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理(ことわり)を綴り直す無能  作者: 最後に残った形
後日談

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第1章 第1話:錆びた日常と魔法の残り香


 その男、カイル・ヴァン・クロムウェルの一日は、指先の小さな「痛み」から始まる。


 「……痛っ。またやったか」

 カイルは、赤く腫れた親指の腹を口に含んだ。

 かつては世界のことわりを書き換え、因果の糸を自由自在に操っていたその指先は、今や一本の錆びたネジを回すことにも苦労していた。目の前の壊れた蛇口からは、執拗なリズムで水が漏れ続けている。


 かつての彼なら、一言「――止まれ」と囁くだけで済んだはずだ。

 だが、今のカイルに宿っているのは、朝の冷たい空気と、使い慣れないレンチの重み。そして、エレンが作ってくれた味噌汁の匂いだけだった。


「あなた、まだ直らないの? 朝ごはん、冷めちゃうわよ」

 台所からエレンが笑いながら声をかける。

「ああ、もう少しだ。……このネジ、なかなか理屈が通じなくてね」


 カイルは苦笑いした。

 始祖との決戦以来、この世界から過剰な魔導エネルギーは失われた。管理局が誇った巨大な魔法回路は鉄屑となり、人々は自らの腕で火を熾し、自らの足で歩くことを余儀なくされている。

 カイル自身も、もはや『理』を綴ることはできない。彼は正真正銘、この管理都市アイギスで最も「不器用な無能」として、新しい生活を始めていた。


 だが、平和になったはずの世界には、いまだに「魔法の残り香」が漂っている。


 仕事を求めて街へ出たカイルは、広場で騒ぎが起きているのを目にした。

 そこには、かつてのエリート学生と思わしき若者が、僅かに残った魔力を使って、老婆から金を巻き上げようとしていた。

「おい、ばあさん。俺の魔法があれば、この枯れた花を一瞬で咲かせてやれるんだ。管理チップ十枚分でどうだ?」


 若者が放つ魔法は、あまりにも拙く、歪んでいた。

 それはかつての『魔導』ですらない。ただの不完全なエネルギーの暴発。

 カイルは通り過ぎようとして、足を止めた。

 (……あんな不安定な術式の組み方。このままでは、花が咲く前に老婆の指が焼き切れる)


 カイルは、かつての自分なら一瞥もくれなかったであろうその小競り合いに、ゆっくりと歩み寄った。

 「――よしてあげなよ。その術式、因果が捻れている。花を咲かせるどころか、火傷をさせるのが関の山だ」


「あぁ!? なんだ貴様、ただの作業員が……!」


 若者がカイルの胸ぐらを掴もうとした、その時。

 背後から、凍りつくような冷徹な声が響いた。


「――その男に触れるのは、お勧めしませんよ。彼は、理屈の通じない『運』の持ち主ですからね」


 銀色の髪、漆黒のコート。

 管理社会の死神と呼ばれた男、レイスが、古びた手帳を手に立っていた。

 彼は執行官の身分を捨て、今は新生アイギスの『記録官』として、街に漂う「魔導犯罪の残滓」を追っているのだという。


「レイス……。また、記録の邪魔をしたかな?」


「いいえ。ちょうど、あなたの『不器用な介入』が必要な事件が起きたところでしてね」

 レイスは若者を一睨みで追い払うと、カイルの隣に並んで歩き始めた。


「カイルさん。……街の北側にある、かつての廃棄研究施設から、出所不明の『古代魔法の種』が流出しました。それを使って、人々の記憶を書き換えている組織がいる」


 カイルの足が、ぴたりと止まった。

 記憶の書き換え。それは、カイルがかつてリナを守るために、最も多用した欺瞞の術だった。


「……僕にはもう、力を止める手段はないよ。レイス、君も分かっているだろう」


「ええ。ですが、あなたには『経験』がある。……魔法を使わず、知恵だけでバグを修正する方法を、あなたは知っているはずだ」


 レイスの瞳は、かつての確信に満ちた歓喜を宿していた。

 カイルは溜息をつき、割れたばかりの親指を眺めた。

 (……ただいま、を言ったばかりなのに。また、平和を綴り直さなきゃいけないのか)


 その時、街の広場の時計塔が、不自然なリズムで鳴り響いた。

 それは、カイルの『理』の耳が捉えた、新しい事件の序曲だった。

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