第八話 英雄には程遠いけれど
英雄というのは、もっと格好いいものだと思っていた。
強い魔法で敵を薙ぎ払い、誰もが恐れる魔物を一太刀で倒す。助けられた人々から感謝され、最後には美しい女性に微笑みかけられる。
少なくとも、物語に出てくる英雄はそうだった。
現実はどうだ。
「……いっだぁぁぁ!」
「こら、動かない!」
俺は今、母さんに包帯を巻き直されて悲鳴を上げている。
昨日、死にかけながら魔物を倒した男の姿がこれである。
英雄への道は、ずいぶん遠そうだ。
「まったく……治療師さんから聞いたときは、心臓が止まるかと思ったんだからね」
「……ごめん」
「謝ってほしいわけじゃないの。自分の身体をもっと大事にしなさいって言ってるの」
母さんは俺の右手を膝に乗せ、薬草を塗り直した。
指の付け根から手首にかけて、ひどく腫れている。
粉ひき小屋で石壁に挟まれた傷だ。
昨日の戦いでは、その手を何度も地面についたせいで、さらに悪化させてしまった。
左腕も筋肉痛でまともに上がらない。
剣一本振っただけでこの有様とは、我ながら情けない。
「怪我人を助けたのは立派よ」
母さんが包帯の端を結びながら言った。
「でもね、ノア。あんたが怪我をしたら、心配する人間がいることも忘れないで」
「……うん」
「分かってる?」
「分かってるよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「ノア?」
「分かってます!」
反射的に背筋が伸びた。
母さんは満足したらしく、ようやく俺の手を離した。
昨日からずっと、こんな調子だ。
帰宅した瞬間に怒られ、夕飯を食べながら怒られ、寝る前にも怒られた。
朝になれば少しは機嫌が直るかと思ったが、どうやら見通しが甘かったらしい。
「今日は仕事、お休みなんでしょう?」
「親方にはそう言われてる」
「だったら大人しくしてなさい」
「……はい」
俺は素直に頷いた。
少なくとも、今は。
母さんが台所へ戻ると、俺は机の上に置いていた小さな革の首輪を手に取った。
昨日の獣がつけていたものだ。
黒ずんだ革に、錆びついた金具。内側には小さな文字が刻まれている。
『ニル』
『帰りを待っている』
誰が書いたのだろう。
あれほど大きな獣を飼っていた人が、本当にいるのだろうか。
何もない畑に突然現れ、人々を襲った黒い獣。
最後に見た金色の瞳が、頭から離れない。
あいつは怖がっていた。少なくとも、俺にはそう見えた。
知らない場所へ放り出され、大勢の人間に武器を向けられて。
もし、あの獣にも帰る場所があったのなら。
「……悪かったな」
返事のない首輪に、そう呟いた。
後悔しているのかと聞かれれば、分からない。
あのまま放っておけば、村の誰かが死んでいたかもしれない。
ベルムさんも、オルンさんも、ほかの見張り番たちも。
もう一度同じ状況になれば、きっと俺は同じことをする。
それでも、何も感じずに済むわけじゃなかった。
「ノアー! お客さんよ!」
階下から母さんの声がした。
「……客?」
こんな朝早くから、誰だろう。
俺は首輪を鞄にしまい、椅子から立ち上がった。
◇
「おはよう、英雄様」
「帰ってくれ」
「ひどくない!?」
玄関に立っていたのはフィアだった。
両手には小さな籠を抱えている。
いつもの給仕服ではなく、淡い黄色の上着に茶色いスカート。どうやら今日は食堂の仕事が休みらしい。
「せっかく様子を見に来てあげたのに」
「その呼び方をやめてくれたら歓迎する」
「村じゃ結構噂になってるよ。巨大な魔物を倒した勇敢な若者がいるって」
「倒したのはオルンさんたちだよ」
「でも、最後に剣を刺したんでしょ?」
「……まあ、そうだけど」
実際には、オルンさんが動きを封じてくれたからできたことだ。
俺一人だったら、最初の一撃で死んでいた。
英雄どころか、足手まといもいいところだったと思う。
「それで、怪我は?」
「見てのとおり」
包帯だらけの右手を持ち上げる。
フィアは顔をしかめた。
「うわ、痛そう」
「実際痛い」
「ちょっと触っていい?」
「優しく頼む」
「分かってるって」
フィアは俺の手を取り、包帯の上からそっと指を添えた。
思ったよりも慎重な手つきだった。
普段は遠慮なく肩を叩いてくるくせに。
「……本当に、無茶しすぎ」
小さな声だった。
顔を上げると、彼女は俯いていた。
「昨日、魔物が倒されたって聞いたとき、安心したんだよ」
「……うん」
「そしたらノアも戦ってたって言うし、また怪我してるし」
フィアの指先に、少しだけ力がこもる。
「私、昨日は何もできなかったから」
「そんなことないだろ」
俺は首を横に振った。
「親方と治療師さんを呼んできてくれたじゃないか。ベルムさんたちが助かったのも、そのおかげだよ」
「……そうかな」
「ああ」
フィアはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「じゃあ、私も英雄ってことでいい?」
「……え?」
「だって、私がいなかったら困ったんでしょ?」
「いや、それとこれとは……」
「じゃあ今日から英雄二人組だね」
「勝手に仲間を増やすな!」
フィアは声を上げて笑った。
まったく、この幼なじみは。
「ほら、これ」
彼女が籠を差し出す。
中には、焼きたてのパンが入っていた。
「お見舞い。うちで余ったやつだけど」
「余り物かよ」
「嫌なら返してくれてもいいよ?」
「ありがたくいただきます」
即答した。
フィアは満足そうに頷く。
「それと、昨日のお昼ご飯のお代はまだだからね」
「……あれ、まだ有効なのか?」
「もちろん」
こいつは絶対に忘れない。
村中の人間が俺の存在を忘れても、昼飯の借りだけは覚えていそうだ。
……縁起でもないことを考えてしまった。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
俺はパンを一つ取り出した。
まだ焼き上がりの温かさを残したそれは、かじるとほんのり甘い香りが口の中に広がった。
美味い。
昨日からまともに食べていなかったせいか、余計にそう感じた。
「……なあ、フィア」
「何?」
「もし、明日この村から誰かがいなくなったら、どうする?」
パンを持った彼女の手が止まった。
「……ベネットさんみたいに?」
「ああ」
フィアは少し考えた。
「探すよ」
「……覚えていなかったとしても?」
「それは難しいなあ」
困ったように笑う。
「でも、ノアが覚えてるんでしょ?」
「……そうだけど」
「だったら、一緒に探せばいいじゃない」
あまりにも簡単に言うものだから、思わず彼女を見つめてしまった。
「……何?」
「いや」
俺は残りのパンを口に放り込んだ。
「お前って、たまにすごいこと言うよな」
「今の褒めてる?」
「半分くらい」
「それ、前に私が言ったやつ!」
フィアが笑う。
俺も笑った。
こんな朝が、いつまでも続けばいいと思った。
◇
「……で、休みのはずのお前が、どうしてここにいる?」
詰所へ入るなり、親方がそう言った。
「ちょっと相談があって」
「帰れ」
「まだ何も言ってない!」
「お前の相談は、大抵ろくでもない」
ひどい評価である。
もっとも、ここ数日の行動を振り返れば反論は難しい。
結局、フィアも一緒に詰所へ来ていた。
親方は俺たちを交互に見たあと、大きなため息をついた。
「……五分だけだぞ」
「ありがとうございます!」
俺は机に地図を広げた。
昨日の夜、考えていたことがある。
ベネット爺さんの家。見張り塔の鐘。西の石橋。粉ひき小屋。北の畑に現れた黒い獣。
ここ数日で起きた異変を、一度すべて地図に書き込んでみたかった。
「……お前、これを調べるために来たのか?」
「はい」
親方は地図を覗き込んだ。
「場所なら覚えてます。全部、俺が印をつけますから」
「……ふむ」
俺は赤いインクを借り、順に異変のあった場所へ印をつけた。
「……こうして見ると」
フィアが地図を覗き込む。
「結構、あちこちで起きてるんだね」
「ああ」
俺は印を指でなぞった。
今までは、それぞれ別の事件だと思っていた。
家が消える。橋の形が変わる。知らない部屋が現れる。魔物が突然出てくる。
どれも常識では説明できない。
けれど、同じ村で立て続けに起きている以上、無関係とは考えにくかった。
「親方。村の外では、こういう話を聞いたことがありますか?」
「……ないな」
「隣町でも?」
「少なくとも、俺の知る限りではな」
親方は腕を組んだ。
「地形が変わること自体は珍しくない。地震や土砂崩れで道が埋まることもある」
「はい」
「ただ、お前の言うとおりなら話は別だ」
親方は西の石橋に記した印を指差した。
「測量記録が変わっている。俺自身、計算の合わない図面を確認した」
次に、粉ひき小屋。
「こっちでは、お前が説明できない場所へ入り、娘を連れ戻した。あの親父もそれを覚えている」
「……はい」
「昨日の魔物についても、村の見張り番たちが証言している」
親方は顔を上げた。
「もう、お前一人の勘違いという話では済まんな」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
親方は最初から俺が嘘をついているとは思っていなかった。
それでも、こうしてはっきり言ってもらえると安心する。
「……じゃあ」
「ああ。村長にも、もう一度話をする必要がある」
俺は頷いた。
「それと、もう一つお願いがあるんです」
「何だ?」
「村の周りを測り直したいんです」
親方が眉をひそめた。
「今からか?」
「はい。できれば、村の外へ続く道も」
「……理由は?」
俺は地図へ視線を落とした。
西の石橋では、道の向きまで変わっていた。粉ひき小屋の前の空き地も、以前より広くなっていた。
こんなことが続くなら、ほかの場所も変わっているかもしれない。
「もし、また何か起きたときに……」
言葉を探す。
「今ある道が、ちゃんと使えるか知っておきたいんです」
親方はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……悪くない考えだ」
「本当ですか?」
「ああ。道が危険なら、村人にも知らせる必要がある」
親方は棚から古い測量図を取り出した。
「ただし、お前は今日は休みだ」
「えっ」
「俺とオルンで確認する。お前は詰所で、分かる範囲の記録をまとめておけ」
「……でも」
「その手で縄が張れるか?」
俺は包帯を見つめた。
無理だ。どう考えても。
「……分かりました」
「分かったなら座れ」
素直に椅子へ腰を下ろす。
その様子を見て、フィアがくすくす笑っていた。
「珍しいね。ノアがちゃんと言うこと聞いてる」
「俺だって学習くらいする」
「昨日は?」
「昨日学習したんだよ!」
親方が呆れたように鼻を鳴らした。
◇
昼過ぎ、親方たちは村長に事情を説明し、周辺の道を調べることになった。
村長も、昨日の魔物騒ぎについては既に報告を受けていたらしい。
西の石橋は引き続き通行禁止。北の畑には見張り番を配置し、子供たちを近づけないようにする。
異変の原因については、まだ分かっていない。
ひとまず、村の安全を優先することになった。
俺は詰所に残り、これまでの記録を整理していた。
フィアも手伝ってくれている。
「……ねえ、ノア」
「ん?」
「これ、どうして数字が違うの?」
彼女が指差したのは、西の石橋の測量記録だった。
先週の記録と、今日の記録。
どちらも橋の長さは百二十三歩と書かれている。
「……俺の記憶だと、先週は百二十歩だったんだ」
「でも、書いてあるのは百二十三歩だよね?」
「ああ」
「じゃあ、誰かが書き直したとか?」
「俺もそう思ったけど、字は俺のものなんだ」
フィアは紙を持ち上げ、窓から差し込む光に透かした。
「……変なの」
「本当に」
俺は椅子にもたれかかった。
何度考えても、答えが出ない。
もし何かが消えたとき、地図まで変わってしまうのなら。
記録を残すこと自体に、意味はあるのだろうか。
「……あ、そうだ」
フィアが顔を上げた。
「ノアって、普段から地図を描いてるんだよね?」
「それが仕事だからな」
「じゃあ、村のこともいっぱい覚えてる?」
「……まあ、普通の人よりは」
道の長さ。建物の位置。川の流れ。畑の境界。
仕事で調べた場所なら、ある程度は頭に入っている。
「だったら、今の村と比べてみれば?」
「……比べる?」
「うん。地図が変わるなら、ノアの記憶と比べればいいじゃない」
俺は彼女を見た。
「……なるほど」
「え、何? そんなにいいこと言った?」
「かなり」
フィアは得意げに笑った。
「もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「じゃあ、今度昼飯おごるよ」
「それ、もう約束してるからね?」
「……覚えてたか」
「当然!」
逃げ道はなさそうだった。
俺は新しい紙を一枚取り出した。
村の中心を描く。
広場。見張り塔。詰所。食堂。
そこから少しずつ、覚えている道や建物を書き足していく。
今の地図を写すのではなく、記憶だけを頼りに。
途中、何度か手が止まった。
この道は、確かもう少し長かった。あの畑の隣には、古い柵があったはず。
けれど、本当にそうだっただろうか。
自信のない場所には、小さな印をつけておく。
フィアは隣で、俺が書いたものを黙って眺めていた。
「……ねえ」
「何?」
「こんなに覚えてるんだね」
「仕事柄な」
「私なんて、家から食堂までの道くらいしか分かんないよ」
「それはさすがに少なすぎないか?」
「やっぱ嘘。市場までの道も分かるから」
「大して増えてないぞ」
そんな会話をしながら、俺は地図を描き続けた。
完成するころには、窓から差し込む日差しがずいぶん傾いていた。
机の上には、二枚の地図が並んでいる。
一枚は、親方が保管していた現在の村の地図。
もう一枚は、俺が記憶だけで描いた地図。
比べてみると、細かな違いがいくつもあった。
道の曲がり方。建物の間隔。畑の広さ。
中には、俺の描いた方にしか存在しない建物もある。
ベネット爺さんの家だ。
「……やっぱり、違うな」
俺は小さく呟いた。
記憶違いも混じっているだろう。
正確な測量図として使えるものじゃない。
それでも、今の俺には大切な地図だった。
少なくとも、何かがおかしいと気づけるのだから。
◇
夕方になって、親方が戻ってきた。
オルンさんも一緒だった。
左腕には包帯が巻かれ、右肩にも新しい布が当てられている。
昨日、俺を助けたときの傷だ。
少し申し訳なくなった。
「オルンさん、怪我は……」
「ああ? こんなもん大したことねえよ」
彼は笑ってみせた。
「それより、お前はちゃんと休んでたか?」
「……一応」
「一応?」
親方がじろりと睨んでくる。
「記録をまとめてただけです!」
「ならいい」
オルンさんは机の上の地図を覗き込んだ。
「……へえ。こりゃ、お前が描いたのか?」
「はい」
「大したもんだな」
そう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「昨日もそうだったが、お前はよく周りを見てる」
「……ありがとうございます」
「剣の腕はからっきしだけどな!」
「そこは言わなくてもいいでしょう!?」
オルンさんが豪快に笑った。
……まったく。
昨日、命を救ってもらった相手じゃなかったら、少しくらい文句を言っていたところだ。
「それで、調査はどうでした?」
俺が尋ねると、二人の表情が変わった。
親方は机に一枚の紙を置いた。
「……まず、北側の道だ」
「はい」
「昨日まであったはずの境界標が、一つ見当たらん」
俺は顔を上げた。
「……え?」
「古い石柱だ。村の北端に立っていた」
覚えている。
確か、北の畑から森へ向かう道の途中にあったものだ。
測量の基準にも使われていた。
「……なくなったんですか?」
「ああ。周囲を掘ってみたが、土台らしきものもなかった」
親方は腕を組んだ。
「古い地図にも、最初から描かれていない」
俺は息を呑んだ。
まただ。
ベネット爺さんの家と同じ。
存在していたはずのものが、最初からなかったことになっている。
「親方は、覚えてるんですよね?」
「……少なくとも、昨日まではあったと思う」
歯切れの悪い返事だった。
「ただ、今になって考えると、いつ最後に見たのかもはっきりせん」
親方は苦い顔をした。
「こんなこと、測量師として情けない話だがな」
「……いえ」
俺は首を横に振った。
親方は悪くない。
記録が変わってしまうなら、記憶だって同じことが起きているのかもしれない。
「もう一つある」
オルンさんが口を開いた。
「南の街道だ」
「南?」
「ああ。隣町へ続く道を、見張り番の一人に確認させたんだが……」
彼は途中で言葉を切った。
何となく、嫌な予感がした。
「……何かあったんですか?」
「戻ってきた」
「……はい?」
「町へ向かったはずが、村へ戻ってきちまったんだ」
俺は思わず親方を見た。
「……どういうことですか?」
「俺も直接聞いた。南の街道を進んでいたら、いつの間にか村の北側へ出たらしい」
そんな馬鹿な。
南の街道は、隣町へ続く一本道だ。
途中に分かれ道はあるが、北側へ戻ってくるような道はない。
そもそも、方角がまるで違う。
「……道を間違えたんじゃ?」
「本人も最初はそう思ったそうだ」
オルンさんは首を横に振った。
「だが、あいつはこの村で生まれ育った男だ。何度も通った道を、そう簡単に間違えるとは思えん」
俺は地図を見下ろした。
西の石橋では、道の向きが変わっていた。
北の畑では、知らない場所から獣が現れた。
今度は、南の街道まで。
「……親方」
「何だ」
「その人は、無事なんですよね?」
「ああ。怪我はない」
ひとまず、安心した。
親方は地図の端を指で押さえた。
「村長には報告してある。明日の朝、改めて人を出して調べることになった」
「……明日?」
「ああ。日が暮れてから動くのは危険だからな」
確かに、その通りだ。
昨日の魔物騒ぎもある。
夜の道で何が起きるか分からない。
俺は地図の南側に、小さな印をつけた。
見慣れた街道。隣町へ続く、何でもない道。
子供のころ、母さんに連れられて何度も通った。
その道が、今はどこへ続いているのか分からない。
「……なあ、ノア」
オルンさんが口を開いた。
「お前、何か心当たりはないか?」
「……いえ」
俺は正直に答えた。
「何が起きてるのか、まだ分かりません」
「そうか」
オルンさんは小さく頷いた。
責めるような様子はなかった。
「分からんもんは仕方ねえな」
彼は窓の外を見た。
「ただ、村の連中を守らにゃならん。何か気づいたら、すぐ俺たちに教えてくれ」
「……はい」
俺は頷いた。
オルンさんは笑った。
「それと、もう一つ」
「何ですか?」
「次に魔物が出ても、勝手に剣を抜くなよ」
「……はい」
「今度は助けられるとは限らんからな」
その言葉は、冗談めかした口調だった。
けれど、俺には重く響いた。
昨日、この人が飛び込んできてくれなければ。
俺は今、ここにいなかったのだから。
◇
詰所を出るころには、空が赤く染まっていた。
フィアは先に食堂へ戻り、親方とオルンさんは村長のところへ向かった。
俺は一人、広場の端に立っていた。
見張り塔が見える。鐘のなくなった、古い石造りの塔。
今はもう、あの音を聞くこともない。
……そう思っていた。
カラン。
「……っ!」
俺は顔を上げた。
塔の頂上には、何もない。
角笛と旗が置かれているだけだ。
なのに、今。
確かに鐘が鳴った。
カラン。
二度目。周囲を見回す。
広場を歩く人々は、誰も気にしていない。
聞こえていないのか?
それとも、気にするような音ではないのか。
俺には分からなかった。
カラン。
三度目。音が止んだ。
静かな夕暮れだった。
俺はしばらく塔を見上げていた。
そして、ふと思う。
ベネット爺さんの家が消えた。鐘が消えた。道が変わった。知らない場所が現れた。魔物まで、どこからか迷い込んできた。
もし、これが全部つながっているのなら。
次は、何が起きる?
俺は鞄の中に手を入れた。
指先に触れたのは、古びた革の首輪だった。
『帰りを待っている』
あの獣にも、帰る場所があった。
俺には、まだある。
母さんのいる家。
フィアが働く食堂。
親方に怒鳴られる詰所。
村のどこへ行っても、知っている人がいる。
当たり前のように明日が来ると信じていた場所だ。
「……守りたいな」
小さく呟いた。
できることなんて、ほとんどない。
剣も下手だし、魔法だってまともに使えない。
分からないことだらけで、昨日は何度も死にかけた。
それでも。
何もせずに、全部失うのだけは嫌だった。
俺は顔を上げた。
夕日が村を照らしている。
家々の屋根が赤く染まり、遠くから夕飯の匂いが漂ってきた。
何も変わらない、いつもの景色。
……そう思いたかった。
「……明日も、ちゃんとここにあってくれよ」
誰に向けたのかも分からない言葉を残し、俺は家へ向かった。
その背後で、見張り塔の鐘がもう一度だけ鳴った。
今度は、誰にも聞こえないほど小さく。
カラン。
まるで、何かの終わりを告げるように。




