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消えた村を覚えているのは俺だけだった  作者: チンアナゴ
第一章 失われし故郷

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9/10

第九話 さよならも言えないまま

 村から出られなくなった。

 その可能性を、俺が初めて本気で考えたのは、親方たちが南の街道を調べた翌朝のことだった。


「……南の道も、北の道も駄目か」


 机に広げた地図を見下ろす。

 昨日、記憶だけを頼りに描いた村の地図だ。

 西の石橋には大きくバツ印。北の畑には魔物が現れた場所を示す丸。南の街道には、今朝になって新しく疑問符を書き足した。

 見事に問題だらけである。

 測量師見習いになってから、村の地図は何度も見てきた。

 それでも、自分の故郷にこれほど印をつける日が来るとは思わなかった。


「……これじゃ、地図というより落書きだな」


 独り言を漏らし、椅子にもたれかかる。

 右手はまだ痛んでいた。

 昨日より腫れは引いたものの、指を曲げると鈍い痛みが走る。治療師には数日間、重いものを持つなと言われている。

 左腕も相変わらず筋肉痛だ。

 英雄になり損ねた代償としては、なかなか情けない。


「ノア、起きてる?」


 扉の向こうから母さんの声が聞こえた。


「起きてるよ」


「朝ご飯、できてるわよ」


「今行く!」


 地図を畳もうとして、手を止める。

 赤い印の一つ。

 村の西外れに描いた、小さな四角形。

 ベネット爺さんの家だ。

 今の村には存在しない。

 それどころか、誰もあの家を覚えていない。

 俺が描いた地図には、ちゃんと残っている。

 この紙まで書き換わってしまう可能性はある。実際、以前の測量記録は俺の記憶と違うものになっていた。

 だから、何が起きてもおかしくない。

 俺は念のため、家の横に小さく名前を書き足した。


『ベネット』


 少し考え、その下にもう一行。


『昨日まで、ここに人が住んでいた』


 ……いや、昨日ではないか。

 もう何日も経っている。

 書き直そうとしたところで、階下から声が飛んできた。


「ノア! 早くしないと冷めるわよ!」


「分かったって!」


 俺は慌てて地図を丸めた。

 今は朝飯だ。

 腹が減っていては、まともに考えることもできない。


     ◇


「……村から出られない?」


 親方が眉をひそめた。

 朝食を終えた俺は、詰所に来ていた。

 今朝は珍しく、オルンさんもいる。

 包帯を巻いた左腕を机に乗せ、難しい顔で地図を睨んでいた。


「昨日の、南の街道の話か」


「はい、確定したわけじゃありませんが——」


 俺は地図の南側を指差した。


「ただ、昨日の話が本当なら、南の街道を進んでも村に戻ってきてしまうんですよね?」


「ああ」


 オルンさんが頷く。


「昨日の見張り番は二度試したらしい。どちらも同じ場所に戻ってきたそうだ」


 俺は地図を見つめた。

 南の街道は、隣町へ続く主要な道だ。

 途中には小さな森があるものの、道幅は広い。商人の荷車が通るため、普段から整備されている。

 迷うような場所ではない。


「親方。昨日、北側の境界標も消えたって言ってましたよね」


「ああ。少なくとも、俺にはあそこに石柱があった記憶がある」


「それも、南の道と関係があるんでしょうか」


「分からん」


 親方は即答した。


「お前の見た異常と、今回の道の変化が同じ原因なのかも分からん。今は確かなことから調べるしかない」


 相変わらず、堅実な人だ。

 こういうときは、その慎重さがありがたい。


「じゃあ、東側はどうですか?」


「東?」


「村の東に、古い山道があるでしょう。羊飼いたちが使ってた道です」


 俺は地図の端を指差した。

 村の東側には、小さな丘が連なっている。

 その向こうには林があり、さらに進めば隣町の街道へ合流できるはずだ。

 今ではほとんど使われていないが、子供のころ、フィアと何度か歩いたことがある。


「あそこなら、石橋を通らずに村の外へ出られます」


「……ふむ」


 親方は地図を覗き込んだ。


「確かに道はある。荷車を通すのは難しいが、人が歩く分には問題ないはずだ」


「なら、調べてみませんか?」


 オルンさんが顔を上げた。


「お前、また自分で行くつもりか?」


「……できれば」


「その手で?」


「……見てるだけなら」


「駄目だ」


 即答された。

 最近、俺の扱いがずいぶん厳しくなった気がする。

 自業自得なのは分かっているけれど。


「俺とダグで行く。お前は村に残ってろ」


「でも、俺にしか見えないものがあるかもしれません」


 オルンさんの表情が変わった。

 昨日の獣との戦い。

 あのとき俺は、ほかの人には見えない身体の変化を観察していた。

 おかげで倒す方法を見つけられたが、一歩間違えれば死んでいた。

 オルンさんは、しばらく俺を見つめていた。


「……分かった」


「本当ですか?」


「ただし、俺たちの指示には絶対に従え。勝手に動いたら、その場で引き返す」


「はい!」


「返事だけは立派なんだよな、お前」


 苦笑された。

 ……そこは否定できない。


     ◇


 東の山道は、思っていた以上に荒れていた。

 村を出てしばらく歩くと、道は細くなり、草木が生い茂る斜面へ続いていた。

 ところどころに古い石段が残っている。

 子供のころは、もっと歩きやすかった気がするのだが。


「……本当に、ここを通ってたのか?」


 オルンさんが尋ねた。


「はい。昔は羊飼いの人たちが使ってました」


「ずいぶん放置されてるな」


「村から隣町へ行くなら、南の街道の方が便利ですから」


 俺は足元の石を避けながら答えた。

 親方は少し先を歩き、道の幅や傾斜を確かめている。

 仕事中の親方は、こういうとき本当に頼りになる。

 どれほど複雑な地形でも、迷うことなく歩いていく。


「……ノア」


 親方が足を止めた。


「ここから先、道が二つに分かれているな」


「……え?」


 俺は顔を上げた。

 目の前には、確かに二本の道があった。

 右へ続く道と、左へ続く道。

 右側はなだらかな斜面を下り、林の中へ消えている。左側は丘の上へ向かっていた。


「……おかしいな」


「何がだ?」


「昔は、分かれ道なんてなかったはずです」


 記憶を探る。

 フィアと歩いたとき、俺たちはずっと丘を登っていた。

 途中で小川を渡り、大きな岩の横を通って、林の向こうへ抜けた。

 右へ下る道なんて、なかった。


「またそれか……」


 親方が額を押さえた。

 俺だって好きで言っているわけじゃない。


「とりあえず、どちらかを調べましょう」


 オルンさんが右側の道へ目を向けた。


「まずは下りだな。見通しが悪いから、慎重に行くぞ」


 俺たちは一列になって進み始めた。

 親方が先頭。俺が真ん中。オルンさんが最後尾だ。

 途中、何度か親方が立ち止まり、木の幹に布を結びつけた。

 帰り道の目印だ。

 道はゆるやかに曲がり、林の奥へ続いていた。

 鳥の声が聞こえる。風が葉を揺らし、足元では枯れ枝が折れる。

 いつもの森だ。

 少なくとも、最初はそう思っていた。


「……ん?」


 俺は足を止めた。

 目の前に、見覚えのある木が立っていた。

 太い幹。根元に大きな瘤。

 その枝には、赤い布が巻かれている。


「……親方」


「何だ?」


「あれ、さっきの木じゃありませんか?」


 親方が顔を上げた。

 彼は木へ近づき、布を確かめる。


「……俺が結んだものだな」


「ですよね」


 俺たちは道を引き返していない。

 分かれ道から、ずっと同じ方向へ進んできた。

 なのに、先ほど通り過ぎた木が目の前にある。


「……どうなってるんだ?」


 オルンさんが周囲を見回した。


「道が一周してるんじゃないのか?」


「それなら、途中で曲がったはずです」


 親方が答えた。


「少なくとも、俺たちは下り坂を進み続けていた」


 俺は背後を振り返った。

 そこには、細い道が続いている。

 ……いや。おかしい。

 さっきまで歩いていた道とは、何かが違う。

 俺は目を細めた。

 木々の間。

 そこに、薄い線のようなものが見えた。

 石畳だった。

 苔むした古い石畳が、林の奥へ続いている。

 今まで、そんなものはなかった。

 目をこすると、輪郭が薄くなる。

 代わりに、普通の土の道が見えた。


「……またか」


 思わず呟く。


「どうした、ノア?」


 親方が尋ねた。


「……別の道が見えます」


「別の道?」


「はい。古い石畳の道です」


 俺は木々の間を指差した。

 親方とオルンさんが、そちらを見る。

 二人とも、困惑した顔をした。


「……俺には見えんな」


「私もだ」


 予想していた答えだった。

 俺は石畳の輪郭を追った。

 道は林の奥へ伸びている。途中には、崩れた石柱のようなものも見えた。

 ただ、それがどこへ続いているのかは分からない。

 もし、あの道が本当に存在していたものなら。

 今の道と、何か関係があるのだろうか。


「……親方」


「何だ」


「あの石畳、調べてみてもいいですか?」


 親方は一度、俺の右手を見た。


「近づくだけだ。触れるなよ」


「はい」


 俺は慎重に歩き出した。

 石畳の手前で足を止める。

 目の前には、古びた石が並んでいる。

 けれど、足元の草は、その石を突き抜けて生えていた。

 西の石橋で見たものと同じだ。

 俺は道端の小石を拾い、軽く投げた。

 石は古い石畳をすり抜け、下の土に落ちた。


「……やっぱり」


 触れられない。今は。

 俺は一歩引いた。

 その瞬間、背後から親方の声が響いた。


「ノア! そこから離れろ!」


「……え?」


 振り返ろうとしたとき、足元が揺れた。

 ぐらり。

 身体が傾く。

 俺は反射的に近くの木へ手を伸ばした。

 左手が幹を掴む。

 直後、目の前の土が崩れ落ちた。


「……っ!」


 崖だった。

 さっきまで道が続いていた場所に、深い崖が現れていた。

 いや、現れたという表現が正しいのかも分からない。

 土が崩れたわけじゃない。

 最初からそこに崖があったかのように、地面が途切れていた。


「ノア!」


 オルンさんが駆け寄る。

 襟首を掴まれ、強引に後ろへ引き戻された。


「ぐえっ!?」


 地面に尻餅をつく。

 目の前には、深い谷が広がっていた。

 底は見えない。

 冷たい風が吹き上がり、木々の葉を揺らしている。


「……何だよ、これ」


 ついさっきまで、ここには道があった。

 俺はそれを歩いてきた。

 親方たちも同じだ。

 なのに、今は崖になっている。


「……引き返すぞ」


 親方が低い声で言った。


「これ以上は危険だ」


 誰も反対しなかった。


     ◇


 村へ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。

 幸い、帰り道では異変が起きなかった。

 親方が結んでいた布のおかげで、迷わず戻ることができた。

 もっとも、あの林がいつまで同じ形をしているのかは分からない。

 村長への報告を終えると、俺たちは広場に集まった。

 オルンさんは見張り番たちへ指示を出し、村の外へ続く道を一時的に封鎖することにしたらしい。

 親方は、通行可能な場所をもう一度調べると言っていた。

 村長も、今回はさすがに事態を重く見ているようだった。


「……村人を避難させる必要があるかもしれん」


 村長が呟いた。

 俺は顔を上げた。


「避難、ですか?」


「ああ。ここ数日の異変は、ただ事ではない」


 白髪の老人は、深い皺の刻まれた顔を曇らせた。


「だが、どこへ逃げればよいのか……」


 その言葉に、誰も答えられなかった。

 西の石橋は崩れ、南の街道は村へ戻ってきてしまう。

 北側では境界標が消え、昨日は魔物まで現れた。

 東の山道も、今しがた危険だと分かったばかりだ。

 逃げたくても、逃げ道が分からない。

 俺は唇を噛んだ。


「……村長」


「何だね」


「村の人たちに、準備だけでもしてもらえませんか?」


「準備?」


「食料と水、それから必要な荷物です。いつでも移動できるように」


 村長はしばらく考え込んだ。


「……そうだな」


 やがて頷く。


「今夜、各家に伝えよう。明日の朝には、村の外へ出る方法を改めて検討する」


 オルンさんも同意した。


「俺たち見張り番で、夜の巡回を増やします。何かあれば、すぐ広場へ集まれるようにしましょう」


「頼んだぞ」


 村長は疲れたように椅子へ腰を下ろした。

 その姿を見て、俺は胸が苦しくなった。

 この村を守るために、皆が動き始めている。

 親方も、オルンさんも、村長も。

 それなのに、肝心の俺は何が起きているのかさえ分からない。

 自分にしか見えないものがある。

 それが何なのかも、どう役立てればいいのかも分からない。

 ただ、危険な場所が見えるだけ。

 今の俺にできることは、それくらいだった。


     ◇


「避難、かあ……」


 夕方、食堂へ寄ると、フィアが難しい顔をしていた。

 村長からの知らせは、既に届いているらしい。

 食堂では、保存の利くパンを多めに焼く準備が始まっていた。


「何か手伝おうか?」


「怪我人は大人しくしてて」


「……はい」


 即答された。

 最近、皆から同じことを言われている気がする。

 フィアは大きな籠にパンを並べながら、俺を見た。


「ねえ、ノア」


「ん?」


「本当に、村から出られなくなっちゃうのかな」


「……分からない」


 正直に答えた。

 下手な気休めを言っても、仕方がない。

 フィアは小さく頷いた。


「そっか」


 彼女の手が止まる。


「私、この村から出たことって、ほとんどないんだよね」


「隣町には何度も行っただろ?」


「それはそうだけど。遠くへ旅したことはないし」


 フィアは窓の外を見た。

 広場では、子供たちが追いかけっこをしている。

 行き交う村人たちの声。店先に並ぶ野菜。炊事の煙が上がる家々。

 いつもの夕暮れだった。


「……なくなっちゃったら、嫌だな」


 ぽつりと、フィアが呟いた。

 俺は何も言えなかった。


「食堂も、おばさんの家も、親方の詰所も。全部、ここにあるのに」


「……ああ」


「ノアも、ずっとここにいると思ってた」


「俺?」


「うん」


 フィアは少しだけ笑った。


「だって、ノアって遠くへ行きたがらないでしょ?」


「別に、そんなことは……」


「昔からそうだったよ。私が隣町のお祭りに行こうって誘っても、仕事があるとか言って断るし」


「実際、仕事があったんだよ」


「じゃあ、仕事がなかったら?」


「……まあ、行ってたかもな」


「ほら」


 フィアは得意げに笑った。

 ……何が「ほら」なのか、よく分からない。


「でもさ」


 彼女は籠を机に置いた。


「もし、本当に村から出なきゃいけなくなったら……」


 そこで言葉を切る。

 俺は続きを待った。


「……そのときは、一緒に行こうね」


 フィアは、いつものように笑っていた。

 ただ、その手はエプロンの裾を強く握りしめている。


「……ああ」


 俺は頷いた。


「もちろん」


 彼女は安心したように息を吐いた。


「約束だからね」


「分かってるって」


「絶対だよ?」


「……しつこいな」


「大事なことだから」


 そう言って、フィアは小指を差し出した。

 俺は少し迷った。

 十九歳にもなって、指切りなんて。子供じゃあるまいし。


「……ほら」


 フィアが小指を揺らす。

 俺は苦笑しながら、左手を伸ばした。


「分かったよ」


 小指を絡める。

 指先が、思ったよりも温かかった。


「約束ね」


「ああ、約束だ」


 フィアは満足そうに頷いた。

 その顔を見て、少しだけ安心した。


     ◇


 家へ帰ると、母さんが台所で夕飯の準備をしていた。


「あら、おかえり」


「ただいま」


「今日はどうだった?」


「……まあ、色々」


「そう」


 母さんはそれ以上、深く聞いてこなかった。

 どうやら、村長からの知らせは既に届いているらしい。

 台所の隅には、大きな布袋が置かれていた。

 中には乾燥させた肉やパン、薬草などが詰められている。


「……準備、早いね」


「こういうことは、早めにやっておくものよ」


 母さんは鍋をかき混ぜながら答えた。


「昔からそうでしょう? 何かあったら、まず食べるものを確保する」


「……うん」


 母さんは昔から、こういうところがしっかりしている。

 俺が子供のころも、嵐が来ると聞けば真っ先に水と食料を用意していた。

 少し心配性なくらいだ。


「ノア」


「何?」


「今日は、ちゃんと休んだ?」


「……半分くらい」


「半分?」


「親方と山道を調べに行ってた」


 母さんの手が止まった。

 ……まずい。


「ノア?」


「いや、その、ちゃんと指示には従ったし!」


「怪我人が山道を歩き回るなんて、何を考えてるの!」


「……ごめんなさい」


 今日も怒られた。

 もはや日課になりつつある。

 母さんは深いため息をつき、火を弱めた。


「本当に、昔から変わらないんだから」


「……そうかな」


「そうよ。小さいころも、危ないところばかり行きたがって」


 母さんは懐かしそうに笑った。


「森の奥で迷子になったこと、覚えてる?」


「ああ……六歳くらいのときだっけ」


「そう。あのときは大変だったんだから」


 ぼんやりと覚えている。

 森の中で見知らぬ道を見つけ、好奇心に負けて歩いていった。

 気づけば帰り道が分からなくなっていた。

 母さんとベネット爺さんが、夜遅くまで探してくれたのだ。


「……そういえば」


 俺は顔を上げた。


「母さん、あのときベネット爺さんも一緒に探してくれたよね?」


「……ベネット?」


 母さんは首を傾げた。

 やっぱり、覚えていない。


「いや、何でもない」


「……そう?」


 母さんは少し不思議そうにしたものの、再び鍋へ向き直った。

 俺は食卓の椅子に腰を下ろした。

 ……そういえば。

 森の中で見つけた道。

 確か、石畳だった。

 今日、東の山道で見たものと、よく似ていた気がする。

 ……いや。

 今は考えるのをやめよう。

 母さんの作る夕飯の匂いが、部屋いっぱいに広がっている。

 野菜と肉を煮込んだ、いつもの料理だ。

 俺はこの匂いが好きだった。

 仕事で疲れて帰ってきても、家に入れば温かい食事が待っている。

 そんな当たり前の日常が、今は何よりもありがたい。


「……母さん」


「何?」


「もし、村から出ることになったらさ」


「うん」


「どこに行きたい?」


 母さんは少し考えた。


「そうねえ……」


 鍋をかき混ぜる手を止め、窓の外を見た。


「海の近くなんて、いいかもしれないわね」


「海?」


「そう。あんた、一度も見たことないでしょう?」


「……まあね」


 この村は山に囲まれている。

 海なんて、話に聞いたことがあるだけだ。


「昔、一度だけ行ったことがあるの」


 母さんは懐かしそうに目を細めた。


「とても綺麗だったわ。どこまでも青くて、波の音がずっと聞こえていて……」


「へえ」


「いつか、あんたにも見せてあげたいと思ってたのよ」


「……そっか」


 俺は少し笑った。


「じゃあ、今度行こうよ」


「……え?」


「村のことが落ち着いたらさ。二人で海を見に行こう」


 母さんは驚いた顔をした。

 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……そうね」


 優しい声だった。


「約束よ」


「うん」


 俺は頷いた。

 そのときだった。

 カラン。

 遠くで、鐘が鳴った。


「……っ!」


 俺は顔を上げた。

 母さんも、窓の方へ視線を向ける。


「……今の」


「聞こえた?」


「ええ。鐘の音みたいだったけど……」


 母さんが不思議そうに首を傾げた。

 聞こえている。今回は、母さんにも。

 カラン。

 二度目。

 俺は立ち上がった。

 窓の外には、いつもの村が広がっている。

 空はすっかり暗くなり、家々の窓に明かりが灯っていた。

 見張り塔の頂上には、やはり鐘がない。

 それなのに、音だけが聞こえる。


「……母さん」


「何?」


「ちょっと、外を見てくる」


「こんな時間に?」


「すぐ戻るから」


 俺は玄関へ向かった。

 その背中に、母さんの声が届く。


「ノア」


「……ん?」


 振り返る。

 母さんは鍋の前に立っていた。

 いつものように、優しく笑っている。


「夕飯、もうすぐできるからね」


「……うん」


 俺も笑った。


「分かった。すぐ戻るよ」


 扉を開ける。

 外は、思っていたよりも冷えていた。

 俺は肩をすくめ、見張り塔の方へ歩き出した。


     ◇


 広場に着くころには、鐘の音は止んでいた。

 周囲を見回す。

 特に変わったところはない。

 村人たちはいつものように歩き、店先では最後の客が買い物をしている。


「……何なんだよ、本当に」


 俺は見張り塔を見上げた。

 鐘はない。

 少なくとも、今は。

 近くを通りかかった見張り番に尋ねてみたが、鐘の音など聞いていないと言われた。

 また俺だけかと思ったものの、母さんには聞こえていた。

 どういうことだろう。

 あの音が聞こえる人と、聞こえない人がいる?

 それとも、聞こえたこと自体を忘れてしまうのか?

 考えても答えは出なかった。

 俺は小さく息を吐いた。


「……帰るか」


 母さんも待っている。

 夕飯も冷めてしまう。

 そう思って踵を返したとき、背後から声が聞こえた。


「ノア?」


 フィアだった。

 食堂の仕事を終えたらしく、籠を抱えて歩いてくる。


「何してるの? こんな時間に」


「ちょっと鐘の音が聞こえてさ」


「鐘?」


「見張り塔の」


 フィアは塔を見上げた。


「……あそこ、鐘なんてないよ?」


「……だよな」


 俺は苦笑した。


「でも、さっき聞こえたんだ」


「また変なことが起きてるの?」


「たぶん」


 フィアは困ったように笑った。


「最近、ノアと話すたびに不思議なこと聞いてる気がする」


「俺も同じ気持ちだよ」


 二人で少し笑った。


「……そうだ」


 フィアが顔を上げた。


「明日、食堂の人たちと避難用のパンを焼くんだけど、ノアも手伝う?」


「俺、怪我人なんだけど」


「じゃあ、味見係でいいよ」


「……それ、仕事なのか?」


「大事な仕事です」


 得意げに胸を張る。

 ……相変わらずだな。


「まあ、時間があったら行くよ」


「約束ね」


「ああ」


 フィアと別れ、俺は家へ向かった。

 夕飯の匂いを思い浮かべる。

 母さんの作る煮込み料理。

 今日もきっと、美味いはずだ。

 早く帰ろう。

 そう思いながら、家の前まで来た。


「……あれ?」


 俺は足を止めた。

 窓に明かりが灯っていない。

 いつもなら、母さんが台所で料理をしている時間だ。


「……母さん?」


 玄関を開ける。

 家の中は静まり返っていた。

 俺は靴を脱ぎ、台所へ向かった。


「母さん、いる?」


 返事はない。

 台所に入る。

 かまどの火は消えていた。

 鍋もない。

 さっきまで、確かに料理をしていたはずなのに。


「……え?」


 俺は辺りを見回した。

 食卓には、皿が一枚。

 椅子も、一脚しかなかった。

 いつもは、二脚あったはずだ。

 母さんと俺の分。


「……母さん?」


 声が震えた。

 寝室へ向かう。

 扉を開ける。

 そこには、小さな寝台が一つ置かれていた。

 母さんの寝台がない。衣服も、化粧台も。

 窓辺に置いてあった花瓶まで、消えている。


「……嘘だ」


 俺は家中を探し回った。

 台所。物置。裏庭。

 どこにもいない。

 母さんの荷物も、何一つ残っていなかった。

 まるで。

 最初から、この家には俺一人しか住んでいなかったかのように。


「……母さん!」


 俺は玄関を飛び出した。

 近所の家へ駆け寄り、扉を叩く。


「すみません! 母さん、見ませんでしたか!?」


 出てきた農夫は、困惑した顔をした。


「……母さん?」


「エレナです! 俺の母さん!」


 農夫は首を傾げた。


「……エレナ?」


 その反応を見た瞬間、血の気が引いた。


「知らないんですか……?」


「すまんな、ノア。そんな名前の人、この村にいたか?」


 俺は何も答えられなかった。

 農夫は心配そうに俺を見る。


「……お前、大丈夫か?」


「…………——はい」


 声がうまく出なかった。


「……すみませんでした」


 俺は頭を下げ、その場を離れた。

 足が震えている。

 呼吸が浅い。

 頭の中が真っ白だった。

 ベネット爺さんの家が消えたときと同じだ。

 誰も覚えていない。

 家の中から、存在した痕跡まで消えている。

 今度は。

 今度は、母さんが。


「……そんな」


 俺は道の真ん中で立ち止まった。

 さっきまで、あそこにいた。

 鍋をかき混ぜながら、笑っていた。

 海へ行こうと約束した。

 夕飯ができるから、すぐ帰ってこいと言われた。

 それなのに。


「……母さん……?」


 呼んでも、返事はない。

 いつもなら、少し面倒そうに返事をしてくれる。

 何度も呼べば、うるさいと怒られる。

 そんな声が、もう聞こえない。

 俺は拳を握りしめた。

 右手に痛みが走る。

 その痛みさえ、今は遠く感じた。


「……ふざけるなよ」


 声が震える。


「何なんだよ……これ……!」


 足元の石を蹴った。

 小さな石が転がり、道端の草むらへ消える。

 何も変わらない。

 何も答えてくれない。


「何なんだよ、何なんだよ!!」


 どれだけ声をあげても。

 どれだけ強く、掌を握っても。

 何もない。何も変わらない。

 いつも通り声が響くだけだ。

 いつも通り手が痛くなるだけだ。

 いつも通り血が出るだけだ。

 いつも通り何も薄くない。

 いつも通り何も透けてない。

 いつも通り。

 いつも通り。

 いつも通り。

 全ていつも通り——

 ——そんなわけが、なかった。


「何なんだよおお——!!」


 ただ、母さんだけがいなくなった。

 俺はその場に膝をついた。

 やがて怒りは、絶望と喪失感へ変わっていく。


「……なんで……」


 涙がこぼれた。

 拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。


「……帰るって、言ったのに……」


 すぐ戻るって。

 そう言ったのに。

 俺は。

 母さんに、さよならも言えなかった。


     ◇


「ノア!?」


 どれくらい、そうしていただろう。

 聞き慣れた声がした。

 顔を上げると、フィアが駆け寄ってきていた。


「どうしたの!? 何かあった!?」


 彼女は俺の前にしゃがみ込む。

 俺は何とか口を開いた。


「……母さんが」


「……え?」


「母さんが、いなくなった……」


 フィアは目を見開いた。


「……おばさん?」


 俺は頷いた。


「エレナさん……?」


 フィアは、少し考えるように眉を寄せた。

 その表情を見て、胸の奥が冷たくなる。


「……フィア」


「……何?」


「母さんのこと、覚えてるよな?」


 彼女は困惑した顔をした。


「……ノアのお母さん?」


 俺は頷いた。

 必死だった。

 お願いだから。覚えていてくれ。

 俺だけじゃないって、言ってくれ。

 フィアはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく首を横に振った。


「……ごめん」


 その一言が、胸に突き刺さった。


「……私、ノアのお母さんのこと……」


 彼女は言葉を詰まらせた。


「……思い出せない」


 俺は俯いた。

 分かっていた。

 ベネット爺さんのときも、同じだった。

 誰も覚えていない。

 どれほど親しい人でも。

 どれほど長く一緒に暮らしていても。

 消えた瞬間、最初から存在しなかったことになってしまう。

 ……そんなの。あんまりだろ。


「……ごめんね、ノア」


 フィアが震える声で言った。


「私、何も分からなくて……」


「……いいんだ」


 俺は首を横に振った。


「フィアが悪いわけじゃない」


 そう言いながらも、涙が止まらなかった。

 フィアはしばらく迷っていた。

 それから、そっと俺の隣に座った。

 何も言わずに。

 ただ、隣にいてくれた。

 しばらくして、彼女が口を開いた。


「……ねえ、ノア」


「……何?」


「前に、約束したよね」


 俺は顔を上げた。


「誰かがいなくなったら、一緒に探そうって」


「……ああ」


「私、覚えてないけど……」


 フィアは俺の手を取った。


「ノアが覚えてるなら、きっといたんだよ」


 その言葉に、胸が締めつけられた。


「だから、探そう」


 フィアは、まっすぐ俺を見つめていた。


「一緒に、探そうよ」


 俺は何も言えなかった。

 ただ、何度も頷いた。

 涙で、彼女の顔が滲んで見える。

 フィアは俺の手を握りしめたまま、離さなかった。

 遠くで、鐘が鳴った。

 カラン。

 カラン。

 消えたはずの鐘。

 その音が、夜の村に響いていた。

 見張り塔の方を見る。

 頂上には、何もない。

 それなのに、鐘は鳴り続けている。

 まるで、何かを告げるように。

 俺はフィアの手を握り返した。

 母さんは、きっとどこかにいる。

 ベネット爺さんの家が、あの石壁の向こうに見えたように。

 消えたものが、すべてなくなったわけじゃないのなら。

 探せるはずだ。

 どれほど遠くても。どんな場所にいたとしても。

 必ず。


「……母さん」


 俺は小さく呟いた。


「絶対に、見つけるから」


 夜風が頬を撫でた。

 村の家々には、いつものように明かりが灯っている。

 人々の笑い声が聞こえる。

 何も変わらない、平穏な夜。

 俺だけが知っている。

 この村から、また一人。

 大切な人が消えたことを。

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