。
処刑後の、自分の意思で復讐を選んだ俺。
《永劫聖櫃》が、どちらを固定すべきか判断できなくなる。
世界へ、亀裂が走った。
空中で止まっていた葉が揺れる。
心臓が、次の鼓動へ進もうとする。
——どくん。
小さな鼓動。
それで十分だった。
「お前が守りたかった俺も——」
固定されていた唇が、僅かに動く。
「確かに、俺だ」
「レオン……」
「お前を愛し、領民を守り、誰も憎まずに生きようとした」
身体を覆う白い光へ、黒い亀裂が走る。
「だが、処刑された俺も」
右手の指が動く。
「復讐を選んだ俺も」
拳を握る。
「すべて、俺だ」
エルシアが両手を伸ばす。
「待ってください! 今、封印を解けば、あなたは本当に——」
「何に変わるかは、俺が決める」
胸の奥から、黒い魔力が噴き上がった。
白い《聖櫃》が、内側から砕け散る。
止まっていた時間が、一斉に動き出した。
葉が地面へ落ちる。
鳥が空を横切る。
夕日が地平線へ沈んでいく。
解放された黒い炎が街道を覆った。
「きゃっ……!」
エルシアが炎に呑まれる寸前、その身体を抱き寄せる。
外套で包み、黒い炎から守る。
彼女は俺の腕の中で、呆然としていた。
「どうして……」
「何がだ」
「私を、助けるのですか」
「助けたいと思ったからだ」
「それなら、あなたはまだ——」
「勘違いするな」
エルシアを立たせ、手を離す。
「優しいから助けたんじゃない。お前を今ここで殺す必要がないと、俺が決めただけだ」
「レオン……」
「お前が愛した俺は、処刑台で死んだ」
エルシアの瞳から、再び涙が溢れる。
「違います。あなたは、今も——」
「最後まで聞け」
首に残る断頭の傷へ触れる。
「それでも、今ここにいる俺もレオン・アルヴァレスだ」
次に、胸の傷へ触れる。
「怒りも、憎しみも、復讐心も含めてな」
エルシアは何も言えない。
「お前がそれを認められないなら——俺たちはもう、一緒にはいられない」
婚約を破棄する。
その言葉を、あえて口にはしなかった。
既に俺は爵位を奪われ、反逆者として処刑された。
俺たちをつないでいた婚約など、王国の記録上は消えている。
それでも今、この瞬間。
俺たちの関係は本当に終わった。
エルシアは追い縋らなかった。
ただ胸元で両手を握り、俺を見ている。
「私のしたことを……許してくださらないのですね」
「許してほしいのか?」
「分かりません」
エルシアが俯く。
「あなたを救いたかった気持ちは、今も間違いだったと思えないのです」
「なら、無理に謝るな」
「ですが、あなたを傷つけました」
「ああ」
「私があなたの意思を信じられなかったことも……今なら、少しだけ分かります」
「少しか」
「すぐにすべてを認められるほど、私は強くありません」
初めてだった。
聖女として正しい答えではなく、エルシア自身の弱さを口にした。
「それでいい」
「え……?」
「今すぐ変われとは言わない。俺も、お前に自分の正しさを押しつけるつもりはない」
エルシアを許したわけではない。
元の関係へ戻るつもりもない。
それでも、彼女が自分で選ぶことまで奪いたくはなかった。
「次に会うまでに決めろ」
「何をですか」
「今の俺を見るか。過去の俺だけを愛し続けるか」
エルシアは答えなかった。
答えられないのだろう。
ノアが俺の隣へ戻ってくる。
実体は薄くなり、輪郭も透けていた。
「随分と優しいことだ」
「文句があるのか」
「別に。ただ、妾ならば一度殺している」
「それではユリウスの配役どおりだ」
「そういうことにしておいてやろう」
ノアはエルシアを一瞥する。
「勘違いするな、聖女」
「何をですか」
「妾はレオンが壊れる姿を楽しみたいわけではない」
先ほどの言葉が効いていたらしい。
「ただ、こやつが壊れることすら選ぶのなら、その選択を否定せぬだけだ」
「それは同じことでは?」
「まるで違う」
「私には分かりません」
「ならば百年ほど考えろ」
「人間は、百年も生きられません」
「不便だな」
そのやり取りへ、僅かに力が抜ける。
だが、次の瞬間。
王都の方角から鐘が鳴り響いた。
一度。
二度。
三度。
空へ巨大な光の文字が浮かび上がる。
ユリウスの声が、王都だけでなく周辺一帯へ響き渡った。
『王国臣民の皆様へ、お伝えしなければならない悲しい報せがあります』
穏やかな声。
それだけで、胸に刻まれた《悪役》が疼いた。
『反逆者レオン・アルヴァレスは、魔王の力によって復活しました』
「もう……」
エルシアが空を見上げる。
『彼は教会騎士を襲撃し、捕らえられていた反逆者たちを解放』
嘘ではない。
だからこそ悪質だった。
『さらに、彼を救おうとした聖女エルシア・ルミナリエへ襲いかかり、その魂を魔王の力によって汚染しました』
「違います!」
エルシアが叫ぶ。
だが、その声が王都へ届くことはない。
『レオン・アルヴァレスは、領民を魔王軍へ加え、王都への侵攻を開始しました』
街道の遥か先。
王都の中から、恐怖が膨れ上がるのを感じる。
俺を悪役だと信じる、何万もの認識。
人類の敵。
聖女を襲った魔王。
領民を支配した反逆者。
そのすべてが《聖典配役》を通じ、俺の身体へ流れ込んでくる。
「ぐっ……!」
右腕が燃え上がった。
黒い炎ではない。
皮膚の下から、肉体そのものが変化していく。
腕を覆う黒い鱗。
指先が伸び、獣の爪へ変わる。
骨が軋み、右腕だけが人間のものではなくなっていく。
「レオン!」
エルシアが駆け寄ろうとする。
「来るな!」
反射的に腕を振るう。
伸びた爪が街道を抉り、深い亀裂を刻んだ。
力が溢れている。
先ほどまでとは比較にならない。
同時に、頭の中へ声が響く。
——殺せ。
エルシアを殺せ。
領民を殺せ。
人間を殺せば、お前はもっと強くなれる。
「黙れ……」
左手で右腕を押さえる。
鱗の侵食が肩まで広がっていく。
『人類の皆様。どうか恐れないでください』
ユリウスの声が続く。
『我々には、勇者カイルがいます』
王都から、歓声が上がった。
その歓声さえ、俺を悪役へ近づける力となる。
『聖女エルシアも、必ず我々の手で救い出します』
「違う……私は、ここに……」
エルシアの声が震える。
彼女自身の意思とは無関係に、救われるべき聖女という役割が強められていく。
俺が彼女へ近づけば、それだけで聖女を害する悪役として扱われる。
『正しい物語は、決して悪に屈しません』
胸の文字が焼ける。
視界が赤く染まる。
目の前にいる人間すべてが、肉の塊に見え始める。
一人殺せば楽になる。
全員殺せば、俺を悪役と呼ぶ者はいなくなる。
——違う。
それではユリウスの望みどおりだ。
分かっている。
それでも、殺意を止められない。
「ガレス……」
歯を食いしばりながら命じる。
「領民を連れて、今すぐ離れろ」
「しかし、レオン様が——」
「命令だ!」
ガレスが一瞬だけ迷う。
すぐに領民たちへ向き直った。
「全員、森へ入れ! 動けない者へ肩を貸せ! 振り返るな!」
領民たちが動き出す。
俺を心配して何度も振り返る者もいたが、ガレスが先へ進ませる。
それでいい。
今の俺の近くに、人間を置いてはいけない。
「エルシアも行け」
「できません」
「今のお前なら、俺の《悪役》を強めるだけだ」
「それでも、あなたを一人には——」
「一人ではない」
俺の前へ、ノアが立った。
深紅の瞳が、赤く染まった俺の視界を塞ぐ。
伸ばされた両手が、黒い鱗に覆われた右腕を掴んだ。
今にも消えそうな身体。
それでも、俺から離れない。
「レオン」
ノアの声だけが、無数の殺意を押し退けて届く。
「妾を見ろ」
深紅の瞳に、自分の姿が映っている。
右腕は怪物。
首には断頭の傷。
胸には聖剣の痕。
人間とは呼べない姿へ近づいている。
それでもノアは、目を逸らさなかった。
「お前が何者か、思い出せ」
胸の中で、二つの心臓が重なるように脈打った。
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