第2章 第3話:家族という名の鎖
「――リナちゃんの才能を、このまま埋もれさせておくのは国家の損失だと思いませんか」
日曜日の昼下がり。クロムウェル家の食卓には、招かれざる「隣人」の姿があった。
レイスはいつもの事務的な微笑みを浮かべ、一枚の豪華な金縁の招待状をテーブルに置いた。
『聖アイギス中央魔導院・特別選抜生招待状』
それは、管理社会において最高峰の特権を約束する通行証だ。選ばれた子供は一生涯の安泰と、最高級の教育を保証される。そして同時に、その一挙手一投足が管理局の精密な監視下に置かれることを意味していた。
「リナが、選抜生に……? でも、主人の適性ランクからすると、そんなお話が来るなんて」
エレンが震える手で招待状に触れる。その瞳には、貧しい生活から愛娘を救い出せるかもしれないという、母親としての切実な希望が宿っていた。
「親の適性と子の才能は必ずしも一致しません。管理局の再調査により、リナちゃんには極めて特異な『未登録の波形』が確認されたのです。これは彼女を保護し、正しく導くための決定ですよ、カイルさん」
レイスの視線が、シチューの皿を見つめたまま動かないカイルを射抜く。
カイルは内側で、奥歯が砕けるほどの怒りを噛み殺していた。
(……再調査だと? 貴様が裏でデータを改ざんし、強引に基準へ適合させたのは分かっている。リナを管理局の奥深くに囲い込み、俺の正体を暴くための『生き餌』にするつもりか)
「……レイスさん。光栄な話ですが、僕たちは、家族三人で静かに暮らせればそれでいいんです。リナに贅沢な暮らしなんて、分不相応ですよ」
カイルは努めて弱々しく、しかし明確に拒絶の意思を伝えた。
「パパ……リナ、もっとお勉強したら、パパとママを楽にさせてあげられる?」
リナの無垢な問いかけが、カイルの胸をナイフのように切り裂く。
エレンもまた、不安げに夫の顔を覗き込んだ。
「あなた……リナの将来のためなら、一度考えてみても……」
「……少し、考えさせてください。大事なことですから」
カイルの声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。
その夜。
家族が眠りについた後、カイルは一人アパートの外階段に立っていた。
湿った夜風が吹き抜ける中、隣室のドアが静かに開き、レイスが姿を現した。
「賢明な判断を期待していますよ、カイルさん。あなたが『無能』であり続ける代償に、娘の未来を潰す……それは、父親としていかがなものでしょうか」
カイルはゆっくりと振り返った。
その瞳から「冴えない労働者」の光は消え失せ、月光よりも冷ややかな深淵が顔を出す。
「――レイス。君は一つ、大きな勘違いをしている」
カイルの周囲数インチの空間で、空気が一瞬だけ結晶化するように凍りついた。
レイスは反射的に防御障壁を展開しようとしたが、それよりも早く、カイルの言葉が世界を縛った。
「理の沈黙。……この半径三メートルにおいて、君の『管理』は一切届かない。通信も、録音も、魔力のログも、今この瞬間から存在しなかったことになる」
レイスの目が見開かれた。
手元の端末が完全にブラックアウトし、あらゆる探知魔法が「虚無」を指し示している。
目の前にいるのは、昼間の卑屈な男ではない。世界の理を糸のように弄ぶ、理解不能の怪物だ。
「家族を駒に使うな。……次、その汚い手をリナに伸ばせば、君という存在の因果関係をこの世界から消去する。君は一度も生まれてこなかったことになり、君を知る者も、君が成した仕事も、最初から塵すら残らない。試してみるか?」
カイルの威圧感は、暴力的なまでの質量を持ってレイスを押し潰そうとする。
だが、レイスは恐怖に震えながらも、狂気じみた歓喜を瞳に宿して笑った。
「……やはり。やはり、そうだったか! あなたこそが、アイギスという完璧な数式を汚す、唯一無二のバグだ!」
レイスは震える手で胸元を押さえ、陶酔したように吐き捨てる。
「殺せばいい。だが、私が消えても、招待状の記録は管理局のメインフレームに残る。あなたが私を消せば消すほど、その空白そのものが『お前の正体』を証明し続けることになる。……娘を守りたければ、演じ続けろ。地べたを這い、私に許しを請うピエロとしてな!」
カイルは静かに、突き出した手を下ろした。
凍りついていた空間が、パリンと音を立てて日常へと戻る。
「……いいだろう。望み通り、ピエロを続けよう。だが、結末だけは書き換えさせてもらうよ」
カイルはレイスを無視し、自室のドアへと向かった。
背後でレイスの不気味な笑い声が、夜のアイギスに溶けていく。
翌朝、カイルは真っ赤に腫らした目でエレンに告げた。
「リナの件……管理局へ行こう。……それが、あの子のためなんだろうから」
世界を欺くための、新たな地獄が始まった。




