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理(ことわり)を綴り直す無能  作者: 最後に残った形
本編

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第4章 第3話:ただいま


 アイギスの空を覆っていた、不気味な虹色の亀裂がゆっくりと閉じられていく。

 管理塔『エトワール』の最上階。かつて「聖域」と呼ばれたその場所は、今やただの、風が吹き抜けるだけの空虚な高台と化していた。

 

 カイル・ヴァン・クロムウェルは、崩れ落ちた床に膝をつき、大きく息を吐いた。

 彼の右手に宿っていた、万物の理を綴る七色の光は、もはや影も形もない。

 始祖の魔導士——実の父との決戦の最中、カイルは一世一代の「書き換え」を行った。それは、世界から古代魔法の源泉を切り離し、同時にカイル自身の「規格外の力」をも永遠に封印するという、自己犠牲にして最大の救済だった。


 「……終わったんだな」


 呟いた声は、驚くほど軽やかだった。

 体中を巡っていた、血管を焼き切るような魔力の奔流が消え、代わりに、ひどく重く、しかし確かな「肉体の重み」が戻ってきた。

 

 「――酷い顔ですね。これでは、街の清掃員として雇ってもらうのも難しそうだ」


 背後から響いたのは、聞き慣れた、冷徹で抑揚のない声だった。

 カイルがゆっくりと振り返ると、そこにはボロボロのコートを纏ったレイスが立っていた。彼は手に持っていた執行官の端末を、無造作に眼下の雲海へと投げ捨てた。


 「レイス。……生きていたのか」


 「あなたの『書き換え』が甘かったおかげですよ。……あるいは、私にこれからの世界を『記録』せよという、新たな理でも綴ったのですか?」

 レイスはカイルのそばまで歩み寄り、力なく地面に座り込んだ。

 「管理局のメインフレームは死にました。始祖の魔導士が構築した管理システムは、あなたの放った『不完全な日常』というバグに耐えきれず、完全に崩壊した。……今、この世界には、登録された魔導も、階級も、監視もありません」


 「……それは、いいことなのかな」


 「さあ、どうでしょうね。明日からは、誰もが自分の足で歩き、自分の魔力で火を熾さなければならない。……あなたの言う『退屈で不自由な日常』の始まりですよ」

 レイスはそう言うと、カイルの顔をじっと見つめた。

 「カイル・ヴァン・クロムウェル。……いや、カイルさん。あなたの生体波形は今、完全に『Gランク』の数値を示している。もはや偽装の必要すらない。あなたは、本当の意味で『無能』になった。……満足ですか?」


 カイルは空を見上げた。

 夕焼けが、かつてないほど美しく、オレンジ色に世界を染めていた。

 「ああ。最高に、贅沢な気分だよ」


 「……記録には、こう残しておきましょう。『バグは、聖域の崩壊と共に消滅した。実行犯は不明』。……これで、誰もあなたを追うことはない」

 レイスは立ち上がり、背を向けた。

 「さようなら、私の愛した、最も美しい不条理」


 レイスの影が、瓦礫の向こうへと消えていく。

 カイルもまた、震える足で立ち上がった。


 それから、カイルは歩き続けた。

 もはや「転送」も「空間圧縮」も使えない。ただの二本の足で、瓦礫の山を越え、荒野を抜け、かつての自分たちが住んでいた、あの古びた街へと向かって。

 道中、魔導を失い、混乱する人々を助け、あるいは共に焚き火を囲み、彼は一歩ずつ「一人の人間」としての時間を取り戻していった。


 数日が過ぎた。

 アイギスの街は、管理を失いながらも、人々の手によって少しずつ新しい秩序が生まれようとしていた。


 夕暮れ時。

 建付けの悪いドア、錆びた蛇口の匂い、そして、微かに香るシチューの匂い。

 カイルは、あの日と変わらぬ、しかし少しだけ賑やかになったアパートの前に立っていた。


 彼は泥だらけの服を払い、乱れた髪を指で整えた。

 心臓が、始祖と戦った時よりも激しく鼓動している。

 彼は、かつてのように「無能」を演じる必要はない。だが、今の彼は、本当に魔法一つ使えない「無能な男」なのだ。


 (……受け入れてくれるだろうか。……怖がらせてはいないだろうか)


 不安が、古代の理よりも重くのしかかる。

 だが、彼は逃げなかった。

 震える指先で、彼はドアをノックした。


 「はい、どなた……?」


 扉が開いた。

 そこには、少しやつれたが、あの日と変わらぬ優しい瞳をしたエレンが立っていた。

 彼女は、目の前に立つ、泥だらけで、ボロボロで、しかし晴れやかな顔をした夫の姿を見ると、手元に持っていたお玉を床に落とした。


 「……ただいま、エレン」


 「……あなた、」


 エレンの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 彼女はカイルに飛びつき、その胸に顔を埋めた。

 「あなた……! あなた、あなた……!」


 「パパ! パパなの!?」

 奥から、リナが駆け寄ってくる。

 カイルは、二人を力いっぱい抱きしめた。

 もう、そこに「理」の力はない。

 ただ、不器用で、力がなくて、しかし何よりも強い「愛」という名の温もりだけがあった。


 その夜、クロムウェル家の食卓には、少しだけ焦げたシチューが並んでいた。

 「パパ、今日はお仕事お休み?」

 「ああ。明日からも、しばらくはお休みだよ。……でも、明後日くらいからは、新しい仕事を探さなきゃな」

 「リナ、お手伝いするよ! パパ、魔法使えないもんね!」


 家族の笑い声が、夜のアイギスに溶けていく。

 窓の外、隣の二〇四号室は、空室に戻っていた。

 だが、カイルには分かっていた。この空の下のどこかで、あの死神のような隣人が、自分たちが刻む「新しい日常」を、飽きもせず見守り続けていることを。


 カイル・ヴァン・クロムウェルの一日は、世界に対する「勝利」で終わる。

 それは、権力でも、魔力でもない。

 愛する者と囲む、不自由で、不完全で、そして最高に退屈な食卓。


 カイルは、リナの頭を撫でながら、心の中で静かに、最後の一行を綴った。


 ――ことわりの書き換え、完了。

 この幸せな物語を、永遠に保存する。


(完)

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