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消えた村を覚えているのは俺だけだった  作者: チンアナゴ
第一章 失われし故郷

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第三話 存在しない老人の置き土産

 翌朝になっても、鐘は戻ってこなかった。


「……やっぱり、ないよな」


 窓から見える鐘楼の頂上には、何も吊るされていない。

 昨日の夜、三度だけ鳴った鐘。

 俺が子供のころから毎日聞いていた、あの音。

 それが、今は影も形もない。


「ノアー! 朝ご飯、冷めるよ!」


「今行く!」


 階下から母さんの声がした。

 俺は窓を閉め、机の上に置いていた手紙を畳んだ。

 ベネット爺さんが残したものだ。


『西の石橋には、近づくな』


 最後の一文が、頭から離れない。

 昨日まで存在していた家が消え、村人たちの記憶まで変わってしまった。

 それだけでも十分おかしいのに、今度は鐘までなくなった。

 しかも西の石橋では、測るたびに長さが変わっている。

 あの橋で何かが起きている。

 それだけは、もう疑いようがなかった。

 ……もっとも、俺以外にそう思っている人間がいるかどうかは怪しいけれど。


「ねえ、母さん」


「何だい?」


「村の鐘って、いつからあるんだっけ」


 朝食の皿を運んでいた母さんが、不思議そうに俺を見た。


「鐘?」


「ほら、広場の鐘楼にあったやつ」


「広場の?」


 嫌な予感がした。


「あそこは見張り塔でしょう?」


「……見張り塔?」


「そうよ。火事や魔物が出たときに、見張り番が角笛を吹いて知らせるところじゃない」


 俺はパンを持ったまま固まった。

 角笛。

 そんなもの、あの塔で使っていただろうか。


「じゃあ、毎晩九時に鳴ってた鐘は?」


「何を言ってるの。そんな鐘、聞いたことないわよ」


「……そっか」


 やっぱりだ。

 母さんはもう、鐘を覚えていない。


「最近、変なことばかり聞くわね。大丈夫?」


「まあ、元気ではあるよ」


「元気な人は朝ご飯を食べながらそんな顔しないわ」


「どんな顔?」


「三日くらい便秘してるような顔」


「もう少しまともな例えはないのかよ……」


 母さんは笑った。

 俺もつられて笑いそうになったが、うまくいかなかった。

 目の前の母さんは、いつもと何も変わらない。

 だからこそ、怖い。

 もし明日、母さんが消えてしまったら。

 そして、母さんのことを覚えているのも俺だけになったら。

 ……考えるのはやめよう。

 縁起でもない。


     ◇


「というわけで、鐘楼を調べたい」


「というわけで、って……」


 村の広場。

 買い物籠を抱えたフィアは、呆れたように俺を見上げた。


「昨日は家が消えて、今日は鐘が消えたの?」


「そうなる」


「明日は何が消える予定?」


「予定なんか知らないよ!」


 できれば、もう何も消えないでほしい。

 切実に。

 フィアはため息をつき、広場の向こうにある石造りの塔を見た。


「でも、あそこに鐘なんてなかったと思うけど」


「……フィアもか」


「うん。昔から見張り塔だったよね?」


 予想していた答えだった。

 それでも落胆せずにはいられない。


「ならさ、ちょっと付き合ってくれないか?」


「どこに?」


「あの塔」


「……なんで?」


「何か残ってるかもしれない」


 フィアは俺の顔をじっと見つめた。

 そして、買い物籠を抱え直す。


「お昼までならいいよ」


「本当か?」


「一人で行かせたら、また変なもの拾ってきそうだし」


「俺を何だと思ってるんだ」


「昨日、斧を拾ってきた人」


 反論できなかったので、一旦はそういうことにしておいた。

 俺たちは見張り塔へ向かった。

 塔は広場の北側に建つ、古い石造りの建物だ。高さは三階建ての家ほど。上部は屋根がなく、四方を見渡せるようになっている。

 塔の入り口には、見張り番の男が座っていた。


「おう、ノア。今日は仕事じゃないのか?」


「午後からです。ちょっと上を見てもいいですか?」


「上? 何か用でもあるのか?」


「昔の建物の構造を調べたくて」


 嘘ではない。

 ……全部を話していないだけだ。


「測量の仕事か。いいぞ。ただし、手すりが傷んでるから気をつけろよ」


「ありがとうございます」


 階段を上る。

 石壁の内側は思ったより暗く、狭い。

 フィアは俺の後ろから、慎重についてきた。


「ねえ、ノア」


「ん?」


「もし本当に鐘があったとして、どうして消えちゃったんだろうね」


「分からない」


「誰かが盗んだとか?」


「鐘だけなら、まだ分かるんだけどな」


 問題はそこじゃない。

 鐘が消えたこと以上に、誰も鐘を覚えていないことの方が異常なのだ。


「昨日まであったものが、最初からなかったことになってる」


「……うん」


「だから、何か残ってないか確かめたいんだ」


 階段を上りきると、冷たい風が頬を撫でた。

 塔の頂上には、確かに鐘がなかった。

 代わりに、四方へ信号を送るための旗と、小さな角笛が置かれている。


「ほら、見張り塔でしょ?」


 フィアが言った。


「……そうだな」


 俺は塔の中央へ向かった。

 鐘があった場所。

 そこには太い木の梁が渡されている。

 今は何も吊るされていないが、俺は確かに覚えていた。

 この梁から大きな鐘が下がっていたはずだ。鐘を鳴らすための縄もあった。

 子供のころ、一度だけ悪戯で引っ張ろうとして、見張り番に怒られたことがある。


「……あれ?」


 俺は梁を見上げた。

 中央部分に、妙な傷がついている。

 木の表面が擦り減り、溝のようになっていた。


「フィア、あそこ見てくれ」


「どこ?」


「梁の真ん中」


 フィアは目を細めた。


「……傷があるね」


「ああ」


「何かを吊るしてたのかな?」


「たぶん」


 俺は足元に目を向けた。

 梁の真下。

 石床の一部だけ、妙に色が違っている。

 そこには、長い年月をかけて何かを引きずったような跡が残っていた。

 鐘を鳴らすための縄。その縄が、床を擦っていた跡だ。

 少なくとも、俺にはそう見えた。


「……ねえ、ノア」


「何だ?」


「これ、ちょっと変じゃない?」


 フィアは梁の傷を見つめていた。


「見張り塔なら、こんな大きな梁はいらないよね?」


「……確かに」


「それに、何か吊るしてたなら、どこに行ったんだろう」


 俺は思わず彼女を見た。


「信じてくれるのか?」


「まだ分からないよ」


 フィアは正直に答えた。


「でも、ノアが言ってることを全部勘違いだって決めつけるのも、おかしい気がする」


 それから、小さく笑った。


「だって、こんな傷がある理由、私には説明できないし」


 その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。

 親方も、俺の話を頭ごなしに否定したわけじゃなかった。昨日はわざわざ空き地まで付き合ってくれたし、俺が嘘をついているとは思わないとも言ってくれた。

 ただ、それでも家が消えたという話を信じてもらうには、証拠が足りなかった。

 それは俺だって分かっている。

 だからこそ、こうしてフィアが自分の目で確かめて、おかしいと感じてくれたことが嬉しかった。

 少なくとも、俺だけが一人で騒いでいるわけじゃない。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 フィアは得意げに胸を張った。


「その代わり、お昼ご飯おごってね」


「さっきまでいい話だったのに!」


「協力には報酬が必要なのです」


「どこで覚えたんだ、そんな言葉……」


 まあ、昼飯くらいなら安いものか。

 そう思って財布を確かめる。

 ……銅貨五枚、か。

 今日の昼は、二人で一皿のスープを分けることになるかもしれない。


     ◇


 昼過ぎ。

 俺たちは詰所へ向かった。

 理由は一つ。

 西の石橋について調べるためだ。

 ベネット爺さんの手紙には、近づくなと書いてあった。

 だったら、まずは離れた場所から調べればいい。

 それに、どうしてあの橋だけ長さが変わっているのか、気になって仕方がなかった。


「……お前か」


 ダグの親方は俺を見るなり、露骨に嫌そうな顔をした。


「何だよ、その反応」


「昨日の今日で、今度は何を拾ってきた?」


「何も拾ってないよ!」


「そうか。それはよかった」


 親方は心底安心したように頷いた。

 そんなに信用がないのか、俺。


「親方。西の石橋について聞きたいんだけど」


「橋?」


「最近、長さが変わってないか?」


 親方の手が止まった。


「……何だと?」


「先週は百二十歩だった。でも、三日前に測ったら百二十三歩になってたんだ」


「測り間違いだろう」


「俺も最初はそう思った」


 俺は鞄から測量記録を取り出した。


「だけど、記録の数字まで変わってる」


「……見せてみろ」


 親方は紙を受け取り、目を通す。

 しばらくして、眉間に深い皺が寄った。


「確かに、どれも百二十三歩だな」


「でも、俺は百二十歩と書いたんだ」


「……お前の記憶では、だろう」


「そうだけど」


 親方は黙って記録を見つめた。

 やがて椅子から立ち上がり、棚の奥から古い地図を取り出す。


「去年の測量図だ」


 広げられた地図には、西の石橋が細かく描かれていた。

 長さは百二十三歩。

 やっぱり同じだ。


「……駄目か」


 俺が肩を落とした、そのときだった。


「待て」


 親方が地図の端を指で押さえた。


「……妙だな」


「何が?」


「ここの道幅だ」


 親方は橋の両端を指差す。


「橋そのものは百二十三歩。だが、両岸の道を含めた距離が合わん」


「……え?」


「橋が三歩長いなら、その分どこかが変わっていなければおかしい」


 俺は地図を覗き込んだ。

 確かに。

 橋の西側には小さな石碑がある。東側には、道沿いに古い境界標が立っている。その二つの間の距離も、去年測ったものだ。

 ところが。


「……橋の長さを引くと、残りが合わない」


「そうだ」


 親方は腕を組んだ。


「こんな単純な間違いを、俺が見逃すとは思えんが……」


「じゃあ!」


「落ち着け」


 親方は俺を制した。


「だからといって、橋が伸びたと決まったわけじゃない」


「……うん」


「だが、測り直す必要はあるな」


 そう言って親方は測量縄を取り出した。


「俺も行こう」


「……いいのか?」


「仕事だからな」


 親方は当然のように答えた。


「それに、お前を一人で行かせたら、また妙なものを拾ってきそうだ」


「だから何で拾い物が前提なんだよ!」


 フィアが隣で吹き出した。


     ◇


 西の石橋は、村から歩いて二十分ほどの場所にある。

 幅の狭い川に架かった、古い石造りの橋だ。村と隣町を結ぶ街道の一部で、商人や旅人がよく利用している。

 俺たちが到着したころには、太陽が西へ傾き始めていた。


「……変わってない、よな」


 橋を遠くから眺める。

 灰色の石材。苔むした欄干。川の流れる音。

 見慣れた景色だった。


「とりあえず、東側から測るぞ」


 親方が測量縄を広げた。

 俺はその端を持ち、地面に打ち込まれた境界標まで歩く。

 フィアは買い物籠を置き、少し離れた場所で記録を取っていた。


「……三十六歩」


 親方が数字を読み上げる。


「三十六歩、っと」


 俺は手帳に書き込んだ。

 続いて、橋の手前まで測る。


「十七歩半」


「十七歩半」


 今のところ、おかしなところはない。

 そう思ったときだった。

 カン。

 小さな音がした。


「……ん?」


 顔を上げる。

 音は、橋の向こうから聞こえた。

 金属を軽く叩いたような音。

 風で何かが揺れたのだろうか。


「ノア、どうした?」


「今、音がしなかった?」


「音?」


 親方が耳を澄ませる。

 フィアも顔を上げた。


「……川の音しか聞こえないけど」


「そうか……」


 気のせいかもしれない。

 俺は再び手帳へ目を落とした。

 その瞬間。

 カン。

 また聞こえた。

 今度は、はっきりと。

 俺は顔を上げる。

 橋の向こうには、誰もいない。

 ただ、遠くの木々が風に揺れている。


「……何だよ」


 嫌な汗が背中を伝った。

 昨日の鐘。

 ベネット爺さんの家から聞こえた、扉を叩く音。

 そして、今の音。

 何かがつながっている気がした。


「親方」


「何だ?」


「今日は、橋に上がらない方がいい」


「……どうした、急に」


「分からない。でも、嫌な感じがする」


 親方は俺を見つめた。

 冗談を言っているようには見えなかったのだろう。

 しばらくして、小さく頷いた。


「……なら、今日はここまでにするか」


「いいのか?」


「橋は逃げん。測量なら明日でもできる」


 その言葉に、少しだけ安心した。

 ……橋は逃げない。

 本当にそうならいいのだけれど。

 俺はもう一度、橋へ目を向けた。

 そして。


「……え?」


 思わず声が漏れた。

 橋の向こう側。そこに、見覚えのないものがあった。

 石橋のすぐ隣。

 いや、違う。隣じゃない。

 重なっている。

 古びた木の板。細い手すり。腐りかけた支柱。

 石橋と同じ場所に、もう一本の橋が架かっていた。


「……親方」


 喉が乾いた。


「なあ、あの橋……」


「ん?」


「……何本に見える?」


 親方は不思議そうに眉をひそめた。


「何を言ってるんだ。一本に決まってるだろう」


「……そう、だよな」


 俺はゆっくりとフィアを見た。

 彼女も困惑した顔をしている。


「ノア?」


 その声が、やけに遠く聞こえた。

 俺の目には、確かに二本の橋が見えていた。

 一本は、見慣れた石橋。

 もう一本は、今にも崩れ落ちそうな古い木橋。

 そして木橋の中央には。

 誰かが立っていた。

 小柄な人影。

 白っぽい服を着ている。

 その人物は、橋の上からこちらを見つめていた。

 顔はよく見えない。

 ただ一つ、分かったことがある。

 その人物は。

 俺に向かって、手を振っていた。

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