第9話 噂は、頬の傷から広まりました
翌朝、扉を開けたら人が立っていた。三十くらいの女の方だった。手に籠を提げて、その中に洗濯物が入っている。井戸へ行く途中で寄られたらしい。
「あの、ここ、お化粧の」
「はい」
「花の広場亭の女将さんに聞いて」
わたしは椅子を出した。
◇
その方は、洗い張り屋の奥さんだった。顔をよく見せていただくと、目の下に薄く隈がある。夜なべの仕事だ。
「隈を消してほしいんですけど」
「消せません」
「え」
「隈は皮膚が薄いところに血の色が透けているものです。上から白を置くと、白と青が混ざって灰色になります。灰色は、隈より目立ちます」
その方は困った顔をなさった。
「じゃあ、どうすればいいの」
「明るくいたします。消すのではなく」
隈のすぐ下、頬骨の内側に、白粉を薄く二度。隈そのものには触らない。触らずに、その下を明るくすると、目の下の影が浅く見える。
それから、目の際の墨を、いつもより外側から始める。目頭に近いところに墨を置くと、隈のある帯へ視線が集まる。外から始めて、外で終える。
「終わりました」
鏡を出した。
その方は、しばらく黙って、それから鏡を持ち上げて窓の光に当てられた。
「……隈、ありますよね」
「ございます」
「なのに、なんか、疲れて見えない」
「はい」
その方は硬貨を出して、それから、もう一枚出そうとされた。
「一枚で結構でございます」
「でも」
「一枚と決めておりますので」
◇
その日、四人来られた。二人目は、洗い張り屋の奥さんのお姑さん。七十二歳。杖をついて、嫁に付き添われて来られた。
「死ぬ前に一度、ちゃんとした顔をしてみたい」
そう仰った。
この年になると皮膚が乾く。乾いた皮膚は、粉を吸わずに弾く。だから香油を米粒二つぶんに増やして、頬と目の下と、口の周りに置いた。置いてから、少し待つ。待たずに粉をのせると、油の上を粉が滑る。
白粉は篩を三度かけて細かくした。粗い粉は皺に落ちる。落ちた粉は、皺を線にする。皺のある顔で怖いのは皺そのものではなく、皺に落ちた白い粉だ。紅は、ごく薄く。この年の唇に濃い色を置くと、唇の輪郭のぼやけが逆に目立つ。
鏡を出したら、その方は何も仰らずに、しばらく見ておられた。それから、お嫁さんのほうを向かれた。
「あんた、これ見ておきなさい」
「はい」
「あたしが死んだら、この顔にしてもらいな」
お嫁さんが笑って、それから、目の下を押さえられた。せっかく置いた白粉が取れたので、置き直した。三人目は、南の門で荷を検める役所の方。女の方だった。
制服の襟が高くて、顔の下半分に影が落ちる。だから紅を濃くして、白粉は上へ運ばない。上へ運ぶと、影の落ちた下半分との差が開いて、顔が上下に割れて見える。
「あなた、南門にお勤めでいらっしゃいますか」
「そうよ。荷を検めるの。朝から晩まで、箱を開けては閉めてる」
「南から入る荷は、どのあたりに置かれますか」
「倉。門の内側の、三番から七番」
覚えておいた。理由があったわけではない。ただ、聞いておいたほうがいい気がした。四人目は、乾物屋の方だった。
「言っとくけどね、あたしは付き合いで来たんだよ」
「はい」
「一年は口を利かないって決まりだからね。今日のは、口を利いてるんじゃなくて、銭を払ってるんだ」
「承知いたしました」
この方は目尻に笑い皺が深く入っている。笑い皺のある顔に白粉を厚く置くと、皺が白く残る。だから薄く。皺は塗り込めずに、そのままにしておく。鏡を出したら、その方は「ふん」と仰った。
「どうでしょうか」
「別に」
「さようですか」
「……皺、消してないね」
「消せません」
「なんで」
「そこは、笑ったところですので」
その方は鏡をもう一度見て、それから、置かれた。
「あんた、口の利き方が下手だね」
「よく言われます」
「うちの通りじゃ、それでいいよ」
硬貨を置いて、出ていかれた。その日の売上は、硬貨四枚だった。
◇
夕方に、帳面へ四人ぶんを書いた。一頁に一人。日付。天気。骨のかたち。使った割合。なぜそうしたか。書きながら、白粉の残りを数えた。
三度ぶんと、少し。
◇
次の日は、六人来られた。
その次の日は、九人。
九人目の方は、通りの外から来られた。二つ隣の区の、パン屋の奥さんだった。
「うちの人が、花の広場亭で聞いてきたんですよ。頬に傷のある女将さんが、傷を隠さないままきれいになったって」
噂の出どころは、やはりそこだった。考えてみれば当然だ。この通りで、ローズさんの右の頬を二十年見てきた人たちがいる。その人たちが、ある日から「見ていられる顔」を見るようになった。
消したのではない。そこにあるまま、見ていられるようになった。それは、隠す化粧では起きないことだ。隠した顔を見た人は「隠しているな」と思う。思うから、かえって目が行く。
わたしは、それを言葉で説明したことは一度もない。誰も説明を求めない。ただ、顔を見て、噂を運ぶだけだ。三日目の昼過ぎに、白粉が終わった。
最後の一人には、白粉を置かずに紅と墨だけで済ませた。その方は気づかれなかった。もともと肌のきれいな方で、白粉は無くても成り立つ顔だったからだ。助かった、と思ったけれど、こういうことが続くわけがない。
午後は、扉を閉めた。
閉めているあいだに、二人が戸を叩かれた。明日また来ますと仰って、帰られた。王都の中ほどへは、朝のうちに行った。
粉を挽く商人を、二軒回った。一軒目の主人は、名を聞いたところで首を振られた。二軒目は、店の奥から出てこられもしなかった。小僧が出てきて「うちは扱っておりません」と言われた。扱っていない商売の店ではない。看板に粉と書いてある。
三軒目は、行かなかった。三軒目で同じことをされると、たぶん次の日から歩き方が変わる。そういうものは、二度で止めておいたほうがいい。わたしは棚の下段の前に座って、残りを並べてみた。
紅の元。あと二度ぶん。
油。まだある。
墨。半分。
白粉。無い。
白粉が無いと、顔はつくれない。土台が無いところに色だけ置いても、二刻で流れる。夕方、扉が細く開いた。入ってこられたのは、この通りでは見ない身なりの方だった。上着の肩に家の紋が入っている。
「セラフィナ殿でいらっしゃいますか」
「はい」
「リヴィエール伯爵家の使いでまいりました」
その方は封書を差し出された。封蝋を割って、中を開いた。三行しか書いていない。
〈明後日、当家で夜会を開きます。叔母マチルドの顔を頼みたい。断っても構いません。ジュリアン・ドラクロワ〉
断っても構いません、という一行が、いちばん長く目に残った。
「お返事を伺ってまいれと申しつかっております」
「お受けいたします」
「よろしいのですか。明後日でございますが」
「はい」
その方は一礼して出ていかれた。扉が閉まってから、わたしは棚の下段の前へ戻った。
白粉。無い。
伯爵家の夜会に出る方の顔を、白粉なしでつくることはできない。灯りの下で人と向き合う顔は、光をいちばんよく返す土台が要る。明後日までに、どこかで手に入れなければならない。窓の外はもう暗い。この時刻から動ける先は、ひとつしかなかった。
隈を消してほしいと言われて「消せません」と答える店に、人が来るのかどうか。答えは、来ます。消せないと言われた人は、たいてい今までに何度も「消しますよ」と言われて、そのたびに消えなかった人だからです。
次回、リヴィエール伯爵家の夜会です。叔母上のマチルド様は、口の悪い方でいらっしゃいます。




