第七話 剣を抜いた日
村の北側へ近づくにつれ、騒ぎが大きくなっていった。
「そっちへ行ったぞ!」
「囲め! 村に入れるな!」
男たちの怒鳴り声に混じって、獣の唸り声が響く。
俺は息を切らしながら畑の間を走った。
右手が痛い。
走るたびに、包帯の下で傷が脈打つ。
ついさっき治療所を出たばかりだというのに、どうしてまたこんなことになっているんだろう。
今日はもう、家に帰って寝るつもりだった。
母さんの作る夕飯を食べて、温かい布団に潜り込んで。明日こそ平穏な一日を過ごそうと決めていたのに。
「……まったく、最近ついてない!」
畑の向こうから悲鳴が上がった。
足を速める。
収穫前の麦畑を抜けたところで、ようやく騒ぎの中心が見えてきた。
最初に目に入ったのは、横倒しになった荷車だった。車輪が片方外れ、積まれていた野菜が辺りに散乱している。
その先に、数人の男たちが集まっていた。
手には槍や農具。村の見張り番も二人ほど混じっている。
彼らが取り囲んでいるものを見た瞬間、俺は足を止めた。
「……何だ、あれ」
獣がいた。
牛ほどもある巨体に、真っ黒な毛並み。
犬に似た顔つきをしているが、首が異様に太く、前脚は人間の腕ほどもある。長い尾が地面を叩くたび、乾いた土が舞い上がった。
魔物なら何度か見たことがある。
森に住む角兎や、畑を荒らす牙猪。
冒険者が討伐した魔物の死骸を、村の広場で見せてもらったこともあった。
目の前にいる獣は、そのどれとも違う。
何より奇妙だったのは、身体の輪郭だ。
夕日を受けた黒い毛並みが、ときおり薄く透けて見える。まるで、そこだけ景色が揺らいでいるようだった。
「怪我人を下げろ! 槍持ちは前に出すぎるな!」
畑の向こうから、男の怒鳴り声が響いた。
見張り番のオルンが叫んだ。
村の見回りを担当している男で、俺も顔見知りだ。
彼は二人の見張り番に指示を出しながら、黒い獣と距離を取っていた。
一人が槍を構えて獣を牽制し、もう一人が倒れている農夫のもとへ向かおうとしている。
「無理に斬りかかるな! 荷車の方へ追い込め!」
オルン自身も槍を構え、獣が村へ向かわないように立ち回っていた。
普段の彼は、村の巡回中に居眠りしているところを見かけるような男だ。
そんな人が、ここまで真剣な顔をしているのは初めて見た。
俺は畑の手前で足を止めた。
「どこから来たんです!?」
「知らん! 畑の真ん中に突然現れやがったんだ!」
オルンは槍を構え直した。
左腕から血が流れている。
顔色も悪い。
「剣が通らねえ。何度斬っても傷一つつかねえんだ」
そう言った直後、獣が動いた。
黒い巨体が、地面すれすれまで沈み込む。
「来るぞ!」
次の瞬間、弾かれたように飛び出した。
見張り番の一人が剣を振り下ろす。
刃は獣の肩を捉えた。
……ように見えた。
「——っ!?」
剣が、そのまま身体をすり抜けた。
何の手応えもないらしい。
勢い余った男が前のめりになる。
獣は首を振り、その脇腹へ頭を叩きつけた。
「ぐあっ!」
男の身体が宙を舞う。
荷車に激突し、鈍い音を立てて倒れた。
「大丈夫か!?」
駆け寄ろうとしたオルンを、俺は咄嗟に呼び止めた。
「待ってください!」
「何だ!?」
「今の剣、当たってません!」
「そんなことは分かってる!」
「違うんです! 硬くて斬れないんじゃない!」
俺は獣を指差した。
「あいつの身体を、剣がすり抜けてる!」
オルンは目を見開いた。
獣はゆっくりと振り返る。
黒い毛並みの向こうに、畑の麦が見えた。
俺はその光景を知っている。
西の石橋。
粉ひき小屋の石壁。
見えているのに触れられないもの。
目の前の獣にも、同じことが起きている。
◇
「ノア! そこを離れろ!」
オルンが叫んだ。
獣がこちらを向いていた。
低い唸り声が、腹の底まで響いてくる。
金色の瞳。
そこに浮かんでいたのは、怒りというよりも、何かに怯えているような色だった。
俺は足を引いた。
逃げた方がいい。
こんな獣を相手に、まともに戦えるはずがない。
右手は使い物にならないし、俺の剣の腕なんて、村の見張り番に遊び半分で教わった程度だ。
剣を持ったところで、何ができる?
「グウ——ゥ!」
唸り声と共に獣が一歩踏み出す。
麦の穂が、巨体に押し倒された。
……ん?
俺は足元を見た。
獣の前脚が地面を踏む。
土が沈み、深い足跡が残った。
その直後、後ろ脚が薄く透ける。
こちらは麦の茎をすり抜けていた。
「……まさか」
全部が同じ状態じゃない。
あの獣は、地面を踏めるときと、踏めないときがある。
石橋で足場が消えたのと、ちょうど逆だ。
獣が頭を下げた。
前脚が地面を掻く。
まずい。突っ込んでくる。
「ノア!」
オルンの声に反応して、俺は横へ飛び伏せた。
黒い塊が、すぐ横を通り過ぎる。
耳元で風が唸った。
地面に転がり、慌てて起き上がる。
獣はそのまま走り抜け、畑の端に積まれていた木箱へ突っ込んだ。
バキバキッ!
木箱が砕け、破片が飛び散る。
「……っ!」
直撃していたら、間違いなく死んでいた。
膝が震える。
立ち上がろうとして、右手を地面についてしまった。
「いっ……!」
傷に鋭い痛みが走った。
思わず顔が歪む。
「何やってんだ……」
怖い。
どうしようもなく怖い。
さっき粉ひき小屋で死にかけたばかりなのに、また命を危険にさらしている。
俺は別に、英雄になりたいわけじゃない。
強い魔法が使えるわけでも、特別な剣術を身につけているわけでもない。
ただの測量師見習いだ。
危険な魔物なんて、見張り番や冒険者に任せればいい。
そんな当たり前のことを考えていた。
「——助けてくれ!」
男の声がした。
顔を上げる。
壊れた荷車のそばで、一人の農夫が倒れていた。
どうやら、最初に襲われた人らしい。
片脚を押さえ、必死に身体を引きずっている。
そこへ、獣がゆっくりと近づいていた。
「誰か! 頼む!」
男は逃げようとしている。
脚が動かない。
オルンたちは少し離れた場所にいて、間に合いそうにない。そのうえ、未知の魔物相手に睨み合うばかりか動きあぐねている。
俺は腰を上げた。
……行くのか?
あんなものに、どうやって勝つつもりだ。
勝てるわけがない。
足が震える。
呼吸が浅くなる。
頭の中で、逃げろという声が繰り返されていた。
そのとき、農夫と目が合った。
知っている顔だった。
何度か測量の仕事で世話になった人だ。
名前はベルム。
去年、畑の境界を測り直したとき、昼飯をご馳走してくれた。
そのとき、奥さんが焼いたパンが妙に硬くて、二人で笑ったことを覚えている。
あの人が、今、俺に助けを求めている。
「……くそっ!」
俺は立ち上がった。
◇
「オルンさん! 剣を貸してください!」
「はあ!?」
「いいから!」
「……間違っても剣で受けようとするなよ!」
オルンは一瞬迷ったものの、腰に下げていた予備の剣を鞘ごと投げてよこした。
俺は左手で受け取る。
普段、武器なんてほとんど持たない。
剣の重みが、やけに頼りなく感じられた。
親方ならきっと、無茶をするなと怒鳴るだろう。
フィアにも呆れられる。
母さんが知ったら、しばらく外出禁止にされるかもしれない。
……十九歳にもなって外出禁止は勘弁してほしい。
そんなくだらないことを考えながら、俺は鞘から剣を引き抜いた。
夕日が刃に反射する。
初めてだった。
練習用の木剣ではなく、本物の剣を。
誰かを守るために抜いたのは。
「おい! こっちだ!」
俺は獣へ向かって叫んだ。
黒い頭が動く。
金色の瞳が、こちらを捉えた。
「ベルムさん! 今のうちに逃げて!」
「お前、何を……!」
「いいから!」
獣が低く唸る。
俺は剣を構えた。
右手は使えない。
左手だけで握る剣は、思っていた以上に重かった。
足を前後に開き、肩の力を抜く。
見張り番に教わった構えを思い出す。
剣先が、情けないほど震えていた。
「……来いよ」
巨体が低く構える。
さっき見た姿勢と同じ。なら飛んでくる形だって同様のはず。
思い出せ、見張り番がぶっ飛ばされたときの光景を。
金色が瞬く。
視線がぶつかる。
その瞬間。
黒が、巨大化する。
俺は反射的に剣を振った。
狙うは前脚。それ以外は死ぬ。
力いっぱい振った刃が、黒い毛並みに触れる。
いや。
触れなかった。
震えた剣先は、理想の剣筋より数度ずれてなお、命中したはずだったのに。
「——っ!」
振り切った腕が流れ、体勢が崩れた。
眼前に、巨大な牙が迫る。
何を食べて育ったらそうなれるのだろうか。
酷く鋭利な牙は、俺の剣よりもずっと、確かな角度から頭を狙う。
避けなくては。
頭では分かっている。
しかし身体が追いつかない。
「ノアッ!」
横から凄まじい衝撃を受けた。
「ぐっ!?」
オルンだった。
彼が俺の肩へ身体ごとぶつかり、無理やり横へ突き飛ばしたのだ。
俺たちは折り重なるように地面を転がった。
直後、耳元で牙の噛み合う音がした。
ガチンッ!
獣の口が、俺のいた場所で閉じる。
「……っ、あ……」
声が出なかった。
今のは。
本当に、死ぬところだった。
「立て! 早く!」
オルンに襟首を掴まれ、引きずり起こされる。
彼の槍は地面に転がっていた。
俺を助けるために、手放したらしい。
獣は数歩先で立ち止まり、こちらを振り返る。
今度は、その前脚が薄く透けていた。
「馬鹿野郎! 剣を振ればどうにかなると思ったか!」
「……すみません!」
「剣を振るなと言っただろうが!」
正確には、受けるなと言われたのだったか。
そんなことを考えかけて、やめた。
言い訳をする状況じゃない。
「……?」
ふと、何かが滴るのを目じりに捉えた。
オルンの右肩から、血が流れていた。
俺を突き飛ばしたとき、獣の爪がかすめたらしい。
「……怪我が」
「かすり傷だ!」
そう言って、オルンは俺を背後へ押しやった。
「いいか、ノア。勇気と無謀は違う」
彼は落ちた槍を拾い上げる。
「助けたい奴がいるなら、まず自分が生き残ることを考えろ」
俺は何も言えなかった。
さっきまで、どこかで考えていた。
自分だけが見えているものを利用すれば、何かできるんじゃないかと。
確かに、あの獣には奇妙なところがある。
普通の人間には見えない何かが、俺には見えている。
そのことと、戦えるかどうかは別の話だった。
剣を振るだけでも精いっぱいの俺が、正面から挑んで勝てる相手じゃない。
「……オルンさん」
「何だ!」
「俺が、間違ってました」
オルンがちらりと振り返る。
「分かったなら下がれ」
「はい」
俺は剣を下ろし、震える脚で距離を取った。
今一度観察し、考える。
どうして、触れたり触れなかったりするのか。
さっきは木箱を壊した。地面にも足跡を残している。
なのに、剣はすり抜ける。
獣が再び歩き始めた。
一歩。
二歩。
足元の土が沈む。
次の一歩では、何も起こらない。
……そうか。
「オルンさん!」
「今度は何だ!」
「足元を見てください!」
「足元!?」
「あいつが地面を踏んだときだけ、剣が当たるかもしれません!」
確証はない。
ただ、今まで見てきたものには、ある程度の共通点がある。
見えているものが触れられるとは限らない。
触れられなかったものが、突然硬くなることもある。
粉ひき小屋では、そのせいで指を挟まれた。
あの獣も、同じように変わっているのだとしたら。
「……試す価値はあるな」
オルンが低く呟いた。
俺は頷く。
「ただ、俺たちの剣が届く場所まで近づかないと……」
「それが問題だろうが」
まったくもって、その通りだった。
相手は牛ほどもある獣だ。
こちらが近づけば、簡単に噛み殺される。
遠くから攻撃しても、すり抜けるかもしれない。
何か方法はないか。
俺は周囲を見回した。
麦畑。壊れた荷車。収穫した野菜を入れる木箱。
そして、少し先にある水路。
……そうだ
北の畑には、灌漑用の小さな水路が通っている。
水路の幅は三歩ほど。
普段は浅い水しか流れていないが、畑の端にある水門の近くは深く掘られている。
落ちたら、簡単には上がれない。
そこには、荷車を通すための板橋が架かっていた。
「……あそこなら」
俺は水路を指差した。
「オルンさん! あの板橋まで誘導できませんか!?」
「何?」
「獣を落とすんです!」
オルンは水路へ目を向けた。
「……あの橋は古いぞ」
「知ってます。俺、去年測ったんです」
板橋の支柱は腐りかけている。
村長へ修理の報告を出したが、予算が足りず、まだ直されていない。
荷車一台が通るのがやっとの橋だ。
あの巨体が勢いよく乗れば、ひとたまりもないだろう。
「……よし」
オルンは頷いた。
「お前はベルムを助けろ。獣は俺たちが引きつける」
「俺も――」
「馬鹿言うな。さっきの剣さばきを見ただろうが」
返す言葉がなかった。
「剣を振るより、今のお前にしかできんことをやれ」
俺は頷いた。
今度は素直に従う。
オルンが見張り番たちに声をかけ、獣を水路の方へ誘導し始めた。
俺はその隙にベルムのもとへ走った。
「大丈夫ですか!?」
「ノア……! お前、何でこんなところに……!」
「話は後です。立てますか?」
「脚が……」
見ると、右脚が不自然な角度に曲がっていた。
骨折しているかもしれない。
「肩を貸します。ゆっくり立ってください」
「す、すまん……」
ベルムの腕を肩に回し、身体を支える。
重い。
右手が使えないせいで、うまく力が入らない。
それでも、何とか立たせることはできた。
「……っ!」
傷が痛んだ。
思わず顔をしかめる。
ベルムが申し訳なさそうに俺を見た。
「お前、手を怪我してるじゃないか……」
「大丈夫です。さっきから痛いんで、今さら変わりません」
嘘だった。
めちゃくちゃ痛い。
もう泣きたいくらい痛い。
帰ったら絶対に寝よう。明日は何があっても休む。
そう心に決めながら、俺はベルムを引きずるようにして畑の外へ運んだ。
◇
「こっちだ! 化け物!」
オルンの声が響いた。
獣が吠える。
振り返ると、黒い巨体が水路の方へ走っていた。
見張り番たちは板橋の向こう側へ回り込み、槍を構えている。
獣は、まっすぐ橋へ向かった。
「……頼むぞ」
俺は息を呑んだ。
板橋まで、あと十歩。
八歩。
五歩。
獣の脚が、地面を蹴る。
その瞬間、黒い身体が薄く透けた。
「……まずい!」
獣は板橋へ飛び乗った。
木の板が、びくともしない。
足音すら聞こえなかった。
すり抜けている。
このままじゃ、橋を壊さずに渡りきってしまう!
「オルンさん! 逃げて!」
俺は叫んだ。
獣は橋の中央まで進んでいた。
見張り番たちが後退する。
そのとき。
黒い前脚が、突然濃くなった。
ぎしっ。
板橋が軋む。
「……今だ!」
思わず声が出た。
獣の後ろ脚が地面を蹴る。
眼前の敵を屠らんと巨体が跳ねる、その衝撃で。
バキバキバキッ!
板橋が崩れ落ちた。
獣の身体が宙に浮く。
前脚が水路の縁に引っかかり、後ろ脚は空を蹴った。
「グオオオ———ッ!!」
耳をつんざく咆哮。
黒い巨体が、水路の底へ落ちた。
泥水が跳ね上がる。
「……やった!」
俺は思わず拳を握った。
……痛い。
だが構ってはいられず水路を覗く。
獣は水路の中でもがいていた。
身体が板橋の残骸に挟まり、うまく動けないらしい。
オルンが槍を構え直した。
「今なら……!」
「待ってください!」
俺は咄嗟に叫んだ。
獣の後ろ脚が、また薄く透け始めている。
「まだです! また、すり抜けます!」
オルンは足を止めた。
獣が身をよじる。
壊れた板を身体に絡ませたまま、必死に這い上がろうとしている。
金色の瞳が、こちらを見た。
その目を見て、俺は一瞬だけ動けなくなった。
獣は、怯えていた。
怒っているようには見えない。
むしろ、何が起きているのか分からず、恐怖に駆られて暴れているようだった。
「……お前も、なのか?」
俺は小さく呟いた。
何もない場所から突然現れた獣。
見えるのに触れられない身体。
西の石橋や、粉ひき小屋で起きた異変。
もしかすると、こいつも。
自分の知っている場所から、突然見知らぬ土地へ放り出されたのかもしれない。
「ノア! 下がれ!」
オルンの声で我に返った。
獣の前脚が、再び水路の縁を掴んでいる。
泥が崩れ落ちた。
今度は、しっかり地面に触れている。
「……今です!」
オルンが踏み込んだ。
槍の穂先が、獣の首元へ突き出される。
鈍い音。
刃が、黒い毛並みの下へ沈んだ。
「グアアアア———ッ!」
獣が暴れる。
俺は左手で剣を握り直した。
少し離れた場所から、首元へ向けて踏み込む。
今度は力任せに斬りつけるのではなく、オルンが開いた傷口へ刃を押し込むように。
「……っ!」
手応えがあった。
初めて感じる、生き物の肉を斬る感触。
獣の身体が大きく震えた。
俺は慌てて剣を引き抜き、後ずさった。
黒い巨体が、水路の中へ崩れ落ちる。
しばらく、誰も動かなかった。
荒い呼吸。
泥水の流れる音。
獣は何度か脚を動かしたものの、やがて静かになった。
「……終わった、のか?」
俺は剣を下ろした。
左手が震えていた。
今さらになって、膝の力が抜ける。
オルンがゆっくりと槍を引き抜いた。
「……ああ」
短い返事だった。
「終わった」
俺は水路の縁に腰を下ろした。
何も考えられなかった。
……とりあえず、助かった。
村の人たちも、たぶん無事だ。
ベルムは怪我をしていたけれど、命に別状はなさそうだった。
なのに、胸の奥が妙に重い。
俺は剣を見つめた。
刃には、黒ずんだ血がついていた。
生まれて初めて、本物の剣で生き物を斬った。
その事実が、じわじわと身体に染み込んでくる。
「……ノア」
オルンが隣に立った。
「よくやった」
「……俺、一人じゃ何もできませんでした」
「当たり前だろ」
彼はあっさり言った。
「相手はあんな化け物だぞ。俺たちだって、一人じゃどうにもならん」
「……そう、ですね」
「お前が足元を見ろって言わなきゃ、まだ剣を振り回してたかもしれん」
オルンは小さく笑った。
「それに、水路へ落とす方法を考えたのもお前だ」
「……はい」
「十分だろ」
俺は剣を握ったまま、俯いた。
褒められても、あまり嬉しくなかった。
水路の底では、黒い獣が動かなくなっている。
あいつも、ただ生きようとしていただけなのかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
◇
親方が到着したのは、それから少し経ってからだった。
フィアと一緒に、村の治療師も連れてきている。
「……ノア」
親方は俺を見るなり、足を止めた。
その視線が、左手の剣へ向かう。
次に、血のついた服。
包帯の巻かれた右手。
そして、水路に倒れている獣へ。
「……説明しろ」
「えっと……」
「簡潔に」
「……魔物が出たので、戦いました」
親方は大きく息を吸った。
……まずい。
これは怒られる。
絶対に怒られる。
「お前は!」
「すみません!」
「まだ何も言っとらん!」
「先に謝っておこうと思って!」
「そういう問題じゃない!」
怒鳴り声が畑に響いた。
フィアが隣で苦笑している。
……助けてくれ。
俺、昨日と今日だけで何回怒られてるんだ?
説教が一段落したころには、すっかり日が暮れていた。
治療師は怪我人を診て回り、ベルムを村へ運ぶ手配をしている。
幸い、命を落とした人はいなかったらしい。
オルンも腕に包帯を巻かれ、見張り番たちと獣の死骸を調べていた。
俺は水路の縁に立ち、もう一度黒い獣を見下ろした。
奇妙な生き物だった。
今は身体が透けることもなく、普通の獣のように見える。
そのとき、ふと首元に目が留まった。
「……あれ?」
獣の首に、何かが巻かれている。
黒い毛に隠れていて、今まで気づかなかった。
細い革の首輪だった。
「……首輪?」
俺は眉をひそめた。
こんな巨大な獣に?
誰が?
何のために?
「オルンさん!」
「どうした?」
「こいつ、首輪をしてます!」
オルンが近づき、水路を覗き込んだ。
「……本当だな」
彼は槍の先で首輪を引っかけ、慎重に引き寄せた。
革は古び、ところどころひび割れている。
金具には青緑色の錆が浮かんでいた。
誰かが、長い間使っていたものらしい。
「飼われていたのか……?」
オルンが呟く。
俺も同じことを考えていた。
人を襲い、剣をすり抜け、突然何もない場所から現れた獣。
そんなものが、誰かに飼われていた?
首輪の内側には、小さな金属板がついていた。
俺はそれを指でなぞった。
表面に、何かが刻まれている。
文字だ。
泥を拭い、夕闇の中で目を凝らす。
「……ニル?」
そこには、短い名前が刻まれていた。
その下には、もう一行。
ほとんど擦り切れていたが、何とか読むことができた。
『帰りを待っている』
たった、それだけだった。
言葉を失った。
誰かが、この獣の帰りを待っていた。
名前をつけて、首輪を作って。
きっと、いつものように帰ってくると信じていた。
「……お前にも、帰る場所があったのか」
黒い獣は答えない。
俺は首輪を握りしめた。
革は硬く、ひどく冷たかった。
ふと、ベネット爺さんのことを思い出す。
消えてしまった家。誰も覚えていない老人。粉ひき小屋の向こうに見えた、赤い屋根。
もし、この獣も同じように、どこか別の場所から来たのだとしたら。
そこには今も、帰りを待っている人がいるのだろうか。
俺は顔を上げた。
畑の向こうには、村の家々が並んでいる。
窓から漏れる灯り。炊事の煙。夕飯の支度をする人々の声。
いつもの故郷だ。
……今は、まだ。
「ノア?」
フィアが近づいてきた。
「どうしたの?」
「……いや」
俺は首輪を見つめた。
「ちょっと、考え事」
「また?」
「またって何だ」
「最近ずっと考え事してるでしょ」
フィアは小さく笑った。
「ほら、帰ろう。おばさん、心配してるよ」
「……ああ」
俺は頷いた。
オルンに剣を返し、立ち上がる。
もう、左手にも力が入らなかった。
今日は本当に、疲れた。
……それにしても。
気になることが一つある。
あの獣は、どうして突然現れたのだろう。
西の石橋や粉ひき小屋で起きた異変と、何か関係があるのか。
答えは分からない。
ただ、俺は一つだけ確信していた。
この村では、まだ何かが起きようとしている。
ベネット爺さんの家が消えた日から、少しずつ。
俺の知っている日常が、別の何かに置き換わっている。
そんな気がしてならなかった。
「……フィア」
「何?」
「明日、親方と一緒に村の地図を調べようと思う」
「地図?」
「ああ。今まで測った場所を、もう一回全部確かめたい」
フィアは少し驚いた顔をした。
「ノア、明日は休みじゃなかったの?」
「……そうだった」
すっかり忘れていた。
明日は休めと言われたばかりだ。
俺は空を見上げる。
「……休み、欲しかったなあ」
「自分で仕事増やしてるんじゃない」
「それはそうなんだけどさ」
フィアが笑う。
俺もつられて笑った。
帰ったら母さんに怒られるだろう。
明日は親方にも怒られるかもしれない。
きっと、いつものように。
……そうであってほしかった。
◇
その夜。
村の北外れにある古い見張り小屋で、一人の男が地図を広げていた。
男は旅人のような格好をしている。
灰色の外套を羽織り、腰には短剣。
机には小さな魔法灯が置かれていた。
男は地図の上に指を滑らせる。
村の北側。麦畑のある辺り。
そこには、赤い印が一つ記されていた。
「……予定より早いな」
男は低く呟いた。
地図の隅には、細かな文字が並んでいる。
橋の長さ。鐘楼の位置。粉ひき小屋の構造。
そして、村の人口。
男は小さな手帳を取り出した。
そこに、今日の日付を書き込む。
『北部で異常発生。外部生物の流入を確認』
続けて、もう一行。
『住民による排除を確認。現地に留まった個体の処分は不要』
男は筆を止めた。
窓の外へ目を向ける。
遠くに、村の灯りが見えている。
その光景を、しばらく眺めていた。
「……あと、四日か」
男は手帳を閉じた。
机の上には、もう一枚の紙が置かれている。
そこには、村の名前とともに、短い文章が記されていた。
『対象地域の切り離し予定日まで、残り四日』
男はその紙を丁寧に折り畳み、懐へしまった。
そして、魔法灯の明かりを消す。
見張り小屋は、静かな闇に包まれた。




