第11話 白粉が、王都のどこにも売っていません
伯爵家の夜会から四日で、客が二十二人来られた。そのうち十四人はこの通りの外の方だった。
噂の広まり方には順番がある。まず通りの内で広まる。それから宿に泊まる人が持ち出す。その次に「あそこの店の顔らしい」という言い方で戻ってくる。今回はそこへ、伯爵家の三人ぶんが乗った。乗ったところで材料が無い。
二十年前の白粉は七人でちょうど尽きた。八人目からは白粉を使わない顔にした。肌のきれいな方を選んで、紅と墨だけで組む。選べるあいだはそれでいい。選べなくなったら断るしかない。
五日目の朝、断った。
三十くらいの女の方で、頬に赤みが強く出る体質の方だった。ああいうお顔は白粉で土台を作らないと紅が浮く。
「今日は、お引き受けできません」
「なんで」
「白粉がございませんので」
「買えばいいじゃない」
「売っていただけないのです」
「売ってもらえないって、何よそれ」
「札を持っておりませんので」
「札って、あの、組合の?」
「はい」
「じゃあ取ればいいじゃない」
「取るには、組合の方の推薦が二ついります」
「もらえばいいじゃない」
「もらいに行く先が、売らないと決めた方でございますので」
その方は口を開いて、閉じられた。
「……それ、詰んでない?」
「詰んでおります」
わたしがあまりにあっさり言ったからか、その方は少し笑われた。それから真顔に戻られた。笑ったことを気まずく思われたらしい。
「あたし、来週、姉の結婚式なのよ」
「さようでございますか」
「ずっと、頬が赤いのが嫌でね。写生画も残るし」
「……はい」
「まあ、いいわ。また来る」
その方はしばらく黙っていた。それから「ふうん」と仰って帰られた。その日は、あと二人断った。断ると、こちらから頭を下げることになる。三度下げると、四度目から声が小さくなる。
◇
夕方、棚の下段を並べ直した。
紅の元。あと二度ぶん。
墨。三分の一。
油。まだある。
白粉。無い。
油だけが余っている。油はこの通りの香油屋で買える。組合が扱っていないからだ。組合が扱わないものだけが、わたしの手元に残った。帳面を開いて、この五日ぶんを書いた。一人につき一頁。二十二頁が、五日で埋まった。
二十二人。名前と、骨のかたちと、割合と、理由を。書きながら、ひとつ気がついたことがある。この五日で、わたしは二十二人ぶんの処方を持った。ヴェルニエの家を出るとき、持っていた処方は一人ぶんだった。
一人ぶんの帳面を持って出た人間が、五日で二十二人ぶんを書いた。書いても、明日は粉が無い。
処方がいくらあっても、置くものが無ければ顔はつくれない。母の帳面は百四十頁ある。それでも母は毎朝、粉を篩っていた。書いたものは道具の代わりにならない。
◇
扉が開いたのは、日が落ちてからだった。ノエルだった。木箱は持っていない。今日は両手が空いている。
「なんで暗いの」
「灯りをつけると、人が来ますので」
「客だろ。いいじゃん」
「お断りするのが、二度目からつらくなりますので」
ノエルは何も言わずに店へ入ってきた。棚の下段の前にしゃがんで、空の貝殻の蓋を開けて、鼻を近づけた。左目を閉じて、短く吸う。
「ふうん」
それから篩を持ち上げて、目の細かいほうの網に鼻を寄せた。もう一度、左目を閉じる。
「これ、まだ匂いする」
「粉が網に残っておりますので」
「じゃあ、こっちは」
粗いほうの篩を取って、嗅いだ。
「こっちのが、匂い強い」
「粗いほうを先に使いますので、残りが多いのです」
ノエルは篩を置いて、立ち上がった。
「白粉って、どこで作ってんの」
「王都の中ほどに、粉を挽く商人が十一軒ございます。そのうち九軒が組合の預かりで、残る二軒も来月には——」
「そうじゃなくて」
ノエルは首を振った。
「元は。どっから来んの」
わたしは口を開きかけて、閉じた。白粉の元になる粉は、王都では作らない。南から来る。船で港まで運ばれて、荷車に積み替えられて、南の門を通って王都へ入る。挽くのは王都の商人だ。だが、粉そのものは、まず門を通る。
門を通ったものは、倉に入る。倉に入ったものが、商人に渡る。
「……南の門から入ります」
「だろ」
ノエルは肩をすくめた。
「組合ってさ、店には売るなって言えるけど、門には言えないんじゃないの」
「……」
「俺、南門の倉のとこなら、匂いで分かるよ。三番から七番まで、全部ちがう匂いがする」
三番から七番。
南門で荷を検める役所の方が、そう仰っていた。門の内側の、三番から七番。
「ノエル」
「なに」
「その匂いのうち、白粉の元はどれか分かりますか」
「白粉の元って、どんな匂いなの」
わたしは棚から篩を取り、粗いほうの網をノエルの前に出した。ノエルは左目を閉じた。一度、二度。三度目は長く。
「……これの、もっと強いやつ」
「はい」
「あと、たぶんこれ、貝の匂いもする」
「貝殻を焼いて挽いたものが混ざっておりますので」
「じゃあ分かる」
ノエルは、あっさりそう言った。
「貝焼いた匂いと、粉の匂いが一緒に出てるとこ。三番から七番の中に、一つか二つしかない」
わたしは篩を持ったまま、しばらく動けなかった。
貝を焼いて挽いたものを混ぜるのは、この国の白粉の作り方だ。貝の粉は粒が角ばっていて、それだけでは肌に食い込む。角を取るために、南から来る細かい粉と合わせる。合わせる割合は挽き屋ごとに違っていて、それが挽き屋の腕になる。
つまり、倉の中で二つは別々の袋に入っている。合わさるのは挽き屋の手元だ。なのに、この子は「一緒に出ている」と言った。組合は、王都の十一軒の商人に「売るな」と言える。それは効く。挽き屋は組合に生かされているからだ。
しかし、南から来る荷そのものを止めることはできない。荷は商人の持ち物ではない。門を通るまでは、運んできた人の物だ。運んできた人が王都に着いてすぐ組合の商人へ渡す。それが習いになっているだけだ。そう決まっているわけではない。
「明日、南門へ行きます」
「ふうん」
「ノエル」
「なに」
「一緒に来ていただけますか」
ノエルは、こちらを見た。
「金は」
「ございません」
わたしは正直に答えた。
「ですが、今日の売上が硬貨二枚ございます。二枚では足りませんので、代わりに、いつか字をお教えします」
ノエルの顔が動いた。
ほんの少しだけ、口の端が引きつるように。
わたしはそれを見て、余計なことを言ったのかもしれないと思った。字を教えると言われて喜ぶかどうかは、その人が字をどう思っているかによる。読めないことを恥だと思っている人に「読めるようにしてやる」と言うのは、恥を名指ししたのと同じになる。
六年、義妹の顔しかつくってこなかった人間の間合いは、たぶんまだ狂っている。謝ろうとして、口を開いた。
「……なんで」
声が、さっきまでと違っていた。
「なんで、そういうこと言うんだよ」
王都の商いには、たいてい「そう決まっているわけではないが、みんなそうしている」という手順が挟まっています。止められるのは決まりのほうだけで、習いのほうは止められません。抜け道というより、もともと道ですらなかったところです。
次回、南門の倉へ行きます。三番から七番までのうち、貝を焼いた匂いのする倉を探します。




