第六話 日常、崩れて
鐘の音が、三度響いた。
カラン、カラン、カラン。
聞き間違いじゃない。
昨日、村の鐘楼から消えてしまったはずの鐘。その音が、粉ひき小屋の中にまで届いている。
「……今のは?」
親方が振り返った。
「鐘の音、ですよね……?」
小屋の主人も、不安そうに天井を見上げている。
聞こえている。
俺以外の二人にも、確かに聞こえているんだ。
「村の塔からだと思います」
「塔? あそこは見張り塔だろう。鐘なんぞあったか?」
「……ないんですよ。今は」
「今は?」
親方の眉間に皺が寄った。
説明したいことは山ほどある。昨日の夜に鐘が消えたことも、塔の上には鐘を吊るしていたと思われる傷が残っていることも。
もっとも、今はそんな話をしている場合じゃなかった。
「……お兄ちゃん?」
石壁の向こうから、か細い声が聞こえた。
シアだ。
「シア! 聞こえるか!?」
「うん……」
返事はある。
声もさっきと変わらない。
俺は目の前の壁に手を当てた。
冷たく、硬い石の感触。
いくら押してもびくともしない。
「ノア、何をしてる?」
親方が怪訝そうに尋ねた。
「この壁の向こうに、シアがいるんです!」
「さっきも言っていたな。だが、俺には壁なんぞ見えん」
親方は俺のすぐ横へ歩いてきた。
そのまま一歩踏み出す。
「……っ!」
目の前で、親方の身体が石壁にめり込んだ。
肩が、胸が、何事もないように石を通り抜けていく。
思わず目を逸らしたくなる光景だった。
「親方! 止まって!」
「うおっ、何だ!」
「そこ! 今、壁の中に立ってる!」
「……お前、俺をからかってるのか?」
親方は足を止めた。
その身体の半分が、石壁の向こう側にある。
もちろん、本人には何も感じられないらしい。
「親方からは、そこに何が見えますか?」
「何って……床と、穀物袋だが」
「女の子は?」
「誰もおらん」
「……そう、ですか」
俺の目には、うっすらだが石壁の奥にいるシアが見えている。
少女は壁の向こうで膝を抱え、泣きそうな顔をしていた。
親方との距離は、せいぜい二歩ほど。
それなのに、互いの姿が見えていない。
いったい、どうなってるんだ?
「シア! そっちから何が見える!?」
「……石のお部屋」
「石?」
「うん。知らないお部屋。窓もないの……」
俺は小屋の中を見回した。
木の壁に、小さな窓。大きな石臼と、粉を詰めた麻袋。
どこにでもある、普通の粉ひき小屋だ。
石造りの部屋なんて、見当たらない。
俺に見えている壁を除けば。
「お父さんは!? お父さん、どこ!?」
シアの声が震えた。
小屋の主人が、はっと顔を上げる。
「シア!? いるのか!?」
彼は俺の隣へ駆け寄り、何もない空間に向かって叫んだ。
「シア! 父さんだ! 聞こえるか!?」
少女は顔を上げた。
「……お父さん?」
「ここだ! 父さんはここにいるぞ!」
主人は両手を伸ばす。
その手は石壁をすり抜けた。
シアには、何も見えていないらしい。
「お父さん……どこ……?」
少女の瞳から涙がこぼれた。
俺は唇を噛んだ。
すぐ近くにいる。
手を伸ばせば届きそうな距離に、父親がいる。
たった一枚の壁が、二人を隔てていた。
しかも、その壁を認識できるのは俺だけだ。
「……親方」
「何だ」
「縄、ありますか?」
「縄?」
「シアを引っ張り出したいんです」
親方は一瞬、俺の顔を見つめた。
「……方法があるのか?」
「まだ分かりません」
「おい」
「でも、試したいことがあるんです」
俺は壁を見上げた。
さっき、木片を投げたときにはすり抜けた。
その直後、壁は急に硬くなった。
西の石橋でも似たことが起きている。
見えていた木橋の板は触れられなかったのに、石橋の床は突然消えてしまった。
つまり、目の前のものが、ずっと同じ状態とは限らない。
今は通れなくても、次はどうだ?
「……試してみます」
◇
「よし。準備できたぞ」
親方が太い縄を持ってきた。
普段、石臼の修理に使っているものらしい。俺の腰ほどもある太い柱に巻きつけ、結び目を何度も確かめている。
俺はその間に、細長い木の棒を一本借りた。
「そんなもので何をするつもりだ?」
「壁を確かめます」
「……お前にしか見えない壁をか」
「はい」
親方は何か言いたそうな顔をしたが、結局、口を閉じた。
俺は棒を壁へ突き出した。
こつん。
硬い音が響く。
石に当たった感触が手に伝わってきた。
少し位置を変えてみる。
こつん、こつん。
どこを叩いても同じだ。
「……駄目か」
「ノア、お前はさっきから何をしてるんだ?」
「見えない壁を叩いてます」
「それは聞いた」
「……俺も説明できるならしたいですよ」
我ながら無茶苦茶な話だ。
何もない場所を木の棒で叩いている若者。
傍から見れば、相当おかしな光景だろう。
親方が「頭でも打ったか」と治療所に引っ張っていかないだけ、まだましかもしれない。
棒をもう一度、壁に押し当てる。
そのときだった。
ずるり。
「……え?」
棒の先端が、石壁の中へ沈んだ。
驚いて手を引く。
木の棒は簡単に抜けた。
さっきまで硬かった壁が、今は薄く透けて見える。
「……今だ!」
俺は一歩踏み出しかけた。
バキッ!
「うわっ!?」
棒の先端が、目の前で砕けた。
壁が再び硬くなり、差し込んでいた部分を挟み潰したのだ。
俺は慌てて後ずさった。
床に折れた木片が転がる。
「……危なかった」
あのまま進んでいたら。
想像して、背筋が冷たくなった。
「どうした!?」
一部始終を見ていた親方が駆け寄ってくる。
「壁が……一瞬だけ、通れるようになったんです」
「……それで、その棒は?」
「挟まれました」
親方は折れた木片を拾った。
断面を指でなぞり、しばらく黙り込む。
「……お前が折ったわけじゃないんだな?」
「はい」
親方は低く唸った。
「なるほどな」
初めて、少しだけ納得したような顔だった。
「信じてもらえますか?」
「信じるも何も、目の前で棒が折れた。何が起きたかは分からんが、お前の言っていることを無視するわけにもいかんだろう」
その言葉に、胸の奥が少し軽くなった。
親方は折れた棒を床に置いた。
「ただし、同じことをお前の身体で試すのは許さん」
「……でも」
「でもじゃない。腕でも挟まれてみろ。今度は棒みたいに取り替えが利かんぞ」
正論だった。
俺だって、石壁に身体を挟まれたくはない。
さて、どうしたものか。
壁の向こうを覗く。
シアはまだ、同じ場所にいた。
さっきよりも輪郭が薄くなっている気がする。
……いや、気のせいじゃない。
少女の背後にあった石壁が、少しずつ遠ざかっている。
小さかった部屋が、ゆっくり広がっているのだ。
「……シア!」
「な、なに……?」
「そこから動くな! 絶対に!」
「うん……!」
俺は親方へ振り返った。
「時間がないかもしれません」
「……何?」
「シアのいる部屋が、少しずつ遠くなってるんです」
親方は顔をしかめた。
小屋の主人が、俺の腕を掴む。
「頼む……! 娘を、助けてくれ……!」
手が震えていた。
頬は青ざめ、目には涙が浮かんでいる。
「女房が死んでから、あの子だけが……」
言葉が続かなかった。
俺はその手を見つめた。
この人は、まだ娘を覚えている。
名前も、声も、一緒に暮らした日々も。
ベネット爺さんが消えたときは、誰も彼のことを覚えていなかった。
もしシアまで消えてしまったら?
父親は、娘のことを忘れてしまうのだろうか。
そんなこと、考えたくもなかった。
「……親方」
俺は縄を手に取った。
「これを腰に結んでもらえますか」
「ノア」
「壁が薄くなった瞬間に、向こうへ行きます」
「さっきのを見ただろう。途中で戻ったらどうする」
「……分かってます」
親方は黙った。
俺は続ける。
「だから、何かあったら引っ張ってください」
「縄ごと挟まれたら終わりだぞ」
「それも、分かってます」
「だったら――」
「何もしなかったら、あの子が消えるかもしれないんです——!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
親方の言葉が止まる。
俺は一度、息を整えた。
「すみません。怒鳴るつもりじゃ……」
「……いや」
親方は短く答えた。
少しの沈黙があった。
やがて彼は縄を受け取り、俺の腰に巻きつけた。
「一度だけだ」
「……親方」
「失敗したら、すぐ戻れ。無理だと思ったら俺が引く」
「はい」
「返事だけはいいんだからな、お前は」
親方は結び目を強く締めた。
……痛い。
これ、少しきつすぎないか?
そう言おうとしたが、やめた。
親方なりに、必死なのだろう。
◇
壁が薄くなる瞬間を待った。
手にした棒を、慎重に押し当てる。
最初は何も起こらなかった。
一度、二度と壁の向こうのシアに声をかけ、返事を確かめる。
少女はまだそこにいる。
泣き声は小さくなっていた。
疲れてしまったのかもしれない。
「……シア」
「……なあに?」
「好きな食べ物、何だ?」
「……え?」
「何でもいい。教えてくれ」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「……蜂蜜のパン」
「そっか。美味しいよな」
「うん……」
「俺も好きだ。あれ、ちょっと高いけど」
小さく笑う声が聞こえた。
よかった。
まだ、話せる。
「帰ったら、お父さんに買ってもらおう」
「……ほんと?」
「ああ。特別大きいやつをな」
小屋の主人が、何度も頷いていた。
「買ってやる……! いくらでも買ってやるから……!」
俺は少しだけ笑った。
蜂蜜パンって、意外と高いんだけどな。
そんなことを考えていると。
すっと木の棒が、石壁の中へ滑り込んだ。
息を呑んだ。
今だ。
床を蹴る。
一歩。
石壁の輪郭が、目の前で揺らいだ。
続けてもう一歩。
「……っ!」
冷たいものが全身を通り抜けた時とき、目の前の景色が変わった。
粉ひき小屋の中じゃない。
知らない部屋だった。
壁も床も石造りで、天井は低い。
小さな灯りが、廊下の奥でちらちらと揺れている。
足元には割れた石片が散らばり、湿った土の匂いがした。
「……何だよ、ここ」
背後から、親方の声が聞こえる。
「ノア! 聞こえるか!」
振り返る。
親方たちの姿が、薄い霧の向こうに見えた。
粉ひき小屋の明るい室内。
その景色が、石造りの部屋と重なっている。
まるで、二つの違う場所を、同時に見ているみたいだった。
「聞こえてます!」
「戻れるか!?」
「まだ……!」
俺は前を向いた。
シアがいる。
膝を抱えていた少女が、驚いた顔で俺を見上げていた。
「……ノア、お兄ちゃん?」
「ああ。迎えに来たぞ」
少女の瞳から、大粒の涙がこぼれた。
「……っ!」
俺は駆け寄り、その小さな手を掴んだ。
温かい。
確かに、生きている人間の手だった。
「帰ろう。お父さんが待ってる」
「……うん!」
少女を立たせ、振り返る。
粉ひき小屋の景色は、まだ見えていた。
親方が縄を握りしめている。
小屋の主人は、こちらに向かって何かを叫んでいた。
声は聞こえない。
俺はシアの手を強く握った。
「走れるか?」
「うん!」
「じゃあ、絶対に離すなよ!」
俺たちは駆け出した。
その瞬間。
ゴゴゴゴッ!
地面が揺れ、足元の石が砕ける。
廊下の壁に、大きな亀裂が走った。
背後で何かが崩れる音がする。
振り返る余裕はなかった。
出口まで、あと三歩。
二歩。
一歩。
目の前に、石壁が現れた。
「……っ!」
さっきまで透けていた場所が、急に硬くなっている。
まずい。
このままじゃ――。
「親方! 引いて!!」
叫んだ瞬間、腰の縄が強く張った。
「ぐっ!?」
身体が後ろへ引かれる。
いや、違う。
粉ひき小屋の方へ引っ張られているんだ。
俺はシアを抱き寄せた。
目の前の石壁に、細い隙間ができている。
そこから、親方の腕が見えた。
「ノア! 手を伸ばせ!」
「……っ!」
俺は右手を伸ばした。
親方の指先に触れる。
次の瞬間、腕を強く掴まれた。
「離すなよ!」
「はい!」
身体が引っ張られる。
シアを抱えたまま、俺は石壁の隙間へ飛び込んだ。
冷たい石が、肩を擦る。
足が床を離れた。
そして。
ガキンッ!
背後で、何かが噛み合うような音がした。
「いっ……!」
右手に鋭い痛みが走る。
指先が壁に挟まれたのだ。
思わず悲鳴が漏れた。
「ノア!」
親方が、さらに強く腕を引いた。
骨が軋むような痛み。
視界が白くなる。
次の瞬間。
どさっ!
俺たちは、粉ひき小屋の床に転がっていた。
「……っ、はあ……はあ……!」
息ができない。
肺が焼けるように痛む。
右手はじんじんと痺れ、まともに動かせなかった。
「ノア! おい、大丈夫か!?」
親方の声が聞こえる。
俺は何とか頷いた。
「……生きて、ます」
「馬鹿野郎……!」
叱る声が、少し震えていた。
その横で。
「シア!」
小屋の主人が、娘を抱きしめていた。
「お父さん……!」
「ああ……ああ……! よかった……!」
大きな身体を震わせながら、何度も娘の名前を呼んでいる。
シアも父親の胸に顔を埋め、声を上げて泣いていた。
俺はその光景を、床に座ったまま見つめていた。
……よかった。
本当に。
助けられた。
その実感が湧いた途端、身体から力が抜けた。
「……親方」
「何だ」
「俺、ちゃんと戻ってきましたよね?」
「当たり前だろう」
「……そうですよね」
俺は天井を見上げた。
見慣れた木の梁。
小さな窓。
粉の匂いがする、普通の小屋。
さっきまで見えていた石壁は、もうどこにもなかった。
◇
騒ぎを聞きつけた村人たちが集まってきたのは、それから間もなくだった。
俺の右手は腫れていたが、幸い骨は折れていないらしい。
親方に無理やり治療所へ連れていかれ、薬草を塗った布を巻いてもらった。
おかげで、右手がやたらと薬臭い。
「……痛い」
「自業自得だ」
「親方、もう少し優しくしてくれても……」
「優しくしてほしかったら、次は俺の言うことを聞け」
「……はい」
治療所を出ると、粉ひき小屋の前ではまだ人だかりができていた。
シアは無事だった。
親方も、小屋の主人も、俺が少女を連れ戻したことを覚えている。
ただ、石壁のことを説明できる人間は、やっぱり俺だけだった。
親方には最後まで壁が見えなかったという。
小屋の主人も、娘の姿が突然消え、しばらくして俺と一緒に現れたようにしか見えなかったらしい。
……それでも、十分だ。
少なくとも今回は、俺が見たものを全部勘違いだと言われずに済む。
「ノアお兄ちゃん!」
声がして振り返る。
シアが父親と一緒に立っていた。
もう泣いてはいない。
少し赤くなった目で、俺を見上げている。
「……ありがとう!」
「ああ。無事でよかった」
俺が笑うと、少女も笑った。
「お兄ちゃん、手、大丈夫?」
「ちょっと痛いけど、平気だよ」
「……ごめんなさい」
「シアが謝ることじゃないさ」
俺は左手で、少女の頭を軽く撫でた。
小屋の主人が深々と頭を下げる。
「本当に、何と礼を言えばいいか……」
「いえ。俺一人じゃ助けられませんでしたし」
実際、親方がいなければ俺まで消えていたかもしれない。
そう思うと、今になって背筋が寒くなる。
「あ、そうだ」
俺は思い出した。
「シア、蜂蜜のパン、買ってもらえよ」
少女がぱっと顔を輝かせる。
「うん!」
小屋の主人は苦笑した。
「もちろんだ。好きなだけ買ってやる」
「五個!」
「……五個か」
少しだけ顔が引きつった。
どうやら、無事を喜ぶ気持ちと財布の心配は別らしい。
俺は思わず笑った。
……こういう時間が、好きだった。
何でもないことで笑って、くだらない話をして。
明日も同じように過ごせると、疑いもしない。
つい昨日まで、俺もそうだった。
「……あのね、お兄ちゃん」
シアが服の裾を引っ張った。
「ん?」
「さっきのお部屋でね、変なものを見たの」
俺はしゃがんで目線を合わせた。
「何を見たんだ?」
「……お家」
「家?」
「うん。赤い屋根のお家」
心臓が、どくりと鳴った。
「……赤い屋根?」
「それでね、お庭に大きな木があって……」
俺は息を呑んだ。
赤い屋根。
庭に大きな木。
そんな家を、俺は知っている。
「……シア」
声が少し震えた。
「その家、どこにあった?」
「分かんない。お部屋の奥に、窓みたいなのがあって……そこから見えたの」
「……中に、誰かいたか?」
少女は少し考えた。
「うん」
「誰が?」
「おじいちゃん」
俺は動けなかった。
「白い髪のおじいちゃんが、お庭にいたの」
「……その人、何してた?」
「ずっと、こっちを見てた」
喉が乾く。
ベネット爺さん。
あの人なのか?
「……それで?」
「私が手を振ったらね、おじいちゃん、何か言ってた」
「何て?」
「分かんない。声、聞こえなかったから」
少女は申し訳なさそうに俯いた。
「……そっか」
俺は小さく頷いた。
ベネット爺さんが消えてから、二日。
村の誰も、あの人を覚えていない。
家も、持ち物も、地図に書かれた名前さえ消えてしまった。
それなのに。
シアは、赤い屋根の家を見たという。
もし、本当にあの家だったとしたら。
「……まだ、いるのか?」
思わず呟いた。
消えたんじゃない。
どこかにいる。
俺たちには見えない、別の場所に。
そんなことが、あり得るのだろうか。
俺は自分の右手を見つめた。
布の下には、赤く腫れた指がある。
さっきまで存在しなかった石壁に挟まれた傷。
確かに、あの場所に何かがあった証拠だ。
なら、シアが見たものも。
「……ノア?」
親方の声で、我に返った。
「どうした。考え込んで」
「……いえ」
俺は立ち上がった。
「ちょっと、気になることがあって」
親方は何か言いかけたが、結局、ため息をついただけだった。
「……今日のところは帰れ。お前は十分働いた」
「はい」
「明日は休みにしてやる」
「……えっ」
俺は思わず顔を上げた。
あの親方が?
仕事を休めと?
「親方、熱でもあるんですか?」
「……お前な」
「いや、だって珍しいから」
「休みは取り消しだ」
「すみませんでした!」
慌てて頭を下げる。
親方は呆れたように鼻を鳴らした。
いつもの親方だ。
そう思って、少しだけ笑った。
◇
村へ戻る道を歩きながら、俺は何度も後ろを振り返っていた。
粉ひき小屋は、いつもどおりの姿に戻っている。
窓も、壁も、水車も。
何も変わっていない。
……本当に、何も変わっていないのだろうか。
西の石橋では、道の向きが変わった。
ベネット爺さんの家は、跡形もなく消えていた。
見張り塔から鐘がなくなり、誰もそのことを覚えていない。
今日は、粉ひき小屋の中に知らない部屋が現れた。
一つ一つは、まったく違う出来事だ。
それなのに、どこか似ている。
俺の知っているものと、知らないものが、同じ場所に重なっている。
そんな気がした。
「……何が起きてるんだよ」
答える人はいない。
道端の草が、夕風に揺れていた。
村の方からは、子供たちの笑い声が聞こえてくる。炊事の煙が上がり、家々の窓には灯りがともり始めていた。
いつもの夕暮れだった。
俺は、その景色を見つめた。
ここには母さんがいる。フィアがいる。親方も、今日助けたシアもいる。
ほかにも、顔を知っている人が大勢いる。
俺が生まれてから十九年間、ずっと暮らしてきた村だ。
こんな場所が、ある日突然なくなるなんて。
……考えたくもない。
俺は歩く速度を上げた。
家に帰ろう。
今日はもう、何も考えずに寝たい。
母さんの作る夕飯を食べて、明日の仕事のことを考えて。
いつもどおりに過ごしたい。
そんなことを思いながら村の入り口へ差しかかったときだった。
「……ノア!」
聞き慣れた声がした。
フィアだ。
彼女がこちらへ走ってくる。
息を切らし、ひどく青ざめた顔をしていた。
「……フィア?」
「よかった……! ここにいた……!」
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
フィアは俺の腕を掴んだ。
「……大変なの」
「大変?」
「村の北の畑で、変な獣が出たって……!」
「……獣?」
この辺りにも魔物はいる。
森の奥まで入れば危険な獣に遭遇することもあるし、畑を荒らす猪だって珍しくない。
そこまで慌てることだろうか。
「見たことない獣なんだって。大きくて、真っ黒で……」
フィアは震える声で続けた。
「畑仕事をしてた人が、襲われたの」
「……何だって?」
「村の人たちが、今、追い払おうとしてる。でも……」
彼女は言葉を詰まらせた。
「剣で斬っても、傷がつかないって……」
俺は目を見開いた。
剣で斬っても、傷がつかない?
魔法で身体を守る獣なら、聞いたことがある。
ただ、そんなものが村の畑に現れるなんて。
「……どこから来たんだ?」
「分からない。でも、見張り番の人が言ってた」
フィアは俺の手を強く握った。
「その獣、突然、何もない場所から出てきたんだって」
胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。
何もない場所。
そこから、突然現れた。
思い出すのは、西の石橋に重なっていた木橋。
粉ひき小屋の中に現れた石壁。
俺にしか見えない、知らない景色。
「……まさか」
村の北側から、叫び声が聞こえた。
続いて、金属のぶつかる音。
誰かが戦っている。
俺はフィアを見た。
フィアも俺を見ていた。
どうやら右手の腫れに気が付いた様子だったが、構っている暇はなかった。
「……行こう」
「えっ?」
「人が襲われてるんだろ?」
「そうだけど、ノア、手……!」
「分かってる」
右手はまだ痛む。
まともに握り込むこともできない。
俺は剣の扱いだって得意じゃない。
魔法の才能も、人並み以下だ。
そんな俺が行ったところで、何ができるのか。
正直、分からない。
ただ。
今日、シアを助けることはできた。
一人じゃ無理だった。
親方がいてくれたから、何とか助けられた。
だったら今回も、何かできることがあるかもしれない。
「……フィア」
「何?」
「親方を呼んできてくれ。あと、怪我人が出てるなら治療所にも知らせて」
フィアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに頷いた。
「……分かった!」
彼女が村の中心へ走っていく。
俺は反対側へ向かった。
北の畑。
さっきまで俺たちがいた粉ひき小屋にも近い場所だ。
また、あの辺りで何かが起きている。
走りながら、ふと気づいた。
……鐘が聞こえない。
あれほど何度も響いていた鐘の音が、今はすっかり止んでいる。
代わりに聞こえてきたのは。
低く、重い。
聞いたこともない獣の唸り声だった。




