第四話 見えてはいけない風景
俺には、橋が二本見えていた。
一本は石橋。もう一本は、古びた木橋。
しかも、木橋の上には誰かが立っている。
「……おい、ノア」
親方の声が聞こえた。
「顔色が悪いぞ」
「……親方」
「何だ?」
「あそこに、誰かいないか?」
俺は木橋の中央を指差した。
親方は目を細める。
「誰もおらんぞ」
「……そうか」
やっぱり。
俺にしか見えていない。
フィアも橋を見つめていたが、首を横に振った。
「ごめん、ノア。私にも見えない」
「……うん」
分かっていた。
けれど、実際にそう言われると、どうしようもない不安が湧いてくる。
俺は目をこすった。
もう一度見る。
木橋は、まだそこにあった。
古びた板が並び、支柱には黒い染みが広がっている。ところどころ板が抜け落ちていて、下を流れる川が見えた。
そして、その中央に立つ人影。
……いや。
よく見ると、何かがおかしい。
人影の向こう側が、透けて見える。
白い服のように見えたものも、実際には輪郭がぼやけているだけだった。
まるで、薄い霧でできた人間のようだ。
「……なあ、親方」
「今度は何だ」
「もし、見えてるものが本物じゃなかったら、どうすればいいと思う?」
「……ずいぶん妙な質問だな」
親方は腕を組んだ。
「まずは、触って確かめる」
「触って?」
「目は案外当てにならん。遠くのものを大きく見たり、影を穴と勘違いしたりする」
親方は足元の石を拾い、俺に渡した。
「どうしても確かめたいなら、投げてみろ」
「……なるほど」
俺は石を握った。
木橋の上にいる人影を見つめる。
少し迷ったが、足元の手前に向かって軽く投げた。
石は弧を描き、橋の上へ飛んでいく。
そして。
木橋の板を、すり抜けた。
「……っ!」
石はそのまま石橋の欄干に当たり、乾いた音を立てて落ちた。
「何だ、普通じゃないか」
親方が言った。
けれど、俺には普通じゃなかった。
確かに木橋が見えている。
なのに、石は触れなかった。
……つまり。
あれは、本物じゃない?
いや、何をもって本物と言えばいいのか、もう分からない。
「ノア」
フィアが俺の袖を引いた。
「……ねえ、あんまり近づかない方がいいよ」
「……ああ」
ベネット爺さんの手紙を思い出した。
『西の石橋には、近づくな』
あの爺さんは、これを知っていたのだろうか。
もしそうなら、どうして?
俺と同じものが見えていた?
それとも、何か別の理由があるのか。
考え始めたときだった。
「おーい!」
遠くから、子供の声がした。
振り返る。
村の方から、一人の少年が走ってくる。
トーマだ。
鍛冶屋の息子で、まだ八歳。いつも村中を駆け回っていて、親父さんに怒鳴られている。
「ノア兄ちゃん!」
「トーマ? どうした?」
「うちの犬、見なかった!?」
「犬?」
「クロが逃げちゃったんだ!」
トーマは息を切らしながら橋へ駆け寄った。
その後ろから、小さな黒犬が飛び出してくる。
「……あ」
どうやら犬の方が先に戻ってきたらしい。
クロは嬉しそうに尻尾を振り、トーマの足元を走り回った。
「こら! 勝手に逃げるなって言っただろ!」
トーマが犬を追いかける。
……まあ、よくある光景だ。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
それがいけなかった。
「……おい、待て」
クロが、橋の方へ走り出した。
トーマもその後を追う。
「トーマ! そっちは――!」
叫んだ瞬間。
木橋の上に立っていた人影が、こちらを向いた。
いや。
向いたように見えた。
白い輪郭が、ゆっくりと揺らぐ。
同時に、橋の景色が歪んだ。
「……なっ!?」
石橋の中央。
そこに、木の板が浮かび上がった。
今まで薄く透けていたものが、急に輪郭を強めたのだ。
石の欄干と木の手すりが重なり、どちらが手前にあるのか分からなくなる。
バキッ!
嫌な音が響いた。
「うわっ!?」
トーマの足元で、石橋の一部が崩れた。
少年の身体が傾く。
クロが吠える。
「トーマ!」
俺は考えるより先に走り出していた。
カン。
「ノア、待て!」
親方の声が背中に飛んでくる。
だが、止まれなかった。
トーマは橋の中央で膝をつき、必死に欄干へしがみついている。
足元には、大きな穴が開いていた。
……穴?
おかしい。
さっきまで、そこには石の床があった。
今も、木橋の板が見えている。
けれど、その下には川が流れている。
何が本当の足場なのか、分からない。
「ノア!」
カン。
フィアが叫ぶ。
「縄!」
振り返ると、彼女が測量縄を投げてきた。
俺は慌てて受け取る。
「親方! そっち持っててくれ!」
「馬鹿野郎! 戻れ!」
「トーマが落ちる!」
親方は一瞬だけ顔を歪めた。
それから縄の端を近くの石柱へ巻きつけ、自分の腰にも回す。
「——分かった! だが無茶するな!」
「分かってる!」
嘘だった。
無茶をしなければ、助けられない。
カン。
俺は縄を腰に結び、橋へ踏み出した。
一歩。
二歩。
石は硬い。
ちゃんと足場がある。
だが、三歩目を踏み出そうとしたとき、目の前の景色が揺らいだ。
石橋と木橋。
二つの輪郭が重なっている。
カン。
俺は足を止めた。
危うく、木橋の板に足を置くところだった。
あれには触れられない。
さっき投げた石が、すり抜けたのを見ている。
だから、踏めば落ちる。
「……落ち着け」
自分に言い聞かせる。
見えているものを、全部信じるな。
親方の言葉だ。
俺は足元の石を拾い、目の前へ軽く投げた。
石は木橋の板をすり抜け、下の石床に当たった。
そこは安全だ。
次の場所へ投げる。
今度は、石がそのまま川へ落ちていった。
「……なるほど」
見えている木の板は、足場にならない。
でも、その向こうに本物の石が残っている場所なら進める。
俺は一歩ずつ、確かめながら進んだ。
「ノア兄ちゃん!」
トーマの声が震えている。
「動くな! 今行く!」
「怖いよ!」
「大丈夫だ!」
……大丈夫なわけがない。
俺だって怖い。
足元は崩れかけているし、何もないはずの場所に橋が見える。
しかも、さっきから耳の奥で変な音が鳴っている。
カン。
カン。
まるで、遠くで鐘が鳴っているような。
それでも。
目の前の子供を見捨てる理由にはならない。
「……よし」
俺はトーマのすぐ手前までたどり着いた。
少年は欄干にしがみつき、涙を流している。
「トーマ、こっち見ろ」
「……う、うん」
「俺の手、掴めるか?」
「……届かない」
あと少し。
ほんの少しだけ、距離が足りない。
俺は膝をつき、身体を前へ伸ばした。
足元の石が、小さく軋む。
「……っ!」
嫌な音がした。
このままじゃ、俺まで落ちる。
だが、引き返せばトーマを助けられない。
「ノア!」
フィアの声が聞こえた。
「その子に縄を渡して!」
「——わかった!」
俺は腰に結んだ縄をほどき、端をトーマへ投げた。
「これ、掴め!」
「う、うん!」
「絶対に離すなよ!」
トーマは震える手で縄を握った。
俺はもう一度、後ろを振り返る。
「親方! 引いてくれ!」
「分かった!」
縄が張る。
トーマの身体が、少しずつこちらへ引き寄せられた。
その瞬間。
ゴゴッ!
橋全体が、大きく揺れた。
「……っ!?」
俺の足元で、石が砕ける。
身体が傾く。
思わず手を伸ばした。
そこには、木橋の手すりが見えていた。
だが。
指先は何も掴めなかった。
「うわっ!」
俺はそのまま、橋の穴へ落ちかけた。
咄嗟に残った石の縁へしがみつく。
冷たい川の音が、すぐ下から聞こえた。
「ノア!」
フィアが悲鳴を上げる。
歯を食いしばった。
腕が痛い。
指先が滑る。
まずい。
本当に、まずい。
そのとき。
「馬鹿弟子が!」
親方の怒鳴り声とともに、太い腕が伸びてきた。
襟首を掴まれる。
次の瞬間、俺の身体は乱暴に引き上げられていた。
「ぐえっ!?」
地面に転がる。
肺の空気が一気に押し出された。
咳き込みながら顔を上げると、親方が鬼のような顔で俺を見下ろしていた。
「……お前なあ!」
「げほっ……助かった……」
「助かったじゃない! 俺の寿命が十年縮んだぞ!」
「親方、まだ長生きできそうだし……」
「口が減らん!」
怒鳴られた。
でも、怒鳴られるだけで済んだ。
隣では、フィアがトーマを抱きしめている。
少年は大泣きしていた。
クロはその周りを走り回り、嬉しそうに吠えている。
「……よかった」
俺は地面に座り込んだ。
助かった。
本当に。
そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
◇
橋の崩落騒ぎは、すぐに村へ伝わった。
トーマの父親が駆けつけ、息子を抱きしめて泣いた。
その後、俺にも礼を言ってくれた。
もっとも、その直後に親方から説教されたので、あまり感動に浸る時間はなかったけれど。
「……だから、危ないと思ったらまず呼べ」
「呼んだって」
「呼ぶ前に走ってただろうが!」
「……はい」
反論できない。
親方は深いため息をついた。
「まったく……」
それから、少しだけ声を落とす。
「……よく助けたな」
「……え?」
「だが、次はもっと上手くやれ」
そう言って、俺の頭を軽く小突いた。
……この人なりの褒め言葉なのだろうか。
フィアは隣で、何やら難しい顔をしていた。
「どうした?」
「……ねえ、ノア」
「ん?」
「あの橋、変だったよね」
俺は彼女を見た。
「……見えたのか?」
「ううん。ノアが言ってた、もう一本の橋は見えなかった」
フィアは首を横に振る。
「でも、石の床が急になくなったのは見た」
「……本当に?」
「うん」
彼女は真剣な表情で頷いた。
「崩れたっていうより、最初からそこに何もなかったみたいに見えた」
俺は言葉を失った。
俺だけじゃない。
フィアにも、何かがおかしいと分かったのだ。
「……親方も見た?」
「ああ」
親方は短く答えた。
「石が崩れる瞬間は見た。だが、妙だったな」
「妙?」
「普通、あれだけの石が崩れれば、下に瓦礫が落ちる」
親方は橋の下を見た。
「……だが、ほとんど何も落ちていない」
俺も川を覗き込んだ。
確かに。
橋の中央には、大きな穴が開いている。
なのに、川底には砕けた石がほとんど見当たらない。
まるで。
最初から、その部分の石がなかったかのように。
「……なあ」
俺は小さく呟いた。
「これ、本当にただの事故なのか?」
誰も答えなかった。
そのときだった。
「……おい、ノア」
親方が橋の向こうを指差した。
「さっき、あっちの道はあんな形だったか?」
俺は顔を上げた。
橋の西側。
そこには、隣町へ続く街道があるはずだった。
緩やかに曲がりながら、森の中へ伸びていく道。
何度も通ったことがある。
「……何だ、あれ」
道が、曲がっていた。
いや、曲がっていること自体はおかしくない。
問題は、その方向だ。
昨日まで西へ続いていた道が、今は北へ向かっていた。
森の位置も違う。
道沿いにあったはずの大きな岩もない。
そして。
俺の目には、もう一本の道が見えていた。
北へ続く新しい道の隣。
薄く透けた、古い街道。
その先には、見覚えのない石造りの門が立っていた。
古びた門。
崩れた壁。
その向こうには、何か大きな建物の影がある。
「……ノア?」
フィアが俺を呼ぶ。
俺は答えられなかった。
だって。
俺の知っている村の外に、知らない景色が広がっていたのだから。




