第7話 優しい夜食
「……むにゅ……ぱぱ……おふとん、あったかいのだ……」
ふかふかの特製ベッドに潜り込んだルチアは、ウサギ耳のフードをかぶったまま、すうすうと可愛い寝息を立てていた。
無邪気に眠る我が子の頭をそっと撫でてから、俺は静かに寝室を抜け出し、リビングスペースへと戻った。
時刻は、深夜を少し回った頃。
ダンジョン最深部の静寂に包まれた部屋で、カチカチと小さな電子音が響いていた。
「……ここをこう設定して、魔導通信の帯域を安定させれば、明日の配信の遅延がゼロになる、はず……っ」
テーブルの山積みにされた機材の光に照らされながら、白雪さんが険しい顔つきでタブレットを叩いていた。
眼鏡の奥の瞳にはうっすらとクマが浮かび、肩をこわばらせてキーボードを高速で弾いている。
「白雪さん、まだ起きてたの?」
「ひゃっ……!? あ、浅倉さん!?」
突然声をかけられた彼女は、ビクッと肩を跳ね上げて慌てて振り返った。
「す、すみません! 物音立てちゃいましたか? ルチア様を起こしちゃいました……?」
「いや、ルチアはぐっすり寝てるよ。それより白雪さん、もう深夜の二時だよ。ずっと画面と睨めっこしてるけど……」
俺が呆れ半分、心配半分で声をかけると、白雪さんは気まずそうに目を逸らした。
「あはは……。なんだか、やるべきことが山積みで、つい……。それに、今この『魔王ちゃんねる』は登録者数も伸びていて、絶対にここでミスをしたくないんです。私、前のギルドでも夜通し働いていたので、これくらい平気ですよ!」
強がりを言いながら、白雪さんはと凝り固まった首を鳴らした。
しかし、その顔色は明らかに青く、疲労の色が隠しきれていない。
(前ブラック企業でのトラウマや、プレッシャーで自分を追い込みすぎているな……)
かつて同じように理不尽な環境で心をすり減らしてきた俺だからこそ、彼女のその「休むことが怖い」ような焦りは痛いほどよく分かった。
無理に「寝ろ」と言っても、彼女は責任感から余計に眠れなくなるだろう。
それなら、言葉ではなく「温かい胃袋への優しさ」で解きほぐしてやるのが、俺のやり方だ。
「ちょっと待ってて」
俺はキッチンに立ち寄り、引き出しから乾麺のうどんを取り出した。
さらに、冷蔵庫から昆布と鰹節、新鮮な卵と小ネギを準備する。
「夜更かしして頭をフル回転させてる時は、胃に優しくて、芯から温まるものが一番効くんだよ」
小鍋に水を張り、出汁パックを入れて火にかける。
じっくりと引いた黄金色の美しい一番出汁に、薄口醤油とみりんをほんの数滴。立ち上る上品で優しい香りが、殺伐とした空気をふっと和らげていく。
別の鍋で茹で上げておいたうどんを器に盛り、熱々の出汁をたっぷりと注ぐ。
そして仕上げに、溶き卵を細く回し入れ、片栗粉でとろみをつけた黄金色の『あんかけ』をふんわりとかぶせた。
仕上げに刻みネギと、アクセントの生姜をほんのひと絞り。
「お待たせ。特製『とろ〜り玉子あんかけうどん』だ」
白雪さんの机の端にそのお椀を置いた瞬間、湯気とともに立ち上る出汁と生姜の香りが、部屋いっぱいに広がった。
「……っ……これ、は……」
白雪さんは文字通り、言葉を失っていた。
画面から目を離して、目の前のお椀をじっと見つめる彼女の瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「……白雪さん?」
「私……前の職場では、夜食といえば冷めきったコンビニの惣菜か、栄養ドリンクだけでした……。『早く作業しろ』『役立たず』って罵声を聞きながら、一人でパソコンを叩くのが当たり前で……」
彼女は震える両手でお椀を包み込み、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「こんなふうに、私の身体を心配して、温かくて美味しそうなご飯を作って待っていてくれる人なんて、人生で初めてです……っ。こんな幸せな夜更かし、していいんでしょうか……?」
「当たり前だよ。白雪さんは今や、俺たちの家族で、なくてはならない大切な相棒なんだからさ」
俺が優しく微笑みかけると、白雪さんは「うぅ……っ」と声を漏らし、両手で顔を覆ってしばらく泣いていた。
やがて、ぐっと涙を拭うと、震える手でレンゲを手に取り、あんかけスープをそっと口に含んだ。
「──んっ……!?」
白雪さんの息が止まった。
昆布と鰹節の圧倒的な旨味がギュッと詰まった、とろみのあるスープ。
生姜の爽やかな香りがじんわりと胃の腑に染みわたり、冷え切った身体の隅々までポカポカと温めていくのだろう。
「……美味しい……っ。優しくて、身体の奥から力が湧いてくるような……そんな味です……っ」
彼女は夢中でうどんをすすり、スープを一滴残らず飲み干した。
食べ終えた頃には、彼女の顔つきに張り詰めていた緊張や焦りはすっかり消えて、代わりに穏やかで満たされた笑顔が戻っていた。
「ふぁぁ……なんだか、すごく眠くなっちゃいました……」
「それが正しい人間の反応だよ。ほら、今日はもうおしまい。明日に備えてしっかり寝よう」
「はい……! 浅倉さん、ごちそうさまでした。私、本当に幸せ者です……」
彼女は満足そうに伸びをすると、ふかふかの簡易ベッドへと潜り込み、数秒で穏やかな寝息を立て始めた。
静まり返ったリビング。
ルチアと白雪さん、二人の大切な家族が安心して眠る寝息を聞きながら、俺は温かいお茶を一口飲んだ。
(さて、俺もそろそろ寝るか)
理不尽に捨てられた最悪の場所が、今や世界で一番温かい居場所になっている。
そんな奇跡を噛みしめながら、俺も静かに眠りについた。




