第32話 聖女レイナ10歳編 嘆きの谷の再訪
退屈の霧の発生源が、7年前にレイナが浄化した「嘆きの谷」であることが判明した。
7年前、わずか3歳の聖女レイナが闇を浄化したその谷に、今度は「退屈の霧」が発生したという。
霧に包まれた者は、理由もなく深い倦怠感に襲われ、何をする気力も失ってしまうのだ。
「行かねばならぬ」
王はそう言ったが、眉間に深いしわを刻んでいた。
「だが、レイナ、今度はもっと危険かもしれぬ」
「大丈夫だよ、おじいちゃん王様」
10歳になったレイナは、かつてよりも背筋を伸ばし、確かな足取りで玉座の前に立っていた。
7年の歳月は、彼女を幼子から、責任ある聖女へと成長させていた。
「あの谷、レイナがきれいにしたんだから。またきれいにしてあげる」
今回は、レイナ自身の希望で、かつて彼女を護衛した騎士たちの子供たちも同行することになった。
7年の間に結婚し、家族を持った騎士たちは、複雑な表情を浮かべた。
危険は避けたいが、自分の子供が聖女と冒険する姿を見られることに、誇りも感じていた。
「父さん、私も行っていい?」
「僕だってレイナ様を守りたい!」
子供たちの目は、期待に輝いていた。
こうして、10人の子供たちと、数名の付き添いの騎士を加えた一行は、嘆きの谷へと向かった。
谷の入口は、7年前よりも穏やかな風景になっていた。
かつては枯れ木ばかりだった斜面に、若草が芽吹き、小鳥のさえずりが聞こえる。
しかし、所々に漂う灰色の霧が、不気味な影を落としていた。
大人たちが警戒して歩を進める中、子供たちはレイナを中心にわいわいと騒いでいた。
「レイナ様、7年前は本当に闇をやっつけたんですか?」
「すごい!どうやってやったの?」
レイナは照れくさそうに頬を染めながら、当時のことを話し始めた。
すると、騎士の1人が突然、深いため息をつき、地面に座り込んだ。
「ああ……何もする気が起きない……なぜだろう…」
霧が濃くなっていた。
大人たちの間にも、無気力な空気が広がり始める。
「みんな、あの霧を見て」
レイナは指さした。
灰色の霧が、ゆらゆらと漂っている。
「あれ、実はすごく退屈してるんだよ。誰も遊んでくれないから、みんなを自分みたいに退屈させちゃうんだ」
「退屈な霧?」
騎士の息子の一人が首をかしげた。
「どうやって遊んであげるの?」
レイナの顔に、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「こうだよ!」
彼女は地面にしゃがみ込み、手のひらで土を軽く叩き始めた。
ポン、ポン、ポン。
単純なリズムだったが、次第に複雑なパターンへと変化していく。
タン・タタ・ポン・タン!
子供たちは一瞬驚いたが、すぐに笑顔になり、レイナの隣にしゃがみ込んで真似をし始めた。
最初はばらばらだったリズムが、次第に一つにまとまっていく。
やがて、無気力になっていた大人たちも、その楽しげな音に誘われて加わった。
ポン!タン!タタタ・ポン!
谷中に手拍子の音が響き渡った。
すると、不思議なことが起こった。
灰色の霧が、リズムに合わせて踊り始めたのだ。
ゆらゆらとうねり、色を変え、銀色から淡いピンクへ、そして青へと変化していく。
まるで霧自身が、遊びを見つけて喜んでいるようだった。
「もっと楽しくしようよ!」
レイナが叫ぶと、子供たちは手拍子に加え、足で地面を踏み鳴らし始めた。
ドン・ドン・ポン!ドン・ドン・ポン!
霧はさらに激しく踊り、渦を巻き、最後には金色の光の粒に変わって、ぱっと消えていった。
辺り一面から霧が消え、代わりに暖かな日差しが差し込んできた。
「やったあ!」
子供たちが歓声を上げる中、一行は谷の奥深くへと進んだ。
かつて闇の瘴気が最も濃かった場所に、小さな灰色の泉が湧いていた。
泡立つ水は鈍い灰色で、ここから霧が発生しているのがわかった。
レイナは泉のそばにしゃがみ込み、じっと水面を見つめた。
「これ、寂しがり屋なんだ」
彼女はそう呟いた。
「ずっとここにひとりぼっちでいたから、みんなを自分みたいに寂しくさせたかったんだよ」
「どうするの、レイナ様?」
騎士の娘が心配そうに尋ねた。
レイナは微笑み、泉に向かって話しかけ始めた。
「今日ね、王宮に新しい子猫が来たんだよ。白と茶色のまだらで、とっても小さくて……」
彼女は今日あった楽しいこと、厨房で生まれた新しいデザートのこと、庭に咲いた最初の花のこと……淡々と、しかし温かい声で語りかけた。
すると、泉の水の色が灰色から透明に変わり、やがて微かに金色に輝き始めた。
水面に、小さな虹がかかった。
「ほら、もう寂しくないよ」
レイナは泉に手を浸し、優しくかき混ぜた。
「みんなが遊びに来てくれるからね。約束する」
その瞬間、泉の周りの地面から、色とりどりの花が一斉に咲き始めた。
青いスズラン、赤いポピー、黄色いタンポポ……かつて闇に覆われた谷が、花畑へと変貌していく。
子供たちは歓声を上げ、花摘みを始めた。
騎士たちは、驚きと安堵の表情を浮かべながら、この光景を見守った。
「退屈の霧」は二度と現れなかった。
代わりに、嘆きの谷は「笑いの花園」と呼ばれるようになり、子供たちの絶好の遊び場となった。
泉は金色に輝き続け、時折、楽しげな水の音を立てるようになった。
まるで、もう寂しくないと笑っているかのように。
レイナは時折、騎士たちの子供たちを連れて花園を訪れ、泉に話しかけ、花冠を作り、手拍子で遊んだ。
かつて闇に満ちた谷は、今では王国で最も明るく、笑い声の絶えない場所となっていた。
王は玉座の間で、報告を聞きながら満足そうに頷いた。
「やはりレイナは、ただの力ではなく、心で闇を癒すのだな」
そして誰もが気づいた。最も強い光とは、優しさと遊び心から生まれるのだということを。
退屈も寂しさも、共に笑い、共に遊ぶ心さえあれば、やがて花咲く庭へと変わるのだと。
レイナは、金色に輝く泉のそばで、新しい友達となった泉に囁いた。
「ねえ、今度は王様も連れてきてあげる。おじいちゃん王様、最近ちょっと退屈そうだから」
泉はきらきらと輝き、楽しそうな水音を立てて答えた。もう二度と、寂しがって霧を出すことはないだろう。
だって、遊び友達がたくさんできたのだから。




