第10話 リヴィエール伯爵家の夜会、叔母上の顔を承ります
白粉は、女将のローズさんが持っていた。夜のうちに宿を訪ねた。厨房で鍋を洗っておられるところだった。
「白粉? なんでうちに」
「王都で買えなくなりましたので」
「買えなくなるって、そんなことあるのかい」
「組合が、売らないようにと商人へ申し送られたようです」
「……あんた、なんかしたのかい」
「札を持たずに店を開けました」
「それだけかい」
「それだけです」
ローズさんは鍋を置いて、手を拭かれた。
「ちょっと待ってな」
台所の奥へ入って、しばらく音がして、それから古い箱を出してこられた。
「亭主の母親のだよ。二十年前のだから、使えるかどうか知らないけどね」
蓋を開けた。粉は固まりかけていた。指で押すと崩れる。崩れ方を見て、乳鉢に取って、乳棒で回した。
二十年経った白粉は、油分が抜けて軽くなる。軽い粉は肌に乗らずに飛ぶ。だから油を足す。足しすぎると重くなる。乳鉢の壁に薄く伸ばして、光にかざして、粒の縁が丸くなるまで回す。
二刻かかった。
篩を三度。粗い粒が残ったので、四度。できたものを手の甲に置いて、窓の外の月に当ててみた。使える。伯爵家の灯りの下でも、たぶん保つ。
◇
翌々日の夕方、リヴィエール伯爵家の門をくぐった。
王都の北側の、坂の上の家だった。門から玄関までに庭がある。庭には手が入りすぎていない。刈り込んだ植え込みではなく、伸びるにまかせた木が多い。誰かが「この家は金がある」と言うより先に、「この家の人は庭に興味がない」と分かる庭だった。
通されたのは二階の小さな部屋だった。鏡台の前に、五十くらいの女の方が座っておられた。
「あなたが、化粧の人」
「セラフィナと申します」
「マチルドよ。あの子の父の妹」
その方は、鏡越しにこちらを見られた。
「言っておくけど、わたくしは化粧が嫌いですよ」
「さようでございますか」
「うちの兄がね、顔のきれいな後妻をもらって、それで家をひとつ傾けたの。だからこの家では、化粧の話はしないことになっている」
ジュリアン様の仰っていた「身内を一人失っている」の話と、たぶんつながっている。
「では、なぜお呼びくださいましたか」
「あの子が寄越せと言うから」
マチルド様は、鼻を鳴らされた。
「あの子が人に何かを頼むのは、五年ぶりですよ。だから来させた。あなたの腕を見たいわけじゃありません」
「承知いたしました」
「あら、怒らないの」
「事実を仰っただけですので」
「そういうところが、あの子の好みそうなところね」
わたしは道具の袋の紐を解いた。
「マチルド様、ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なあに」
「今夜は、どちらのお席にお立ちになりますか」
「席?」
「灯りの位置を伺いたいのです。大広間でしたら、灯りは天井からまいります。小間でしたら、燭台が横から」
「……大広間よ。暖炉の側に立つことが多いわ」
暖炉。ということは、右か左か、片側から下向きの光も入る。
「暖炉は、お立ちになってどちら側でしょう」
「右」
覚えた。右の頬は、暖炉の火で下から少し照らされる。下からの光は影を上へ押し上げるので、右だけ粉を薄くする。
「そんなことまで聞くの」
「伺わないと、片側だけ崩れますので」
◇
わたしは道具を並べた。マチルド様の顔は、骨がまっすぐだった。額から鼻梁、顎までの線に癖がない。若いころはさぞ、と言われてきた顔だ。ただ、皮膚が薄い。目の下と、頬の外側が特に。薄いところは、粉が乗ると細かい線を拾う。
香油を米粒ひとつ。手のひらで温めて、目の下だけ二度。それから頬。白粉。二十年前の粉を、篩四度。ここから先が、この方の顔のいちばん難しいところだった。
骨がまっすぐなので、どこにも自然な影が無い。影の無い顔に、灯りの下で立っていただくと、顔が平らに見える。夜会の灯りは上から来るからだ。上からの光は、まっすぐな骨をいちばん平らに見せる。
だから、置く。
頬骨の下ではなく、頬骨の上に。白粉を、頬骨の稜線に沿って、こめかみへ向かって薄く一本。二度。それから、その帯の外側だけ、指の腹でぼかす。内側はぼかさない。ぼかすと帯が消える。
こうすると、上からの灯りが頬骨の帯で一度止まる。止まった光の下に、影が自分でできる。わたしは影を描かない。光の止まる場所を作るだけだ。
眉は、この方はもう描いておられなかった。もともと濃いので必要ない。形だけ、眉尻を三分だけ下げた。上げるとこの顔はきつくなる。この方は口でじゅうぶんきついので、顔まできつくする必要がない。
紅。
この方の唇は薄い。薄い唇に濃い色を置くと、口だけが浮く。だから、色は濃く、量は少なく。内側から外へ、二度。輪郭からは、わずかに内へ止める。
「終わりました」
◇
マチルド様は鏡を見た。右を向いて、左を向いて、それから上を向かれた。天井の灯りに顔を当てて、また下ろされた。
「……これ、何をしたの」
「白粉を、頬骨の上へ置きました」
「上? 下じゃなくて?」
「下へ置くと、影を描くことになります。描いた影は、灯りの向きが変われば消えます。夜会は人が動きますので」
マチルド様は、もう一度天井を見上げられた。それから、鏡台に肘をついて、こちらを振り返られた。
「あなた、うちの甥に何をしたの」
「何も」
「あの子ね、五年前に一度、母親を探しに行ったのよ。見つからなくて、帰ってきて、それきり誰にも何も頼まなくなった」
「……はい」
「その子が、化粧の人を寄越せと言った」
わたしは道具を片づける手を止めなかった。
「わたくしは、化粧は嘘ではないと申し上げただけです」
「それが何かしたってことよ」
◇
夜会は、二刻ほどで引けた。わたしは階下へは降りずに、二階の小部屋で待っていた。呼ばれれば直しに行く。呼ばれなければ、それでいい。一度も呼ばれなかった。帰り支度をしているところへ、ジュリアン様が上がってこられた。
「叔母が、上機嫌です」
「それはようございました」
「三人に名前を聞かれたそうです。あなたの」
わたしは道具の袋を閉じた。
「お伝えいただけましたか」
「伝えました。花の広場の端の店だと」
ジュリアン様は、部屋の入口に立ったまま動かれなかった。
「セラフィナ殿」
「はい」
「先日、私は化粧は嘘だと申しました」
「伺いました」
「……嘘ではなかった、と言っています」
それだけ仰った。
言い方が不器用だったので、わたしは笑いそうになって、こらえた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない。事実を訂正しただけです」
門まで送ってくださった。坂を下りる道で、風が出てきた。ジュリアン様は右手を上げて、髪を耳にかけようとなさった。風が右から吹いていたので、髪はもともと左へ流れていた。かける必要は無かった。
それでも、その方は手を上げて、途中でやめて、下ろされた。癖なのだろうと思った。
夜会の灯りは上から来ます。だから、上からの光でいちばん平らに見える顔と、いちばん立って見える顔があります。骨のまっすぐな方は、たいてい前者です。何もしないと、いちばん整った顔がいちばん損をします。
次回、店に戻ります。白粉は二十年前のぶんで最後で、紅の元も尽きます。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。ブックマークをいただけますと、乳鉢を回す腕があと二刻もちます。




