第12話 ノエルは南門の匂いを覚えていました
南門の倉は、思っていたより大きかった。石造りの棟が七つ、門の内側に並んでいる。番号が扉の上に彫ってあった。荷車が出入りするたびに、その番号を書きつけている人がいる。朝の六刻。荷が動く時間だった。
門の前には荷車が十台近く並んでいた。順に検めを受けて、印をもらってから内側へ入る。検めをしているのは、先日うちへ来られた役所の方だった。目が合ったので会釈をしたら、顎で「入れ」と示された。並ばずに済んだ。
この顔をつくったのは五日前だ。あのときは、こういうことになるとは思っていなかった。
「三番から」
ノエルが先に立って歩いた。三番の扉の前で止まって、左目を閉じる。一度、二度。
「乾いた草。あと、動物の毛」
「羊毛でしょうか」
「たぶん。あと、虫よけの匂いがする」
四番。
「油。魚の油。臭い」
「灯り用でしょうね」
五番。
ノエルはここで、少し長く嗅いだ。
「……ちがう。木の匂いだ。切ったばっかの木」
六番。
扉の前に立った瞬間に、ノエルの背筋が伸びた。
「ここだ」
左目を閉じたまま、二度、三度と吸う。
「粉の匂い。あと、貝を焼いたやつ。まちがいない」
わたしも近づいて嗅いでみた。石と埃の匂いしかしない。扉は閉まっている。閉まった扉の向こうの匂いを嗅ぎ分ける鼻というものが、この世にあるとは思っていなかった。
「ノエル、本当に分かりますか」
「分かるって」
「わたくしには、何も」
「あんた、鼻が悪いんだよ」
言われて、たしかにそうかもしれないと思った。母も「粉には粉の匂いがある」と言っていた。わたしはそれを、指と目で覚え直した。鼻で分かる人は、たぶん最初から違う道を歩いている。
◇
六番の倉の帳場に、南の商人がいた。肌の黒い、四十くらいの男の方だった。荷の中身を数えながら、木の板に印をつけておられる。
「白粉の元を、分けていただきたいのです」
その方は顔を上げられた。
「あんた、どこの店」
「花の広場の、化粧の店でございます」
「うちは小売はしない。挽き屋にまとめて渡す」
「その挽き屋から、買えなくなりましたので」
その方は板を置いて、腕を組まれた。
「組合か」
「はい」
「よくあるんだ、それは」
その方は、少しも驚かれなかった。
「うちは南から年に四度来る。港で荷を下ろして、ここまで運んで、挽き屋に渡して帰る。渡す先は毎度同じだ。組合が決めた通りにしないと、次から荷を受けてもらえない」
「では」
「ただな」
その方は、倉の奥を顎で指された。
「毎度、余る」
「余る、と申しますと」
「船で来ると、湿気で固まるやつが出る。固まったのは挽き屋が引き取らない。目方が合わないからだ。俺はそれを捨てて帰る」
わたしは倉の奥を見た。麻袋がいくつか、壁際に寄せてある。
「捨てるものでしたら、いただけませんか」
「いいけどな、固まってるぞ」
「崩せます」
その方は麻袋をひとつ開けて、中の塊を握って見せてくださった。袋は三分の一ほど埋まっていた。拳ほどの塊。指で押すと、外側だけが崩れた。中はまだ固い。
湿気で固まった粉は、油分が偏る。偏ったまま挽くと、乗る場所と乗らない場所ができる。だから挽き屋は引き取らない。だが、乳鉢で少しずつ崩して、篩を四度かければ、粒はそろう。手間はかかる。二十年前の白粉を戻したときと同じことだ。
二刻で、一人ぶん。一日に二人までなら回せる。三人目からは前の晩に用意しておく必要がある。
「いただきます」
「いくら出す」
「硬貨二枚しかございません」
その方は笑われた。
「捨てるもんに二枚も要らん。一枚でいい。あと、次に来たとき、うちの女房の顔をやってくれ」
「承知いたしました」
◇
麻袋を三つ、荷車を借りて運んだ。押しているあいだ、ノエルはずっと黙っていた。門を出て、二つ目の角を曲がったところで、口を開いた。
「あのさ」
「はい」
「昨日の話」
「字のことですか」
「……うん」
荷車の車輪が石畳で跳ねて、麻袋がひとつずれた。ノエルが押さえた。
「俺、読めないんだ」
「存じております」
「知ってたの」
「はじめてお会いした日に、木箱の紙をご覧になっていましたので。あの読み方は、字を追っていない読み方でした」
ノエルは黙った。
「夫人の店で、字が読めないと分かると、外へ出される」
「そうなのですか」
「箱運びは、読めなくてもできるから。それで置いてもらってる」
わたしは荷車を止めた。
「ノエル。うちの店に来ませんか」
「は?」
「給金は、いま硬貨一枚しか出せません。増えたら増やします。それから、字をお教えします」
ノエルは、こちらを見なかった。
「なんで」
「あなたの鼻が要るからです」
言ってから、少し違うと思ったので、言い直した。
「それと、あなたに帳面を読んでいただきたいからです」
「……帳面」
「あの帳面には、母の書いた処方が六十八頁ぶんございます。わたくしは読めますが、わたくし一人しか読めません。読める人が二人になったほうが、母のためになります」
ノエルは、荷車の取っ手を握り直した。しばらくして、鼻をすすった。
「風邪だから」
「はい」
「風邪だからな」
「はい」
◇
店に戻って、麻袋を開けた。ノエルが塊をひとつ取って、鼻を近づけた。左目を閉じる。
「……これ、袋の下のほうのと、上のほうで匂いがちがう」
「どちらが強いですか」
「下」
「では、下から使います。湿気を吸っているほうから先に崩さないと、放っておくとそこから傷みますので」
乳鉢に取った。
乳棒を当てて、押すのではなく、回す。押すと粒が潰れて粉が細かくなりすぎる。回すと、塊だけがほどける。半刻で、乳鉢の底が白くなった。
篩を四度。
手の甲に置いて、東の窓の光に当てた。
粒が、そろっている。
その夜、ノエルは帰らなかった。二階の部屋に藁を敷いて、そこで寝ると言った。寝る前に、わたしは帳面の最初の頁を開いて、いちばん上の一行を指した。
〈クレール夫人・春の三の日〉
「これが、名前です」
「どれが」
「この、四つの字。ク・レ・ー・ル」
「四つで一人?」
「四つで一人です」
ノエルは、しばらくそれを見ていた。それから、帳面の後ろのほうへ手を伸ばして、最後の頁をめくった。破り取られた七枚の断面が出た。ノエルが鼻を近づけた。左目が、いつものように細くなる。一度、二度。三度目は長かった。
「これ、紙の匂いがちがう」
わたしは帳面を引き寄せた。
「ほかの頁と、どう違いますか」
「うまく言えない。……薬っぽい」
「薬」
「うちの、じゃなくて。夫人の店の奥から、たまにする匂い」
ノエルは断面から鼻を離して、それから、もう一度近づけた。
「うん。あそこの匂いだ」
夫人の店の奥。
ノエルが箱を運ぶだけで、入れてもらえない場所だ。母が二度、返信を断った相手の店。その匂いが、六年前に破り取られた頁の断面に残っている。
組合は挽き屋に「売るな」と言えます。運んできた人には言えません。運んできた人にとって、王都の組合はただの取引先の一つで、しかも一年に四度しか会わない相手です。
次回、認可の審査です。それから、店の前に、思いがけない方が立っておられます。
ここまでお読みくださって、ありがとうございます。ブックマークをいただけますと、ノエルの手習いの紙が一枚増えます。




