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消えた村を覚えているのは俺だけだった  作者: チンアナゴ
第一章 失われし故郷

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第二話 摩訶不思議村

 こん、こん、こん。

 何もない場所から、扉を叩く音が聞こえた。


「…………」


 俺は動けなかった。

 目の前に広がっているのは、ただの草むらだ。

 扉どころか、壁も、屋根もない。それなのに。

 こん、こん、こん。

 もう一度、音がした。


「……誰か、いるのか?」


 返事はない。

 俺は手にしていた斧を握り直し、恐る恐る前へ進んだ。

 一歩。

 二歩。

 足元の草が、靴の下で乾いた音を立てる。

 確か、この辺りだった。

 昨日まで、ベネット爺さんの家の玄関があった場所。

 俺は何もない空間へ手を伸ばした。

 指先に触れたのは、冷たい風だけだった。


「……そりゃそうだよな」


 思わず苦笑する。

 何を期待していたんだ、俺は。

 見えない扉でもあると、本気で思ったのか?

 馬鹿馬鹿しい。

 家が突然消えることだってあり得ないのに、今度は何もない場所から音が聞こえたなんて。

 そんなこと、誰に話しても信じてもらえるわけがない。俺だって信じたくないくらいだ。

 ……でも。

 もう一つ、確かめておきたいことがあった。

 俺は右手を軽く握り、目の前の空間を叩いた。

 こん、こん。

 当然、拳は空を切った。

 自分でやっておいて、少し恥ずかしくなる。


「……俺、何やってんだろ」


 そのとき。

 こん、こん。


「っ!?」


 返ってきた。

 俺が叩いたのと同じ、二回の音。

 しかも、さっきより近い。

 まるで、扉を挟んだ向こう側に、誰かが立っているような。


「お、おい! 誰かいるのか!?」


 思わず声を張り上げる。


「ベネット爺さんか!? いるなら返事してくれ!」


 だが、今度は何も聞こえなかった。

 風が草を揺らすばかりだ。

 もう一度叩いてみる。

 返事はない。

 何度か試したが、結局、あの音が聞こえることはなかった。


「……勘弁してくれよ」


 俺はその場にしゃがみ込んだ。

 頭がおかしくなりそうだった。

 いや、もうおかしくなっているのかもしれない。

 けれど、少なくとも一つだけ、確かなことがある。

 俺の手には、ベネット爺さんの斧が握られている。

 存在しないはずの家から見つかった、見覚えのある斧。

 これが夢でない限り、何かがおかしいのは間違いない。


「……よし」


 俺は立ち上がった。

 こういうとき、何をすればいいのか。

 残念ながら、俺には怪奇現象の専門知識なんてない。

 魔法にも詳しくないし、幽霊を見た経験だってない。

 ただ、測量師の助手として、一つだけ親方から叩き込まれたことがある。

 分からないことがあったら、まず確かめろ。

 思い込みで答えを決めるな。


「……もう一回、調べよう」


 俺は斧を抱え、空き地を後にした。


     ◇


「で、今度は斧を拾ってきたのか」


「そう」


「お前、今日は何をしに来たんだ?」


「仕事の相談」


「俺には拾い物の報告にしか聞こえんが」


 詰所に戻るなり、ダグの親方は呆れた顔をした。

 まあ、無理もない。

 朝から家が消えたと騒いでいた助手が、今度は古い斧を持って帰ってきたのだ。我ながら、あまり説得力のある行動とは思えない。


「とにかく、これを見てほしい」


 俺は机の上に斧を置いた。


「昨日、ベネット爺さんに貸した布が巻いてあるんだ」


「……ふむ」


 親方は斧を手に取り、刃先を確かめた。


「古い斧だな。だが、別に珍しいものじゃない」


「布の方を見てくれよ」


「赤い布だな」


「俺のだよ」


「お前の布が巻かれた斧を、お前が拾ってきた。それで?」


 ……駄目だ。

 確かに、これだけじゃ何の証拠にもならない。

 俺が自分で布を巻いたと言われれば、それまでだ。


「じゃあ、家があった場所の土を調べてほしい」


「土?」


「家を取り壊したなら、柱の跡とか、何か残るだろ?」


 親方はしばらく俺を見つめていた。

 そして、大きなため息をつく。


「……お前、よっぽど気になるんだな」


「そりゃ、気になるよ」


「分かった。少しだけ付き合ってやる」


「本当か!?」


「ただし、それで何も出なかったら、今日は大人しく帰れよ」


 俺は勢いよく頷いた。

 親方は立ち上がると、棚から短い測量棒と縄を取り出した。


「仕事道具はお前が持て」


「はいはい」


「はいは一回」


「はい」


 ……いつもの親方だ。

 少しだけ安心した。


     ◇


 空き地に戻った俺たちは、まず道の幅を測った。続いて周囲の畑と、道沿いに立つ古い石柱の位置を確かめる。

 石柱は村ができたころからある境界標で、測量の基準として使われている。

 親方は縄を張りながら、俺に記録を取らせた。


「北の石柱から西の道まで、三十八歩と半分」


「三十八歩半……っと」


「次は南側だ」


 俺たちは黙々と作業を続けた。

 こうして測っている間だけは、いつもの仕事と変わらない。親方の指示に従い、数字を書き込んでいく。

 ただし、一つだけ違うことがあった。

 俺は、昨日まで家があった位置を何度も確かめていた。玄関は道から六歩。薪小屋は家の右側。リンゴの木は左奥。

 覚えている限りの配置を地面に描いていく。


「……ここが玄関だったはず」


「ふむ」


 親方は腕を組んだ。


「じゃあ、ここを掘ってみろ」


 渡された小さな移植ごてで、地面を掘り返す。

 土は硬かった。草の根が複雑に絡み合っていて、なかなか掘り進められない。

 しばらくして、親方がしゃがみ込んだ。


「もういい」


「まだ浅いけど」


「それで十分だ」


 親方は掘り返した土を指で崩した。


「見ろ。根がずっと下まで伸びてるだろう」


「ああ」


「ここに昨日まで家があったなら、こんな根の張り方はせん」


「……つまり?」


「少なくとも、最近まで人が住んでいた地面には見えん」


 俺は穴を見つめた。

 確かにそうだ。

 地面には長い年月をかけて伸びたような根があり、家の土台らしきものも見当たらない。

 家を壊した跡ではない。

 まるで、何十年も前から空き地だったかのようだ。


「……親方」


「何だ」


「家を一晩で消せる魔法って、あると思う?」


「聞いたことがないな」


「じゃあ、魔法で人の記憶を変えるとか」


「人を眠らせたり、幻を見せたりする魔法ならある。だが、村中の人間に同じ幻を見せるとなると、相当な腕が要るぞ」


「……やっぱり、そうか」


「そもそも、何のためにそんなことをする?」


 それを言われると困る。

 ベネット爺さんは、ただの老人だった。

 元は木こりで、今は年金代わりに蓄えを切り崩して暮らしている。少々口うるさいが、恨みを買うような人ではなかった。

 そんな爺さんの家を消して、村人の記憶まで変える。

 仮にできたとして、いったい誰が、何のために?


「……分からない」


「そうだろうな」


 親方は立ち上がり、道具についた土を払った。


「ノア。お前が嘘をついているとは思わん」


「……え?」


「ただ、お前の話が正しいと認められるだけのものも、まだない」


 親方は空き地を見渡した。


「俺にとって、ここは昔から空き地だ。それは変わらん」


「……うん」


「だが、お前がそこまで言い張るのも妙な話だ。普段は仕事をさぼる口実なら、もっとましなものを考えるからな」


「どういう評価だよ、それ」


「正当な評価だ」


 親方は口元をわずかに緩めた。


「何か見つけたら持ってこい。ただし、危ない真似はするな」


「……分かった」


「それと、明日はちゃんと仕事に来い」


「はい」


 親方が帰った後も、俺はしばらくその場に残った。

 掘り返した土を眺める。

 家があった証拠はない。けれど、家がなかったと断言できる証拠もない。

 そして何より。

 俺は、あの爺さんのことを覚えている。

 あれが全部、勘違いだったなんて。

 どうしても思えなかった。


     ◇


「つまり、家が消えたうえに、誰も覚えてないってこと?」


「ああ」


「それで、何もない場所から扉を叩く音がした?」


「そう」


「……ノア」


「何だよ」


「やっぱり、一回お医者さんに診てもらった方がいいと思う」


「お前までそれか!」


 夕方。

 俺は村の食堂で、フィアに事情を話していた。

 客の少ない時間帯だったので、彼女は俺の向かいに座っている。

 ちなみに、頼んだのは豆のスープと黒パン。

 こういう日に限って、食欲だけは普段どおりなのが腹立たしい。


「だって、音が聞こえたんでしょ? 何もないところから」


「だから困ってるんだよ」


「うーん……」


 フィアは頬杖をついた。


「でも、ベネットさんって名前、どこかで聞いたような気もするんだよね」


「本当か!?」


 思わず身を乗り出す。


「ちょ、近い近い」


「あ、ごめん」


「……いや、聞いた気がするだけ。たぶんノアが何回も名前を言うからだと思う」


「そっか……」


 期待して損をした。

 俺が椅子に座り直すと、フィアは申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんね」


「いや、いいんだ」


 そもそも、覚えていない方がおかしいとは限らない。

 ここまで来ると、俺の方が間違っている可能性だって、まだ捨てきれないのだから。

 俺はスープを一口飲んだ。

 温かい。

 今日は朝からろくなものを食べていなかったことを思い出す。


「……あれ?」


 フィアが何かに気づいたように呟いた。


「どうした?」


「そういえば、最近お昼のパンが余るんだよね」


「パン?」


「うん。毎日一個だけ」


 彼女は首を傾げた。


「前はちゃんと売り切れてたと思うんだけど、ここ何日か、必ず一個残るの」


「……それって」


「ただの売れ残りかもしれないけどさ」


 俺はスープの器を置いた。

 ベネット爺さんは、この食堂の常連だった。

 昼にはよくパンを買いに来ていた。

 ただし、爺さんがいつも買っていたのは、普通の黒パンじゃない。


「フィア。余るのって、クルミ入りのパンじゃないか?」


「……え?」


 彼女の表情が変わった。


「なんで分かったの?」


「ベネット爺さんが、いつも買ってたんだよ」


 フィアは黙り込んだ。

 そして、ゆっくりと立ち上がる。


「ちょっと待ってて」


 彼女は厨房へ向かい、しばらくしてから戻ってきた。

 手には、紙に包まれたパンが一つ。

 クルミ入りのパンだった。


「……これ、今日も余ってた」


 俺はそれを見つめた。


「毎日、一個だけ?」


「うん」


「いつから?」


「さあ……気がついたのは最近だけど」


 フィアは困ったように笑う。


「変だよね。ちゃんと売れる数だけ焼くようにしてるのに」


 俺はパンを受け取った。

 まだ少し温かかった。

 ベネット爺さんは、このパンが好きだった。

 歯が悪いくせに、硬いクルミが入っていないと文句を言っていた。

 それなのに、フィアは爺さんを覚えていない。

 ただ、パンだけが余る。


「……なあ、フィア」


「何?」


「もし、誰かのことを忘れたとしてさ」


 俺は手の中のパンを見つめた。


「その人と一緒に過ごした習慣まで、全部なくなると思うか?」


「……どうだろう」


 フィアは少し考えた。


「私だったら、たぶん残るんじゃないかな」


「どうして?」


「だって、癖ってなかなか直らないでしょ?」


 そう言って笑う。


「ノアだって、考え事してるとき、いつも右の耳を触るし」


「……え?」


 言われて初めて、自分の右手が耳に触れていることに気づいた。

 慌てて手を下ろす。


「知らなかった……」


「三年くらい前からずっとやってるよ」


「そんな前から?」


「うん。だから、たぶんそういうのって、本人が気づいてなくても残るんじゃない?」


 俺は黙って考えた。

 母さんが用意した、余分なパン。フィアの店で売れ残る、クルミ入りのパン。

 誰も覚えていない老人のために、今も続いているかもしれない習慣。

 もし、そうだとしたら。

 俺が探しているものは、目に見える証拠だけじゃないのかもしれない。


「……ありがとう、フィア」


「え?」


「ちょっと、考えがまとまった」


「そっか。ならよかった」


 俺は立ち上がった。


「それじゃ、帰るよ」


「あ、待って」


「ん?」


「パン、持って帰っていいよ」


 フィアは俺の手にある包みを指差した。


「どうせ余っちゃったやつだし」


「……いいのか?」


「うん。でも、明日はちゃんとお金払って買ってね」


「そこはサービスしてくれないのか」


「商売ですから」


 彼女は得意げに胸を張った。

 俺は思わず笑った。

 今日はずっと、妙なことばかり起きている。

 それでも、こうしてフィアと話している時間だけは、いつもどおりだった。

 ……できれば、このまま何も起きないでほしい。

 そんなことを考えながら、俺は食堂を後にした。


     ◇


 家に戻ったころには、すっかり日が暮れていた。

 母さんはまだ食堂から帰っていない。

 俺は部屋の明かりをつけ、机の上に拾ってきた斧を置いた。


「……さて」


 今日分かったことを整理しよう。

 まず、ベネット爺さんの家は消えた。

 少なくとも、俺にはそう見える。村人は誰も爺さんを覚えていない。

 地図にも家は描かれていない。

 家があった場所の地面には、長い年月をかけて伸びた草の根があった。

 そして、俺だけが覚えている。


「……何だこれ」


 紙に書き出してみると、余計に意味が分からなくなった。

 普通に考えるなら、俺の記憶がおかしくなったという結論になる。

 けれど、それでは斧の説明がつかない。

 あの場所で聞こえた音も。母さんやフィアの、妙な習慣も。


「……いや、落ち着け」


 まだ決めつけるのは早い。

 斧だって、たまたま誰かが落としたものかもしれない。

 音は聞き間違いだった可能性もある。

 パンのことだって、偶然と言われればそれまでだ。

 俺は椅子にもたれかかった。


「……証拠が足りないんだよな」


 何か一つでいい。

 誰が見ても、おかしいと分かるものが欲しい。

 そう思いながら、机に置いた斧へ視線を向ける。

 古びた木の柄。黒ずんだ刃。そして、根元に巻かれた赤い布。

 昨日、俺が貸した布だ。


「……ん?」


 何かが引っかかった。

 俺は斧を手に取る。

 布の結び目を、指先でなぞった。

 昨日、俺は確かに布を巻いた。

 爺さんの斧の柄が割れかけていたから、滑らないようにしてやったのだ。

 でも。


「……こんなに厚く巻いたっけ?」


 布の一部分だけが、不自然に膨らんでいる。

 俺は結び目をほどいた。

 一巻き。

 二巻き。

 そして最後の一巻きを外したところで、何かが机の上に落ちた。

 かさり。

 小さな紙切れだった。


「……何だ?」


 古びた紙が、細長く折り畳まれている。

 斧の柄と布の間に、隠すように挟まれていたらしい。

 俺はそれを拾い上げた。

 表面には、見覚えのある文字が書かれていた。


『ノアへ』


「……俺に?」


 心臓が、一度大きく鳴った。

 震える指で、紙を開く。

 そこには、短い文章が記されていた。


『これを読んでいるなら、きっと俺の家はもうないのだろう』


「…………」


 息が止まった。

 文字は間違いなく、ベネット爺さんのものだった。

 以前、薪の配達先を記した紙を見せてもらったことがある。ひどい癖字で、何を書いているのか分からず、二人で笑った。

 その文字が、今、目の前にある。


『信じられんかもしれんが、お前の目がおかしくなったわけじゃない』


『俺にも、昔、同じことがあった』


 俺は椅子から身を乗り出した。

 爺さんも?

 あの爺さんも、同じことを経験していた?

 続きを読む。


『詳しいことを書いている時間はない。だが、一つだけ覚えておけ』


 そこで、一度文章が途切れていた。

 紙の下半分には、水に濡れたような染みがある。

 俺は慎重に指先を動かし、残りの文字を確かめた。


『もし俺の家がなくなっていたら、次は――』


 そこから先は、墨がにじんで読めなかった。


「……くそっ!」


 思わず声が出た。

 せめて、あと少し。あと一行でも読めれば。

 俺は紙を明かりに近づけ、角度を変えながら何度も見直した。

 しかし、読めないものは読めない。

 残されていたのは、最後の一文だけだった。


『西の石橋には、近づくな』


 俺はその文字を見つめた。

 西の石橋。

 村の外れにある、古い石造りの橋だ。

 何度も通ったことがある。

 それどころか、今日も測り直す予定だった場所だ。


「……何で、あそこなんだ?」


 あの橋には、特に変わったところはない。

 川幅も狭いし、橋そのものも頑丈だ。村の子供たちがよく遊んでいるくらいで、危険な場所というわけでもない。

 ただ、一つだけ思い当たることがあった。

 そういえば最近、橋の長さがおかしいのだ。

 先週測ったときは、百二十歩。ところが三日前に測り直したときは、百二十三歩だった。

 測り間違いだと思い、今日もう一度確かめるつもりだった。

 結局、ベネット爺さんの家のことで頭がいっぱいになって、行けなかったけれど。


「……まさか」


 俺は机の引き出しを開けた。

 古い測量記録を取り出し、石橋の欄を探す。

 先週の記録。三日前の記録。そして、親方が去年作った地図。

 並べてみる。

 どれも、橋の長さは百二十三歩と記されていた。


「……嘘だろ」


 先週、俺は確かに百二十歩と書いた。

 その数字が間違っていないか、親方と二人で確かめたのだ。

 なのに、記録には百二十三歩と書かれている。しかも、俺自身の筆跡で。

 俺はしばらく動けなかった。

 家だけじゃない。

 橋まで、おかしくなっている。

 そして、ベネット爺さんはそれを知っていた。


「……何なんだよ、この村」


 窓の外に目を向ける。

 いつもと変わらない夜だった。

 遠くから犬の鳴き声が聞こえ、家々の窓には温かな明かりが灯っている。

 誰も、何も気づいていない。

 明日もきっと、いつもどおりの朝が来るのだろう。

 ……本当に?

 俺は手紙を畳み、机の上に置いた。

 明日、もう一度橋を調べよう。

 爺さんは近づくなと書いていた。

 けれど、何が起きているのかも分からないまま、ただ怯えているわけにはいかない。危険なら、遠くからでもいい。

 少なくとも、何が危険なのかだけは確かめたい。

 そう考えた、そのときだった。

 カラン。

 遠くで鐘が鳴った。

 村の中央にある、古い鐘楼の鐘だ。夜の九時を知らせる鐘。

 カラン。

 二度目。

 俺は何気なく耳を傾けた。

 カラン。

 三度目。


「……あれ?」


 時計を見る。

 まだ九時には少し早い。

 それに、鐘の鳴り方がおかしかった。

 いつもなら、時刻の数だけ規則正しく鳴るはずだ。

 なのに。

 四度目の鐘は、いつまで経っても聞こえてこなかった。

 俺は窓辺に近づき、鐘楼の方を見る。

 暗闇の向こうに、古い塔の輪郭が浮かんでいた。その頂上にある鐘が、月明かりを受けてわずかに光っている。

 ……いや。

 何か、変だ。

 俺は目を細めた。

 鐘楼の頂上。

 そこにあるはずの鐘が、見えない。

 代わりに、細い縄のようなものだけが、夜風に揺れていた。


「……おいおい」


 思わず呟く。


「今度は、鐘までなくなったのかよ」


 返事はない。

 当然だ。

 俺は窓を閉めようとして、ふと手を止めた。

 鐘がない。

 だったら。

 さっきの音は、いったい何だったんだ?

 冷たい風が、部屋の中へ吹き込んだ。

 机の上の紙が一枚、床へ落ちる。

 そのとき、俺はまだ知らなかった。

 ベネット爺さんの家が消えたことは、始まりにすぎなかったのだと。

 そして。

 俺が生まれ育ったこの村には、最初から存在しなかったものが、まだいくつもあるのだということを。

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