第1章 第3話:泥を噛んで歩む者
「――見てください。ここには、あなたが壊した世界の『残り香』があります」
レイスに導かれ、カイルが辿り着いたのは、旧市街の巨大な地下聖堂だった。かつては魔導エネルギーの貯蔵庫だったその場所は今、無数のキャンドルと、鈍く光る『記憶の結晶』によって、幻想的な輝きを放っている。
そこには、数百人もの市民が集まっていた。皆、魔法を失い、不自由な日常に疲れ果てた表情をしながら、中央に置かれた巨大な結晶を見つめている。
「ああ……見える。私が、空を飛んでいた頃の景色が……」
「私の足が動いている……。あの大戦で失ったはずの、私の足が……」
人々の呟きは、祈りのようであり、同時に、深い呪いのようでもあった。
カイルはその光景に、胸の奥が焼けるような痛みを感じた。そこに映し出されているのは、かつて彼が戦場で『理』を振りかざし、人々を救うために書き換えた偽りの因果関係……彼が捨てた「ゴミ」そのものだったからだ。
「カイルさん。彼らを率いているのは、元管理局の中堅職員たちではありません。……ただの、昨日まで善良な市民だった者たちです」
レイスが冷徹に、しかしどこか悲しげに告げた。
「彼らはあなたの力を奪いたいのではない。あなたの力がもたらした『夢』の中で、一生を終えたいと願っているのです」
聖堂の中央に、一人の老人が立った。組織『再綴会』のリーダー。彼はかつて、カイルが工事現場で助けたことのある、ただの老作業員だった。
「皆さん、信じるのです。かつてこの街には、あらゆる理不尽を魔法という奇跡で上書きしてくれた『王』がいた。……私たちは、もう一度その奇跡を呼び戻さなければならない。この、泥を噛むような退屈な日常を終わらせるために!」
「そうだ!」「もう一度奇跡を!」
人々の熱狂が、地下聖堂の空気を震わせる。
カイルは、ゆっくりと歩み出た。
泥のついた作業着、割れた親指に巻かれた汚れた包帯。
「――やめておけ。その奇跡は、君たちを救わない」
カイルの声は、熱狂の中に冷や水を浴びせるように響いた。
人々が振り返る。そこには、どこにでもいる、冴えない中年男が立っていた。
「なんだ、貴様は! 聖なる儀式を邪魔するな!」
「私は、ただの清掃員ですよ」
カイルは老人の前に立ち、中央の巨大な結晶を指差した。
「あんたたちが崇めているそれは、奇跡なんかじゃない。かつての誰かが、自分の都合で切り捨てた『嘘の残骸』だ。そんなものに縋っていても、明日の朝、君たちの腹が膨れることはないし、壊れた蛇口が直ることもない」
「黙れ! 魔法のないこの世界の、どこに価値があるというのだ! 泥にまみれ、油に汚れ、ただ老いていくのを待つだけの毎日に!」
「価値なんて、自分で作るもんだ」
カイルは自分の、傷だらけの手を広げて見せた。
「確かに、魔法があれば一瞬だった。だが、この傷は、俺が昨日一日、家族を食わせるために働いた証だ。……お玉を落として泣いてくれた妻がいて、木彫りの人形で笑ってくれた娘がいる。魔法で書き換えた偽物の笑顔より、俺は、泥を噛んででも手に入れた今の、こいつらの笑顔の方が、ずっと美しいと思う」
カイルの言葉には、かつてのロゴスのような強制力はない。
だが、一人の「無能」として生きることを選んだ男の、魂の重みが乗っていた。
「……あんたが助けたいのは、人々じゃない。不器用になった自分を許せない、自分自身だ。……魔法を捨てろ。そして、レンチを握れ。そこからしか、本当の人生は始まらない」
カイルが静かに歩み寄り、巨大な結晶に手を触れた。
かつてなら一瞬で消去できたはずの結晶。今のカイルには、それを壊す魔力はない。
彼は懐から、仕事で使い古した鉄のハンマーを取り出した。
「――理なんて、もういらない」
渾身の力で、カイルはハンマーを振り下ろした。
ガィィィィンッ! という、鈍く、しかし重々しい金属音が聖堂に響き渡る。
一度、二度、三度。
結晶に亀裂が走り、人々が見ていた美しい幻影が、ガラスが割れるように砕け散った。
静寂が訪れた。
幻影を失った人々は、暗い地下室の中で、ただの惨めな自分たちを突きつけられた。
老リーダーは力なく座り込み、カイルを憎しみに満ちた瞳で見上げた。
「……お前、自分が何をしたか分かっているのか。……私たちは、もう夢を見ることさえできないんだぞ」
「ああ、分かっている。……その代わり、明日の朝、朝日を眩しいと感じる権利を返してやったんだ」
カイルはハンマーを仕舞い、レイスに目配せをした。
「……あとは頼むよ、記録官。彼らに、魔法に頼らない『まともな仕事』を斡旋してやってくれ。……俺は、もう帰らなきゃいけない。今日は、リナの好物のオムライスなんだ」
レイスは深々と帽子を脱ぎ、カイルの背中に向けて一礼した。
「……カイル・ヴァン・クロムウェル。あなたはやはり、誰よりも残酷で、そして誰よりも慈悲深い」
地下聖堂を出ると、夜のアイギスの街には、不器用な、しかし確かな生活の灯りが灯っていた。
カイルは、傷んだ親指を少しだけ疼かせながら、家族の待つ「愛おしい不自由」へと、一歩一歩、泥を踏みしめて帰っていった。




