第一話 昨日まで、ここには家があった。
昨日まで、ここには家があった。
赤い屋根に、白い壁。軒先には干しっぱなしの洗濯物が揺れていて、庭には枝の曲がったリンゴの木が一本。
村の外れにある、ベネット爺さんの家だ。
それが今、きれいさっぱり消えている。
「……は?」
自分でも情けない声が出た。
家だけじゃない。柵も、薪小屋も、リンゴの木もない。そこには膝ほどの草が生えた空き地が広がっていた。
俺は道の真ん中で立ち止まり、目をこする。
もう一度見る。
やっぱり空き地だった。
「いやいや。家って、一晩で引っ越せるもんだったか?」
俺の知る限り、そんな便利な魔法はない。少なくとも、ベネット爺さんが使えるとは思えなかった。あの人は朝のかまどに火をつけるだけでも、火打ち石と五分は格闘する。
そもそも、昨日の夕方にはここにいたのだ。
爺さんは庭で薪を割っていた。柄に巻いてあった布がほどけたとかで、俺の荷袋に入っていた赤い布切れを貸してやった。
『助かったぞ、ノア。お前にも一ついいことを教えてやろう』
『何だよ』
『若いうちに嫁をもらえ。年を取ると薪割りを手伝ってくれる奴もおらん』
『結婚相手を薪割りの道具扱いするなよ』
そんなくだらない話をした。
最後にはリンゴを二つ持たされ、俺はその一つを帰り道で食べた。酸っぱくて、まだ少し硬かった。
あの味まで、はっきり覚えている。
「……ベネット爺さん?」
呼んでみても返事はない。
草むらの向こうまで見渡せる。人が隠れていそうな場所もない。
今日はいつもより早く家を出た。仕事の前に、西の水路に架かる石橋を測り直す予定だったからだ。
こんなところで時間を食っていたら、親方の小言が増える。
けれど、知り合いの家が丸ごと消えたのを見て、そのまま仕事に向かえるほど俺は物分かりがよくない。
ちょうど畑へ向かう農夫が通りかかった。
「すみません。ここに住んでたベネット爺さん、知りませんか?」
「ベネット?」
「そう。赤い屋根の家で、一人暮らししてた」
農夫は空き地を見て、俺を見て、困ったように眉を寄せた。
「ここは昔から空き地だろう。人なんか住んじゃいねえよ」
「……え?」
「お前、寝ぼけてるのか?」
冗談だと思った。
ところが農夫は笑いもしなかった。本当に、何を言われているのか分からない顔だ。
「じゃあ、あそこのリンゴの木は?」
「木? どこに?」
「だから、昨日まで……」
言いかけて、口をつぐむ。
空き地にはリンゴの木どころか、切り株すらない。
「疲れてんじゃねえか、ノア。仕事もほどほどにな」
農夫は俺の肩を軽く叩き、畑へ歩いていった。
俺はしばらく、その背中を見送っていた。
少なくとも、寝ぼけているわけじゃない。
今朝、母さんが焼いたパンの端が焦げていて、俺はそれを食べさせられた。焦げてない方は母さんが食べた。
理不尽だと思った記憶も、ちゃんとある。
でも、もし俺の記憶の方が間違っていたら?
そう考えた瞬間、首筋が冷たくなった。
◇
「お前はまた、仕事を放り出して何をしている」
村の測量師、ダグの親方は、俺を見るなりそう言った。
詰所の奥には地図が何枚も広げられ、窓際では古い魔法灯が淡く光っている。昼間でも暗い部屋なので、親方はいつもつけっぱなしにしていた。
「放り出してない。まだ始業前だろ」
「だったら石橋を測ってこい」
「その前に、ちょっと地図を見せてほしい」
親方は太い眉をひそめたが、仕事の話だと思ったのか、机を空けてくれた。
俺は肩掛け鞄から昨日の地図を取り出す。
村の南側を調べ直して、夕方に描き足したばかりのものだ。右端には自分の名前と日付。余白には昼飯のスープをこぼした染みまである。
間違いなく、昨日の地図だった。
俺は爺さんの家があるはずの場所を探した。
「……ない」
「何がだ」
「家が」
「家?」
「西の畑へ行く道の、曲がり角にあった家。赤い屋根の」
親方は地図を覗き込んだ。
「そこは空き地だろう」
「昨日、そこを測ったんだよ。家の角から道まで六歩で、柵の長さが――」
「ノア」
落ち着いた低い声に、言葉が止まった。
「お前の仕事は、見たものを正しく記すことだ。思い込みを地図に書くことじゃない」
「……分かってる」
「なら、一度外の空気を吸ってこい」
怒鳴られる方がまだよかった。
親方は、俺が本当に妙なことを言い始めたと思っている。
俺は机に広げた地図を見下ろした。
昨日、あの家の輪郭を確かに描いた。鉛筆の下書きをなぞり、インクが乾くまで待ったことまで覚えている。
なのに、そこには何も描かれていない。
家のあったはずの場所だけが、最初から空白だった。
しかも不思議なことに、周りの道や畑の線は自然につながっている。誰かが消しゴムで家を消したような跡もなかった。
昨日の俺が描いた地図に、昨日の俺が覚えている家がない。
「親方。この地図、誰かが描き直したりした?」
「お前の鞄から出てきたもんだろうが」
「……だよな」
自分で聞いておいて、馬鹿な質問だと思った。
「今日は橋だけでいい。早く終わらせて帰って寝ろ」
「分かった」
地図を丸め、詰所を出る。
広場では子供たちが木の輪を転がして遊んでいた。焼きたてのパンの匂いがして、道具屋の親父が客と値段のことで揉めている。
いつもの村だ。
それが、やけに怖かった。
◇
昼前、俺は仕事を切り上げて家に戻った。
「おかえり。早かったね」
台所にいた母さんが振り向いた。
エレナ。俺を一人で育ててくれた人だ。普段は村の食堂を手伝っていて、今日は午後から店に出るらしい。
「親方に帰って寝ろって言われた」
「あんた、また何か失敗したの?」
「失敗してない。今回は」
「今回は、ねえ」
母さんは小さく笑い、鍋をかき混ぜた。
指先で小さな火を灯し、消えかけたかまどの薪に移す。母さんが使える数少ない魔法の一つだ。
俺は椅子に腰を下ろした。
家に帰ると、少しだけ落ち着いた。古い棚も、窓辺の欠けた花瓶も、出がらしのお茶の匂いも、今朝と同じだ。
「母さん。ベネット爺さんって知ってる?」
鍋をかき混ぜる音が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……誰だい?」
「村外れの家に住んでた人。リンゴの木がある家」
「そんな人、いたかしら」
「昨日も会ったんだ。リンゴももらった」
「別の村と勘違いしてない?」
母さんまで。
俺は手のひらを握りしめた。
「なあ、昨日の夕飯、何だった?」
「豆の煮込みだけど」
「俺、リンゴ持って帰らなかった?」
「持って帰ってないよ」
確かに持って帰った。
一つは道で食べた。もう一つは台所の籠に入れたはずだ。
俺は立ち上がって籠を覗く。
中にはジャガイモが三つと、しなびたタマネギが一個。
リンゴはなかった。
「……そっか」
「ノア?」
「何でもない」
そう言ったものの、何でもないはずがなかった。
母さんが昼飯のパンを皿に並べる。
三切れ。
いつも俺たちが食べる分より、一切れ多い。
「今日は多いな」
「そう? あんた、育ち盛りでしょ」
「十九にもなって?」
「十九でもお腹は減るだろうに」
母さんは笑って余ったパンを自分の皿へ移そうとしたが、ふと首を傾げた。
「……変ね。どうして三切れ用意したんだろ」
何気ない呟きだった。
けれど俺には、胸を締めつけられるような言葉だった。
昨日まで、母さんは昼飯の余りをベネット爺さんに届けていた。
独り暮らしの爺さんが、つい料理を面倒がるからだ。
それを覚えているのも、俺だけなのか。
◇
午後、俺はもう一度空き地へ向かった。
家がないことを確かめるためじゃない。そんなことは朝から何度も確かめている。
俺が探しているのは、家があった証拠だ。
地図も人の記憶も当てにならない。
だったら、自分の目で調べるしかない。
そう思って辺りを歩き回っていると、道端に腰を下ろした少女が声をかけてきた。
「ノア、何してるの?」
フィアだった。
同い年の幼なじみで、食堂の給仕をしている。肩まで伸びた茶色い髪を後ろで結んでいて、今日は買い物籠を抱えていた。
「家を探してる」
「家?」
「ああ」
「……自分の家、忘れたの?」
「そこまで馬鹿じゃない」
「よかった。いよいよ疲れでおかしくなったのかと思った」
「心配するならもうちょっと優しくしてくれ」
いつもなら言い返して終わりだ。
でも今日は、笑う気になれなかった。
「フィア。昨日までここに、ベネット爺さんの家があったって言ったら、信じるか?」
彼女は俺の顔を見た。
それから空き地を見て、もう一度俺を見る。
「……ベネットさんって誰?」
「やっぱり、知らないか」
「ごめん」
「謝ることじゃないよ」
フィアは少し考えてから、籠を地面に置いた。
「でも、ノアが嘘をついてるとは思わない」
思わず顔を上げる。
「だって、そんな嘘ついて何になるの?」
「……それは、そうだな」
「ノアは変なところで頑固だけど、仕事のことは真面目だし」
「褒められてる?」
「半分くらい」
彼女は肩をすくめた。
「何か見つけたら教えて。私にも探せるかもしれないし」
「ありがとな」
たったそれだけの言葉が、思っていた以上にありがたかった。
誰にも信じてもらえないことより、自分が自分を信じられなくなることの方が、ずっと怖かったからだ。
フィアと別れ、空き地の奥へ進む。
草は思ったより深かった。
足首に絡まる茎を払いながら、一歩ずつ地面を調べる。
家があった位置を思い出す。玄関は道に面していて、右手が薪小屋。リンゴの木は左奥。
その辺りで、何かが草に引っかかった。
「……ん?」
かがんで草をかき分ける。
見つかったのは、小さな薪割り斧だった。
刃は使い込まれて黒ずみ、柄の端には赤い布が巻かれている。
結び目がほどけないよう、俺が昨日、二重に巻いてやった布だ。
「……あった」
声が震えた。
布の端には、小さな焦げ跡がある。先月、母さんのかまどのそばに置いて焦がした跡だ。
間違えようがない。
ベネット爺さんは、いた。
俺は斧を持ち上げようとして、手を止めた。
地面に足跡があったのだ。裸足の足跡。
土は乾いているのに、その部分だけが濡れたように黒い。
大人の足跡に混じって、小さな子供のものもある。
変だった。
ベネット爺さんは一人暮らしだったし、こんな場所を何人も裸足で歩く理由がない。
足跡は奥へ続いていた。俺はその跡を追う。
一歩、二歩、三歩。
そして、立ち止まった。
足跡が、何もない地面の途中で途切れていた。
そこは、昨日まで玄関の扉があった場所だった。
風が吹く。
草が揺れる。
俺だけが取り残されたように、辺りは静かだった。
「……爺さん?」
返事はない。
あるはずがない。
扉も壁も、もうどこにもないのだから。
それでも、俺はしばらく動けずにいた。斧を握る手に、じっとりと汗がにじむ。
そのときだった。
こん、こん、こん。
乾いた音が、目の前から聞こえた。
木の扉を、内側から叩くような音。
俺の目の前には、何もない。
それなのに、もう一度。
こん、こん、こん。
確かに、誰かが、扉を叩いていた。
何年か前に書いて放置していたものを吐き出してるだけです




