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第三話 心臓だけの魔王

 暗闇の中を落下していた。


 頭上では崩壊した処刑台の瓦礫がぶつかり合い、僅かに残っていた光を塞いでいく。


 穴の深さは分からない。


 足元を見ても、底らしきものは見えなかった。


「ノア!」


『喚くな。妾もいる』


「それなら着地を何とかしろ!」


『無茶を言うな。妾は心臓しか残っておらぬぞ』


「さっきまで偉そうに魔王を名乗ってただろうが!」


『魔王ならば空を飛べると、誰が決めた!』


「役に立たない魔王だな!」


『その言葉、二度目だぞ!』


 落下速度が上がっていく。


 このまま地面へ叩きつけられれば、三度目の死を迎えることになる。


 斬首と聖炎には適応した。


 だが、全身を潰された場合に蘇生できる保証はない。


 何より、死ねば再びあの苦痛を味わう。


 死ぬたびに強くなる能力と言えば聞こえはいい。


 実際に死ぬ側からすれば、何一つ笑えない。


『右手を伸ばせ!』


 ノアの声に従い、暗闇へ手を伸ばす。


 指先が壁に触れた。


 伸びた爪を石壁へ突き立てる。


 黒い火花が散り、右腕に激痛が走った。


 それでも離さない。


 壁面へ長い傷を刻みながら、落下速度が僅かに緩む。


「まだ止まらないぞ!」


『下に横穴がある。あと三秒だ』


「先に言え!」


『三、二——』


 視界の端に、石壁の切れ目が現れた。


『今だ!』


 右腕を引き寄せ、反動で身体を横へ振る。


 開いていた横穴へ、頭から飛び込んだ。


 肩が石床へ激突する。


 そのまま何度も転がり、壁へ背中から叩きつけられた。


「ぐっ……!」


 肺から空気が押し出される。


 遅れて落ちてきた瓦礫が、横穴の外を通過していった。


 数秒後。


 遥か下方から、地響きのような衝突音が聞こえた。


 あと少し横穴へ入るのが遅れていれば、あそこまで落ちていたらしい。


「危なかったな」


『妾の指示がなければ死んでいたぞ』


「魔王なら、もう少し安全な逃げ道を用意しておけ」


『百年前、ここを使ったときには階段があったのだ』


「今は?」


『お前が上で暴れたせいで崩れた』


「俺のせいか?」


『お前のせいだ』


 反論しようとして、やめた。


 少なくとも処刑台を爆発させたのはノアだ。


 だが、その必要を作ったのは俺とも言える。


 立ち上がろうとすると、右肩に痛みが走った。


 骨が外れている。


 壁に手をつき、自分で肩を押し込む。


 骨の嵌まる音が、暗い通路へ響いた。


 傷口から黒い血管が伸び、損傷した筋肉を縫い合わせていく。


 回復はした。


 しかし、痛みが消えるわけではない。


「便利だが、快適ではないな」


『当然であろう。お前の力は死をなかったことにするのではない』


 隣から声が聞こえた。


 これまでのように、頭の中へ直接響く声ではない。


 吐息を伴った、生身の声。


 顔を上げる。


 暗闇の中に、一人の少女が立っていた。


 艶のある長い黒髪。


 闇の中でも鮮明に輝く、深紅の瞳。


 黒を基調とした古めかしい衣装を身につけ、胸元には血のように赤い宝石が埋め込まれている。


 見た目だけなら、十六、七歳ほど。


 処刑場で俺にだけ見えていた幻影と同じ姿だった。


 しかし今は違う。


 足が石床へ触れ、黒髪が地下を流れる風に揺れている。


「ノア?」


「いかにも」


 少女が尊大に胸を張る。


「妾こそが、かつて世界を震撼させた魔王——ノア・ヴァルプルギスである」


「思っていたより小さいな」


「第一声がそれか?」


「魔王というから、もっとこう……巨大な角や翼でも生えているのかと」


「人間どもが勝手に描いた似顔絵を信じるな。妾は生前からこの姿だ」


「百年前も子供だったのか?」


「殺されたいらしいな」


 ノアが笑顔のまま右手を上げる。


 その掌に黒い炎が灯り——すぐに消えた。


「……ふむ」


「どうした、魔王」


「少々、調子が悪いだけだ」


「出なかったように見えたが」


「少々、調子が悪いだけだ」


「心臓しか残っていないからか?」


「三度も言わせるな!」


 ノアが俺の脛を蹴った。


 痛みはあった。


 ただし、子供に蹴られた程度のものだった。


 本当に実体がある。


 俺はノアの肩へ触れようとする。


 指先が黒い布へ触れた瞬間、少女の輪郭が水面のように揺らいだ。


 そのまま俺の手が肩を通り抜ける。


「触れるようで、触れられないのか」


「お前の魔力で一時的に身体を形作っているに過ぎぬ。妾の肉体は百年前に滅ぼされた」


「魂は?」


「それも大部分が失われた」


 ノアが胸元へ手を置く。


 同じ場所で、俺の心臓が脈打った。


「残ったのは心臓と、僅かな記憶。そして世界への執着だけだ」


「それだけで百年生き延びたのか」


「妾にとって、忘れられることは死よりも耐え難い」


 先ほどまでの軽い調子が消える。


「人間どもは妾の肉体を焼き、魂を引き裂き、名を歴史から消した。妾が何を望み、何のために戦ったのか。そのすべてを、都合のよい怪物の物語へ書き換えた」


「ゲームにお前の名前がなかったのも、そのせいか」


「げーむ?」


 ノアが首を傾げる。


 話していなかった。


 俺の前世。


 この世界が、前世で遊んでいたゲームと酷似していること。


 そして俺たちが、その物語の登場人物だったこと。


 どこまで信用していいかは分からない。


 だが、既に心臓を半分共有している。


 今さら前世を隠したところで、こちらの優位にはならないだろう。


「歩きながら話す」


 俺は通路の奥へ視線を向ける。


 背後の崖を登るのは不可能。


 追手が来る前に、この地下施設から別の出口を探さなければならない。


「俺には前世の記憶がある」


「ほう?」


「この世界とよく似た物語を、俺はゲームとして知っていた」


 暗い通路を歩きながら、『聖冠のアルカディア』について説明する。


 勇者カイルが仲間を集め、復活した魔王を倒す物語。


 俺はゲームが始まる前に処刑される悪役貴族。


 説明文に数行だけ登場し、カイルの最初の功績となる存在。


 ノアは口を挟まずに聞いていた。


 やがて、興味深そうに目を細める。


「それで未来を知ったつもりになり、処刑を回避しようとしたのか」


「失敗したがな」


「そのようだ」


「笑うところか?」


「否。むしろ感心している」


 ノアが俺の隣へ並ぶ。


「物語の外を知ってなお、筋書きどおりに首を落とされた。ここまで見事な道化は珍しい」


「やはり笑っているだろ」


「安心しろ。今は妾も同じ道化だ」


「どういう意味だ」


「お前が知る物語に、妾は登場しなかったのであろう?」


「ああ」


「ならば、妾もまた既定の物語から外れた存在ということだ」


 ノアは前方の暗闇を見つめた。


「あるいは——意図的に消されたか」


 その可能性は高い。


 百年前の魔王であるノア。


 処刑場地下に封印された心臓。


 俺を最初から蘇生させるつもりだったユリウス。


 そして、ゲームの筋書きとは異なる現実。


 俺が知っている『聖冠のアルカディア』は、この世界の一部しか描いていなかったのかもしれない。


「一つ、聞いておきたい」


「許す」


「俺は、あと何回蘇れる?」


 ノアの足が止まった。


 すぐには答えない。


「分からぬ」


「魔王の心臓なのに?」


「魔王の心臓だからといって、無限に命が湧くわけではない」


 ノアが俺の胸へ指を向ける。


「お前の《葬命反転》は、経験した死を克服する力だ。妾の心臓は、そのために肉体を再生させる。ただし、消滅した魂までは作り直せぬ」


「だから《永劫刻印》で、俺の魂をつなぎ止めた」


「そうだ」


 二度目に殺されたときの光景を思い出す。


 聖炎に焼かれ、俺という存在が消えていく感覚。


 その中で、ノアだけが俺の名前を呼び続けていた。


「お前が俺を忘れたら?」


「お前の魂は、次の瞬間に崩壊するだろう」


「逆に、俺がお前を忘れたら?」


「妾は実体を保てなくなる。やがて心臓へ残った意識も消える」


「随分と重い契約だな」


「妾は最初に言ったはずだ。契約などという生温いものではない、と」


 俺たちは互いを利用している。


 俺は復讐を果たすため、ノアの心臓を必要としている。


 ノアはこの世界へ存在するため、俺の記憶を必要としている。


 どちらかが消えれば、もう片方も終わる。


「なら、俺の二度目の死でお前が焼かれたのは?」


「お前の魂へ接続していたからだ」


「俺が受けた痛みも?」


「共有した」


 平然と答えた。


 ノアの両腕を見る。


 黒い袖に隠れているが、その下には聖炎で焼かれた痕が残っている。


「なぜそこまでする」


「お前に死なれては、妾も困る」


「それだけか?」


「それ以外に何がある」


 ノアが顔を背ける。


 暗闇の中でも、その頬が僅かに強張ったのが分かった。


「そうか」


「不満か?」


「いや」


 今はそれでいい。


 俺もノアを道具として利用するつもりだった。


 出会ったばかりの相手へ、綺麗な信頼関係など求めていない。


 ただ、命を救われた借りだけは忘れない。


「次に俺が死にそうになったら、無理に蘇らせなくてもいいぞ」


「何?」


「お前まで消える可能性があるなら、状況を見て判断しろ」


 ノアが立ち止まる。


 呆れたように俺を見上げた。


「お前、自分が二度殺されたばかりだという自覚はあるか?」


「ある」


「そして、これから復讐するのであろう?」


「ああ」


「ならば生き残ることだけを考えろ。妾の身を案じるなど、百年早い」


「百年前の魔王だけに?」


「今のは面白くないぞ」


 ノアが再び俺の脛を蹴った。


 今度は、足が僅かに透けて通り抜けた。


 実体を維持する力も安定していないらしい。


     ◇


 しばらく進むと、通路の先に巨大な扉が現れた。


 扉には何重もの封印術式が刻まれている。


 中央にある紋章は、教会のもの。


 ただし現在使われている意匠よりも古い。


「ここは?」


「妾を封じていた施設の一部だ」


「百年前からあるのか」


「正確には、それ以前から存在する。人間どもは既にあった施設を利用し、妾の心臓を封じた」


「誰が作った?」


「知らぬ」


 ノアが扉へ近づく。


「生前の妾も何度か調べたが、製造者は分からなかった。少なくとも、現在の王国より遥かに古い」


 俺が触れると、扉の紋章が黒く染まった。


 魔王の心臓へ反応したらしい。


 重い音を立てながら扉が開いていく。


 その先に広がっていたのは、巨大な研究施設だった。


 壁際には無数の器具が並び、中央には人間一人が入れるほど大きな円筒形の容器が設置されている。


 床へ刻まれているのは、魔力を循環させる術式。


 鼻を突く、薬品と腐敗の臭い。


「百年前のままには見えないな」


「ああ」


 ノアの声が低くなる。


「妾が封印された後も、使われていたようだ」


 机の上には、まだ新しい書類が残されている。


 地下へ逃げ込まれることを想定していなかったのか。


 あるいは、見つけさせることまでユリウスの計画なのか。


 慎重に書類を調べる。


 内容の大半は、魔力と人体の適合実験についてだった。


 魔物の核を人間へ移植した記録。


 魔族の血を投与した記録。


 被験体のほとんどは、移植直後に死亡している。


 生き残った者も理性を失い、処分された。


「人間は百年経っても、同じことをしているのだな」


 ノアが、割れた容器へ手を触れる。


 内部には、黒く変色した小さな骨が残されていた。


 子供のものだ。


「妾の時代にも、魔族の力を人間へ移す実験が行われていた」


「お前を倒すためか?」


「始まりはそうだった。だが、力を手にした者は別の用途を考え始める」


「魔王を倒した後、自分たちが魔王になる」


「人間らしいであろう?」


 否定はできなかった。


 別の机に置かれた書類へ目を通す。


 実験記録の中に、見覚えのある名前を発見した。


 カイル・レグナード。


「ノア、これを見ろ」


 書類を広げる。


 表題には《救世勇者計画》と記されていた。


 被験体候補——カイル・レグナード。


 聖属性適合率、九十七パーセント。


 英雄因子、覚醒段階。


 民衆からの信仰収束を確認。


 魔王核移植後も、理性を維持できる可能性が高い。


「カイルに、魔王の力を移植するつもりか」


「それだけではない」


 ノアが次の頁を指す。


 魔王核を覚醒させるための工程。


 強大な渇望を持つ人間を器として選定。


 社会的立場、名誉、信頼関係を段階的に剥奪。


 公開処刑によって肉体を殺害し、死への抵抗を最大化。


 覚醒した魔王核を器へ融合。


 勇者候補による討伐を実行。


 聖剣を媒介として、器から勇者候補へ魔王核を移植する。


 器の欄には、俺の名前が書かれていた。


 レオン・アルヴァレス。


「最初から……」


 紙を握る指へ力が入る。


「俺が心臓を得て蘇ることまで、計画されていた」


 ユリウスは、ノアの心臓が俺を選ぶと知っていた。


 俺を排除するために処刑したのではない。


 魔王の心臓を覚醒させるため、俺からすべてを奪った。


 カイルの裏切りも。


 エルシアの証言も。


 俺の領地へ向けられた疑惑も。


 俺が死を拒絶するほど追い詰めるため、あの男が用意したものだった。


『素晴らしい』


 処刑台で、ノアは俺の渇望をそう評した。


 俺が自分で生み出したと思っていた渇望さえ、ユリウスに作られたものだったのか。


「それで妾たちを逃がしたか」


 ノアが呟く。


「何?」


「あの男は、妾たちを止めようと思えば止められた。それでも処刑台の地下へ逃げることを許した」


「この記録を見せるため?」


「おそらくな」


 ユリウスを憎めば憎むほど、俺は復讐を望む。


 復讐を望むほど、《人類を裏切った悪役》という役割へ近づく。


 そして最後には、カイルが倒すべき完全な魔王になる。


「どこまでが、あいつの筋書きだ」


「気にするだけ無駄だ」


 ノアが書類を俺の手から奪う。


「お前がこの紙を読んで怒ることまで、奴の計画かもしれぬ。だからといって、怒ることをやめられるか?」


「無理だな」


「ならば怒れ」


 ノアが《救世勇者計画》の記録を俺の胸へ押しつける。


「憎め。復讐を望め。お前の感情を、奴に作られたものとして否定するな」


「それでは、ユリウスの望む悪役になる」


「だから何だ」


 深紅の瞳が、真っ直ぐ俺を見る。


「悪役であろうと、魔王であろうと、その力で何をするかはお前が決めればよい」


 処刑場でユリウスに与えられた言葉を思い出す。


 ——《人類を裏切った悪役》。


 俺の中には、王国への憎悪がある。


 復讐心も殺意もある。


 それを否定したところで、消えるわけではない。


「お前は、俺が本当に魔王になっても構わないのか」


「妾は魔王だぞ?」


 ノアが不敵に笑う。


「むしろ歓迎しよう。お前がどのような怪物になるのか、妾の隣で見届けてやる」


「趣味が悪いな」


「今さら気づいたか」


 不思議な女だ。


 俺を善人へ戻そうとしない。


 復讐をやめろとも、人間であり続けろとも言わない。


 俺が何に変わろうと、それが俺自身の選択なら構わないと言う。


 エルシアとは、正反対だった。


 ふと、施設の入口から金属音が響いた。


 俺とノアが同時に振り返る。


 重い扉の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。


 一人や二人ではない。


「追手か」


「十二人」


「分かるのか?」


「妾の心臓を封じていた場所だ。この程度の範囲なら把握できる」


 俺は《救世勇者計画》の記録を懐へ入れる。


「出口は?」


「施設の奥に一つある。だが、封鎖されている可能性が高い」


「なら、突破する」


 入口の扉が開く。


 黒と白銀の鎧に身を包んだ異端審問兵たちが、列を乱さず入ってくる。


 全員、兜で顔を覆っていた。


 胸元には、開かれた本を模した聖印。


「反逆者レオン・アルヴァレスを確認」


 先頭の兵士が、感情のない声で告げる。


「魔王との融合を確認」


「大審問官猊下の命により、両名を処刑する」


 十二人が一斉に剣を抜く。


 ユリウスの姿はない。


 俺たちの戦いを、どこかで見ているのだろう。


「一つ聞かせろ」


 俺は兵士たちへ向き直る。


「この施設で行われていた実験を知っているか?」


「我々に必要なのは、与えられた使命を果たすことのみ」


「子供まで実験に使われていた」


「必要な犠牲である」


「そうか」


 黒い聖炎を右手へ灯す。


「なら、遠慮はいらないな」


『殺すのか?』


 ノアの声が耳元で響く。


「そのつもりだった」


 兵士たちは、子供の犠牲すら必要だと言った。


 ユリウスの手先。


 殺す理由には十分だ。


 だが、胸に刻まれた《悪役》の文字が熱を帯びている。


 殺せ。


 殺せば楽になる。


 殺すほど強くなれる。


 俺自身の怒りに、ユリウスの与えた衝動が混ざっている。


 ここで殺せば、それが自分の選択なのかさえ分からない。


「だから、やめた」


 黒い聖炎を握り潰す。


『甘いな』


「俺が殺すと決めるまでは、生かしておく」


『そうか』


「反対しないのか?」


『誰を殺すかは、お前が決めるのであろう?』


 ノアが楽しそうに笑った。


『ならば、好きにしろ』


 審問兵たちが動く。


 先頭の三人が、同時に間合いへ入った。


 剣の軌道は正確。


 首、心臓、腹部。


 三方向から致命傷を狙っている。


 半身になって首への斬撃を避ける。


 心臓へ迫る切っ先を素手で掴み、腹部への剣はそのまま受けた。


 刃が肉へ食い込む。


 だが、斬首によって得た耐性が働き、内臓までは届かない。


 剣を握る兵士の手首を掴む。


 引き寄せ、頭突きを叩き込んだ。


 兜が砕ける。


 兵士が倒れた。


 続けて、掴んだ剣を奪い、残る二人の足を斬る。


 膝裏を浅く切断。


 立てなくなった兵士が床へ崩れた。


 背後から四人。


 振り向きざま、黒い聖炎を床へ放つ。


 炎は兵士ではなく、足元の石床を焼いた。


 溶けた床へ足を取られ、隊列が崩れる。


 その隙に一人目の顎を剣の柄で打ち抜く。


 二人目の腹へ膝を入れる。


 三人目の腕を折り、四人目を背負うように投げ飛ばす。


 骨の砕ける音。


 だが、誰一人として悲鳴を上げない。


 倒れた兵士たちが、すぐに起き上がる。


 脚を斬られた者は剣を杖にし、折れた腕をそのまま垂らして前へ進む。


「痛みを感じていないのか」


『違う。感じてはいる』


 ノアが兵士たちの頭上を見た。


『あの男の力だ。《殉教者》という役割を与えられている』


「痛みも死も、使命を止める理由にならない」


『殺さぬ限り、何度でも立ち上がるぞ』


「厄介だな」


 俺は奪った剣を床へ捨てる。


 殺さずに止めるなら、意識ごと奪うしかない。


 だが、十二人全員を一人ずつ殴り倒している時間はない。


「ノア、力を貸せ」


「妾は心臓しか残っておらぬ」


「その言い訳は聞き飽きた」


「仕方あるまい」


 ノアが俺の背後へ回り、透けた両腕を背中へ重ねる。


「妾の魔力を直接流す。お前の身体が耐えられる保証はないぞ」


「一度死んだ聖炎よりはましだろ」


「比較対象がおかしいのだ」


 二つの心臓が同時に脈打った。


 どくん。


 黒い魔力が全身へ流れ込む。


 血管が焼け、視界が赤く染まった。


 右腕を床へ叩きつける。


「眠れ」


 黒い衝撃が、研究施設全体へ広がった。


 審問兵たちの鎧が震える。


 肉体を破壊するのではなく、内部だけへ衝撃を浸透させる。


 十二人の身体が同時に硬直した。


 一人。


 二人。


 次々に膝をつき、床へ倒れていく。


 それでも最後の一人が、剣を支えに前進した。


「使命を……果たす……」


「もう十分だ」


 兜の正面へ掌を当てる。


 軽く押し込む。


 衝撃が兜を抜け、意識だけを刈り取った。


 兵士が崩れ落ちる。


 静寂が戻った。


「全員、生きているか?」


『おそらくな。一人や二人、頭がおかしくなったかもしれぬが』


「元からユリウスの命令に従ってる。誤差だろ」


「酷いことを言うな」


 ノアが笑いながら、先頭の兵士へ近づく。


「何をする?」


「こやつらの記憶を見る」


「そんなことができるのか」


「完全には無理だ。今の妾では、強く刻まれた記憶へ触れる程度だがな」


 ノアが兵士の額へ、透けた指先を当てる。


 深紅の瞳が、僅かに光った。


 これも《永劫刻印》の一部なのだろう。


 ノアを認識した者の記憶へ、自分の存在を刻む能力。


 その接続を逆に辿り、相手の記憶へ触れている。


 しばらくして、ノアの表情から笑みが消えた。


「レオン」


「どうした」


「すぐにここを出るぞ」


「何を見た?」


「この者たちが受けた命令は、妾たちの追跡だけではない」


 ノアが立ち上がる。


「アルヴァレス領の住民、使用人、兵士。お前と関係の深かった者たちが、反逆への協力者として王都へ連行されている」


 心臓が強く脈打った。


「人数は」


「記憶から分かるだけでも、二百を超える」


「処刑はいつだ」


「明日の夜明け」


 残された時間は、半日もない。


 俺と関わったというだけで、領民たちを殺すつもりだ。


 俺を王都へ戻すための餌か。


 あるいは、俺から残されたものを奪い、さらに悪役へ近づけるためか。


 どちらでも構わない。


「出口へ案内しろ」


「罠だぞ」


「分かっている」


「あの男は、お前が戻ることを望んでいる」


「ああ」


「王都へ戻れば、奴の筋書きどおりになるかもしれぬ」


「だから見捨てろと?」


「妾ならば見捨てる」


 ノアは迷いなく答えた。


「二百人の命と引き換えに、お前が生き残れるなら安いものだ」


「そうか」


 倒れている兵士から、使えそうな剣を一本拾う。


「だが、俺は見捨てない」


「なぜだ。奴らの中には、処刑されたお前を見限った者もいるだろう」


「いるだろうな」


「お前を裏切った者まで助けるのか?」


「全員を許すつもりはない」


 剣の状態を確かめ、腰へ差す。


「俺を売った奴には、相応の報いを受けさせる。俺を信じた奴は助ける」


「その選別をする時間があるか?」


「なければ、まとめて助けてから選ぶ」


 ノアが目を瞬いた。


 やがて、呆れたように息を吐く。


「本当に面倒な男を選んだものだ」


「後悔してるか?」


「まさか」


 ノアが俺の前へ立つ。


 暗い通路の奥を指差し、魔王らしく尊大に笑った。


「お前がどこまで筋書きへ抗えるのか、見届けてやる」


「見ているだけか?」


「妾は心臓しか残っておらぬからな」


「便利な言葉になってきたな、それ」


「では行くぞ、妾の器よ」


「器と呼ぶな」


「ならば何と呼べばよい?」


 俺は一瞬だけ考え、答える。


「レオンでいい」


 ノアが僅かに目を見開く。


「俺も、お前をノアと呼ぶ」


 名前を呼ぶこと。


 互いを記憶し、世界へつなぎ止めるための行為。


「忘れるなよ」


 ノアは一瞬だけ黙った。


 そして、いつもの尊大な笑みを浮かべる。


「妾を誰だと思っている」


 黒髪を翻し、施設の出口へ歩き出す。


「世界のすべてが忘れようと——妾だけは、お前を覚えている」


 俺はノアの隣へ並ぶ。


 王都では、俺を殺した者たちが待っている。


 ユリウスの筋書きだろうと関係ない。


 どれほど悪役らしい選択に見えようと、俺が決めたのなら、それは俺の選択だ。


「戻るぞ、王都へ」


 胸の奥で、二つの心臓が重なるように脈打った。

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