第九話 さよならも言えないまま
村から出られなくなった。
その可能性を、俺が初めて本気で考えたのは、親方たちが南の街道を調べた翌朝のことだった。
「……南の道も、北の道も駄目か」
机に広げた地図を見下ろす。
昨日、記憶だけを頼りに描いた村の地図だ。
西の石橋には大きくバツ印。北の畑には魔物が現れた場所を示す丸。南の街道には、今朝になって新しく疑問符を書き足した。
見事に問題だらけである。
測量師見習いになってから、村の地図は何度も見てきた。
それでも、自分の故郷にこれほど印をつける日が来るとは思わなかった。
「……これじゃ、地図というより落書きだな」
独り言を漏らし、椅子にもたれかかる。
右手はまだ痛んでいた。
昨日より腫れは引いたものの、指を曲げると鈍い痛みが走る。治療師には数日間、重いものを持つなと言われている。
左腕も相変わらず筋肉痛だ。
英雄になり損ねた代償としては、なかなか情けない。
「ノア、起きてる?」
扉の向こうから母さんの声が聞こえた。
「起きてるよ」
「朝ご飯、できてるわよ」
「今行く!」
地図を畳もうとして、手を止める。
赤い印の一つ。
村の西外れに描いた、小さな四角形。
ベネット爺さんの家だ。
今の村には存在しない。
それどころか、誰もあの家を覚えていない。
俺が描いた地図には、ちゃんと残っている。
この紙まで書き換わってしまう可能性はある。実際、以前の測量記録は俺の記憶と違うものになっていた。
だから、何が起きてもおかしくない。
俺は念のため、家の横に小さく名前を書き足した。
『ベネット』
少し考え、その下にもう一行。
『昨日まで、ここに人が住んでいた』
……いや、昨日ではないか。
もう何日も経っている。
書き直そうとしたところで、階下から声が飛んできた。
「ノア! 早くしないと冷めるわよ!」
「分かったって!」
俺は慌てて地図を丸めた。
今は朝飯だ。
腹が減っていては、まともに考えることもできない。
◇
「……村から出られない?」
親方が眉をひそめた。
朝食を終えた俺は、詰所に来ていた。
今朝は珍しく、オルンさんもいる。
包帯を巻いた左腕を机に乗せ、難しい顔で地図を睨んでいた。
「昨日の、南の街道の話か」
「はい、確定したわけじゃありませんが——」
俺は地図の南側を指差した。
「ただ、昨日の話が本当なら、南の街道を進んでも村に戻ってきてしまうんですよね?」
「ああ」
オルンさんが頷く。
「昨日の見張り番は二度試したらしい。どちらも同じ場所に戻ってきたそうだ」
俺は地図を見つめた。
南の街道は、隣町へ続く主要な道だ。
途中には小さな森があるものの、道幅は広い。商人の荷車が通るため、普段から整備されている。
迷うような場所ではない。
「親方。昨日、北側の境界標も消えたって言ってましたよね」
「ああ。少なくとも、俺にはあそこに石柱があった記憶がある」
「それも、南の道と関係があるんでしょうか」
「分からん」
親方は即答した。
「お前の見た異常と、今回の道の変化が同じ原因なのかも分からん。今は確かなことから調べるしかない」
相変わらず、堅実な人だ。
こういうときは、その慎重さがありがたい。
「じゃあ、東側はどうですか?」
「東?」
「村の東に、古い山道があるでしょう。羊飼いたちが使ってた道です」
俺は地図の端を指差した。
村の東側には、小さな丘が連なっている。
その向こうには林があり、さらに進めば隣町の街道へ合流できるはずだ。
今ではほとんど使われていないが、子供のころ、フィアと何度か歩いたことがある。
「あそこなら、石橋を通らずに村の外へ出られます」
「……ふむ」
親方は地図を覗き込んだ。
「確かに道はある。荷車を通すのは難しいが、人が歩く分には問題ないはずだ」
「なら、調べてみませんか?」
オルンさんが顔を上げた。
「お前、また自分で行くつもりか?」
「……できれば」
「その手で?」
「……見てるだけなら」
「駄目だ」
即答された。
最近、俺の扱いがずいぶん厳しくなった気がする。
自業自得なのは分かっているけれど。
「俺とダグで行く。お前は村に残ってろ」
「でも、俺にしか見えないものがあるかもしれません」
オルンさんの表情が変わった。
昨日の獣との戦い。
あのとき俺は、ほかの人には見えない身体の変化を観察していた。
おかげで倒す方法を見つけられたが、一歩間違えれば死んでいた。
オルンさんは、しばらく俺を見つめていた。
「……分かった」
「本当ですか?」
「ただし、俺たちの指示には絶対に従え。勝手に動いたら、その場で引き返す」
「はい!」
「返事だけは立派なんだよな、お前」
苦笑された。
……そこは否定できない。
◇
東の山道は、思っていた以上に荒れていた。
村を出てしばらく歩くと、道は細くなり、草木が生い茂る斜面へ続いていた。
ところどころに古い石段が残っている。
子供のころは、もっと歩きやすかった気がするのだが。
「……本当に、ここを通ってたのか?」
オルンさんが尋ねた。
「はい。昔は羊飼いの人たちが使ってました」
「ずいぶん放置されてるな」
「村から隣町へ行くなら、南の街道の方が便利ですから」
俺は足元の石を避けながら答えた。
親方は少し先を歩き、道の幅や傾斜を確かめている。
仕事中の親方は、こういうとき本当に頼りになる。
どれほど複雑な地形でも、迷うことなく歩いていく。
「……ノア」
親方が足を止めた。
「ここから先、道が二つに分かれているな」
「……え?」
俺は顔を上げた。
目の前には、確かに二本の道があった。
右へ続く道と、左へ続く道。
右側はなだらかな斜面を下り、林の中へ消えている。左側は丘の上へ向かっていた。
「……おかしいな」
「何がだ?」
「昔は、分かれ道なんてなかったはずです」
記憶を探る。
フィアと歩いたとき、俺たちはずっと丘を登っていた。
途中で小川を渡り、大きな岩の横を通って、林の向こうへ抜けた。
右へ下る道なんて、なかった。
「またそれか……」
親方が額を押さえた。
俺だって好きで言っているわけじゃない。
「とりあえず、どちらかを調べましょう」
オルンさんが右側の道へ目を向けた。
「まずは下りだな。見通しが悪いから、慎重に行くぞ」
俺たちは一列になって進み始めた。
親方が先頭。俺が真ん中。オルンさんが最後尾だ。
途中、何度か親方が立ち止まり、木の幹に布を結びつけた。
帰り道の目印だ。
道はゆるやかに曲がり、林の奥へ続いていた。
鳥の声が聞こえる。風が葉を揺らし、足元では枯れ枝が折れる。
いつもの森だ。
少なくとも、最初はそう思っていた。
「……ん?」
俺は足を止めた。
目の前に、見覚えのある木が立っていた。
太い幹。根元に大きな瘤。
その枝には、赤い布が巻かれている。
「……親方」
「何だ?」
「あれ、さっきの木じゃありませんか?」
親方が顔を上げた。
彼は木へ近づき、布を確かめる。
「……俺が結んだものだな」
「ですよね」
俺たちは道を引き返していない。
分かれ道から、ずっと同じ方向へ進んできた。
なのに、先ほど通り過ぎた木が目の前にある。
「……どうなってるんだ?」
オルンさんが周囲を見回した。
「道が一周してるんじゃないのか?」
「それなら、途中で曲がったはずです」
親方が答えた。
「少なくとも、俺たちは下り坂を進み続けていた」
俺は背後を振り返った。
そこには、細い道が続いている。
……いや。おかしい。
さっきまで歩いていた道とは、何かが違う。
俺は目を細めた。
木々の間。
そこに、薄い線のようなものが見えた。
石畳だった。
苔むした古い石畳が、林の奥へ続いている。
今まで、そんなものはなかった。
目をこすると、輪郭が薄くなる。
代わりに、普通の土の道が見えた。
「……またか」
思わず呟く。
「どうした、ノア?」
親方が尋ねた。
「……別の道が見えます」
「別の道?」
「はい。古い石畳の道です」
俺は木々の間を指差した。
親方とオルンさんが、そちらを見る。
二人とも、困惑した顔をした。
「……俺には見えんな」
「私もだ」
予想していた答えだった。
俺は石畳の輪郭を追った。
道は林の奥へ伸びている。途中には、崩れた石柱のようなものも見えた。
ただ、それがどこへ続いているのかは分からない。
もし、あの道が本当に存在していたものなら。
今の道と、何か関係があるのだろうか。
「……親方」
「何だ」
「あの石畳、調べてみてもいいですか?」
親方は一度、俺の右手を見た。
「近づくだけだ。触れるなよ」
「はい」
俺は慎重に歩き出した。
石畳の手前で足を止める。
目の前には、古びた石が並んでいる。
けれど、足元の草は、その石を突き抜けて生えていた。
西の石橋で見たものと同じだ。
俺は道端の小石を拾い、軽く投げた。
石は古い石畳をすり抜け、下の土に落ちた。
「……やっぱり」
触れられない。今は。
俺は一歩引いた。
その瞬間、背後から親方の声が響いた。
「ノア! そこから離れろ!」
「……え?」
振り返ろうとしたとき、足元が揺れた。
ぐらり。
身体が傾く。
俺は反射的に近くの木へ手を伸ばした。
左手が幹を掴む。
直後、目の前の土が崩れ落ちた。
「……っ!」
崖だった。
さっきまで道が続いていた場所に、深い崖が現れていた。
いや、現れたという表現が正しいのかも分からない。
土が崩れたわけじゃない。
最初からそこに崖があったかのように、地面が途切れていた。
「ノア!」
オルンさんが駆け寄る。
襟首を掴まれ、強引に後ろへ引き戻された。
「ぐえっ!?」
地面に尻餅をつく。
目の前には、深い谷が広がっていた。
底は見えない。
冷たい風が吹き上がり、木々の葉を揺らしている。
「……何だよ、これ」
ついさっきまで、ここには道があった。
俺はそれを歩いてきた。
親方たちも同じだ。
なのに、今は崖になっている。
「……引き返すぞ」
親方が低い声で言った。
「これ以上は危険だ」
誰も反対しなかった。
◇
村へ戻ったのは、昼を少し過ぎたころだった。
幸い、帰り道では異変が起きなかった。
親方が結んでいた布のおかげで、迷わず戻ることができた。
もっとも、あの林がいつまで同じ形をしているのかは分からない。
村長への報告を終えると、俺たちは広場に集まった。
オルンさんは見張り番たちへ指示を出し、村の外へ続く道を一時的に封鎖することにしたらしい。
親方は、通行可能な場所をもう一度調べると言っていた。
村長も、今回はさすがに事態を重く見ているようだった。
「……村人を避難させる必要があるかもしれん」
村長が呟いた。
俺は顔を上げた。
「避難、ですか?」
「ああ。ここ数日の異変は、ただ事ではない」
白髪の老人は、深い皺の刻まれた顔を曇らせた。
「だが、どこへ逃げればよいのか……」
その言葉に、誰も答えられなかった。
西の石橋は崩れ、南の街道は村へ戻ってきてしまう。
北側では境界標が消え、昨日は魔物まで現れた。
東の山道も、今しがた危険だと分かったばかりだ。
逃げたくても、逃げ道が分からない。
俺は唇を噛んだ。
「……村長」
「何だね」
「村の人たちに、準備だけでもしてもらえませんか?」
「準備?」
「食料と水、それから必要な荷物です。いつでも移動できるように」
村長はしばらく考え込んだ。
「……そうだな」
やがて頷く。
「今夜、各家に伝えよう。明日の朝には、村の外へ出る方法を改めて検討する」
オルンさんも同意した。
「俺たち見張り番で、夜の巡回を増やします。何かあれば、すぐ広場へ集まれるようにしましょう」
「頼んだぞ」
村長は疲れたように椅子へ腰を下ろした。
その姿を見て、俺は胸が苦しくなった。
この村を守るために、皆が動き始めている。
親方も、オルンさんも、村長も。
それなのに、肝心の俺は何が起きているのかさえ分からない。
自分にしか見えないものがある。
それが何なのかも、どう役立てればいいのかも分からない。
ただ、危険な場所が見えるだけ。
今の俺にできることは、それくらいだった。
◇
「避難、かあ……」
夕方、食堂へ寄ると、フィアが難しい顔をしていた。
村長からの知らせは、既に届いているらしい。
食堂では、保存の利くパンを多めに焼く準備が始まっていた。
「何か手伝おうか?」
「怪我人は大人しくしてて」
「……はい」
即答された。
最近、皆から同じことを言われている気がする。
フィアは大きな籠にパンを並べながら、俺を見た。
「ねえ、ノア」
「ん?」
「本当に、村から出られなくなっちゃうのかな」
「……分からない」
正直に答えた。
下手な気休めを言っても、仕方がない。
フィアは小さく頷いた。
「そっか」
彼女の手が止まる。
「私、この村から出たことって、ほとんどないんだよね」
「隣町には何度も行っただろ?」
「それはそうだけど。遠くへ旅したことはないし」
フィアは窓の外を見た。
広場では、子供たちが追いかけっこをしている。
行き交う村人たちの声。店先に並ぶ野菜。炊事の煙が上がる家々。
いつもの夕暮れだった。
「……なくなっちゃったら、嫌だな」
ぽつりと、フィアが呟いた。
俺は何も言えなかった。
「食堂も、おばさんの家も、親方の詰所も。全部、ここにあるのに」
「……ああ」
「ノアも、ずっとここにいると思ってた」
「俺?」
「うん」
フィアは少しだけ笑った。
「だって、ノアって遠くへ行きたがらないでしょ?」
「別に、そんなことは……」
「昔からそうだったよ。私が隣町のお祭りに行こうって誘っても、仕事があるとか言って断るし」
「実際、仕事があったんだよ」
「じゃあ、仕事がなかったら?」
「……まあ、行ってたかもな」
「ほら」
フィアは得意げに笑った。
……何が「ほら」なのか、よく分からない。
「でもさ」
彼女は籠を机に置いた。
「もし、本当に村から出なきゃいけなくなったら……」
そこで言葉を切る。
俺は続きを待った。
「……そのときは、一緒に行こうね」
フィアは、いつものように笑っていた。
ただ、その手はエプロンの裾を強く握りしめている。
「……ああ」
俺は頷いた。
「もちろん」
彼女は安心したように息を吐いた。
「約束だからね」
「分かってるって」
「絶対だよ?」
「……しつこいな」
「大事なことだから」
そう言って、フィアは小指を差し出した。
俺は少し迷った。
十九歳にもなって、指切りなんて。子供じゃあるまいし。
「……ほら」
フィアが小指を揺らす。
俺は苦笑しながら、左手を伸ばした。
「分かったよ」
小指を絡める。
指先が、思ったよりも温かかった。
「約束ね」
「ああ、約束だ」
フィアは満足そうに頷いた。
その顔を見て、少しだけ安心した。
◇
家へ帰ると、母さんが台所で夕飯の準備をしていた。
「あら、おかえり」
「ただいま」
「今日はどうだった?」
「……まあ、色々」
「そう」
母さんはそれ以上、深く聞いてこなかった。
どうやら、村長からの知らせは既に届いているらしい。
台所の隅には、大きな布袋が置かれていた。
中には乾燥させた肉やパン、薬草などが詰められている。
「……準備、早いね」
「こういうことは、早めにやっておくものよ」
母さんは鍋をかき混ぜながら答えた。
「昔からそうでしょう? 何かあったら、まず食べるものを確保する」
「……うん」
母さんは昔から、こういうところがしっかりしている。
俺が子供のころも、嵐が来ると聞けば真っ先に水と食料を用意していた。
少し心配性なくらいだ。
「ノア」
「何?」
「今日は、ちゃんと休んだ?」
「……半分くらい」
「半分?」
「親方と山道を調べに行ってた」
母さんの手が止まった。
……まずい。
「ノア?」
「いや、その、ちゃんと指示には従ったし!」
「怪我人が山道を歩き回るなんて、何を考えてるの!」
「……ごめんなさい」
今日も怒られた。
もはや日課になりつつある。
母さんは深いため息をつき、火を弱めた。
「本当に、昔から変わらないんだから」
「……そうかな」
「そうよ。小さいころも、危ないところばかり行きたがって」
母さんは懐かしそうに笑った。
「森の奥で迷子になったこと、覚えてる?」
「ああ……六歳くらいのときだっけ」
「そう。あのときは大変だったんだから」
ぼんやりと覚えている。
森の中で見知らぬ道を見つけ、好奇心に負けて歩いていった。
気づけば帰り道が分からなくなっていた。
母さんとベネット爺さんが、夜遅くまで探してくれたのだ。
「……そういえば」
俺は顔を上げた。
「母さん、あのときベネット爺さんも一緒に探してくれたよね?」
「……ベネット?」
母さんは首を傾げた。
やっぱり、覚えていない。
「いや、何でもない」
「……そう?」
母さんは少し不思議そうにしたものの、再び鍋へ向き直った。
俺は食卓の椅子に腰を下ろした。
……そういえば。
森の中で見つけた道。
確か、石畳だった。
今日、東の山道で見たものと、よく似ていた気がする。
……いや。
今は考えるのをやめよう。
母さんの作る夕飯の匂いが、部屋いっぱいに広がっている。
野菜と肉を煮込んだ、いつもの料理だ。
俺はこの匂いが好きだった。
仕事で疲れて帰ってきても、家に入れば温かい食事が待っている。
そんな当たり前の日常が、今は何よりもありがたい。
「……母さん」
「何?」
「もし、村から出ることになったらさ」
「うん」
「どこに行きたい?」
母さんは少し考えた。
「そうねえ……」
鍋をかき混ぜる手を止め、窓の外を見た。
「海の近くなんて、いいかもしれないわね」
「海?」
「そう。あんた、一度も見たことないでしょう?」
「……まあね」
この村は山に囲まれている。
海なんて、話に聞いたことがあるだけだ。
「昔、一度だけ行ったことがあるの」
母さんは懐かしそうに目を細めた。
「とても綺麗だったわ。どこまでも青くて、波の音がずっと聞こえていて……」
「へえ」
「いつか、あんたにも見せてあげたいと思ってたのよ」
「……そっか」
俺は少し笑った。
「じゃあ、今度行こうよ」
「……え?」
「村のことが落ち着いたらさ。二人で海を見に行こう」
母さんは驚いた顔をした。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうね」
優しい声だった。
「約束よ」
「うん」
俺は頷いた。
そのときだった。
カラン。
遠くで、鐘が鳴った。
「……っ!」
俺は顔を上げた。
母さんも、窓の方へ視線を向ける。
「……今の」
「聞こえた?」
「ええ。鐘の音みたいだったけど……」
母さんが不思議そうに首を傾げた。
聞こえている。今回は、母さんにも。
カラン。
二度目。
俺は立ち上がった。
窓の外には、いつもの村が広がっている。
空はすっかり暗くなり、家々の窓に明かりが灯っていた。
見張り塔の頂上には、やはり鐘がない。
それなのに、音だけが聞こえる。
「……母さん」
「何?」
「ちょっと、外を見てくる」
「こんな時間に?」
「すぐ戻るから」
俺は玄関へ向かった。
その背中に、母さんの声が届く。
「ノア」
「……ん?」
振り返る。
母さんは鍋の前に立っていた。
いつものように、優しく笑っている。
「夕飯、もうすぐできるからね」
「……うん」
俺も笑った。
「分かった。すぐ戻るよ」
扉を開ける。
外は、思っていたよりも冷えていた。
俺は肩をすくめ、見張り塔の方へ歩き出した。
◇
広場に着くころには、鐘の音は止んでいた。
周囲を見回す。
特に変わったところはない。
村人たちはいつものように歩き、店先では最後の客が買い物をしている。
「……何なんだよ、本当に」
俺は見張り塔を見上げた。
鐘はない。
少なくとも、今は。
近くを通りかかった見張り番に尋ねてみたが、鐘の音など聞いていないと言われた。
また俺だけかと思ったものの、母さんには聞こえていた。
どういうことだろう。
あの音が聞こえる人と、聞こえない人がいる?
それとも、聞こえたこと自体を忘れてしまうのか?
考えても答えは出なかった。
俺は小さく息を吐いた。
「……帰るか」
母さんも待っている。
夕飯も冷めてしまう。
そう思って踵を返したとき、背後から声が聞こえた。
「ノア?」
フィアだった。
食堂の仕事を終えたらしく、籠を抱えて歩いてくる。
「何してるの? こんな時間に」
「ちょっと鐘の音が聞こえてさ」
「鐘?」
「見張り塔の」
フィアは塔を見上げた。
「……あそこ、鐘なんてないよ?」
「……だよな」
俺は苦笑した。
「でも、さっき聞こえたんだ」
「また変なことが起きてるの?」
「たぶん」
フィアは困ったように笑った。
「最近、ノアと話すたびに不思議なこと聞いてる気がする」
「俺も同じ気持ちだよ」
二人で少し笑った。
「……そうだ」
フィアが顔を上げた。
「明日、食堂の人たちと避難用のパンを焼くんだけど、ノアも手伝う?」
「俺、怪我人なんだけど」
「じゃあ、味見係でいいよ」
「……それ、仕事なのか?」
「大事な仕事です」
得意げに胸を張る。
……相変わらずだな。
「まあ、時間があったら行くよ」
「約束ね」
「ああ」
フィアと別れ、俺は家へ向かった。
夕飯の匂いを思い浮かべる。
母さんの作る煮込み料理。
今日もきっと、美味いはずだ。
早く帰ろう。
そう思いながら、家の前まで来た。
「……あれ?」
俺は足を止めた。
窓に明かりが灯っていない。
いつもなら、母さんが台所で料理をしている時間だ。
「……母さん?」
玄関を開ける。
家の中は静まり返っていた。
俺は靴を脱ぎ、台所へ向かった。
「母さん、いる?」
返事はない。
台所に入る。
かまどの火は消えていた。
鍋もない。
さっきまで、確かに料理をしていたはずなのに。
「……え?」
俺は辺りを見回した。
食卓には、皿が一枚。
椅子も、一脚しかなかった。
いつもは、二脚あったはずだ。
母さんと俺の分。
「……母さん?」
声が震えた。
寝室へ向かう。
扉を開ける。
そこには、小さな寝台が一つ置かれていた。
母さんの寝台がない。衣服も、化粧台も。
窓辺に置いてあった花瓶まで、消えている。
「……嘘だ」
俺は家中を探し回った。
台所。物置。裏庭。
どこにもいない。
母さんの荷物も、何一つ残っていなかった。
まるで。
最初から、この家には俺一人しか住んでいなかったかのように。
「……母さん!」
俺は玄関を飛び出した。
近所の家へ駆け寄り、扉を叩く。
「すみません! 母さん、見ませんでしたか!?」
出てきた農夫は、困惑した顔をした。
「……母さん?」
「エレナです! 俺の母さん!」
農夫は首を傾げた。
「……エレナ?」
その反応を見た瞬間、血の気が引いた。
「知らないんですか……?」
「すまんな、ノア。そんな名前の人、この村にいたか?」
俺は何も答えられなかった。
農夫は心配そうに俺を見る。
「……お前、大丈夫か?」
「…………——はい」
声がうまく出なかった。
「……すみませんでした」
俺は頭を下げ、その場を離れた。
足が震えている。
呼吸が浅い。
頭の中が真っ白だった。
ベネット爺さんの家が消えたときと同じだ。
誰も覚えていない。
家の中から、存在した痕跡まで消えている。
今度は。
今度は、母さんが。
「……そんな」
俺は道の真ん中で立ち止まった。
さっきまで、あそこにいた。
鍋をかき混ぜながら、笑っていた。
海へ行こうと約束した。
夕飯ができるから、すぐ帰ってこいと言われた。
それなのに。
「……母さん……?」
呼んでも、返事はない。
いつもなら、少し面倒そうに返事をしてくれる。
何度も呼べば、うるさいと怒られる。
そんな声が、もう聞こえない。
俺は拳を握りしめた。
右手に痛みが走る。
その痛みさえ、今は遠く感じた。
「……ふざけるなよ」
声が震える。
「何なんだよ……これ……!」
足元の石を蹴った。
小さな石が転がり、道端の草むらへ消える。
何も変わらない。
何も答えてくれない。
「何なんだよ、何なんだよ!!」
どれだけ声をあげても。
どれだけ強く、掌を握っても。
何もない。何も変わらない。
いつも通り声が響くだけだ。
いつも通り手が痛くなるだけだ。
いつも通り血が出るだけだ。
いつも通り何も薄くない。
いつも通り何も透けてない。
いつも通り。
いつも通り。
いつも通り。
全ていつも通り——
——そんなわけが、なかった。
「何なんだよおお——!!」
ただ、母さんだけがいなくなった。
俺はその場に膝をついた。
やがて怒りは、絶望と喪失感へ変わっていく。
「……なんで……」
涙がこぼれた。
拭おうとしても、次から次へと溢れてくる。
「……帰るって、言ったのに……」
すぐ戻るって。
そう言ったのに。
俺は。
母さんに、さよならも言えなかった。
◇
「ノア!?」
どれくらい、そうしていただろう。
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、フィアが駆け寄ってきていた。
「どうしたの!? 何かあった!?」
彼女は俺の前にしゃがみ込む。
俺は何とか口を開いた。
「……母さんが」
「……え?」
「母さんが、いなくなった……」
フィアは目を見開いた。
「……おばさん?」
俺は頷いた。
「エレナさん……?」
フィアは、少し考えるように眉を寄せた。
その表情を見て、胸の奥が冷たくなる。
「……フィア」
「……何?」
「母さんのこと、覚えてるよな?」
彼女は困惑した顔をした。
「……ノアのお母さん?」
俺は頷いた。
必死だった。
お願いだから。覚えていてくれ。
俺だけじゃないって、言ってくれ。
フィアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく首を横に振った。
「……ごめん」
その一言が、胸に突き刺さった。
「……私、ノアのお母さんのこと……」
彼女は言葉を詰まらせた。
「……思い出せない」
俺は俯いた。
分かっていた。
ベネット爺さんのときも、同じだった。
誰も覚えていない。
どれほど親しい人でも。
どれほど長く一緒に暮らしていても。
消えた瞬間、最初から存在しなかったことになってしまう。
……そんなの。あんまりだろ。
「……ごめんね、ノア」
フィアが震える声で言った。
「私、何も分からなくて……」
「……いいんだ」
俺は首を横に振った。
「フィアが悪いわけじゃない」
そう言いながらも、涙が止まらなかった。
フィアはしばらく迷っていた。
それから、そっと俺の隣に座った。
何も言わずに。
ただ、隣にいてくれた。
しばらくして、彼女が口を開いた。
「……ねえ、ノア」
「……何?」
「前に、約束したよね」
俺は顔を上げた。
「誰かがいなくなったら、一緒に探そうって」
「……ああ」
「私、覚えてないけど……」
フィアは俺の手を取った。
「ノアが覚えてるなら、きっといたんだよ」
その言葉に、胸が締めつけられた。
「だから、探そう」
フィアは、まっすぐ俺を見つめていた。
「一緒に、探そうよ」
俺は何も言えなかった。
ただ、何度も頷いた。
涙で、彼女の顔が滲んで見える。
フィアは俺の手を握りしめたまま、離さなかった。
遠くで、鐘が鳴った。
カラン。
カラン。
消えたはずの鐘。
その音が、夜の村に響いていた。
見張り塔の方を見る。
頂上には、何もない。
それなのに、鐘は鳴り続けている。
まるで、何かを告げるように。
俺はフィアの手を握り返した。
母さんは、きっとどこかにいる。
ベネット爺さんの家が、あの石壁の向こうに見えたように。
消えたものが、すべてなくなったわけじゃないのなら。
探せるはずだ。
どれほど遠くても。どんな場所にいたとしても。
必ず。
「……母さん」
俺は小さく呟いた。
「絶対に、見つけるから」
夜風が頬を撫でた。
村の家々には、いつものように明かりが灯っている。
人々の笑い声が聞こえる。
何も変わらない、平穏な夜。
俺だけが知っている。
この村から、また一人。
大切な人が消えたことを。




