第25話 聖女レイナ9歳編 キィーリン外交
レイナが9歳になって初めての大仕事は、隣国のトナリーノン王国との公式な外交会談だった。
王宮の会議室は、緊張した空気に包まれていた。
エドワルド王太子は、傍らに座る小さな聖女レイナを見て、微笑みを浮かべながらも、心の中では6年前の一件を思い出していた。
父王がパイまみれになったマミーレン使者に、別室で着替えを勧めようとしたが、使者が疾風のように城を出て行ってしまい、結局は王城外の小屋での着替えとなった。
なぜかその話は「パイまみれのまま帰国した」という伝説に変わっていた。
かつてパイまみれになって退散したあの国が、今度は真剣勝負でやってきた。
マミーレン使者は前回の失敗を教訓に、派手なマントはやめ、一切の食べ物がない会議室を厳重に要求した。
「さて、小さき聖女レイナ様」
マミーレン使者は慎重に言葉を選びながら話し始めた。
彼はレイナがまだ子供であることを考慮し、できるだけ簡単な言葉を使おうとしていた。
「我が国は、瘴気浄化の技術に関する知識の共有を提案します。代わりに、国境の森の通行権を……」
「あのね!」
レイナが突然手を挙げた。使者は話を遮られて少し面食らった。
「森のキィーリンさんたち、最近元気ないんだよ。お水が黒くて苦いんだって。レイナ、キィーリンさんたち助けたいな」
使者は一瞬言葉に詰まった。
彼が準備してきた経済的、政治的な議論のすべてが、突然「キィーリンさん」の話に変わったからだ。彼の脳内では、貿易関税とキィーリン保護の優先順位が激しく戦っていた。
「ええと……それは確かに問題ですが、我々は今、より重要な国務について……」
「キィーリンさんたちが元気になったら、森を通ってもいいよ!」
レイナの目は真剣そのものだった。
「だって、キィーリンさんたちが悲しんでたら、森を通る人たちも悲しくなっちゃうでしょ? レイナ、キィーリンさんたちのお水、きれいにするから!」
「つまり……聖女様は、我が国が森の通行権を得る代わりに、貴国が……キィーリンの住む川の浄を……?」
「うん! それで、キィーリンさんたちとお友達になって、みんなで森をお散歩するの! 約束だよ!」
交渉は予想外の方向に進んだ。
マミーレン使者は最初困惑したが、レイナの純粋な主張を聞きながら、奇妙なことに自分もキィーリンたちのことを気にかけ始めた。
彼は自分の国にも、汚染された川で苦しんでいる動物たちがいることを思い出した。
結局、二国間協定の第一条は「国境の森の水質浄化とキィーリンの保護に関する共同事業」となり、経済条項は二条以下に追いやられた。
協定書には、レイナが描いたキィーリンの絵が小さく添えられていた。
その絵は、首の長さが実際よりも少し誇張されていて、背中に小さな羽があり、薄いピンクの網目模様が愛らしく表現されていた。
王が書斎でレイナに尋ねた。
「レイナよ、今日の会談、よくやった。しかし一つ聞こう。なぜ最初に、キィーリンの話をしたのかね?」
レイナは少し考え込むような顔をした。
「だって、おじいちゃん王様がお話してた。『本当に大事なものは、一番最初に話さなきゃ』って。キィーリンさんたちのことが一番心配だったから」
王は深く頷き、温かい眼差しをレイナに向けた。
老練な王は理解した。
使者が山ほどの資料に埋もれて見失っていた「交渉の本質」平和と共存を、この幼き聖女は、キィーリンという純粋な心配事を通して、いつの間にかテーブルの上に置いていたのだ。
隣国のトナリーノン王国では、さっそく「キィーリン保護官」という新しい役職が誕生し、その任に就いた初代官僚が、首の長い動物たちにどう挨拶すればいいか、図書館で必死に調べているという。
外交というものは、時に、予想もしないところから実を結ぶものらしい。




