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第五話 悪役として王城へ

 ——殺せ。


 頭の奥で、何者かが囁いている。


 エルシアを殺せ。


 逃げていく領民を追いかけろ。


 恐怖に歪む顔を見ろ。


 人間の血を浴びれば、この苦痛は消える。


 全員殺せば、お前を悪役と呼ぶ者もいなくなる。


「黙れ……」


 左手で右腕を押さえ込む。


 黒い鱗の下で、骨と筋肉が人間とは異なる形へ変化し続けている。


 指先から伸びた爪が、自分の肩へ食い込んだ。


 黒い血が流れる。


 それでも侵食は止まらない。


「レオン」


 ノアが俺の正面に立っている。


 深紅の瞳が、赤く染まりかけた俺の視界を塞いでいた。


「妾を見ろ」


「見ている」


「ならば答えよ。お前は何者だ」


「レオン・アルヴァレス」


「違う」


 ノアが黒い鱗に覆われた俺の腕を、両手で掴む。


 実体を失いかけた指が、僅かに沈み込んだ。


「それは名前だ。妾が問うているのは、お前が何を選ぶ者かだ」


 視界の端で、ガレスが領民たちを森へ誘導している。


 怪我人へ肩を貸し、老人や子供を中央へ集め、教会騎士から奪った武器を動ける者へ配っていた。


 こちらを振り返る者もいる。


 恐怖ではない。


 俺を心配している。


 その姿を見た瞬間、殺意がさらに強くなった。


 ——裏切られる前に殺せ。


 ——信頼など、二度と信じるな。


「俺は……」


 歯を食いしばる。


 誰かを信じた結果、処刑された。


 なら、もう誰も信じなければ傷つかずに済む。


 誰かに裏切られる前に、自分からすべてを壊してしまえばいい。


 それが《人類を裏切った悪役》に与えられた筋書き。


「俺は、誰を殺すかも——」


 血が滲むほど拳を握る。


「誰を守るかも、自分で決める」


 頭の中の声が、僅かに遠のいた。


「それでよい」


 ノアが笑う。


「だが、それだけでは長く保たぬな」


 彼女の視線が、俺の頭上へ浮かぶ《悪役》の文字へ向けられる。


 王都の民衆が俺を恐れるたび、その認識が力となって流れ込んでくる。


 侵食は今も続いている。


「エルシア」


 ノアが振り返る。


「《永劫聖櫃》で、この配役だけを止められるか?」


「できません」


 エルシアが悔しそうに答える。


「レオンの魂へ深く刻まれています。配役を固定すれば、現在の魔王化も永遠に固定されます」


「ならば、刻まれたものを妾へ移す」


「そんなことをすれば、あなたまでユリウスの配役に侵されます」


「半分であれば耐えられる」


「待て」


 俺はノアの手を振り払おうとする。


 しかし黒い鱗に覆われた腕は、彼女へ触れる直前で止まった。


「お前まで巻き込む必要はない」


「既に巻き込まれている」


「これは俺に与えられた役割だ」


「お前の魂は、妾の魂とつながっている。そのお前が壊れれば、妾も無事では済まぬ」


「だからといって——」


「妾は許可を求めておらぬ」


 ノアが俺の胸へ、透けた右手を突き入れる。


 肉を裂いたわけではない。


 指先が実体をすり抜け、心臓へ直接触れた。


 二つの鼓動が重なる。


 ——どくん。


 熱した鉄を流し込まれたような痛みが、胸から全身へ広がった。


「ぐっ……!」


「少し黙っていろ」


 ノアが、俺の魂へ刻まれた黒い文字を掴む。


 見えないはずの何かが引き剥がされる感覚。


 皮膚ではない。


 肉でも、骨でもない。


 俺という存在の一部を、無理やり引き裂かれている。


 頭上の《悪役》から、黒い鎖が伸びた。


 その半分が、ノアの身体へ絡みつく。


「ノア!」


「この程度——」


 ノアの声が途切れた。


 透き通っていた輪郭が、一瞬だけ鮮明になる。


 深紅の瞳が黒く濁った。


 小さな背中から、膨大な殺意が噴き上がる。


「ノア……?」


「人間を——」


 彼女の唇が、震える。


「皆殺しにしろ」


 黒い炎が街道を這う。


 枯れ草を焼き、木々の幹を黒く焦がす。


 ノアの視線は、領民たちが逃げていった森へ向けられていた。


「妾を殺した」


 百年前の記憶が、彼女の中で蘇っている。


「肉体を焼き、魂を裂き、心臓へ杭を打った。それだけでは飽き足らず、妾の名前まで奪った」


 黒い鎖がノアの身体へ食い込む。


「何も知らぬくせに、妾を災厄と呼んだ」


 炎が巨大な腕の形へ変わり、森へ向かって伸びる。


「ならば、望みどおりの災厄となってやる」


「ノア!」


 彼女の肩を掴む。


 今度はすり抜けなかった。


 《悪役》の配役を引き受けたことで、一時的に実体が強まっている。


「離せ!」


 ノアが振り向く。


 黒く濁った瞳に、俺の姿は映っていない。


「人間を庇うな! お前も裏切られたのであろう! ならば共に——」


「ノア。俺を見ろ」


「何……?」


「さっき、お前が俺に言った言葉だ」


 両肩を掴み、無理やりこちらへ向かせる。


「お前が何者か、思い出せ」


「妾は魔王だ」


「それは人間がつけた役名だろ」


 ノアの瞳が揺れる。


「お前は、忘れられることを拒んだ」


「そうだ」


「なら、ユリウスに決められた災厄として記憶されたいのか?」


「妾は……」


「自分で決めろ」


 ノアの額へ自分の額を重ねる。


 二つの心臓を通じ、俺の記憶を彼女へ流し込む。


 暗闇の中で、初めてノアの名前を聞いた瞬間。


 聖炎に焼かれながら、俺の名前を呼び続けてくれた声。


 地下施設で並んで歩いた時間。


 誰を殺すかは俺が決めると告げたとき、それを笑って認めた彼女。


「ユリウスの配役に、お前自身を奪わせるな」


 ノアが目を閉じる。


 荒れ狂っていた黒い炎が、少しずつ小さくなっていく。


「……妾へ説教するとは、随分と偉くなったものだ」


「二度も蘇らせてもらったからな」


「三度目はないと思え」


「それは困る」


 ノアが目を開く。


 深紅の瞳へ、俺の姿が戻っていた。


「だが——悪くない」


 黒い鎖を掴み、自らの身体へ強く巻きつける。


「この憎悪も殺意も、妾のものとして飼い慣らしてやろう」


「一人で背負うな」


「半分はお前が持っているだろう」


 ノアが不敵に笑う。


「妾たちは、何もかも半分ずつだ」


 右腕の侵食が止まった。


 黒い鱗は肩の手前まで残っている。


 人間の腕へ戻ったわけではない。


 それでも、頭を支配していた破壊衝動は半減していた。


「レオン」


 エルシアがこちらへ近づく。


「もう一度だけ、診せてください。今度は、あなたの許可なく力を使いません」


「ああ」


 差し出された手が、黒い鱗の表面へ触れる。


 白い光が右腕を包んだ。


 侵食を固定するのではなく、魔力の流れだけを調べている。


 やがてエルシアが手を離す。


「今すぐ命を失う状態ではありません。ただし、王都の人々があなたを悪役として信じ続ける限り、侵食は止まりません」


「ユリウスを倒すしかないか」


「はい」


 エルシアが王都の方角を見る。


「私は、先に教会へ戻ります」


「何をするつもりだ」


「大審問官猊下へ、直接真実を問いただします」


「認めると思うか?」


「分かりません」


 エルシアの手には、《救世勇者計画》から抜き取った一枚の記録が握られている。


 カイルの適合率と、俺の処刑工程が記された頁。


 原本の大半は、まだ俺の懐に残っている。


「それでも、今度は私が自分で確かめます」


「俺を救うためか?」


 エルシアが僅かに迷う。


 そして首を横へ振った。


「いいえ」


 紫水晶の瞳が、俺を見つめる。


「私自身が、何を信じるべきか選ぶためです」


 初めて聞く言葉だった。


 聖女としてでも、俺の婚約者としてでもない。


 エルシア自身の選択。


「そうか」


「止めないのですか?」


「俺が決めることじゃない」


 それだけ答える。


 エルシアが寂しそうに微笑んだ。


「あなたなら、そう言うと思っていました」


「ただし、ユリウスはお前が戻ることも予想している」


「分かっています」


「本当か?」


「……少なくとも、分かろうとはしています」


 以前のエルシアなら、神託と教会を無条件に信じていた。


 今は自分の理解が不完全であることを認めている。


 小さな変化。


 だが、彼女にとっては大きな一歩なのだろう。


「王都へ入るための秘密通路があります。教会の地下へ直接つながっています」


「そこで捕まる可能性は?」


「私を聖女として必要としているのなら、すぐには殺さないでしょう」


「甘いな」


「あなたに言われたくありません」


 エルシアが僅かに頬を緩めた。


 それが、昔と同じ笑顔に見えた。


 だが、もう手を伸ばそうとは思わなかった。


「レオン」


 森へ入る直前、エルシアが振り返る。


「必ず、またお会いしましょう」


「自分で選び終わったらな」


「はい」


 白い聖衣が木々の間へ消えていく。


 しばらく、その背中を見送った。


「追わなくてよいのか?」


 ノアが隣で尋ねる。


「止めないと言った」


「殺されるかもしれぬぞ」


「それも承知で選んだはずだ」


「随分と冷たいことだ」


「自由を認めるっていうのは、そういうことだろ」


「なるほど」


 ノアが口元を吊り上げる。


「妾好みの答えだ」


     ◇


 完全に日が沈む前に、王都東門へ到着した。


 巨大な城壁の上には、数百人の王国兵が並んでいる。


 門前には教会騎士。


 街道の両脇には、ユリウスの声明を聞いて集まった民衆。


 誰もが、俺たちを見ていた。


 黒い鱗に覆われた右腕。


 首に刻まれた処刑の傷。


 隣に立つ、黒髪の魔王。


 どう見ても、王都へ攻め込む悪役そのものだ。


「地下道から入る手もあるぞ」


 ノアが城壁を見上げる。


「エルシアが使った通路とは別に、妾が知る道が二つある」


「使わない」


「理由を聞いてやろう」


「俺は、まだこの国の民に顔を隠すようなことはしていない」


「民はお前を悪役と信じている」


「それがどうした」


 正面へ向かって歩き出す。


 兵士たちが一斉に武器を構えた。


 民衆の間から悲鳴が上がる。


「悪役らしく逃げればユリウスが喜ぶ。魔王らしく攻め込んでも喜ぶ」


「ならば、どうする?」


「帰るだけだ」


「ここはもう、お前の国ではあるまい」


「それを決めたのも、あいつらだ」


 閉ざされた東門の前で立ち止まる。


 城壁の上へ向けて声を張る。


「レオン・アルヴァレスだ!」


 ざわめきが広がった。


「ユリウス・クロイツェルへ用がある! 王都へ入れろ!」


「通すと思うか、反逆者!」


 兵士の一人が叫ぶ。


「なら、門を壊して入る」


「やはり王都を襲うつもりか!」


「中へ入れないから壊すだけだ」


「それを襲撃と言うのだ!」


「面倒だな」


 言葉遊びを続ける気はない。


 黒い右腕へ力を込める。


 城門を殴りつけようとした、そのとき。


「待て」


 門の中央に、細い光の線が走った。


 重い音を立てながら、巨大な扉が左右へ開いていく。


 その向こうから、一人の青年が歩いてきた。


 黄金色の髪。


 白銀の鎧。


 修復された聖剣。


 以前とは異なり、肩には王国の紋章が刻まれた純白の外套を羽織っている。


「随分と立派になったな、カイル」


「レオン……」


「正式な勇者になったらしいな」


「お前を処刑へ導いた功績で認められた」


「嬉しそうじゃないな」


「嬉しいと思うか?」


「俺が悪人なら喜べるだろ」


 カイルが唇を噛む。


 処刑台で負わせた傷は、エルシアか教会の治癒術師によって治療されていた。


 それでも、聖剣を握る右手は僅かに震えている。


「領民を解放したそうだな」


「ああ」


「護送していた教会騎士は?」


「全員生きている」


「エルシアは」


「自分の意思で教会へ戻った」


「ユリウス猊下は、お前が魂を汚染したと——」


「お前は、まだあいつの言葉を信じるのか?」


 懐から《救世勇者計画》の記録を取り出す。


 カイルの足元へ投げた。


「読め」


 カイルは警戒しながら書類を拾う。


 頁を捲る。


 表情が変わった。


「これは……」


「お前を完全な勇者へ変える計画だ」


「どこで手に入れた」


「処刑場の地下。ノアの心臓を研究していた施設だ」


「信じられるとでも?」


「信じるかどうかは、お前が決めろ」


 カイルの視線が、記録の一節で止まる。


 魔王核の移植対象。


 勇者候補、カイル・レグナード。


 聖剣を介した核の吸収。


 レオン・アルヴァレスの公開処刑を、覚醒工程として利用。


「偽物だ」


 低い声だった。


「魔王の力で作った偽物かもしれない」


「そう思いたいだけだろ」


「黙れ」


「俺が無実だったと認めれば、お前は親友を売って勇者になっただけの男になる」


「黙れ!」


 聖剣が振り抜かれた。


 首へ迫る刃を、黒い右手で掴む。


 鋭い金属音。


 皮膚へ傷一つつかない。


 カイルが目を見開く。


「二度も同じ剣で殺された」


 握る力を強める。


「もう効かない」


 聖剣を引き寄せ、カイルの腹へ蹴りを叩き込む。


 白銀の鎧がへこみ、カイルの身体が門の内側まで吹き飛んだ。


 それでも倒れない。


 両足で石畳を削りながら、聖剣を地面へ突き立てて踏み留まる。


「俺は……間違っていない」


 カイルが立ち上がる。


「レオンが魔王の力を調べていたのは事実だ」


「ああ」


「王国を疑い、独断で禁忌へ近づいた」


「それも事実だ」


「なら、お前が危険だったことに変わりはない!」


「危険だから、罪を捏造して殺したのか?」


「そうしなければ、今のお前になっていた!」


「俺がこうなったのは、殺されたからだ」


 カイルが言葉を失う。


 因果が逆だ。


 俺が魔王になるから処刑したのではない。


 処刑したから、俺は魔王の心臓を得た。


「認めろ、カイル」


「何をだ」


「お前は俺を救うために裏切ったんじゃない」


 一歩ずつ近づく。


「俺のいない世界で、英雄になりたかっただけだ」


「違う!」


 カイルの身体から、黄金の魔力が噴き上がった。


 城壁の上から、民衆から、兵士たちから。


 勇者への期待と信仰が集まっていく。


「勝利よ、この手に冠を授けよ」


 聖剣の刀身へ、黄金の文字が刻まれる。


「第一階位——《宣誓》」


 白い光が、カイルの背後で翼となって広がった。


「《勝利戴冠・グロリアス》!」


 カイルが消える。


 ほぼ同時に、聖剣が俺の首へ触れた。


 右腕で受け止める。


 先ほどと同じ。


 そう思った瞬間、結果だけが変わった。


 俺の腕は、聖剣の軌道から数センチ外れていた。


「なに……?」


 避けた覚えはない。


 動かした右腕は、確かに刃を受け止めていた。


 それでも現実では、聖剣が首元を掠め、黒い血を散らしている。


「おおおおっ!」


 カイルが剣を返す。


 次の斬撃をかわし、懐へ入る。


 拳を胸へ叩き込んだ。


 鎧が砕けた感触。


 カイルの肋骨が折れる音。


 確かに聞こえた。


 だが、次の瞬間。


 俺の拳はカイルの脇を通過していた。


 鎧は壊れていない。


 カイルも傷を負っていない。


 記憶と現実が食い違う。


『気をつけろ、レオン』


 ノアが叫ぶ。


『あの男が避けているのではない。お前の攻撃が当たらなかったという結果へ、世界が修正されている!』


「随分と愛されてるな、主人公」


 カイルの聖剣が胸へ迫る。


 半身になって避ける。


 刃は外れた。


 しかし、回避先の石畳が突然砕けた。


 足が沈む。


 体勢を崩したところへ、カイルの膝が顔面へ叩き込まれた。


 鼻骨が砕け、身体が宙へ浮く。


 追撃の聖剣。


 右手で掴む。


 今度は確かに止めた。


 そう確信しても、次の瞬間には刃が肩へ食い込んでいる。


「はあああっ!」


 カイルが聖剣を振り抜く。


 左肩から胸まで、深い傷が走った。


 黒い血が石畳へ飛び散る。


 痛い。


 だが、致命傷ではない。


 傷口から黒い血管が伸び、すぐに肉を縫い合わせる。


「何度やっても同じだ」


 カイルの聖剣を掴む。


「お前には、もう俺を殺せない」


 黒い聖炎を流し込む。


 カイルが聖剣から手を離した。


 燃え上がる柄を握ったまま、俺は剣を地面へ投げ捨てる。


 素手になったカイルの胸ぐらを掴み、持ち上げた。


「それでも、お前は勝つんだろうな」


「何を……」


「お前が強いんじゃない」


 その身体を石畳へ叩きつける。


「この世界が、お前を勝たせようとしているだけだ!」


 衝撃で石畳が陥没する。


 カイルの口から血が溢れた。


 今度は現実が修正されない。


 民衆の間に、疑念が生まれている。


 レオンは本当に悪なのか。


 ユリウスの言葉は真実なのか。


 勇者は本当に正しいのか。


 信仰が僅かに揺らぎ、《勝利戴冠》の補正が弱まった。


「俺は……」


 カイルが血を吐きながら、それでも立ち上がろうとする。


「俺は、英雄にならなければならない」


「誰のために?」


「王国のためだ」


「嘘だ」


「民衆を守るために——」


「違う」


 カイルの前へ立つ。


「お前自身が、何者かになるためだ」


 拳を振り上げる。


 今度こそ、こいつの意識を奪う。


 そう思った瞬間。


 城壁の上部から、鈍い破裂音が響いた。


 東門を守る防御術式。


 そこへ黒い文字が絡みついている。


 ユリウスの魔力。


 術式が内部から暴走し、門の上に築かれた石塔へ亀裂が走った。


「崩れるぞ!」


 誰かが叫ぶ。


 巨大な石塔が、城壁から剥がれ落ちる。


 落下地点には、俺たちの戦いを見ていた数百人の民衆。


 逃げようとして互いにぶつかり、身動きが取れなくなっている。


 カイルへ拳を振り下ろせば、勝てる。


 今なら《勝利戴冠》も弱まっている。


 この機会を逃せば、再び世界がこいつを勝利させるかもしれない。


 ——見捨てろ。


 胸の《悪役》が囁く。


 民衆を見殺しにしろ。


 むしろ石塔ごと黒い炎で焼き払え。


 そうすれば、お前は完全な魔王になれる。


「悪いな」


 カイルから手を離す。


「決着は後だ」


 地面を蹴る。


 落下する石塔へ向けて跳躍した。


 黒い右腕を掲げる。


 数十人分の重さを持つ石塊が、掌へ激突した。


「ぐっ……!」


 右腕の骨が軋む。


 両足が石畳へめり込み、衝撃が全身を貫いた。


 それだけではない。


《悪役》の配役が、民衆を救おうとする俺の行動を拒絶する。


 胸の文字が燃え上がった。


 全身の皮膚が裂け、黒い血が噴き出す。


「レオン!」


 ノアが駆け寄る。


「近づくな! 下の人間を逃がせ!」


「一人で支えられる重さではない!」


「なら、支えられる身体になればいい!」


 黒い鱗が右腕から肩へ広がる。


 背中の骨が隆起し、筋肉が膨れ上がる。


 さらに魔王へ近づいていく。


 それでも構わない。


 怪物の力で人間を守って、何が悪い。


「全員、門の内側へ走れ!」


 呆然としていた民衆が、ようやく動き出す。


 親が子供を抱き上げる。


 兵士が老人へ肩を貸す。


 俺を悪役と呼んだ者たちが、血を流す俺の下を通り抜けていく。


「なぜだ……」


 背後から、カイルの声が聞こえた。


「なぜ、そこまでして人間を助ける」


「助けたいと思ったからだ」


「お前は、王国を憎んでいるはずだ」


「憎んでいる」


「なら、どうして——」


「憎んでいる相手は助けちゃいけないなんて、誰が決めた」


 カイルが何も言えなくなる。


 避難が遅れていた幼い少女が、石塔の真下で転んだ。


 その姿に見覚えがある。


 処刑場でカイルを応援し、俺が瓦礫から救った少女。


 母親が戻ろうとする。


「来るな!」


 叫び、左手を伸ばす。


 だが届かない。


 石塔を支えたままでは動けない。


「くそっ……!」


 次の瞬間。


 少女の身体を、誰かが抱き上げた。


 カイルだった。


 少女を母親の元へ運び、そのまま民衆の避難を手伝う。


 聖剣は拾わない。


 俺を倒す機会も捨てている。


「何をしているのです、カイル」


 王都全体へ、ユリウスの声が響いた。


『今こそ魔王を討つときです』


 カイルの足が止まる。


『その男が支えている石塔へ聖剣を振るえば、戦いは終わります』


「ですが、民衆が——」


『魔王を倒すための、尊い犠牲です』


 カイルの顔が強張った。


 同じ言葉。


 地下施設の子供たちを、必要な犠牲と呼んだ審問兵。


 正しい物語を完成させるためなら、人間の命すら部品として扱うユリウスの思想。


『勇者カイル』


 命令する声は、どこまでも穏やかだった。


『あなたの役割を果たしなさい』


 カイルの頭上へ、《英雄》の文字が浮かび上がる。


 聖剣が光を放ち、主人の手へ戻ろうと震える。


 カイルはそれを見つめた。


 手を伸ばせば、俺を倒せる。


 正式な勇者として、王国の英雄になれる。


 だが、カイルは聖剣を取らなかった。


「俺は……」


 両手を握る。


「何を信じればいい」


「自分で決めろ」


 石塔を支えたまま答える。


「それができないから——!」


「なら、お前は勇者じゃない」


 カイルを見る。


「誰かに振るわれるだけの剣だ」


 カイルの顔が、傷ついたように歪んだ。


 だが反論しなかった。


 最後の民衆が、落下地点から離れる。


「ノア!」


「分かっている!」


 ノアが黒い炎を放つ。


 石塔全体を包み込み、誰もいない街道の外側へ押し出す。


 俺も腕へ力を込めた。


「おおおおおっ!」


 石塔を横へ投げる。


 巨大な石塊が城壁の外へ落下し、地面を揺らした。


 舞い上がった土煙が、夜空を覆う。


 膝をつく。


 全身から流れた黒い血が、石畳へ広がっていく。


「レオン!」


 ノアが身体を支える。


「死ぬなよ」


「誰に言っている」


「心臓しか残っていない魔王」


「五度目だぞ、その言葉」


「数えてたのか」


 ノアの肩を借りて立ち上がる。


 周囲の民衆が、俺を見ていた。


 先ほどまでの恐怖だけではない。


「魔王が……私たちを助けた?」


「あれが、本当に反逆者なのか?」


「大審問官様は、聖女様を襲ったと……」


「でも、カイル様も剣を振らなかった」


 認識が揺らいでいる。


 胸へ刻まれた《悪役》の痛みが、僅かに弱くなった。


 右腕の鱗も、それ以上は広がらない。


 ユリウスの筋書きへ、初めて明確な亀裂が入った。


「なるほど」


 声が聞こえた。


 王城の最上部。


 夜空を背に、白銀の外套を纏ったユリウスが立っている。


 距離があるはずなのに、その姿が鮮明に見えた。


 開かれた《原典聖書》が、彼の前へ浮かんでいる。


「自由に演じさせれば、役者は筋書きを忘れる」


 ユリウスは怒っていない。


 落胆すらしていない。


 問題の解決方法を見つけたように、穏やかに微笑んでいる。


「エルシア!」


 カイルが教会の方角を見る。


 王城と大聖堂の間に、白い光が立ち上っていた。


 その光の中へ、エルシアの姿が浮かび上がる。


 両腕を白い鎖で拘束され、巨大なステンドグラスへ磔にされている。


「エルシア!」


 返事はない。


 意識を失っているのか。


 それとも声を封じられているのか。


「彼女は自らの役割へ疑問を抱きました」


 ユリウスが《原典聖書》の頁を捲る。


「聖女でありながら、自分の感情を優先しようとした」


 白い文字が夜空へ浮かび上がる。


「カイル。あなたも同じです」


 カイルの頭上で、《英雄》の文字が強く輝く。


「勇者でありながら、倒すべき悪を前に剣を捨てた」


「俺は……」


「そしてレオン」


 淡い金色の瞳が俺を捉える。


「あなたは悪役でありながら、民衆を救った」


「残念だったな」


「いいえ」


 ユリウスは、優しく首を横へ振る。


「誰にでも迷いはあります。自分の役割を見失うこともあるでしょう」


 王都の上空に、巨大な円形の魔法陣が出現した。


 外周へ刻まれた文字が、一つずつ光り始める。


「だからこそ、正しい舞台が必要なのです」


 空が閉じる。


 黒い夜空が、白銀の天蓋へ変わっていく。


 星が消えた。


 月も消えた。


 王都を取り囲む城壁が、巨大な劇場の外壁へ姿を変える。


 石造りの建物が軋み、装飾された舞台装置へ変形していく。


 街路の両側から、無数の観客席がせり上がった。


「何だ、これは……」


 カイルが周囲を見渡す。


 逃げようとした民衆の身体が、空中へ浮かび上がる。


 悲鳴を上げながら、観客席へ一人ずつ固定されていく。


 兵士も。


 騎士も。


 貴族も。


 王都にいるすべての人間が、物語を見届ける観客へ変えられていく。


 ノアの頭上へ、黒い文字が浮かんだ。


 ——《災厄》。


「妾を勝手に定義するか」


 カイルの頭上には、黄金の《英雄》。


 エルシアの頭上には、白銀の《聖女》。


 そして俺の頭上には、血のように赤黒い《悪役》。


 王城の上に立つユリウスの背後へ、巨大な文字が現れる。


 ——《語り手》。


「役者が台本を忘れたのであれば——」


 ユリウスが両腕を広げる。


「舞台そのものを、整えればよい」


 《原典聖書》から、無数の頁が飛び立った。


 白い鳥の群れのように王都を巡り、建物と空と大地へ文字を刻んでいく。


 世界そのものが、ユリウスの物語へ変わり始める。


「レオン」


 ノアが俺の隣に立つ。


 深紅の瞳は、王城のユリウスだけを見ている。


「どうやら、幕が上がるようだぞ」


「なら、終わらせる」


「誰の物語を?」


「決まってる」


 黒い右手を握り締める。


「ユリウスの物語だ」


 王都全体へ、荘厳な鐘の音が響き渡った。


 ユリウスが《原典聖書》を掲げる。


「役者は揃いました」


 微笑みながら、開幕を宣言する。


「それでは——正しい物語を始めましょう」

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