アビス2
アビス大聖堂はゴシック調で築かれた、比類ない大聖堂である。通称「もう一つの御羊の御座」と呼ばれ、教皇の聖務室は、普段は固く閉ざされている。教皇自身が外に出る事は勿論可能で、柔和な現教皇は町へ出歩くと、通行人の人だかりが出来るという。
さて、バニラは暫くこの壮大な聖堂を見上げて硬直していた。光を放つように錯視される白の外壁をずっと天へ向けて辿っていくと、陽光の白に対抗するように、鐘楼に炎が灯されている。
「消えること無き祈りの火……」
バニラの呟きは雑踏に飲まれていく。視線をゆっくりと下に下ろしていくと、教会の正面、広場に向かう入り口に、黄金の像が立つ。陽光に眩く輝くのはカペラと、世にも珍しい人の形を取り成した光の主神ヨシュアの像である。概念的な人の輪郭に、顔は削がれたかのように彫られておらず、両手の平を腰の高さで静かに上へと向ける。その様は、遍く光を放つに相応しい威容を見せている。
「ヨシュアの黄金の像は、この場所ともう一つの教皇庁でしか見られない。政治的に見ても、当時のカペル王国がいかにこの事業に傾倒していたかが分かる」
ルクスは祈りの仕草を取ってヨシュアの像に近づく。光を映すのがやや眩しいためか、眉間に皺を寄せている。彼の隣にクロ―ヴィスが立ち、ヨシュアと向き合ったままニヒルに鼻を鳴らした。
「王様にとっては飾り物か。随分と冒涜的だな」
「信仰の柱は民衆にしか残らなかったとは、『分かつ塔』の伝承のようだ」
「解釈違いだな。民衆にも残らなかったんじゃねーか?」
「お二人とも」
ピンギウが二人の背中を強く叩く、短い悲鳴の後に怒りの眼差しを受けたピンギウは、静かに扉を指さす。間延びした「はい」の返事の後で、ようやく、学生達は扉に向かって歩き出した。
扉が近づくにつれ、その上部にあるタンパンの装飾が鮮明になっていく。アーチボルトには特徴的な溝が規則的に彫り込まれ、その間に、下部のものには地獄の罪人が、30度程から現世の人間が、60度ほどから善人達が、最後の10度に天の遣い達が顔を出している。
非常に細かい装飾を施したアーチボルトと同様に、タンパンの内部も神々の物語で満たされていた。
中央に座するフォルカヌスが両の手で自らの車輪の上部と下部を指さし、下部に近い者は頭を抱え、上部に近いものは天に祈りを捧げる。傍らに神聖文字で記された「車輪は全て汝自身なり」との文言は、フォルカヌスを象徴する言葉であり、教会が人々に入信の施しを与えるために言う言葉でもある。それは、入り口のタンパンに描かれるに適した言葉であった。
(重厚な扉だ……)
バニラは入り口の扉に触れる。分厚い鋼鉄の扉であり、天上のモチーフが彫られている。どっしりと手のひらに重たくのしかかる冷ややかな感触は、冷酷な印象を覚える。古いこの扉の彫刻は、不安定で遠近感のないものであるため、一層バニラの不安感を誘った。
「……開けるぞ」
クロ―ヴィスは畏まって言う。バニラは黙って頷き、共に巨大な鉄の扉を押し開いた。
戸口が開くと同時に、生ぬるい風が彼の頬をきる。彼がそのままそっと目を開くと、高く鋭利な天井を持つ、バシリカの礼拝堂が広がっていた。高い高窓と側廊を支える柱は黄金の輪で縁を囲った装飾で、永遠に染まることのない白色が無数に、真っすぐに伸びている。側壁をくり抜いたような巨大なアーチは、いくつもの背の低い側柱に支えられ、礎石部分が神の使い達の顔を象った装飾で守られている。歯を剥き出しにしている様が門番のごとく凶暴な印象さえ与える。
生ぬるい風の正体は人だかりであり、寄進料を受け取った司祭が、星玉と呼ばれる形のいいトパーズを触る。遠目にも、滑らかな肌触りが感じられる。混じりけのない黄色の輝きは、薄暗く遥かに高い大聖堂であってもなお見つける事が出来る。妖しい輝きに纏わりつく人々の熱狂は救いを求める亡者そのものであり、触れた者が次の者に場を譲る余裕もない。
「教会で天の奇跡を見ないのは勿体ないことだ」
ルクスはそう言ってバニラの背中を叩く。生ぬるい熱気で少し汗ばんだ喉がゆっくりと天井を向く。
稀少な青の顔料をふんだんに使ったフレスコ画が、天井一帯に広がっていた。嵌め殺しの採光窓の周辺には陽光を示すヨシュアのイコンが照り、鈍色の光を降り注がせる。
天を舞う使い達はいずれも筋肉質で、官能的な、開放感のある衣装を身に纏う。ヴェールやトーガの隙間から覗く太腿には、骨の突起から筋肉の窪みまで丁寧に描かれている。
中央の光を中心に回る天界の踊り子たちの外側に、下界で神に近い人々が小さく描かれている。矮小な王族たちより遥かに小さく、都市の外形がこれらを囲い、そしてその中でひときわ目立つのが、アビスの市壁から覗く消えること無き祈りの火である。それは、端的に世界の序列を描いた縮図でもあり、アビスという町の政治的な役割を仄めかしていた。
「神を拝するものたちを配する宗教画か。趣向としては面白いがな」
「つまり、個人的には面白くないと?」
「鐘楼の高さは可変じゃねぇからな」
クロ―ヴィスはルクスを見上げて笑う。ルクスもこれに応じて、視界から祈り火を隠すように指で視線を遮る。人々は勿論、彼らなど見向きもしない。
「さて、少し聖堂を回覧しながら、聖務庁を外から眺めるというのはどうかな?」
ルクスは手を広げておどけながら、学生一同に問いかけた。バニラが視線を少し外せば、赤い帽子を被った男に恭しく挨拶をするモーリスの姿があった。
「……いくら積んだんです?」
ピンギウがじっとりとした目つきで問い質す。ルクスは顎を摩り、天井画を見つめながら答えた。
「今回ばかりはあちらの完全な善意だからね。まぁ、失礼のないように」
「どうだかな」
クロ―ヴィスは口の端で笑う。モーリスが戻ってくると、学生達は赤い帽子の男に深く頭を下げ、玄関からゆっくりと前進した。




