第十話 エレナ・エルフェルトの消失
朝になれば、全部元に戻っているんじゃないか。
そんな馬鹿げた期待を、どこかで抱いていた。
目を開ければ台所から鍋の音が聞こえて、母さんが朝食を作っている。寝坊した俺を叱りながら、いつものように食卓へパンを並べる。
昨夜の出来事は、ただの悪い夢だった。
そうだったら、どれほどよかっただろう。
「……母さん」
返事はなかった。
薄い朝日が差し込む部屋で、俺は天井を見つめていた。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かんでくる。
鍋をかき混ぜていた母さん。海を見に行こうと約束したときの、嬉しそうな顔。
最後に聞いた声。
『夕飯、もうすぐできるからね』
俺は布団を跳ねのけた。
部屋を出て、階段を下りる。
台所には誰もいない。
かまどは冷え切り、食卓には一脚の椅子だけが置かれていた。
二人で使っていたはずの食器棚も、妙に小さくなっている。
母さんがいつも使っていた木の匙。花の刺繍が入った前掛け。少し欠けた、お気に入りの茶碗。
どれも見当たらなかった。
「……本当に、いないんだな」
声に出すと、胸の奥が痛んだ。
昨日まで、ここには二人分の暮らしがあった。
今は俺一人。
家そのものが、ずっと昔からそうだったと主張しているようだった。
棚を開ける。
乾燥肉と、小さなパンが一つ。
母さんが避難用に詰めていたはずの食料袋も消えていた。
昨日の朝、あの人は村から逃げる準備をしていた。
俺よりずっと冷静に。
こんな事態になっても、ちゃんと俺の食べるものを心配してくれていた。
「……くそ」
棚の扉を閉めた。
腹は減っていた。
何か食べなければと思う。
それなのに、食卓に座る気になれなかった。
母さんのいない台所で一人朝食を取ることが、どうしようもなく嫌だった。
扉を叩く音が聞こえたのは、そのときだった。
「ノア? 起きてる?」
フィアの声だ。
俺は玄関へ向かった。
◇
「……ひどい顔」
扉を開けた途端、フィアがそう言った。
「おはようより先に、それか?」
「だって、目の下が真っ黒だよ」
「眠れなかったんだ」
「……そっか」
彼女はそれ以上、何も聞かなかった。
手には布に包まれた籠を持っている。
「朝ご飯、持ってきたよ。食べてないでしょ?」
「……ありがとう」
図星だった。
返事をする前に、フィアは俺の横を通り抜けて台所へ向かった。
「お邪魔しまーす」
「おい、勝手に……」
「何度も来てる家でしょ」
そう言って笑う。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
何度も来ている。
そのとおりだ。
フィアは子供のころから、何度もこの家を訪ねている。
母さんにお菓子をもらったこともあった。
一緒に夕飯を食べたことだってある。
なのに、今のフィアにはその記憶がない。
彼女にとって、ここは最初から俺一人が暮らす家なのだろう。
「……ノア?」
「ああ、悪い」
俺は慌てて後を追った。
台所では、フィアが籠からパンを取り出していた。
焼きたてらしく、まだ温かい。
「ほら、座って」
「……はいはい」
「はいは一回」
「誰の真似だよ」
「ノアの知ってる誰かさん」
フィアが悪戯っぽく笑った。
たぶん、俺が母さんによく言われていたことを、以前どこかで話したのだろう。
覚えていなくても、こういうやり取りは残るらしい。
少しだけ、救われた気がした。
俺は椅子に座り、パンを一つ手に取った。
柔らかい生地から、甘い香りが漂う。
「……美味い」
「でしょ?」
「フィアが焼いたのか?」
「半分くらい」
「半分?」
「生地を作ったのは私。焼いたのは店長」
「じゃあ半分だな」
「でしょ!」
得意げな顔をしている。
まったく、いつもどおりだ。
俺はもう一口かじった。
昨夜から何も食べていなかった身体に、温かいパンが染み渡る。
食べながら、ふとフィアの膝の上にあるものが目に入った。
小さな手帳だった。
「……それ、何?」
「これ?」
フィアは手帳を持ち上げた。
「昨日、ノアが話してくれたことを書いてみたの」
ページを開き、こちらへ差し出す。
そこには、整った字で名前が記されていた。
『エレナ・エルフェルト』
俺は息を呑んだ。
「……母さんの名前」
「うん」
その下には、短い文章が並んでいる。
『ノアの母親』
『料理が上手』
『心配性で、よくノアを叱っていた』
『若いころ、海を見たことがある』
『ノアと一緒に海へ行く約束をしていた』
俺は手帳を見つめた。
「……こんなに」
「昨日、家まで送ったときに少し話してくれたでしょ。そのあと、忘れないうちに書いたんだ」
フィアは照れくさそうに笑った。
「ほら、私にはおばさんのこと、思い出せないから」
「……うん」
「せめて、ノアが教えてくれたことは残しておこうと思って」
胸が詰まった。
フィアには母さんの記憶がない。
どんな人だったのかも、どんな声で笑っていたのかも分からない。
それでも、俺の話を聞いてくれる。
覚えていようとしてくれる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
フィアは手帳を閉じかけた。
俺は慌てて声をかける。
「待って。もう一つ、書いてほしいことがある」
「何?」
「母さん、よく言ってたんだ」
俺は少し考えた。
何度も聞いた言葉。
子供のころは、うるさいと感じたこともある。
「『失敗したっていいから、無事に帰ってきなさい』って」
フィアはゆっくりと文字を書き足した。
「……いいお母さんだったんだね」
「……ああ」
俺は頷いた。
「すごく、いい母さんだった」
フィアは何も言わなかった。
その沈黙が、ありがたかった。
しばらくして、俺は手帳を指差した。
「でもさ、その記録も変わるかもしれないぞ」
「……え?」
「ベネット爺さんの家が消えたとき、地図まで書き換わってたんだ。あの紙だって、ずっと同じとは限らない」
フィアは手帳を見下ろした。
少し考え込んだあと、あっさり言った。
「じゃあ、また書けばいいよ」
「……え?」
「消えちゃったら、ノアにもう一回教えてもらえばいいでしょ?」
彼女は当然のように笑った。
「私、字を書くのは嫌いじゃないし」
「……そんな簡単に」
「簡単じゃないよ」
フィアは俺を見た。
「ノアは覚えてるんだもん。きっと、私よりずっと大変だよ」
その言葉に、何も返せなかった。
「だから、書くくらいは手伝わせて」
俺は俯いた。
温かいパンを握る左手に、少しだけ力が入る。
「……頼む」
「うん!」
フィアは嬉しそうに頷いた。
母さんが消えたことは、何一つ変わっていない。
探す方法だって、まだ分からない。
それでも、一人ではなかった。
◇
「エレナが消えた、か」
親方は机に両肘をつき、深く考え込んでいた。
朝食のあと、俺たちは詰所を訪ねた。
昨夜の出来事を伝えるためだ。
「……親方も、覚えていないんですか」
「ああ」
短い返事だった。
予想していたとはいえ、胸が痛む。
親方は俺の母さんと何度も会っている。
仕事で遅くなった俺を迎えに来たこともあったし、家の屋根を修理してもらったことだってある。
「ただな、ノア」
親方は顔を上げた。
「お前の話を疑っているわけじゃない」
「……はい」
「ベネットという老人の件も、石橋の件も、まだ説明がついておらん。昨夜のことも、同じ異常によるものかもしれん」
親方は棚から村の住民台帳を取り出した。
古びた帳面を開き、俺の家がある区画を探す。
そこには、俺の名前だけが書かれていた。
『ノア・エルフェルト』
世帯人数、一人。
親方は小さく舌打ちした。
「……こうなっているか」
俺も台帳を覗き込んだ。
最初から一人暮らしだったことになっている。
母さんの名前は、どこにもなかった。
「……やっぱり」
俺は拳を握りしめた。
親方は帳面を閉じた。
「村長に報告する。ほかにも同じことが起きている可能性がある」
「……はい」
「お前はどうする?」
思わず顔を上げた。
「どうするって……」
「母親を探すんだろう?」
親方は、当然のことのように言った。
「だったら、俺にもできることを教えろ」
胸の奥が熱くなった。
「……親方」
「勘違いするなよ。村の測量記録が信用できんとなれば、俺の仕事にも関わる」
そう言って、鼻を鳴らす。
「それに、見習いが一人でうろついて怪我でも増やしたら、面倒だからな」
「……ありがとうございます」
「礼は全部終わってからにしろ」
いつもの調子だった。
俺は思わず笑いそうになった。
そのとき、扉が勢いよく開いた。
「ダグ! いるか!」
オルンさんだった。
左腕と右肩に包帯を巻いたまま、険しい顔をしている。
「朝から何だ、騒々しい」
「村長が呼んでる。住民を集めて、避難の段取りを決めるそうだ」
オルンさんは俺たちを見た。
「ノアもいるならちょうどいい。お前にも聞きたいことがある」
「……俺に?」
「ああ」
彼は少し声を落とした。
「今朝、村の北側で家が一軒消えたって話がある」
背筋が冷たくなった。
「……誰の家ですか?」
「それが分からん」
「え?」
「誰かが住んでいたような気がするんだが、思い出せねえ。見張り番の一人が、家のあった場所に通じる道の幅が変わってると言い出してな」
オルンさんは眉間に皺を寄せた。
「家が消えたなんて、俺も自分で言っていて馬鹿げてると思う。けど、あの魔物を見たあとじゃな……」
俺は親方と顔を見合わせた。
母さんだけじゃない。
村の別の場所でも、消失が起きている。
しかも、俺の知らないところで。
「……行きましょう」
俺は立ち上がった。
「村長に、全部話したいです」
◇
広場には、既に大勢の村人が集まっていた。
普段なら市場が開かれている時間だ。
野菜を売る声や、子供たちの笑い声が聞こえるはずの場所に、今日は不安そうな話し声が広がっている。
「本当に避難するのか?」
「畑はどうするんだよ」
「隣町へ行く道が変になってるって聞いたぞ」
「昨日の魔物は、もういないんだろ?」
誰もが落ち着かない様子だった。
村長が広場の中央に立ち、皆へ呼びかける。
「静かにしてくれ!」
ざわめきが少しずつ収まった。
「皆も知ってのとおり、ここ数日、村では不可解な出来事が続いている。西の石橋の異常、北の畑に現れた魔物、村の外へ続く道の変化……」
村長は一度、言葉を切った。
「さらに、昨夜から今朝にかけて、人や建物が突然消えた可能性がある」
広場が騒然となった。
「人が消えたって!?」
「誰がだよ!」
「そんな話、聞いたことねえぞ!」
俺は唇を噛んだ。
当然の反応だ。
誰が消えたのか、覚えていないのだから。
村長は両手を上げ、声を張った。
「落ち着いてくれ! 詳しい原因はまだ分かっていない。ただ、何もせずに待つわけにはいかん」
その後、避難に向けた指示が出された。
各家庭は持ち出せる食料と水をまとめること。怪我人や子供、高齢者を優先して移動させること。勝手に村の外へ出ず、見張り番の指示に従うこと。
脱出経路は現在、親方たちが調査している。
安全な道が見つかり次第、集団で避難することになった。
「……これで、本当に逃げられるのかな」
隣でフィアが呟いた。
「……分からない」
俺は正直に答えた。
西の石橋は危険。南の街道は、進んでも村へ戻ってしまう。東の山道では、歩いていた地面が突然崖に変わった。
安全だと断言できる道は、まだ一つもない。
「……ねえ、ノア」
「何?」
「私たちに、何かできるかな」
俺は広場を見回した。
不安そうな村人たち。泣いている子供。荷物を抱えた老人。
昨日、俺は母さんを失った。
また誰かが消えるかもしれない。
ここにいる全員が、同じ危険にさらされている。
「……まずは、誰がどこにいるか確かめよう」
「……え?」
「家ごとに人数を確認するんだ。名前も全部」
フィアが目を瞬かせた。
「どうして?」
「人が消えたら、その人のことを忘れてしまうかもしれない。昨日まで誰がいたのか、分からなくなるんだ」
俺は拳を握った。
「記録だって変わるかもしれない。それでも、今いる人を把握しておけば、避難するときに置いていく人を減らせる」
完璧な方法じゃない。
名前を書き留めても、記録が変わってしまう可能性はある。
俺の記憶がなければ、見落とす人もいるだろう。
ただ、何もしないよりはましだ。
フィアは少し考えたあと、頷いた。
「分かった。私、食堂の人たちにも手伝ってもらう」
「頼む」
俺たちは村長へ提案を伝えた。
村長はすぐに了承し、広場の隅に机を用意してくれた。
そこへ村人たちが順番に集まり、家族の人数と名前を確認していく。
俺は左手で記録を取り、フィアが横で名前を読み上げた。
「次は、粉ひき小屋の親子だね」
「ああ」
顔を上げると、見覚えのある少女がいた。
「ノアお兄ちゃん!」
「シア!」
シアが駆け寄ってくる。
父親も一緒だった。
「手、まだ痛い?」
「少しな。でも、もう大丈夫だよ」
「よかった!」
シアは嬉しそうに笑った。
その姿を見て、俺も少しだけ安心した。
あのとき助けた子が、今もここにいる。
それだけで、何だか嬉しかった。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「また、あのお部屋が出てきたらどうしよう」
少女の顔が曇る。
俺はしゃがみ込み、目線を合わせた。
「今度はお父さんから離れないようにするんだ。何か変だと思ったら、すぐ大人を呼んで」
「……うん」
「俺も気をつけるから」
シアは小さく頷いた。
父親が深く頭を下げる。
「本当に、あのときはありがとう。改めて礼を言わせてくれ」
「いえ。無事でよかったです」
俺は笑った。
二人が列を離れたあと、フィアが小さく呟いた。
「……シアちゃん、怖かっただろうね」
「……ああ」
知らない場所に閉じ込められる。
家族の姿が見えなくなる。
助けを呼んでも、誰にも届かない。
俺には、その恐怖が少しだけ分かる気がした。
◇
昼を過ぎるころには、住民の確認が一段落した。
村長の家、食堂、鍛冶屋、粉ひき小屋。
家ごとに人数を書き留め、移動に手助けが必要な人には印をつけた。
怪我人の欄には、ベルムさんの名前もある。
この間の魔物騒ぎで脚を折った農夫だ。
今は治療所で休んでいるらしい。
「……ベルムさん、まだ歩けないんだよな」
俺が呟くと、フィアが頷いた。
「うん。治療師さんが、しばらく安静にしてないと駄目だって」
「避難するときは、荷車を使うしかないか」
「そうだね」
俺は名前の横に印をつけた。
『歩行困難。移動時に補助が必要』
命懸けで助けた人だ。
せっかく助かったのに、避難できずに取り残されるなんてことは避けたい。
「……そうだ」
俺は顔を上げた。
「あとで治療所へ行こう。ほかにも運べない人がいるかもしれない」
「分かった」
フィアは頷いた。
そのあと、俺たちは昼食を取るために食堂へ向かった。
食堂では避難用のパンが大量に焼かれていた。
普段よりずっと忙しそうだ。
俺も手伝おうとしたが、右手を見た店長に即座に断られた。
「怪我人は座ってな!」
「……最近、そればっかり言われるんですが」
「当たり前だろう!」
フィアが隣で笑っていた。
……納得いかない。
とはいえ、無理をして仕事を増やすわけにもいかない。
俺は大人しく椅子に座り、パンをかじった。
「……ノア」
フィアが向かいに座った。
「何?」
「今日、まだお母さんを探してないよね」
俺は手を止めた。
「……ああ」
「いいの?」
その問いに、すぐには答えられなかった。
朝からずっと、村のことで動いていた。
母さんを探すために何かできることがないか、考えていたはずなのに。
気づけば、ほかの人たちの避難準備を手伝っている。
「……よくない」
俺は小さく答えた。
「本当は、今すぐ探しに行きたい」
母さんがどこにいるのか知りたい。
ベネット爺さんも、まだどこかにいるのかもしれない。
粉ひき小屋でシアが見た赤い屋根の家。
あれが本当にベネット爺さんの家だったなら、消えたものが完全になくなったわけではない可能性がある。
「……でも、どこを探せばいいんだろうな」
俺はパンを見つめた。
「母さんが消えた場所に行っても、何も残ってないんだ」
フィアは少し考えた。
「じゃあ、もう一回行ってみようよ」
「……え?」
「ノアには、私たちに見えないものが見えるんでしょ?」
「ああ」
「だったら、昨日は何も見えなかった場所でも、今日は違うかもしれないじゃない」
俺は顔を上げた。
確かに。
西の石橋も、最初から木橋が見えていたわけじゃない。
粉ひき小屋の石壁だって、突然現れた。
なら、母さんが消えた家にも、何かが残っている可能性はある。
「……行ってみるか」
「うん!」
フィアは笑った。
「私も一緒に行くよ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
今日は感謝ばかりだ。
俺たちは食事を終えると、詰所へ向かった。
親方にも同行してもらうためだ。
さすがに、もう一人で危険な場所へ踏み込むつもりはなかった。
◇
「……何も変わっておらんな」
親方が呟いた。
俺たちは自宅の台所に立っていた。
母さんが消えた場所だ。
机、椅子、かまど、食器棚。
どれも、今朝見たとおりだった。
「……俺には、全部変わって見えますけどね」
思わずそう返した。
親方は少しだけ目を伏せた。
「……そうだったな」
俺は台所の中央へ歩いた。
昨日、母さんはここに立っていた。
鍋をかき混ぜながら、俺に話しかけていた。
海へ行こうと約束したのも、この場所だ。
「……母さん」
小さく呼んでみる。
返事はない。
親方は窓や壁を調べ、フィアは棚の中を確かめている。
俺は床を見下ろした。
母さんが立っていた場所。
そこに、何か痕跡はないだろうか。
そう考えながら、しばらく見つめていた。
……ん?
床板の隙間が、ぼやけた。
目をこする。
今度は、はっきり見えた。
木の床に、細い線が重なっている。
灰色の石。
昨日まで見慣れていた台所の床とは、まったく違うものだった。
「……親方」
「どうした?」
「床が……」
言いかけて、息を呑んだ。
目の前の景色が、ゆっくりと変わり始めた。
かまどの向こうに、知らない壁が現れる。
石造りの壁だ。
その奥には、細い廊下が続いていた。
薄暗い。
天井には、淡い青色の灯りがいくつか並んでいる。
見たこともない場所だった。
「……何だ、これ」
俺は立ち尽くした。
台所と、知らない廊下。
二つの景色が重なっている。
粉ひき小屋で見た石造りの部屋と、よく似た現象だった。
「ノア?」
フィアが近づいてくる。
「何か見えるの?」
「……ああ」
俺は頷いた。
「知らない廊下がある」
「廊下?」
「石でできた、長い廊下だ」
親方が俺の隣へ来た。
「触れるか?」
「……分かりません」
俺は足元に落ちていた小さな木片を拾った。
かまどの前に突き出す。
木片は、石壁をすり抜けた。
何の手応えもない。
「……今は触れません」
親方は頷いた。
「なら、近づくな。シアを助けたときみたいなことが起きるかもしれん」
「はい」
俺は木片を引っ込めた。
あのときは、壁が突然硬くなり、危うく身体を挟まれるところだった。
今度は慎重にしなければならない。
そう思いながら、廊下の奥を見つめた。
青い灯りが、ゆっくりと揺れている。
その向こうに、何かが動いた。
「……っ!」
人影だった。
細い影が、廊下の奥を横切った。
ほんの一瞬。
すぐに壁の向こうへ消えてしまう。
「……母さん!?」
思わず叫んだ。
返事はない。
俺は一歩踏み出しかけた。
「ノア!」
親方の声が飛ぶ。
足が止まった。
目の前の石壁が、薄く揺らいでいる。
あのまま進んでいたら、どうなっていたか分からない。
「……すみません」
深く息を吐いた。
落ち着け。
人影が見えたからといって、母さんとは限らない。
それに、あの廊下がどこへ続いているのかも分からない。
母さんが消えた場所に現れたからといって、直接つながっている保証はない。
「……ノア」
フィアが俺の左腕に触れた。
「見えたの?」
「……人がいた」
「おばさん?」
「分からない」
俺は首を横に振った。
「一瞬だったから」
フィアは少し残念そうな顔をした。
「……そっか」
俺はもう一度、廊下を見つめた。
そこには、誰もいない。
青い灯りだけが、静かに揺れている。
そして、すうっと。
石壁の輪郭が薄くなり、消えていった。
いつもの台所が戻ってくる。
かまど。食器棚。一脚の椅子。
母さんのいない家。
「……消えた」
俺は呟いた。
親方が小さく頷く。
「今のことは、記録しておこう」
「……はい」
俺は鞄から地図を取り出した。
家の位置に、小さな印をつける。
その横へ、左手で文字を書き込んだ。
『石造りの廊下。青い灯り。人影あり』
最後に、一行。
『母さんかどうかは不明』
書き終えて、しばらくその文字を見つめた。
確かなことは、ほとんど分かっていない。
それでも。
昨日まで何も見えなかった場所に、今日は知らない景色が現れた。
母さんが完全に消えてしまったと決まったわけじゃない。
今は、その可能性を信じたかった。
◇
治療所へ向かったのは、夕方近くになってからだった。
避難が始まれば、怪我人を優先して運ばなければならない。
ベルムさんの様子も確認しておきたかった。
「……失礼します」
扉を開けると、薬草の匂いが漂ってきた。
治療師が棚の前で道具を整理している。
「あら、ノア。手はどう?」
「まだ痛いですけど、だいぶましになりました」
「無理しちゃ駄目よ」
「……はい」
もう何度目だろう、この会話。
俺は苦笑しながら室内を見回した。
寝台が三つ並んでいる。
窓際の一つには、昨日魔物に襲われた見張り番が横になっていた。
もう一つには、高齢の女性が休んでいる。
そして、奥の寝台。
そこには誰もいなかった。
「……あれ?」
俺は足を止めた。
ベルムさんがいない。
確か、脚を骨折していたはずだ。
まだ歩ける状態じゃない。
「……ベルムさんは?」
治療師が顔を上げた。
「ベルム?」
「先日、魔物に襲われた人です。右脚を怪我して、ここに運ばれたはずなんですけど」
治療師は首を傾げた。
「……そんな人、いたかしら?」
心臓が大きく跳ねた。
「……え?」
「三日前に運ばれてきたのは、見張り番の人たちだけよ」
治療師は不思議そうな顔をしていた。
「脚を骨折した人なんて、診ていないわ」
俺は奥の寝台を見た。
毛布が綺麗に畳まれている。
誰かが寝ていた痕跡すらなかった。
「……嘘だ」
思わず呟いた。
治療師は困惑した様子で俺を見ている。
俺は鞄から手帳を取り出した。
昼間、避難者の名前を書き留めた紙だ。
ページを開く。
怪我人の欄。
そこには、二人の見張り番と高齢の女性の名前だけが書かれていた。
ベルムさんの名前がない。
俺は何度も紙を見返した。
確かに書いた。自分の手で。
『歩行困難。移動時に補助が必要』
そう記したはずだった。
その文字が、どこにもない。
「……またかよ」
声が震えた。
数日前、俺が助けた人。
黒い獣に襲われて、必死に逃げようとしていた人。
昔、測量の仕事で昼飯をご馳走してくれた人。
奥さんの焼いたパンが硬くて、一緒に笑ったこともある。
全部、覚えている。
なのに。
あの人は、いなくなった。
「……ノア?」
治療師が心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫?」
俺は答えられなかった。
代わりに手帳を握りしめる。
紙がくしゃりと音を立てる。
ベルムさんが悪いことをしたわけじゃない。
母さんだって、ベネット爺さんだって。
ただ、いつものように暮らしていただけだ。
それなのに、どうして。
「……何で、こんなことに」
誰も答えてはくれなかった。
◇
詰所へ戻ると、親方とオルンさんがまだ仕事をしていた。
俺はベルムさんのことを伝えた。
二人とも、やはり覚えていなかった。
「……ベルム?」
オルンさんが眉をひそめる。
「前の魔物騒ぎで、そんな奴を助けたか?」
「助けました。俺が肩を貸して、畑の外まで運んだんです」
「……そうか」
オルンさんは腕を組んだ。
どこか納得できない様子だった。
「おかしいな。魔物のことは、俺も覚えているはずなんだが……」
「俺が魔物を引きつけてる間に、怪我人を助けろって言ったでしょう?」
「……ああ」
オルンさんの表情が変わった。
「それは覚えてる」
俺は顔を上げた。
「本当ですか!?」
「お前にそう言ったことはな。けど、誰を助けたのかが……」
彼は額を押さえた。
「……思い出せねえ」
親方が静かに口を開いた。
「ノア。ほかにも消えた人がいるかもしれん」
俺は息を呑んだ。
「……はい」
「お前が知らない人間なら、消えたことに気づけない可能性もある」
その言葉は、俺も考えていたことだった。
俺が覚えていられるのは、知っていた人や場所だけだ。
知らない人が消えても、分からない。
存在していたことさえ、気づけない。
「……親方」
「何だ」
「俺たち、どうしたらいいんでしょう」
情けない声が出た。
親方はしばらく黙っていた。
やがて、机の上の地図を広げる。
「……できることをやるしかない」
いつもの答えだった。
「今は、村の外へ出る方法を探す。お前は異変に気づいたら、すぐ知らせろ」
「……はい」
「母親のことも、諦める必要はない」
俺は顔を上げた。
「ただし、生きて探すんだ」
親方は、まっすぐ俺を見た。
「お前まで消えたら、探せるものも探せんぞ」
俺はしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……分かりました」
親方は満足したように鼻を鳴らした。
そのときだった。
カラン。
鐘が鳴った。見張り塔の方角。
あの、存在しないはずの鐘。
カラン。
二度目。
オルンさんが窓へ駆け寄った。
「……何だ? 鐘?」
親方も顔を上げた。
「おい、今の音は……」
俺は立ち上がった。
二人にも聞こえている。
今度は、確かに。
カラン。
三度目。
続いて、外から悲鳴が聞こえた。
「おい! 誰か来てくれ!」
俺たちは顔を見合わせた。
オルンさんが扉を開ける。
広場の方から、村人たちが走ってくるのが見えた。
「どうした!」
オルンさんが叫ぶ。
一人の男が、青ざめた顔で答えた。
「広場の井戸が……!」
「井戸?」
「井戸が、なくなったんだ!」
俺は息を呑んだ。
広場の中央には、古い石造りの井戸があった。
村ができたころから使われている、大きな共同井戸だ。
何度も水を汲みに行った。誰だってそうだ。
その井戸が。
「……消えた?」
男は何度も頷いた。
「さっきまであったんだ! 水を汲もうとしたら、急に……!」
親方が駆け出した。
俺たちも後を追う。
広場へ着いた瞬間、足が止まった。
井戸がない。
石の囲いも、滑車も、桶も。
何もない。
ただ、平らな石畳が広がっているだけだった。
「……そんな」
俺は呟いた。
周囲には、村人たちが集まっている。
誰もが困惑した顔をしていた。
「ここに井戸なんてあったか?」
「いや、でも……」
「何で俺たち、こんなところに集まってるんだ?」
口々に、不思議そうな声が上がる。
最初に井戸の消失を知らせに来た男も、眉をひそめていた。
「……あれ?」
男は首を傾げた。
「俺、何をしに……?」
凍りついた。
さっきまで、確かに覚えていたのに。
井戸が消えたと叫んでいたのに。
もう、忘れている。
親方が石畳に膝をついた。
指で地面をなぞる。
「……水が流れた跡はある」
俺は顔を上げた。
石畳の隙間に、湿った土が残っていた。
そこだけ、周囲より色が濃い。
親方は顔をしかめた。
「ここに何があったのかは思い出せん。だが、水の跡があるのは確かだ」
俺は何も言えなかった。
ついさっきまで、村人たちが使っていた井戸。
それが突然消えた。
そして、誰も覚えていない。
俺以外は。
カラン。
鐘が鳴った。
今度は、大きく。
村全体に響き渡るような音だった。
広場の人々が、一斉に見張り塔を見上げた。
誰もが聞いている。
もう、俺だけじゃない。
カラン、カラン、カラン。
鐘は鳴り続けた。
まるで、村そのものが悲鳴を上げているようだった。
「……親方」
俺は震える声で言った。
「このままじゃ……」
親方は答えなかった。
その顔は、今まで見たことがないほど険しかった。
俺は広場を見回した。
家々の屋根。店の看板。見張り塔。
いつもの村。
その輪郭が、夕暮れの中でわずかに揺らいでいた。
目の錯覚かもしれない。
そう思いたかった。
けれど。
もう、分かっていた。
何かが近づいている。
ベネット爺さんの家が消えたときから、少しずつ。
母さんが消えた夜から、さらに速く。
俺たちの故郷は、確かに失われ始めている。
「……急がないと」
俺は小さく呟いた。
誰かが消える前に。
この村そのものが、なくなってしまう前に。
鐘の音が、夕暮れの空へ響き続けていた。




