↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/10

第四話 愛したあなたのままで

 地下施設を抜ける頃には、空が赤く染まり始めていた。


 出口は王都東部の森に隠された、廃礼拝堂の地下へつながっていた。


 崩れかけた祭壇を押し退け、地上へ出る。


 数時間ぶりに吸い込んだ外の空気には、雨の匂いが混ざっていた。


「夜明けまで、あとどのくらいだ」


「八時間といったところか」


 ノアが沈みかけた太陽を見上げる。


「妾が封じられている間に、一日の長さが変わっていなければな」


「百年程度で変わってたまるか」


「人間は百年もあれば、国の名前も、神の教えも、正義の意味すら変える。太陽の都合まで変えていても驚かぬ」


「人間を何だと思ってる」


「自分たちに都合がよければ、昨日の神を今日には悪魔と呼ぶ生き物だ」


 否定しようとして、やめた。


 ノアの名前と過去を消したのも人間だ。


 俺を英雄の親友から、王国を裏切った悪役へ変えたのも人間だった。


 少なくとも今の俺に、人間の一貫性を弁護する資格はない。


 森の外へ出る。


 ここから王都東門までは、徒歩で一時間ほど。


 アルヴァレス領から王都へ入るには、必ずこの街道を通ることになる。


「先に行った護送隊の痕跡を探す」


「必要ない」


 ノアが街道の先へ顔を向けた。


 遠くから、車輪の音が聞こえる。


 地面を踏み鳴らす、規則正しい足音も。


「向こうから来てくれたようだぞ」


 木々の陰へ身を隠し、街道を確認する。


 先頭には教会の紋章を掲げた騎馬兵。


 その後ろに、鉄格子で覆われた護送車が何台も続いている。


 荷台へ押し込まれているのは、罪人ではない。


 老人。


 女。


 幼い子供。


 見覚えのある顔もあった。


 俺の屋敷で働いていた使用人。


 領都の商人。


 兵士の家族。


 俺と一度でも関わったというだけで、反逆への協力者として連行された人々だ。


 護送車の中から、子供の泣き声が聞こえる。


「静かにしろ!」


 教会騎士が鉄格子を剣の柄で叩く。


「次に騒いだ者は、王都へ着く前に処分する!」


 泣き声が途切れた。


 怯えた母親が、子供の口を両手で塞いでいる。


 胸に刻まれた《悪役》の文字が熱を帯びた。


 怒りに呼応して、右手の指先が黒く染まり始める。


「全部で二十四人」


 ノアが護送隊を観察する。


「先頭に騎兵が四。護送車の左右に八。後方に十二」


「領民は?」


「二百十三人。記憶で見た人数と、ほぼ同じだな」


「全員生きているか」


「衰弱している者はいるが、死者はいない」


 間に合った。


 懐へ手を入れ、《救世勇者計画》の記録が残っていることを確認する。


 ユリウスの筋書きでは、俺は領民を助けるために姿を現す。


 そして教会騎士を殺し、彼らを魔王軍へ加える悪役になるのだろう。


「どうする?」


「決まってる」


 木陰から街道へ出る。


 護送隊の先頭に立ち、道を塞いだ。


 馬が嘶く。


 先頭の騎士が手綱を引き、俺を見下ろした。


「何者だ!」


「これから処刑する相手の顔くらい、覚えておけ」


 外套の頭巾を外す。


 首に残る断頭の傷が、夕日に照らされた。


 騎士たちの間に動揺が走る。


「レオン・アルヴァレス……!」


「死んだはずでは……」


「大審問官猊下の布告どおりだ! 魔王の力で蘇ったぞ!」


 既に情報は伝わっているらしい。


 騎士たちは護送車を背に、素早く陣形を整えた。


 胸元の聖印が白く輝く。


 二十四人の頭上へ、同じ文字が浮かび上がった。


 ——《断罪執行者》。


「反逆者レオン・アルヴァレス!」


 隊長らしき男が剣を抜く。


「大審問官ユリウス・クロイツェル猊下の名において、貴様を断罪する!」


 騎士たちの魔力が、一斉に膨れ上がる。


 罪人と認識した相手へだけ、攻撃力を増加させる配役。


 俺の頭上には今も、《人類を裏切った悪役》という役名が刻まれている。


 相性は最悪だろう。


「そうか」


 俺も地下施設で奪った剣を抜く。


「それなら俺も、アルヴァレス公爵家当主として命じる」


「貴様の爵位は剥奪された!」


「王国が奪っただけだ。俺が捨てた覚えはない」


 護送車の中にいる領民たちを見る。


 恐怖。


 驚愕。


 疑念。


 その中に、僅かな希望が混ざっていく。


「そこにいる全員は、俺の領民だ」


 胸に刻まれた《悪役》が、俺の言葉を拒むように痛みを与える。


 構わず続ける。


「俺の領民を罪人と呼ぶなら、まず俺を通せ」


 騎士隊長が片手を振り下ろす。


「執行せよ!」


 二十四人が、同時に動いた。


 最初に迫ったのは四騎の騎兵。


 聖なる光を帯びた槍が、四方向から俺へ突き出される。


 避けない。


 左から迫る一本を掴む。


 手の皮膚が裂けた。


 《断罪執行者》の補正によって、通常の武器以上の力を得ている。


 それでも、カイルの聖剣には遠く及ばない。


「軽いな」


 槍を引き寄せる。


 馬上の騎士が体勢を崩した。


 奪った剣の峰で胸を打ち、地面へ叩き落とす。


 その騎士を巻き込まないよう、残る三頭の馬が僅かに進路を変えた。


 狙いどおりだ。


 空いた中央を駆け抜ける。


 二本の槍が脇腹と肩を掠めた。


 傷口から黒い血が飛ぶ。


 だが止まらない。


 馬の横腹を掌で押し、黒い聖炎を流し込む。


 馬ではなく、鞍だけを焼く。


 三人の騎士が鞍ごと地面へ落下した。


「まず四人」


『随分と手慣れてきたではないか』


 ノアが俺の背後を、歩くようについてくる。


「二度も死ねば、嫌でも慣れる」


『妾としては、三度目も見てみたいがな』


「お前も一緒に痛い思いをするぞ」


『それは困る』


 左右から八人の騎士が迫る。


 剣を合わせる必要はない。


 足元へ黒い聖炎を走らせる。


「陣形を崩せ!」


 隊長が叫ぶ。


 騎士たちが散開した。


 だが炎の狙いは、最初から彼らではない。


 護送車の車輪をつないでいた金属部品が、黒い炎で焼き切れる。


 傾いた護送車を避けるため、騎士たちの動きが乱れた。


 その間を通り抜ける。


 一人目の手首を打ち、剣を落とす。


 二人目の膝裏を蹴り抜く。


 三人目の盾を掴み、後ろの二人ごと押し倒す。


 残った三人が同時に剣を振り下ろした。


 身体を回転させ、剣を擦れ違わせる。


 三本の刃が俺の頭上で衝突した。


 互いの武器を弾き合い、腕が上がる。


 空いた胴体へ、黒い魔力を纏った拳を叩き込んだ。


 三人の鎧が同時にへこみ、街道の外まで吹き飛ぶ。


 誰も殺していない。


 それでも圧倒できる。


 処刑台で二度死んだ代償が、確かに俺の力へ変わっている。


「化け物め……」


 隊長が後退する。


「そうしたのは、お前たちだろ」


 後方にいた十二人は、護送車の扉へ移動していた。


 俺を攻撃するのではない。


 捕らえた領民たちの喉へ剣を向けている。


「動くな!」


 隊長が叫ぶ。


「それ以上近づけば、反逆者の協力者を処刑する!」


 護送車の中から悲鳴が上がった。


「レオン様……!」


「お願いです、逃げてください!」


「我々のことは構わずに!」


 何を言っている。


 俺がこいつらを見捨てれば、誰が助けるというのだ。


「武器を捨てろ、レオン・アルヴァレス!」


 隊長の剣が、一人の老人へ向けられる。


「三つ数える! 三——」


 数え終わるより先に、俺は剣を地面へ落とした。


「レオン?」


 ノアの声が低くなる。


「言われたとおりにしただけだ」


 両手を上げる。


 隊長の顔に、勝利を確信した笑みが浮かんだ。


「そのまま跪け!」


「それは断る」


「何?」


「武器は捨てた。だから——素手で十分だ」


 街道を蹴り砕く。


 一歩で、隊長との距離を消した。


「な——」


 反応する暇も与えない。


 伸ばされた剣を素手で握る。


 聖なる刃が掌へ食い込むが、構わずへし折った。


「さっき見せたはずだ」


 折れた剣を放り捨てる。


「俺を殺した聖剣でさえ、もう俺には通じない」


 隊長の顔を掴み、そのまま地面へ叩きつける。


 首は折らない。


 だが、しばらく立ち上がれない程度の衝撃は与えた。


 残る騎士たちが領民を斬る前に、ノアが指を鳴らす。


 彼女の姿は騎士たちには見えていない。


 それでも俺の心臓を通じて放たれた黒い魔力が、護送車の錠前へ流れ込んだ。


 すべての鉄格子が同時に開く。


「今だ! 伏せろ!」


 領民たちが一斉に床へ身を伏せる。


 騎士たちの視界から人質が消えた。


 地面を蹴る。


 黒い炎の軌跡を残しながら、十二人の間を駆け抜けた。


 一人につき、一撃。


 顎。


 鳩尾。


 こめかみ。


 意識だけを正確に刈り取る。


 最後の一人が倒れるまで、十秒もかからなかった。


 静かになった街道へ、風が吹き抜ける。


 護送車の中で、誰も動かなかった。


 死んだはずの領主。


 首に処刑の傷を残し、黒い炎を操る男。


 恐れるのも無理はない。


「怪我人を外へ運べ」


 沈黙を破って命じる。


「夜明けまで時間がない。動ける者は、動けない者へ肩を貸せ」


 それでも、誰も動かない。


 仕方がない。


 俺が最初の護送車へ近づいたときだった。


「お待ちください」


 奥から低い声が響いた。


 領民たちを分け、一人の男が前へ出る。


 四十代後半。


 短く刈った灰色の髪。


 左の額から頬へかけて、古い傷が走っている。


 両手には魔力封じの枷。


 鎧も武器も奪われていたが、その立ち姿だけは騎士のものだった。


「ガレス」


 ガレス・バルハルト。


 父の代からアルヴァレス家へ仕え、領軍を率いてきた騎士団長。


 裁判が始まる前、領民を逃がすよう命じたはずだった。


「お前まで捕まったのか」


「面目次第もございません」


「責めてはいない。顔を上げろ」


 ガレスは答えない。


 俺を見たまま、枷を嵌められた両手を剣の柄へ近づけるように動かした。


 今の姿を警戒している。


 それでいい。


 忠誠と盲信は違う。


「俺が魔王に身体を奪われたと思うか?」


「分かりません」


 ガレスは正直に答えた。


「私が知るレオン様は、黒い炎を操ることも、断たれた首をつなぐこともできませんでした」


「ああ」


「ですが——」


 ガレスが周囲へ目を向ける。


 倒された教会騎士たちは、全員生きている。


 護送車にいた領民にも、一人の犠牲者も出ていない。


「ご自身の命より領民を優先されるお方を、私は一人しか存じ上げません」


 ガレスがその場へ片膝をついた。


 枷の鎖が鳴る。


「お姿が変わろうと、その行いまでは変わっておりません」


 深く頭を下げる。


「ならば私がお仕えするのも、以前と同じレオン様です」


 護送車の中から、嗚咽が聞こえた。


 一人の老人がガレスに続いて頭を下げる。


 母親が子供を抱き締めたまま、涙を流す。


「レオン様……」


「本当に、レオン様なのですね」


「生きておられた……」


 次々に人々が護送車から降り、俺へ頭を下げていく。


 胸に刻まれた《悪役》が、焼けるように痛んだ。


 人間を支配し、従わせろという衝動が流れ込んでくる。


 だが、目の前の者たちは操られているわけではない。


 俺がレオンであると、自分たちで選んで信じている。


 それをユリウスの配役と同じものにするつもりはない。


「頭を上げろ」


 領民たちへ告げる。


「俺は王国から反逆者とされ、魔王の力を得た。俺と行動すれば、お前たちも人類の敵になる」


 誰かが息を呑む。


「俺への忠誠を強制するつもりはない。王国側へ戻りたい者は戻れ。ここで見たことも、俺の行き先も、好きに話せばいい」


「レオン様は、どちらへ?」


 ガレスが尋ねる。


「王都へ戻る」


「ユリウスを討たれるのですか」


「ああ」


「でしたら、私も——」


「駄目だ」


 即座に拒絶する。


「お前には、領民を安全な場所へ逃がしてもらう」


「しかし!」


「ガレス」


 名前を呼ぶと、騎士団長が口を閉じた。


「二百人を守りながら、俺は戦えない。これはお前にしか任せられない役目だ」


 ガレスが拳を握る。


 戦いたいのだろう。


 俺を一人で死地へ戻したくないのだろう。


 それでも最後には、感情より役目を優先した。


「承知いたしました」


 もう一度頭を下げる。


「この命に代えましても、皆をお守りいたします」


「死ぬな。生きて守れ」


「……御意」


 ガレスの枷を黒い聖炎で焼き切る。


 続けて領民たちの拘束を解いていく。


 最後の一人の枷が外れた、そのとき。


 街道の先から、鐘の音が響いた。


 教会の鐘ではない。


 澄んだ、静かな音。


 一度聞いただけで、荒れていた魔力が鎮められていく。


「この気配……」


 ノアが、初めて明確な警戒を見せる。


「レオン。下がれ」


「知っているのか?」


「知らぬ。だが、妾の力を抑え込もうとしている」


 街道の先へ、白い光が降り注ぐ。


 光の中から、一人の少女が歩いてきた。


 腰まで伸びる淡い銀髪。


 白と金の聖衣。


 紫水晶の瞳は、真っ直ぐ俺へ向けられている。


 エルシア・ルミナリエ。


 俺の元婚約者。


「レオン……」


 名前を呼ぶ声が震えていた。


 処刑台で見たときよりも顔色が悪い。


 泣き腫らした目元。


 それでも俺を見失わないように、瞬きすら我慢している。


「こんなところまで、何をしに来た」


「あなたを迎えに来ました」


「カイルは?」


「治療を受けています。命に別状はありません」


「そうか」


「ご心配なのですか?」


「一応、二度殺された相手だからな。簡単に死なれては困る」


 エルシアの表情が苦痛に歪む。


 俺の首に残る傷。


 胸元に残る聖剣の痕。


 それを見て、自分が何を選んだのか思い出しているのだろう。


「やはり……あなただったのですね」


「カイルは、俺じゃないと言い張っていたぞ」


「私は、あなたを見間違えません」


 エルシアが一歩近づく。


 ノアが俺と彼女の間へ入る。


「それ以上近づくな、聖女」


 初めて、エルシアの視線がノアへ向いた。


「あなたが……魔王ノア」


「妾が見えるか」


「聖女の瞳は、魂の形を見分けます」


 エルシアの紫の瞳が、ノアの胸元へ向けられる。


「レオンの心臓から離れてください」


「断る」


「あなたさえ離れれば、まだ彼を救えます」


「救う?」


 ノアが嘲るように笑った。


「一度殺した男を、今度はどう救うつもりだ?」


 エルシアの肩が揺れた。


 それでも視線を逸らさない。


「俺も聞きたい」


 ノアの隣へ立つ。


「なぜ、俺を殺した」


「それは……」


「牢獄では何も答えなかった。今度は話せ」


 エルシアが両手を胸元で握り締める。


「神託を受けたのです」


「神託?」


「あなたが魔王となり、王都を滅ぼす未来を見ました」


 黒い炎に包まれた王都。


 砕かれたカイルの聖剣。


 無数の死体の中に立つ俺。


 その隣で笑うノア。


 エルシアは、自分が見た未来を一つずつ語った。


「ユリウスに見せられたのか」


「大審問官猊下が、神託を与えたわけではありません」


「教会の神託機構を管理しているのは、誰だ?」


 エルシアが言葉を失う。


 懐から《救世勇者計画》の書類を取り出し、彼女の足元へ投げる。


「読め」


 エルシアは書類を拾い上げる。


 頁を捲るごとに、顔から血の気が引いていく。


「そんな……」


「俺の処刑は、ノアの心臓を覚醒させるための儀式だった。お前もカイルも、最初から利用されていた」


「違います」


「何が違う」


「大審問官猊下は、あなたの魂を救うと約束してくださいました」


 声に必死さが混ざる。


「肉体を処刑し、魔王へ変わる前の魂を《聖櫃》へ保存する。いつか安全な器が完成したとき、あなたを蘇らせると」


「その間、俺の意思は?」


「え……?」


「俺はそれを望んだのか?」


「ですが、そうしなければあなたは魔王に——」


「俺へ話したか?」


「それは……」


「俺が何を選ぶか、聞いたのか?」


 エルシアの唇が震える。


「聞けなかったのです」


「なぜだ」


「あなたなら、必ず戦うと言うからです!」


 エルシアの叫びが、街道へ響いた。


「未来を知っても、あなたは一人で背負おうとする! 自分が傷つくことも、死ぬことも恐れず、最後には本当に人間ではなくなってしまう!」


「だから、俺を先に殺した?」


「あなたを失いたくなかった!」


「殺しておいてか」


「魂は残るはずだったのです!」


 エルシアの瞳から涙が溢れる。


「今のあなたに理解していただけなくても、いつか必ず元へ戻せると信じていました! 私を憎んでも構いません。二度と愛していただけなくてもいい。それでも——あなたがあなたでなくなるよりは……!」


 嘘ではない。


 エルシアは本気で俺を愛している。


 自分が嫌われることも、憎まれることも覚悟していた。


 俺を救うためなら、婚約者としての未来すら捨てるつもりだった。


 だからこそ、許せなかった。


「俺を見ろ、エルシア」


「見ています」


「違う」


 一歩近づく。


「お前が見ているのは、処刑される前の俺だ」


「あなたは今も——」


「俺は復讐を望んでいる」


 エルシアの言葉を遮る。


「ユリウスを殺す。俺を陥れた王国も許さない。必要なら魔王の力も使う」


「それは、ノアに心を侵されているからです」


「俺がそう選んだと言ったら?」


「違います」


「なぜ、お前に分かる」


「私はあなたを愛しているから!」


 迷いのない答えだった。


「レオンは、そんなことを望む人ではありません。優しく、誰よりも領民を想い、憎しみに身を任せるような人では——」


「妾には、そうは見えぬがな」


 ノアが口を挟む。


「黙ってください」


「嫌だ」


 ノアが深紅の瞳でエルシアを見据える。


「お前が愛しているのは、この男ではない」


「何を……」


「自分の記憶の中で、都合よく笑っている人形だ」


 エルシアの周囲に、白い魔力が溢れ始める。


「あなたに、私の何が分かるのですか」


「分からぬ。だが、こやつを見れば分かる」


 ノアが俺の胸へ手を添える。


 実体の薄い指が、心臓の位置へ重なった。


「怒りも、憎しみも、殺意も、この男のものだ。妾が与えたのではない」


「あなたが増幅させているのでしょう」


「否定はせぬ」


 ノアが僅かに笑う。


「妾はこやつへ、復讐をやめろとは言わぬ。魔王になるなとも、人間でいろとも言わぬ」


「それは救いではありません」


「そもそも、こやつはお前の救いなど求めておらぬ」


「あなたは——」


 エルシアがノアを睨む。


「レオンが苦しむことを、許しているだけです」


 ノアの笑みが僅かに消えた。


「それを自由と呼び、彼が憎しみに染まり、壊れていく姿を楽しんでいる」


「……ほう」


「あなたはレオンを救いたいのではありません。自分と同じ魔王へ堕ちていく仲間が欲しいだけです」


 白い魔力と黒い魔力が、街道の中央で衝突する。


 どちらの言葉も、完全な間違いではない。


 エルシアは俺を愛している。


 ノアは俺の自由を認めている。


 同時に、エルシアは俺の意思を無視し、ノアは俺が破滅へ近づくことを止めようとしていない。


「レオン」


 エルシアが俺へ片手を伸ばす。


「戻りましょう」


「どこへ」


「あなたが、あなたでいられる場所へ」


「それを決めるのは、お前じゃない」


「今は分かっていただけなくても構いません」


 聞き覚えのある言葉。


 牢獄でも、彼女はそう言った。


 何を答えても、エルシアは自分の選択を変えない。


 俺が何を望んでいるかではなく、自分が正しいと信じた救済を与えようとする。


「今度こそ、私があなたを守ります」


 エルシアの背後へ、巨大な光輪が現れた。


 ステンドグラスを思わせる色鮮やかな光。


 ノアが俺の腕を掴む。


「来るぞ」


 エルシアの唇から、静かな詠唱が紡がれる。


「花は散り、雪は溶け——」


 吹いていた風が止まる。


 木々から落ちかけていた葉が、空中で静止した。


「愛した面影さえ、時の彼方へ失われる」


 夕日が動きを止める。


 空を飛んでいた鳥が、翼を広げた姿のまま固定される。


「なぜ、すべては変わってしまうのですか」


 エルシアの涙が、頬を伝う途中で止まった。


「なぜ、この手に残ることを許されないのですか」


 ノアが黒い炎を放つ。


 炎はエルシアへ届く前に空中で固定され、燃え広がることも、消えることもできなくなった。


「ならば私は、時を閉ざしましょう」


 足が動かない。


 逃げようと命令しても、筋肉が次の状態へ変化できない。


「傷つく前の微笑みを」


 右腕を覆っていた黒い色が、僅かに薄れる。


「穢れる前の魂を」


 胸に宿るノアとの接続が、凍りつくように弱まっていく。


「愛したままのあなたを」


「やめろ、エルシア」


 声だけは出た。


 彼女は止まらない。


「救いとは、失わぬこと。慈悲とは、変わらぬこと」


 心臓が、次の鼓動を打てない。


 止まったわけではない。


 鼓動と鼓動の間へ、永遠に閉じ込められている。


「どうか眠ってください」


 エルシアが俺の前へ立つ。


 頬へ触れようと、白い指を伸ばす。


「永遠が、あなたを奪えなくなるまで」


 紫水晶の瞳に、過去の俺が映っている。


「第一階位——《宣誓》」


 光が、俺の全身を包み込んだ。


「《永劫聖櫃・アークセレス》」


 すべてが止まった。


 死ねない。


 生きることもできない。


 身体が変化しないため、《葬命反転》も発動しない。


 ノアとの接続も、途切れる寸前で固定されている。


 意識だけが残り、肉体は永遠の一瞬へ閉じ込められた。


「レオン!」


 遠くでノアの声が聞こえる。


 反応できない。


 エルシアの手が頬へ触れる。


 温かい。


 幼い頃、教会の式典から逃げ出した彼女の手を引いたことを思い出す。


 あの頃と同じ手。


「もう、苦しまなくていいのです」


 エルシアが微笑む。


「怒る必要も、誰かを憎む必要もありません」


 優しい声だった。


「今度こそ、永遠に私がお守りします」


 これがエルシアの救い。


 死なない。


 傷つかない。


 変わらない。


 何も失わない代わりに、何も選べない。


 ——こんなものを、生きているとは呼ばない。


「エルシア!」


 ノアが何度も黒い炎を放つ。


 すべて空中で固定される。


 エルシアは俺を抱き締めたまま、ノアへ視線を向けた。


「あなたとレオンの接続も、現在の状態で固定しました」


「妾を消すつもりか」


「いいえ。あなたには、レオンを蘇らせていただいた恩があります」


「ならば解放しろ」


「それはできません」


 エルシアが首を横へ振る。


「接続を維持したまま、あなたの意識だけを眠らせます。そうすればレオンは消滅せず、あなたが彼を変えることもありません」


「どこまでも勝手な女だな」


「レオンを破滅させるあなたには、言われたくありません」


「破滅するかどうかも、こやつ自身が決めることだ!」


「本人が誤った選択をしようとしているなら、止めることも愛です!」


「愛という言葉を、鎖の名前に使うな!」


 ノアの叫びが響く。


 エルシアの《聖櫃》は揺らがない。


 俺の意識も、少しずつ薄れていく。


 このまま眠れば、二度と目を覚ませない。


 処刑よりも静かな終わり。


 痛みもない。


 復讐を諦めれば、楽になれる。


 エルシアの腕の中で、愛されていた過去の自分へ戻れる。


『レオン』


 ノアの声が、微かに聞こえた。


 耳からではない。


 記憶の奥から響いている。


『妾の名を呼べ』


 呼べない。


 唇も、声帯も固定されている。


『声にする必要はない』


 ノアの姿が見えなくなる。


 エルシアが彼女の意識まで固定し始めたのだろう。


『妾を覚えていろ』


 深紅の瞳。


 尊大な笑み。


 心臓しか残っていないくせに、魔王を名乗る少女。


 俺が何へ変わっても、その選択を否定しなかった女。


『妾も、お前を覚えている』


 ノアの声が消えた。


 同時に、別の場所で何かが動く。


 俺の身体ではない。


 エルシアの記憶。


 彼女の魂へ、ノアが自分の存在を刻み込んでいく。


「何を……」


 エルシアの表情が歪む。


 彼女の中へ、俺の記憶が流れ込む。


 断罪剣が首を落とした瞬間。


 石床へ転がり、歓声を聞いた絶望。


 カイルの聖剣に心臓を貫かれ、魂まで焼かれた苦痛。


 ノアに名前を呼ばれ、再び目を覚ました瞬間。


 領民を助けるため、自分の意思で王都へ戻ると決めたこと。


 処刑される前の俺だけではない。


 復讐を望み、魔王の力を受け入れた今の俺が、エルシアの記憶へ刻み込まれる。


「違う……」


 エルシアが俺から離れる。


「これは、レオンでは……」


 否定しようとして、できない。


 ノアの《永劫刻印》によって与えられた記憶は、偽物ではない。


 俺が実際に経験し、選んだもの。


 エルシアの中に存在する「保存すべきレオン」が二つへ分かれる。


 処刑前の、彼女が愛した俺。


 処刑後の、自分の意思で復讐を選んだ俺。


《永劫聖櫃》が、どちらを固定すべきか判断できなくなる。


 世界へ、亀裂が走った。


 空中で止まっていた葉が揺れる。


 心臓が、次の鼓動へ進もうとする。


 ——どくん。


 小さな鼓動。


 それで十分だった。


「お前が守りたかった俺も——」


 固定されていた唇が、僅かに動く。


「確かに、俺だ」


「レオン……」


「お前を愛し、領民を守り、誰も憎まずに生きようとした」


 身体を覆う白い光へ、黒い亀裂が走る。


「だが、処刑された俺も」


 右手の指が動く。


「復讐を選んだ俺も」


 拳を握る。


「すべて、俺だ」


 エルシアが両手を伸ばす。


「待ってください! 今、封印を解けば、あなたは本当に——」


「何に変わるかは、俺が決める」


 胸の奥から、黒い魔力が噴き上がった。


 白い《聖櫃》が、内側から砕け散る。


 止まっていた時間が、一斉に動き出した。


 葉が地面へ落ちる。


 鳥が空を横切る。


 夕日が地平線へ沈んでいく。


 解放された黒い炎が街道を覆った。


「きゃっ……!」


 エルシアが炎に呑まれる寸前、その身体を抱き寄せる。


 外套で包み、黒い炎から守る。


 彼女は俺の腕の中で、呆然としていた。


「どうして……」


「何がだ」


「私を、助けるのですか」


「助けたいと思ったからだ」


「それなら、あなたはまだ——」


「勘違いするな」


 エルシアを立たせ、手を離す。


「優しいから助けたんじゃない。お前を今ここで殺す必要がないと、俺が決めただけだ」


「レオン……」


「お前が愛した俺は、処刑台で死んだ」


 エルシアの瞳から、再び涙が溢れる。


「違います。あなたは、今も——」


「最後まで聞け」


 首に残る断頭の傷へ触れる。


「それでも、今ここにいる俺もレオン・アルヴァレスだ」


 次に、胸の傷へ触れる。


「怒りも、憎しみも、復讐心も含めてな」


 エルシアは何も言えない。


「お前がそれを認められないなら——俺たちはもう、一緒にはいられない」


 婚約を破棄する。


 その言葉を、あえて口にはしなかった。


 既に俺は爵位を奪われ、反逆者として処刑された。


 俺たちをつないでいた婚約など、王国の記録上は消えている。


 それでも今、この瞬間。


 俺たちの関係は本当に終わった。


 エルシアは追い縋らなかった。


 ただ胸元で両手を握り、俺を見ている。


「私のしたことを……許してくださらないのですね」


「許してほしいのか?」


「分かりません」


 エルシアが俯く。


「あなたを救いたかった気持ちは、今も間違いだったと思えないのです」


「なら、無理に謝るな」


「ですが、あなたを傷つけました」


「ああ」


「私があなたの意思を信じられなかったことも……今なら、少しだけ分かります」


「少しか」


「すぐにすべてを認められるほど、私は強くありません」


 初めてだった。


 聖女として正しい答えではなく、エルシア自身の弱さを口にした。


「それでいい」


「え……?」


「今すぐ変われとは言わない。俺も、お前に自分の正しさを押しつけるつもりはない」


 エルシアを許したわけではない。


 元の関係へ戻るつもりもない。


 それでも、彼女が自分で選ぶことまで奪いたくはなかった。


「次に会うまでに決めろ」


「何をですか」


「今の俺を見るか。過去の俺だけを愛し続けるか」


 エルシアは答えなかった。


 答えられないのだろう。


 ノアが俺の隣へ戻ってくる。


 実体は薄くなり、輪郭も透けていた。


「随分と優しいことだ」


「文句があるのか」


「別に。ただ、妾ならば一度殺している」


「それではユリウスの配役どおりだ」


「そういうことにしておいてやろう」


 ノアはエルシアを一瞥する。


「勘違いするな、聖女」


「何をですか」


「妾はレオンが壊れる姿を楽しみたいわけではない」


 先ほどの言葉が効いていたらしい。


「ただ、こやつが壊れることすら選ぶのなら、その選択を否定せぬだけだ」


「それは同じことでは?」


「まるで違う」


「私には分かりません」


「ならば百年ほど考えろ」


「人間は、百年も生きられません」


「不便だな」


 そのやり取りへ、僅かに力が抜ける。


 だが、次の瞬間。


 王都の方角から鐘が鳴り響いた。


 一度。


 二度。


 三度。


 空へ巨大な光の文字が浮かび上がる。


 ユリウスの声が、王都だけでなく周辺一帯へ響き渡った。


『王国臣民の皆様へ、お伝えしなければならない悲しい報せがあります』


 穏やかな声。


 それだけで、胸に刻まれた《悪役》が疼いた。


『反逆者レオン・アルヴァレスは、魔王の力によって復活しました』


「もう……」


 エルシアが空を見上げる。


『彼は教会騎士を襲撃し、捕らえられていた反逆者たちを解放』


 嘘ではない。


 だからこそ悪質だった。


『さらに、彼を救おうとした聖女エルシア・ルミナリエへ襲いかかり、その魂を魔王の力によって汚染しました』


「違います!」


 エルシアが叫ぶ。


 だが、その声が王都へ届くことはない。


『レオン・アルヴァレスは、領民を魔王軍へ加え、王都への侵攻を開始しました』


 街道の遥か先。


 王都の中から、恐怖が膨れ上がるのを感じる。


 俺を悪役だと信じる、何万もの認識。


 人類の敵。


 聖女を襲った魔王。


 領民を支配した反逆者。


 そのすべてが《聖典配役》を通じ、俺の身体へ流れ込んでくる。


「ぐっ……!」


 右腕が燃え上がった。


 黒い炎ではない。


 皮膚の下から、肉体そのものが変化していく。


 腕を覆う黒い鱗。


 指先が伸び、獣の爪へ変わる。


 骨が軋み、右腕だけが人間のものではなくなっていく。


「レオン!」


 エルシアが駆け寄ろうとする。


「来るな!」


 反射的に腕を振るう。


 伸びた爪が街道を抉り、深い亀裂を刻んだ。


 力が溢れている。


 先ほどまでとは比較にならない。


 同時に、頭の中へ声が響く。


 ——殺せ。


 エルシアを殺せ。


 領民を殺せ。


 人間を殺せば、お前はもっと強くなれる。


「黙れ……」


 左手で右腕を押さえる。


 鱗の侵食が肩まで広がっていく。


『人類の皆様。どうか恐れないでください』


 ユリウスの声が続く。


『我々には、勇者カイルがいます』


 王都から、歓声が上がった。


 その歓声さえ、俺を悪役へ近づける力となる。


『聖女エルシアも、必ず我々の手で救い出します』


「違う……私は、ここに……」


 エルシアの声が震える。


 彼女自身の意思とは無関係に、救われるべき聖女という役割が強められていく。


 俺が彼女へ近づけば、それだけで聖女を害する悪役として扱われる。


『正しい物語は、決して悪に屈しません』


 胸の文字が焼ける。


 視界が赤く染まる。


 目の前にいる人間すべてが、肉の塊に見え始める。


 一人殺せば楽になる。


 全員殺せば、俺を悪役と呼ぶ者はいなくなる。


 ——違う。


 それではユリウスの望みどおりだ。


 分かっている。


 それでも、殺意を止められない。


「ガレス……」


 歯を食いしばりながら命じる。


「領民を連れて、今すぐ離れろ」


「しかし、レオン様が——」


「命令だ!」


 ガレスが一瞬だけ迷う。


 すぐに領民たちへ向き直った。


「全員、森へ入れ! 動けない者へ肩を貸せ! 振り返るな!」


 領民たちが動き出す。


 俺を心配して何度も振り返る者もいたが、ガレスが先へ進ませる。


 それでいい。


 今の俺の近くに、人間を置いてはいけない。


「エルシアも行け」


「できません」


「今のお前なら、俺の《悪役》を強めるだけだ」


「それでも、あなたを一人には——」


「一人ではない」


 俺の前へ、ノアが立った。


 深紅の瞳が、赤く染まった俺の視界を塞ぐ。


 伸ばされた両手が、黒い鱗に覆われた右腕を掴んだ。


 今にも消えそうな身体。


 それでも、俺から離れない。


「レオン」


 ノアの声だけが、無数の殺意を押し退けて届く。


「妾を見ろ」


 深紅の瞳に、自分の姿が映っている。


 右腕は怪物。


 首には断頭の傷。


 胸には聖剣の痕。


 人間とは呼べない姿へ近づいている。


 それでもノアは、目を逸らさなかった。


「お前が何者か、思い出せ」


 胸の中で、二つの心臓が重なるように脈打った。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます!


「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。


感想もお待ちしております!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。