↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
消えた村を覚えているのは俺だけだった  作者: チンアナゴ
第一章 失われし故郷

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
6/10

第六話 日常、崩れて

 鐘の音が、三度響いた。

 カラン、カラン、カラン。

 聞き間違いじゃない。

 昨日、村の鐘楼から消えてしまったはずの鐘。その音が、粉ひき小屋の中にまで届いている。


「……今のは?」


 親方が振り返った。


「鐘の音、ですよね……?」


 小屋の主人も、不安そうに天井を見上げている。

 聞こえている。

 俺以外の二人にも、確かに聞こえているんだ。


「村の塔からだと思います」


「塔? あそこは見張り塔だろう。鐘なんぞあったか?」


「……ないんですよ。今は」


「今は?」


 親方の眉間に皺が寄った。

 説明したいことは山ほどある。昨日の夜に鐘が消えたことも、塔の上には鐘を吊るしていたと思われる傷が残っていることも。

 もっとも、今はそんな話をしている場合じゃなかった。


「……お兄ちゃん?」


 石壁の向こうから、か細い声が聞こえた。

 シアだ。


「シア! 聞こえるか!?」


「うん……」


 返事はある。

 声もさっきと変わらない。

 俺は目の前の壁に手を当てた。

 冷たく、硬い石の感触。

 いくら押してもびくともしない。


「ノア、何をしてる?」


 親方が怪訝そうに尋ねた。


「この壁の向こうに、シアがいるんです!」


「さっきも言っていたな。だが、俺には壁なんぞ見えん」


 親方は俺のすぐ横へ歩いてきた。

 そのまま一歩踏み出す。


「……っ!」


 目の前で、親方の身体が石壁にめり込んだ。

 肩が、胸が、何事もないように石を通り抜けていく。

 思わず目を逸らしたくなる光景だった。


「親方! 止まって!」


「うおっ、何だ!」


「そこ! 今、壁の中に立ってる!」


「……お前、俺をからかってるのか?」


 親方は足を止めた。

 その身体の半分が、石壁の向こう側にある。

 もちろん、本人には何も感じられないらしい。


「親方からは、そこに何が見えますか?」


「何って……床と、穀物袋だが」


「女の子は?」


「誰もおらん」


「……そう、ですか」


 俺の目には、うっすらだが石壁の奥にいるシアが見えている。

 少女は壁の向こうで膝を抱え、泣きそうな顔をしていた。

 親方との距離は、せいぜい二歩ほど。

 それなのに、互いの姿が見えていない。

 いったい、どうなってるんだ?


「シア! そっちから何が見える!?」


「……石のお部屋」


「石?」


「うん。知らないお部屋。窓もないの……」


 俺は小屋の中を見回した。

 木の壁に、小さな窓。大きな石臼と、粉を詰めた麻袋。

 どこにでもある、普通の粉ひき小屋だ。

 石造りの部屋なんて、見当たらない。

 俺に見えている壁を除けば。


「お父さんは!? お父さん、どこ!?」


 シアの声が震えた。

 小屋の主人が、はっと顔を上げる。


「シア!? いるのか!?」


 彼は俺の隣へ駆け寄り、何もない空間に向かって叫んだ。


「シア! 父さんだ! 聞こえるか!?」


 少女は顔を上げた。


「……お父さん?」


「ここだ! 父さんはここにいるぞ!」


 主人は両手を伸ばす。

 その手は石壁をすり抜けた。

 シアには、何も見えていないらしい。


「お父さん……どこ……?」


 少女の瞳から涙がこぼれた。

 俺は唇を噛んだ。

 すぐ近くにいる。

 手を伸ばせば届きそうな距離に、父親がいる。

 たった一枚の壁が、二人を隔てていた。

 しかも、その壁を認識できるのは俺だけだ。


「……親方」


「何だ」


「縄、ありますか?」


「縄?」


「シアを引っ張り出したいんです」


 親方は一瞬、俺の顔を見つめた。


「……方法があるのか?」


「まだ分かりません」


「おい」


「でも、試したいことがあるんです」


 俺は壁を見上げた。

 さっき、木片を投げたときにはすり抜けた。

 その直後、壁は急に硬くなった。

 西の石橋でも似たことが起きている。

 見えていた木橋の板は触れられなかったのに、石橋の床は突然消えてしまった。

 つまり、目の前のものが、ずっと同じ状態とは限らない。

 今は通れなくても、次はどうだ?


「……試してみます」


     ◇


「よし。準備できたぞ」


 親方が太い縄を持ってきた。

 普段、石臼の修理に使っているものらしい。俺の腰ほどもある太い柱に巻きつけ、結び目を何度も確かめている。

 俺はその間に、細長い木の棒を一本借りた。


「そんなもので何をするつもりだ?」


「壁を確かめます」


「……お前にしか見えない壁をか」


「はい」


 親方は何か言いたそうな顔をしたが、結局、口を閉じた。

 俺は棒を壁へ突き出した。

 こつん。

 硬い音が響く。

 石に当たった感触が手に伝わってきた。

 少し位置を変えてみる。

 こつん、こつん。

 どこを叩いても同じだ。


「……駄目か」


「ノア、お前はさっきから何をしてるんだ?」


「見えない壁を叩いてます」


「それは聞いた」


「……俺も説明できるならしたいですよ」


 我ながら無茶苦茶な話だ。

 何もない場所を木の棒で叩いている若者。

 傍から見れば、相当おかしな光景だろう。

 親方が「頭でも打ったか」と治療所に引っ張っていかないだけ、まだましかもしれない。

 棒をもう一度、壁に押し当てる。

 そのときだった。

 ずるり。


「……え?」


 棒の先端が、石壁の中へ沈んだ。

 驚いて手を引く。

 木の棒は簡単に抜けた。

 さっきまで硬かった壁が、今は薄く透けて見える。


「……今だ!」


 俺は一歩踏み出しかけた。

 バキッ!


「うわっ!?」


 棒の先端が、目の前で砕けた。

 壁が再び硬くなり、差し込んでいた部分を挟み潰したのだ。

 俺は慌てて後ずさった。

 床に折れた木片が転がる。


「……危なかった」


 あのまま進んでいたら。

 想像して、背筋が冷たくなった。


「どうした!?」


 一部始終を見ていた親方が駆け寄ってくる。


「壁が……一瞬だけ、通れるようになったんです」


「……それで、その棒は?」


「挟まれました」


 親方は折れた木片を拾った。

 断面を指でなぞり、しばらく黙り込む。


「……お前が折ったわけじゃないんだな?」


「はい」


 親方は低く唸った。


「なるほどな」


 初めて、少しだけ納得したような顔だった。


「信じてもらえますか?」


「信じるも何も、目の前で棒が折れた。何が起きたかは分からんが、お前の言っていることを無視するわけにもいかんだろう」


 その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。

 親方は折れた棒を床に置いた。


「ただし、同じことをお前の身体で試すのは許さん」


「……でも」


「でもじゃない。腕でも挟まれてみろ。今度は棒みたいに取り替えが利かんぞ」


 正論だった。

 俺だって、石壁に身体を挟まれたくはない。

 さて、どうしたものか。

 壁の向こうを覗く。

 シアはまだ、同じ場所にいた。

 さっきよりも輪郭が薄くなっている気がする。

 ……いや、気のせいじゃない。

 少女の背後にあった石壁が、少しずつ遠ざかっている。

 小さかった部屋が、ゆっくり広がっているのだ。


「……シア!」


「な、なに……?」


「そこから動くな! 絶対に!」


「うん……!」


 俺は親方へ振り返った。


「時間がないかもしれません」


「……何?」


「シアのいる部屋が、少しずつ遠くなってるんです」


 親方は顔をしかめた。

 小屋の主人が、俺の腕を掴む。


「頼む……! 娘を、助けてくれ……!」


 手が震えていた。

 頬は青ざめ、目には涙が浮かんでいる。


「女房が死んでから、あの子だけが……」


 言葉が続かなかった。

 俺はその手を見つめた。

 この人は、まだ娘を覚えている。

 名前も、声も、一緒に暮らした日々も。

 ベネット爺さんが消えたときは、誰も彼のことを覚えていなかった。

 もしシアまで消えてしまったら?

 父親は、娘のことを忘れてしまうのだろうか。

 そんなこと、考えたくもなかった。


「……親方」


 俺は縄を手に取った。


「これを腰に結んでもらえますか」


「ノア」


「壁が薄くなった瞬間に、向こうへ行きます」


「さっきのを見ただろう。途中で戻ったらどうする」


「……分かってます」


 親方は黙った。

 俺は続ける。


「だから、何かあったら引っ張ってください」


「縄ごと挟まれたら終わりだぞ」


「それも、分かってます」


「だったら――」


「何もしなかったら、あの子が消えるかもしれないんです——!」


 自分でも驚くほど、大きな声が出た。

 親方の言葉が止まる。

 俺は一度、息を整えた。


「すみません。怒鳴るつもりじゃ……」


「……いや」


 親方は短く答えた。

 少しの沈黙があった。

 やがて彼は縄を受け取り、俺の腰に巻きつけた。


「一度だけだ」


「……親方」


「失敗したら、すぐ戻れ。無理だと思ったら俺が引く」


「はい」


「返事だけはいいんだからな、お前は」


 親方は結び目を強く締めた。

 ……痛い。

 これ、少しきつすぎないか?

 そう言おうとしたが、やめた。

 親方なりに、必死なのだろう。


     ◇


 壁が薄くなる瞬間を待った。

 手にした棒を、慎重に押し当てる。

 最初は何も起こらなかった。

 一度、二度と壁の向こうのシアに声をかけ、返事を確かめる。

 少女はまだそこにいる。

 泣き声は小さくなっていた。

 疲れてしまったのかもしれない。


「……シア」


「……なあに?」


「好きな食べ物、何だ?」


「……え?」


「何でもいい。教えてくれ」


 少女は不思議そうに首を傾げた。


「……蜂蜜のパン」


「そっか。美味しいよな」


「うん……」


「俺も好きだ。あれ、ちょっと高いけど」


 小さく笑う声が聞こえた。

 よかった。

 まだ、話せる。


「帰ったら、お父さんに買ってもらおう」


「……ほんと?」


「ああ。特別大きいやつをな」


 小屋の主人が、何度も頷いていた。


「買ってやる……! いくらでも買ってやるから……!」


 俺は少しだけ笑った。

 蜂蜜パンって、意外と高いんだけどな。

 そんなことを考えていると。

 すっと木の棒が、石壁の中へ滑り込んだ。

 息を呑んだ。

 今だ。

 床を蹴る。

 一歩。

 石壁の輪郭が、目の前で揺らいだ。

 続けてもう一歩。


「……っ!」


 冷たいものが全身を通り抜けた時とき、目の前の景色が変わった。

 粉ひき小屋の中じゃない。

 知らない部屋だった。

 壁も床も石造りで、天井は低い。

 小さな灯りが、廊下の奥でちらちらと揺れている。

 足元には割れた石片が散らばり、湿った土の匂いがした。


「……何だよ、ここ」


 背後から、親方の声が聞こえる。


「ノア! 聞こえるか!」


 振り返る。

 親方たちの姿が、薄い霧の向こうに見えた。

 粉ひき小屋の明るい室内。

 その景色が、石造りの部屋と重なっている。

 まるで、二つの違う場所を、同時に見ているみたいだった。


「聞こえてます!」


「戻れるか!?」


「まだ……!」


 俺は前を向いた。

 シアがいる。

 膝を抱えていた少女が、驚いた顔で俺を見上げていた。


「……ノア、お兄ちゃん?」


「ああ。迎えに来たぞ」


 少女の瞳から、大粒の涙がこぼれた。


「……っ!」


 俺は駆け寄り、その小さな手を掴んだ。

 温かい。

 確かに、生きている人間の手だった。


「帰ろう。お父さんが待ってる」


「……うん!」


 少女を立たせ、振り返る。

 粉ひき小屋の景色は、まだ見えていた。

 親方が縄を握りしめている。

 小屋の主人は、こちらに向かって何かを叫んでいた。

 声は聞こえない。

 俺はシアの手を強く握った。


「走れるか?」


「うん!」


「じゃあ、絶対に離すなよ!」


 俺たちは駆け出した。

 その瞬間。

 ゴゴゴゴッ!

 地面が揺れ、足元の石が砕ける。

 廊下の壁に、大きな亀裂が走った。

 背後で何かが崩れる音がする。

 振り返る余裕はなかった。

 出口まで、あと三歩。

 二歩。

 一歩。

 目の前に、石壁が現れた。


「……っ!」


 さっきまで透けていた場所が、急に硬くなっている。

 まずい。

 このままじゃ――。


「親方! 引いて!!」


 叫んだ瞬間、腰の縄が強く張った。


「ぐっ!?」


 身体が後ろへ引かれる。

 いや、違う。

 粉ひき小屋の方へ引っ張られているんだ。

 俺はシアを抱き寄せた。

 目の前の石壁に、細い隙間ができている。

 そこから、親方の腕が見えた。


「ノア! 手を伸ばせ!」


「……っ!」


 俺は右手を伸ばした。

 親方の指先に触れる。

 次の瞬間、腕を強く掴まれた。


「離すなよ!」


「はい!」


 身体が引っ張られる。

 シアを抱えたまま、俺は石壁の隙間へ飛び込んだ。

 冷たい石が、肩を擦る。

 足が床を離れた。

 そして。

 ガキンッ!

 背後で、何かが噛み合うような音がした。


「いっ……!」


 右手に鋭い痛みが走る。

 指先が壁に挟まれたのだ。

 思わず悲鳴が漏れた。


「ノア!」


 親方が、さらに強く腕を引いた。

 骨が軋むような痛み。

 視界が白くなる。

 次の瞬間。

 どさっ!

 俺たちは、粉ひき小屋の床に転がっていた。


「……っ、はあ……はあ……!」


 息ができない。

 肺が焼けるように痛む。

 右手はじんじんと痺れ、まともに動かせなかった。


「ノア! おい、大丈夫か!?」


 親方の声が聞こえる。

 俺は何とか頷いた。


「……生きて、ます」


「馬鹿野郎……!」


 叱る声が、少し震えていた。

 その横で。


「シア!」


 小屋の主人が、娘を抱きしめていた。


「お父さん……!」


「ああ……ああ……! よかった……!」


 大きな身体を震わせながら、何度も娘の名前を呼んでいる。

 シアも父親の胸に顔を埋め、声を上げて泣いていた。

 俺はその光景を、床に座ったまま見つめていた。

 ……よかった。

 本当に。

 助けられた。

 その実感が湧いた途端、身体から力が抜けた。


「……親方」


「何だ」


「俺、ちゃんと戻ってきましたよね?」


「当たり前だろう」


「……そうですよね」


 俺は天井を見上げた。

 見慣れた木の梁。

 小さな窓。

 粉の匂いがする、普通の小屋。

 さっきまで見えていた石壁は、もうどこにもなかった。


     ◇


 騒ぎを聞きつけた村人たちが集まってきたのは、それから間もなくだった。

 俺の右手は腫れていたが、幸い骨は折れていないらしい。

 親方に無理やり治療所へ連れていかれ、薬草を塗った布を巻いてもらった。

 おかげで、右手がやたらと薬臭い。


「……痛い」


「自業自得だ」


「親方、もう少し優しくしてくれても……」


「優しくしてほしかったら、次は俺の言うことを聞け」


「……はい」


 治療所を出ると、粉ひき小屋の前ではまだ人だかりができていた。

 シアは無事だった。

 親方も、小屋の主人も、俺が少女を連れ戻したことを覚えている。

 ただ、石壁のことを説明できる人間は、やっぱり俺だけだった。

 親方には最後まで壁が見えなかったという。

 小屋の主人も、娘の姿が突然消え、しばらくして俺と一緒に現れたようにしか見えなかったらしい。

 ……それでも、十分だ。

 少なくとも今回は、俺が見たものを全部勘違いだと言われずに済む。


「ノアお兄ちゃん!」


 声がして振り返る。

 シアが父親と一緒に立っていた。

 もう泣いてはいない。

 少し赤くなった目で、俺を見上げている。


「……ありがとう!」


「ああ。無事でよかった」


 俺が笑うと、少女も笑った。


「お兄ちゃん、手、大丈夫?」


「ちょっと痛いけど、平気だよ」


「……ごめんなさい」


「シアが謝ることじゃないさ」


 俺は左手で、少女の頭を軽く撫でた。

 小屋の主人が深々と頭を下げる。


「本当に、何と礼を言えばいいか……」


「いえ。俺一人じゃ助けられませんでしたし」


 実際、親方がいなければ俺まで消えていたかもしれない。

 そう思うと、今になって背筋が寒くなる。


「あ、そうだ」


 俺は思い出した。


「シア、蜂蜜のパン、買ってもらえよ」


 少女がぱっと顔を輝かせる。


「うん!」


 小屋の主人は苦笑した。


「もちろんだ。好きなだけ買ってやる」


「五個!」


「……五個か」


 少しだけ顔が引きつった。

 どうやら、無事を喜ぶ気持ちと財布の心配は別らしい。

 俺は思わず笑った。

 ……こういう時間が、好きだった。

 何でもないことで笑って、くだらない話をして。

 明日も同じように過ごせると、疑いもしない。

 つい昨日まで、俺もそうだった。


「……あのね、お兄ちゃん」


 シアが服の裾を引っ張った。


「ん?」


「さっきのお部屋でね、変なものを見たの」


 俺はしゃがんで目線を合わせた。


「何を見たんだ?」


「……お家」


「家?」


「うん。赤い屋根のお家」


 心臓が、どくりと鳴った。


「……赤い屋根?」


「それでね、お庭に大きな木があって……」


 俺は息を呑んだ。

 赤い屋根。

 庭に大きな木。

 そんな家を、俺は知っている。


「……シア」


 声が少し震えた。


「その家、どこにあった?」


「分かんない。お部屋の奥に、窓みたいなのがあって……そこから見えたの」


「……中に、誰かいたか?」


 少女は少し考えた。


「うん」


「誰が?」


「おじいちゃん」


 俺は動けなかった。


「白い髪のおじいちゃんが、お庭にいたの」


「……その人、何してた?」


「ずっと、こっちを見てた」


 喉が乾く。

 ベネット爺さん。

 あの人なのか?


「……それで?」


「私が手を振ったらね、おじいちゃん、何か言ってた」


「何て?」


「分かんない。声、聞こえなかったから」


 少女は申し訳なさそうに俯いた。


「……そっか」


 俺は小さく頷いた。

 ベネット爺さんが消えてから、二日。

 村の誰も、あの人を覚えていない。

 家も、持ち物も、地図に書かれた名前さえ消えてしまった。

 それなのに。

 シアは、赤い屋根の家を見たという。

 もし、本当にあの家だったとしたら。


「……まだ、いるのか?」


 思わず呟いた。

 消えたんじゃない。

 どこかにいる。

 俺たちには見えない、別の場所に。

 そんなことが、あり得るのだろうか。

 俺は自分の右手を見つめた。

 布の下には、赤く腫れた指がある。

 さっきまで存在しなかった石壁に挟まれた傷。

 確かに、あの場所に何かがあった証拠だ。

 なら、シアが見たものも。


「……ノア?」


 親方の声で、我に返った。


「どうした。考え込んで」


「……いえ」


 俺は立ち上がった。


「ちょっと、気になることがあって」


 親方は何か言いかけたが、結局、ため息をついただけだった。


「……今日のところは帰れ。お前は十分働いた」


「はい」


「明日は休みにしてやる」


「……えっ」


 俺は思わず顔を上げた。

 あの親方が?

 仕事を休めと?


「親方、熱でもあるんですか?」


「……お前な」


「いや、だって珍しいから」


「休みは取り消しだ」


「すみませんでした!」


 慌てて頭を下げる。

 親方は呆れたように鼻を鳴らした。

 いつもの親方だ。

 そう思って、少しだけ笑った。


     ◇


 村へ戻る道を歩きながら、俺は何度も後ろを振り返っていた。

 粉ひき小屋は、いつもどおりの姿に戻っている。

 窓も、壁も、水車も。

 何も変わっていない。

 ……本当に、何も変わっていないのだろうか。

 西の石橋では、道の向きが変わった。

 ベネット爺さんの家は、跡形もなく消えていた。

 見張り塔から鐘がなくなり、誰もそのことを覚えていない。

 今日は、粉ひき小屋の中に知らない部屋が現れた。

 一つ一つは、まったく違う出来事だ。

 それなのに、どこか似ている。

 俺の知っているものと、知らないものが、同じ場所に重なっている。

 そんな気がした。


「……何が起きてるんだよ」


 答える人はいない。

 道端の草が、夕風に揺れていた。

 村の方からは、子供たちの笑い声が聞こえてくる。炊事の煙が上がり、家々の窓には灯りがともり始めていた。

 いつもの夕暮れだった。

 俺は、その景色を見つめた。

 ここには母さんがいる。フィアがいる。親方も、今日助けたシアもいる。

 ほかにも、顔を知っている人が大勢いる。

 俺が生まれてから十九年間、ずっと暮らしてきた村だ。

 こんな場所が、ある日突然なくなるなんて。

 ……考えたくもない。

 俺は歩く速度を上げた。

 家に帰ろう。

 今日はもう、何も考えずに寝たい。

 母さんの作る夕飯を食べて、明日の仕事のことを考えて。

 いつもどおりに過ごしたい。

 そんなことを思いながら村の入り口へ差しかかったときだった。


「……ノア!」


 聞き慣れた声がした。

 フィアだ。

 彼女がこちらへ走ってくる。

 息を切らし、ひどく青ざめた顔をしていた。


「……フィア?」


「よかった……! ここにいた……!」


「どうしたんだよ、そんなに慌てて」


 フィアは俺の腕を掴んだ。


「……大変なの」


「大変?」


「村の北の畑で、変な獣が出たって……!」


「……獣?」


 この辺りにも魔物はいる。

 森の奥まで入れば危険な獣に遭遇することもあるし、畑を荒らす猪だって珍しくない。

 そこまで慌てることだろうか。


「見たことない獣なんだって。大きくて、真っ黒で……」


 フィアは震える声で続けた。


「畑仕事をしてた人が、襲われたの」


「……何だって?」


「村の人たちが、今、追い払おうとしてる。でも……」


 彼女は言葉を詰まらせた。


「剣で斬っても、傷がつかないって……」


 俺は目を見開いた。

 剣で斬っても、傷がつかない?

 魔法で身体を守る獣なら、聞いたことがある。

 ただ、そんなものが村の畑に現れるなんて。


「……どこから来たんだ?」


「分からない。でも、見張り番の人が言ってた」


 フィアは俺の手を強く握った。


「その獣、突然、何もない場所から出てきたんだって」


 胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。

 何もない場所。

 そこから、突然現れた。

 思い出すのは、西の石橋に重なっていた木橋。

 粉ひき小屋の中に現れた石壁。

 俺にしか見えない、知らない景色。


「……まさか」


 村の北側から、叫び声が聞こえた。

 続いて、金属のぶつかる音。

 誰かが戦っている。

 俺はフィアを見た。

 フィアも俺を見ていた。

 どうやら右手の腫れに気が付いた様子だったが、構っている暇はなかった。


「……行こう」


「えっ?」


「人が襲われてるんだろ?」


「そうだけど、ノア、手……!」


「分かってる」


 右手はまだ痛む。

 まともに握り込むこともできない。

 俺は剣の扱いだって得意じゃない。

 魔法の才能も、人並み以下だ。

 そんな俺が行ったところで、何ができるのか。

 正直、分からない。

 ただ。

 今日、シアを助けることはできた。

 一人じゃ無理だった。

 親方がいてくれたから、何とか助けられた。

 だったら今回も、何かできることがあるかもしれない。


「……フィア」


「何?」


「親方を呼んできてくれ。あと、怪我人が出てるなら治療所にも知らせて」


 フィアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。


「……分かった!」


 彼女が村の中心へ走っていく。

 俺は反対側へ向かった。

 北の畑。

 さっきまで俺たちがいた粉ひき小屋にも近い場所だ。

 また、あの辺りで何かが起きている。

 走りながら、ふと気づいた。

 ……鐘が聞こえない。

 あれほど何度も響いていた鐘の音が、今はすっかり止んでいる。

 代わりに聞こえてきたのは。

 低く、重い。

 聞いたこともない獣の唸り声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。