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消えた村を覚えているのは俺だけだった  作者: チンアナゴ
第一章 失われし故郷

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第十話 エレナ・エルフェルトの消失

 朝になれば、全部元に戻っているんじゃないか。

 そんな馬鹿げた期待を、どこかで抱いていた。

 目を開ければ台所から鍋の音が聞こえて、母さんが朝食を作っている。寝坊した俺を叱りながら、いつものように食卓へパンを並べる。

 昨夜の出来事は、ただの悪い夢だった。

 そうだったら、どれほどよかっただろう。


「……母さん」


 返事はなかった。

 薄い朝日が差し込む部屋で、俺は天井を見つめていた。

 ほとんど眠れなかった。

 目を閉じるたびに、昨日の光景が浮かんでくる。

 鍋をかき混ぜていた母さん。海を見に行こうと約束したときの、嬉しそうな顔。

 最後に聞いた声。


『夕飯、もうすぐできるからね』


 俺は布団を跳ねのけた。

 部屋を出て、階段を下りる。

 台所には誰もいない。

 かまどは冷え切り、食卓には一脚の椅子だけが置かれていた。

 二人で使っていたはずの食器棚も、妙に小さくなっている。

 母さんがいつも使っていた木の匙。花の刺繍が入った前掛け。少し欠けた、お気に入りの茶碗。

 どれも見当たらなかった。


「……本当に、いないんだな」


 声に出すと、胸の奥が痛んだ。

 昨日まで、ここには二人分の暮らしがあった。

 今は俺一人。

 家そのものが、ずっと昔からそうだったと主張しているようだった。

 棚を開ける。

 乾燥肉と、小さなパンが一つ。

 母さんが避難用に詰めていたはずの食料袋も消えていた。

 昨日の朝、あの人は村から逃げる準備をしていた。

 俺よりずっと冷静に。

 こんな事態になっても、ちゃんと俺の食べるものを心配してくれていた。


「……くそ」


 棚の扉を閉めた。

 腹は減っていた。

 何か食べなければと思う。

 それなのに、食卓に座る気になれなかった。

 母さんのいない台所で一人朝食を取ることが、どうしようもなく嫌だった。

 扉を叩く音が聞こえたのは、そのときだった。


「ノア? 起きてる?」


 フィアの声だ。

 俺は玄関へ向かった。


     ◇


「……ひどい顔」


 扉を開けた途端、フィアがそう言った。


「おはようより先に、それか?」


「だって、目の下が真っ黒だよ」


「眠れなかったんだ」


「……そっか」


 彼女はそれ以上、何も聞かなかった。

 手には布に包まれた籠を持っている。


「朝ご飯、持ってきたよ。食べてないでしょ?」


「……ありがとう」


 図星だった。

 返事をする前に、フィアは俺の横を通り抜けて台所へ向かった。


「お邪魔しまーす」


「おい、勝手に……」


「何度も来てる家でしょ」


 そう言って笑う。

 俺は一瞬、言葉に詰まった。

 何度も来ている。

 そのとおりだ。

 フィアは子供のころから、何度もこの家を訪ねている。

 母さんにお菓子をもらったこともあった。

 一緒に夕飯を食べたことだってある。

 なのに、今のフィアにはその記憶がない。

 彼女にとって、ここは最初から俺一人が暮らす家なのだろう。


「……ノア?」


「ああ、悪い」


 俺は慌てて後を追った。

 台所では、フィアが籠からパンを取り出していた。

 焼きたてらしく、まだ温かい。


「ほら、座って」


「……はいはい」


「はいは一回」


「誰の真似だよ」


「ノアの知ってる誰かさん」


 フィアが悪戯っぽく笑った。

 たぶん、俺が母さんによく言われていたことを、以前どこかで話したのだろう。

 覚えていなくても、こういうやり取りは残るらしい。

 少しだけ、救われた気がした。

 俺は椅子に座り、パンを一つ手に取った。

 柔らかい生地から、甘い香りが漂う。


「……美味い」


「でしょ?」


「フィアが焼いたのか?」


「半分くらい」


「半分?」


「生地を作ったのは私。焼いたのは店長」


「じゃあ半分だな」


「でしょ!」


 得意げな顔をしている。

 まったく、いつもどおりだ。

 俺はもう一口かじった。

 昨夜から何も食べていなかった身体に、温かいパンが染み渡る。

 食べながら、ふとフィアの膝の上にあるものが目に入った。

 小さな手帳だった。


「……それ、何?」


「これ?」


 フィアは手帳を持ち上げた。


「昨日、ノアが話してくれたことを書いてみたの」


 ページを開き、こちらへ差し出す。

 そこには、整った字で名前が記されていた。


『エレナ・エルフェルト』


 俺は息を呑んだ。


「……母さんの名前」


「うん」


 その下には、短い文章が並んでいる。


『ノアの母親』


『料理が上手』


『心配性で、よくノアを叱っていた』


『若いころ、海を見たことがある』


『ノアと一緒に海へ行く約束をしていた』


 俺は手帳を見つめた。


「……こんなに」


「昨日、家まで送ったときに少し話してくれたでしょ。そのあと、忘れないうちに書いたんだ」


 フィアは照れくさそうに笑った。


「ほら、私にはおばさんのこと、思い出せないから」


「……うん」


「せめて、ノアが教えてくれたことは残しておこうと思って」


 胸が詰まった。

 フィアには母さんの記憶がない。

 どんな人だったのかも、どんな声で笑っていたのかも分からない。

 それでも、俺の話を聞いてくれる。

 覚えていようとしてくれる。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 フィアは手帳を閉じかけた。

 俺は慌てて声をかける。


「待って。もう一つ、書いてほしいことがある」


「何?」


「母さん、よく言ってたんだ」


 俺は少し考えた。

 何度も聞いた言葉。

 子供のころは、うるさいと感じたこともある。


「『失敗したっていいから、無事に帰ってきなさい』って」


 フィアはゆっくりと文字を書き足した。


「……いいお母さんだったんだね」


「……ああ」


 俺は頷いた。


「すごく、いい母さんだった」


 フィアは何も言わなかった。

 その沈黙が、ありがたかった。

 しばらくして、俺は手帳を指差した。


「でもさ、その記録も変わるかもしれないぞ」


「……え?」


「ベネット爺さんの家が消えたとき、地図まで書き換わってたんだ。あの紙だって、ずっと同じとは限らない」


 フィアは手帳を見下ろした。

 少し考え込んだあと、あっさり言った。


「じゃあ、また書けばいいよ」


「……え?」


「消えちゃったら、ノアにもう一回教えてもらえばいいでしょ?」


 彼女は当然のように笑った。


「私、字を書くのは嫌いじゃないし」


「……そんな簡単に」


「簡単じゃないよ」


 フィアは俺を見た。


「ノアは覚えてるんだもん。きっと、私よりずっと大変だよ」


 その言葉に、何も返せなかった。


「だから、書くくらいは手伝わせて」


 俺は俯いた。

 温かいパンを握る左手に、少しだけ力が入る。


「……頼む」


「うん!」


 フィアは嬉しそうに頷いた。

 母さんが消えたことは、何一つ変わっていない。

 探す方法だって、まだ分からない。

 それでも、一人ではなかった。


     ◇


「エレナが消えた、か」


 親方は机に両肘をつき、深く考え込んでいた。

 朝食のあと、俺たちは詰所を訪ねた。

 昨夜の出来事を伝えるためだ。


「……親方も、覚えていないんですか」


「ああ」


 短い返事だった。

 予想していたとはいえ、胸が痛む。

 親方は俺の母さんと何度も会っている。

 仕事で遅くなった俺を迎えに来たこともあったし、家の屋根を修理してもらったことだってある。


「ただな、ノア」


 親方は顔を上げた。


「お前の話を疑っているわけじゃない」


「……はい」


「ベネットという老人の件も、石橋の件も、まだ説明がついておらん。昨夜のことも、同じ異常によるものかもしれん」


 親方は棚から村の住民台帳を取り出した。

 古びた帳面を開き、俺の家がある区画を探す。

 そこには、俺の名前だけが書かれていた。


『ノア・エルフェルト』


 世帯人数、一人。

 親方は小さく舌打ちした。


「……こうなっているか」


 俺も台帳を覗き込んだ。

 最初から一人暮らしだったことになっている。

 母さんの名前は、どこにもなかった。


「……やっぱり」


 俺は拳を握りしめた。

 親方は帳面を閉じた。


「村長に報告する。ほかにも同じことが起きている可能性がある」


「……はい」


「お前はどうする?」


 思わず顔を上げた。


「どうするって……」


「母親を探すんだろう?」


 親方は、当然のことのように言った。


「だったら、俺にもできることを教えろ」


 胸の奥が熱くなった。


「……親方」


「勘違いするなよ。村の測量記録が信用できんとなれば、俺の仕事にも関わる」


 そう言って、鼻を鳴らす。


「それに、見習いが一人でうろついて怪我でも増やしたら、面倒だからな」


「……ありがとうございます」


「礼は全部終わってからにしろ」


 いつもの調子だった。

 俺は思わず笑いそうになった。

 そのとき、扉が勢いよく開いた。


「ダグ! いるか!」


 オルンさんだった。

 左腕と右肩に包帯を巻いたまま、険しい顔をしている。


「朝から何だ、騒々しい」


「村長が呼んでる。住民を集めて、避難の段取りを決めるそうだ」


 オルンさんは俺たちを見た。


「ノアもいるならちょうどいい。お前にも聞きたいことがある」


「……俺に?」


「ああ」


 彼は少し声を落とした。


「今朝、村の北側で家が一軒消えたって話がある」


 背筋が冷たくなった。


「……誰の家ですか?」


「それが分からん」


「え?」


「誰かが住んでいたような気がするんだが、思い出せねえ。見張り番の一人が、家のあった場所に通じる道の幅が変わってると言い出してな」


 オルンさんは眉間に皺を寄せた。


「家が消えたなんて、俺も自分で言っていて馬鹿げてると思う。けど、あの魔物を見たあとじゃな……」


 俺は親方と顔を見合わせた。

 母さんだけじゃない。

 村の別の場所でも、消失が起きている。

 しかも、俺の知らないところで。


「……行きましょう」


 俺は立ち上がった。


「村長に、全部話したいです」


     ◇


 広場には、既に大勢の村人が集まっていた。

 普段なら市場が開かれている時間だ。

 野菜を売る声や、子供たちの笑い声が聞こえるはずの場所に、今日は不安そうな話し声が広がっている。


「本当に避難するのか?」


「畑はどうするんだよ」


「隣町へ行く道が変になってるって聞いたぞ」


「昨日の魔物は、もういないんだろ?」


 誰もが落ち着かない様子だった。

 村長が広場の中央に立ち、皆へ呼びかける。


「静かにしてくれ!」


 ざわめきが少しずつ収まった。


「皆も知ってのとおり、ここ数日、村では不可解な出来事が続いている。西の石橋の異常、北の畑に現れた魔物、村の外へ続く道の変化……」


 村長は一度、言葉を切った。


「さらに、昨夜から今朝にかけて、人や建物が突然消えた可能性がある」


 広場が騒然となった。


「人が消えたって!?」


「誰がだよ!」


「そんな話、聞いたことねえぞ!」


 俺は唇を噛んだ。

 当然の反応だ。

 誰が消えたのか、覚えていないのだから。

 村長は両手を上げ、声を張った。


「落ち着いてくれ! 詳しい原因はまだ分かっていない。ただ、何もせずに待つわけにはいかん」


 その後、避難に向けた指示が出された。

 各家庭は持ち出せる食料と水をまとめること。怪我人や子供、高齢者を優先して移動させること。勝手に村の外へ出ず、見張り番の指示に従うこと。

 脱出経路は現在、親方たちが調査している。

 安全な道が見つかり次第、集団で避難することになった。


「……これで、本当に逃げられるのかな」


 隣でフィアが呟いた。


「……分からない」


 俺は正直に答えた。

 西の石橋は危険。南の街道は、進んでも村へ戻ってしまう。東の山道では、歩いていた地面が突然崖に変わった。

 安全だと断言できる道は、まだ一つもない。


「……ねえ、ノア」


「何?」


「私たちに、何かできるかな」


 俺は広場を見回した。

 不安そうな村人たち。泣いている子供。荷物を抱えた老人。

 昨日、俺は母さんを失った。

 また誰かが消えるかもしれない。

 ここにいる全員が、同じ危険にさらされている。


「……まずは、誰がどこにいるか確かめよう」


「……え?」


「家ごとに人数を確認するんだ。名前も全部」


 フィアが目を瞬かせた。


「どうして?」


「人が消えたら、その人のことを忘れてしまうかもしれない。昨日まで誰がいたのか、分からなくなるんだ」


 俺は拳を握った。


「記録だって変わるかもしれない。それでも、今いる人を把握しておけば、避難するときに置いていく人を減らせる」


 完璧な方法じゃない。

 名前を書き留めても、記録が変わってしまう可能性はある。

 俺の記憶がなければ、見落とす人もいるだろう。

 ただ、何もしないよりはましだ。

 フィアは少し考えたあと、頷いた。


「分かった。私、食堂の人たちにも手伝ってもらう」


「頼む」


 俺たちは村長へ提案を伝えた。

 村長はすぐに了承し、広場の隅に机を用意してくれた。

 そこへ村人たちが順番に集まり、家族の人数と名前を確認していく。

 俺は左手で記録を取り、フィアが横で名前を読み上げた。


「次は、粉ひき小屋の親子だね」


「ああ」


 顔を上げると、見覚えのある少女がいた。


「ノアお兄ちゃん!」


「シア!」


 シアが駆け寄ってくる。

 父親も一緒だった。


「手、まだ痛い?」


「少しな。でも、もう大丈夫だよ」


「よかった!」


 シアは嬉しそうに笑った。

 その姿を見て、俺も少しだけ安心した。

 あのとき助けた子が、今もここにいる。

 それだけで、何だか嬉しかった。


「……お兄ちゃん」


「ん?」


「また、あのお部屋が出てきたらどうしよう」


 少女の顔が曇る。

 俺はしゃがみ込み、目線を合わせた。


「今度はお父さんから離れないようにするんだ。何か変だと思ったら、すぐ大人を呼んで」


「……うん」


「俺も気をつけるから」


 シアは小さく頷いた。

 父親が深く頭を下げる。


「本当に、あのときはありがとう。改めて礼を言わせてくれ」


「いえ。無事でよかったです」


 俺は笑った。

 二人が列を離れたあと、フィアが小さく呟いた。


「……シアちゃん、怖かっただろうね」


「……ああ」


 知らない場所に閉じ込められる。

 家族の姿が見えなくなる。

 助けを呼んでも、誰にも届かない。

 俺には、その恐怖が少しだけ分かる気がした。


     ◇


 昼を過ぎるころには、住民の確認が一段落した。

 村長の家、食堂、鍛冶屋、粉ひき小屋。

 家ごとに人数を書き留め、移動に手助けが必要な人には印をつけた。

 怪我人の欄には、ベルムさんの名前もある。

 この間の魔物騒ぎで脚を折った農夫だ。

 今は治療所で休んでいるらしい。


「……ベルムさん、まだ歩けないんだよな」


 俺が呟くと、フィアが頷いた。


「うん。治療師さんが、しばらく安静にしてないと駄目だって」


「避難するときは、荷車を使うしかないか」


「そうだね」


 俺は名前の横に印をつけた。


『歩行困難。移動時に補助が必要』


 命懸けで助けた人だ。

 せっかく助かったのに、避難できずに取り残されるなんてことは避けたい。


「……そうだ」


 俺は顔を上げた。


「あとで治療所へ行こう。ほかにも運べない人がいるかもしれない」


「分かった」


 フィアは頷いた。

 そのあと、俺たちは昼食を取るために食堂へ向かった。

 食堂では避難用のパンが大量に焼かれていた。

 普段よりずっと忙しそうだ。

 俺も手伝おうとしたが、右手を見た店長に即座に断られた。


「怪我人は座ってな!」


「……最近、そればっかり言われるんですが」


「当たり前だろう!」


 フィアが隣で笑っていた。

 ……納得いかない。

 とはいえ、無理をして仕事を増やすわけにもいかない。

 俺は大人しく椅子に座り、パンをかじった。


「……ノア」


 フィアが向かいに座った。


「何?」


「今日、まだお母さんを探してないよね」


 俺は手を止めた。


「……ああ」


「いいの?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。

 朝からずっと、村のことで動いていた。

 母さんを探すために何かできることがないか、考えていたはずなのに。

 気づけば、ほかの人たちの避難準備を手伝っている。


「……よくない」


 俺は小さく答えた。


「本当は、今すぐ探しに行きたい」


 母さんがどこにいるのか知りたい。

 ベネット爺さんも、まだどこかにいるのかもしれない。

 粉ひき小屋でシアが見た赤い屋根の家。

 あれが本当にベネット爺さんの家だったなら、消えたものが完全になくなったわけではない可能性がある。


「……でも、どこを探せばいいんだろうな」


 俺はパンを見つめた。


「母さんが消えた場所に行っても、何も残ってないんだ」


 フィアは少し考えた。


「じゃあ、もう一回行ってみようよ」


「……え?」


「ノアには、私たちに見えないものが見えるんでしょ?」


「ああ」


「だったら、昨日は何も見えなかった場所でも、今日は違うかもしれないじゃない」


 俺は顔を上げた。

 確かに。

 西の石橋も、最初から木橋が見えていたわけじゃない。

 粉ひき小屋の石壁だって、突然現れた。

 なら、母さんが消えた家にも、何かが残っている可能性はある。


「……行ってみるか」


「うん!」


 フィアは笑った。


「私も一緒に行くよ」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 今日は感謝ばかりだ。

 俺たちは食事を終えると、詰所へ向かった。

 親方にも同行してもらうためだ。

 さすがに、もう一人で危険な場所へ踏み込むつもりはなかった。


     ◇


「……何も変わっておらんな」


 親方が呟いた。

 俺たちは自宅の台所に立っていた。

 母さんが消えた場所だ。

 机、椅子、かまど、食器棚。

 どれも、今朝見たとおりだった。


「……俺には、全部変わって見えますけどね」


 思わずそう返した。

 親方は少しだけ目を伏せた。


「……そうだったな」


 俺は台所の中央へ歩いた。

 昨日、母さんはここに立っていた。

 鍋をかき混ぜながら、俺に話しかけていた。

 海へ行こうと約束したのも、この場所だ。


「……母さん」


 小さく呼んでみる。

 返事はない。

 親方は窓や壁を調べ、フィアは棚の中を確かめている。

 俺は床を見下ろした。

 母さんが立っていた場所。

 そこに、何か痕跡はないだろうか。

 そう考えながら、しばらく見つめていた。

 ……ん?

 床板の隙間が、ぼやけた。

 目をこする。

 今度は、はっきり見えた。

 木の床に、細い線が重なっている。

 灰色の石。

 昨日まで見慣れていた台所の床とは、まったく違うものだった。


「……親方」


「どうした?」


「床が……」


 言いかけて、息を呑んだ。

 目の前の景色が、ゆっくりと変わり始めた。

 かまどの向こうに、知らない壁が現れる。

 石造りの壁だ。

 その奥には、細い廊下が続いていた。

 薄暗い。

 天井には、淡い青色の灯りがいくつか並んでいる。

 見たこともない場所だった。


「……何だ、これ」


 俺は立ち尽くした。

 台所と、知らない廊下。

 二つの景色が重なっている。

 粉ひき小屋で見た石造りの部屋と、よく似た現象だった。


「ノア?」


 フィアが近づいてくる。


「何か見えるの?」


「……ああ」


 俺は頷いた。


「知らない廊下がある」


「廊下?」


「石でできた、長い廊下だ」


 親方が俺の隣へ来た。


「触れるか?」


「……分かりません」


 俺は足元に落ちていた小さな木片を拾った。

 かまどの前に突き出す。

 木片は、石壁をすり抜けた。

 何の手応えもない。


「……今は触れません」


 親方は頷いた。


「なら、近づくな。シアを助けたときみたいなことが起きるかもしれん」


「はい」


 俺は木片を引っ込めた。

 あのときは、壁が突然硬くなり、危うく身体を挟まれるところだった。

 今度は慎重にしなければならない。

 そう思いながら、廊下の奥を見つめた。

 青い灯りが、ゆっくりと揺れている。

 その向こうに、何かが動いた。


「……っ!」


 人影だった。

 細い影が、廊下の奥を横切った。

 ほんの一瞬。

 すぐに壁の向こうへ消えてしまう。


「……母さん!?」


 思わず叫んだ。

 返事はない。

 俺は一歩踏み出しかけた。


「ノア!」


 親方の声が飛ぶ。

 足が止まった。

 目の前の石壁が、薄く揺らいでいる。

 あのまま進んでいたら、どうなっていたか分からない。


「……すみません」


 深く息を吐いた。

 落ち着け。

 人影が見えたからといって、母さんとは限らない。

 それに、あの廊下がどこへ続いているのかも分からない。

 母さんが消えた場所に現れたからといって、直接つながっている保証はない。


「……ノア」


 フィアが俺の左腕に触れた。


「見えたの?」


「……人がいた」


「おばさん?」


「分からない」


 俺は首を横に振った。


「一瞬だったから」


 フィアは少し残念そうな顔をした。


「……そっか」


 俺はもう一度、廊下を見つめた。

 そこには、誰もいない。

 青い灯りだけが、静かに揺れている。

 そして、すうっと。

 石壁の輪郭が薄くなり、消えていった。

 いつもの台所が戻ってくる。

 かまど。食器棚。一脚の椅子。

 母さんのいない家。


「……消えた」


 俺は呟いた。

 親方が小さく頷く。


「今のことは、記録しておこう」


「……はい」


 俺は鞄から地図を取り出した。

 家の位置に、小さな印をつける。

 その横へ、左手で文字を書き込んだ。


『石造りの廊下。青い灯り。人影あり』


 最後に、一行。


『母さんかどうかは不明』


 書き終えて、しばらくその文字を見つめた。

 確かなことは、ほとんど分かっていない。

 それでも。

 昨日まで何も見えなかった場所に、今日は知らない景色が現れた。

 母さんが完全に消えてしまったと決まったわけじゃない。

 今は、その可能性を信じたかった。


     ◇


 治療所へ向かったのは、夕方近くになってからだった。

 避難が始まれば、怪我人を優先して運ばなければならない。

 ベルムさんの様子も確認しておきたかった。


「……失礼します」


 扉を開けると、薬草の匂いが漂ってきた。

 治療師が棚の前で道具を整理している。


「あら、ノア。手はどう?」


「まだ痛いですけど、だいぶましになりました」


「無理しちゃ駄目よ」


「……はい」


 もう何度目だろう、この会話。

 俺は苦笑しながら室内を見回した。

 寝台が三つ並んでいる。

 窓際の一つには、昨日魔物に襲われた見張り番が横になっていた。

 もう一つには、高齢の女性が休んでいる。

 そして、奥の寝台。

 そこには誰もいなかった。


「……あれ?」


 俺は足を止めた。

 ベルムさんがいない。

 確か、脚を骨折していたはずだ。

 まだ歩ける状態じゃない。


「……ベルムさんは?」


 治療師が顔を上げた。


「ベルム?」


「先日、魔物に襲われた人です。右脚を怪我して、ここに運ばれたはずなんですけど」


 治療師は首を傾げた。


「……そんな人、いたかしら?」


 心臓が大きく跳ねた。


「……え?」


「三日前に運ばれてきたのは、見張り番の人たちだけよ」


 治療師は不思議そうな顔をしていた。


「脚を骨折した人なんて、診ていないわ」


 俺は奥の寝台を見た。

 毛布が綺麗に畳まれている。

 誰かが寝ていた痕跡すらなかった。


「……嘘だ」


 思わず呟いた。

 治療師は困惑した様子で俺を見ている。

 俺は鞄から手帳を取り出した。

 昼間、避難者の名前を書き留めた紙だ。

 ページを開く。

 怪我人の欄。

 そこには、二人の見張り番と高齢の女性の名前だけが書かれていた。

 ベルムさんの名前がない。

 俺は何度も紙を見返した。

 確かに書いた。自分の手で。


『歩行困難。移動時に補助が必要』


 そう記したはずだった。

 その文字が、どこにもない。


「……またかよ」


 声が震えた。

 数日前、俺が助けた人。

 黒い獣に襲われて、必死に逃げようとしていた人。

 昔、測量の仕事で昼飯をご馳走してくれた人。

 奥さんの焼いたパンが硬くて、一緒に笑ったこともある。

 全部、覚えている。

 なのに。

 あの人は、いなくなった。


「……ノア?」


 治療師が心配そうに声をかけてくる。


「大丈夫?」


 俺は答えられなかった。

 代わりに手帳を握りしめる。

 紙がくしゃりと音を立てる。

 ベルムさんが悪いことをしたわけじゃない。

 母さんだって、ベネット爺さんだって。

 ただ、いつものように暮らしていただけだ。

 それなのに、どうして。


「……何で、こんなことに」


 誰も答えてはくれなかった。


     ◇


 詰所へ戻ると、親方とオルンさんがまだ仕事をしていた。

 俺はベルムさんのことを伝えた。

 二人とも、やはり覚えていなかった。


「……ベルム?」


 オルンさんが眉をひそめる。


「前の魔物騒ぎで、そんな奴を助けたか?」


「助けました。俺が肩を貸して、畑の外まで運んだんです」


「……そうか」


 オルンさんは腕を組んだ。

 どこか納得できない様子だった。


「おかしいな。魔物のことは、俺も覚えているはずなんだが……」


「俺が魔物を引きつけてる間に、怪我人を助けろって言ったでしょう?」


「……ああ」


 オルンさんの表情が変わった。


「それは覚えてる」


 俺は顔を上げた。


「本当ですか!?」


「お前にそう言ったことはな。けど、誰を助けたのかが……」


 彼は額を押さえた。


「……思い出せねえ」


 親方が静かに口を開いた。


「ノア。ほかにも消えた人がいるかもしれん」


 俺は息を呑んだ。


「……はい」


「お前が知らない人間なら、消えたことに気づけない可能性もある」


 その言葉は、俺も考えていたことだった。

 俺が覚えていられるのは、知っていた人や場所だけだ。

 知らない人が消えても、分からない。

 存在していたことさえ、気づけない。


「……親方」


「何だ」


「俺たち、どうしたらいいんでしょう」


 情けない声が出た。

 親方はしばらく黙っていた。

 やがて、机の上の地図を広げる。


「……できることをやるしかない」


 いつもの答えだった。


「今は、村の外へ出る方法を探す。お前は異変に気づいたら、すぐ知らせろ」


「……はい」


「母親のことも、諦める必要はない」


 俺は顔を上げた。


「ただし、生きて探すんだ」


 親方は、まっすぐ俺を見た。


「お前まで消えたら、探せるものも探せんぞ」


 俺はしばらく黙っていた。

 それから、小さく頷いた。


「……分かりました」


 親方は満足したように鼻を鳴らした。

 そのときだった。

 カラン。

 鐘が鳴った。見張り塔の方角。

 あの、存在しないはずの鐘。

 カラン。

 二度目。

 オルンさんが窓へ駆け寄った。


「……何だ? 鐘?」


 親方も顔を上げた。


「おい、今の音は……」


 俺は立ち上がった。

 二人にも聞こえている。

 今度は、確かに。

 カラン。

 三度目。

 続いて、外から悲鳴が聞こえた。


「おい! 誰か来てくれ!」


 俺たちは顔を見合わせた。

 オルンさんが扉を開ける。

 広場の方から、村人たちが走ってくるのが見えた。


「どうした!」


 オルンさんが叫ぶ。

 一人の男が、青ざめた顔で答えた。


「広場の井戸が……!」


「井戸?」


「井戸が、なくなったんだ!」


 俺は息を呑んだ。

 広場の中央には、古い石造りの井戸があった。

 村ができたころから使われている、大きな共同井戸だ。

 何度も水を汲みに行った。誰だってそうだ。

 その井戸が。


「……消えた?」


 男は何度も頷いた。


「さっきまであったんだ! 水を汲もうとしたら、急に……!」


 親方が駆け出した。

 俺たちも後を追う。

 広場へ着いた瞬間、足が止まった。

 井戸がない。

 石の囲いも、滑車も、桶も。

 何もない。

 ただ、平らな石畳が広がっているだけだった。


「……そんな」


 俺は呟いた。

 周囲には、村人たちが集まっている。

 誰もが困惑した顔をしていた。


「ここに井戸なんてあったか?」


「いや、でも……」


「何で俺たち、こんなところに集まってるんだ?」


 口々に、不思議そうな声が上がる。

 最初に井戸の消失を知らせに来た男も、眉をひそめていた。


「……あれ?」


 男は首を傾げた。


「俺、何をしに……?」


 凍りついた。

 さっきまで、確かに覚えていたのに。

 井戸が消えたと叫んでいたのに。

 もう、忘れている。

 親方が石畳に膝をついた。

 指で地面をなぞる。


「……水が流れた跡はある」


 俺は顔を上げた。

 石畳の隙間に、湿った土が残っていた。

 そこだけ、周囲より色が濃い。

 親方は顔をしかめた。


「ここに何があったのかは思い出せん。だが、水の跡があるのは確かだ」


 俺は何も言えなかった。

 ついさっきまで、村人たちが使っていた井戸。

 それが突然消えた。

 そして、誰も覚えていない。

 俺以外は。

 カラン。

 鐘が鳴った。

 今度は、大きく。

 村全体に響き渡るような音だった。

 広場の人々が、一斉に見張り塔を見上げた。

 誰もが聞いている。

 もう、俺だけじゃない。

 カラン、カラン、カラン。

 鐘は鳴り続けた。

 まるで、村そのものが悲鳴を上げているようだった。


「……親方」


 俺は震える声で言った。


「このままじゃ……」


 親方は答えなかった。

 その顔は、今まで見たことがないほど険しかった。

 俺は広場を見回した。

 家々の屋根。店の看板。見張り塔。

 いつもの村。

 その輪郭が、夕暮れの中でわずかに揺らいでいた。

 目の錯覚かもしれない。

 そう思いたかった。

 けれど。

 もう、分かっていた。

 何かが近づいている。

 ベネット爺さんの家が消えたときから、少しずつ。

 母さんが消えた夜から、さらに速く。

 俺たちの故郷は、確かに失われ始めている。


「……急がないと」


 俺は小さく呟いた。

 誰かが消える前に。

 この村そのものが、なくなってしまう前に。

 鐘の音が、夕暮れの空へ響き続けていた。

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