第8話 組合のラウレット夫人がいらっしゃいました
札が貼られてから、三日は何も起きなかった。客は来ない。札の貼ってある店に入る人はいない。
三日のあいだ、わたしは店の中で道具の手入れをしていた。刷毛の毛先を洗って干す。乳鉢の内側を磨く。秤の皿の縁に付いた粉を、細い布で拭う。全部済ませると、半日で終わる。
半日で終わってしまうので、二日目からは母の帳面を最初から読み直した。百四十頁のうち、母の書いた六十八頁。そのうちの二か所に、同じ名前が出てくる。
〈冬の五の日。ラウレット殿へ返信。断る〉
もう一つは、その二年後。
〈春の九の日。ラウレット殿へ返信。断る。二度目〉
どちらも、それだけしか書いていない。母は三行目に「なぜそうしたか」を必ず書く人だった。この二か所にだけ、三行目が無い。書かなかったのか、書けなかったのか。四日目の昼に、馬車が通りへ入ってきた。
この通りは荷車が二台すれ違えない幅で、馬車が入ると人が壁際へ寄ることになる。乾物屋の方が籠を抱えて軒下へ下がられるのが、窓から見えた。馬車は店の前で止まった。
降りてこられたのは、六十に近いくらいの女の方だった。背は低い。灰色の外套を着ておられて、襟の留め具だけが銀だった。従者は連れておられない。御者が一人だけ。
扉が開いた。
「あなたが、セラフィナ」
「はい」
「ラウレットです」
名乗って、それきり黙って店の中を見回された。床。壁の棚。東の窓。それから、棚の下の段。貝殻が四つ。刷毛が六本。篩が二枚。乳鉢と乳棒。秤と分銅が七つ。その方は、そこを長く見ておられた。
「道具が、少のうございますね」
「必要なものだけ持ってまいりましたので」
「いいえ、そういう意味ではございません」
ラウレット夫人は、棚の前まで歩いてこられた。
「刷毛が六本。太いのから細いのへ、使う順に紐で束ねてある。篩が粗と細で二枚。秤の分銅は七つで、いちばん小さいのが銀の粒。——この並べ方をする人は、いま王都に何人もおりません」
それから、こちらを振り返られた。
「札は、お持ちですか」
「持っておりません」
「では、その看板は下ろしていただきます」
◇
わたしは椅子をひとつ出した。夫人は座られなかった。
「組合の札がないと、化粧で銭をいただくことはできません。ご存じですね」
「存じております」
「ご存じで開けたのですか」
「はい」
「なぜ」
「開けなければ、札をいただく道がございませんので」
夫人は片方の眉だけを動かされた。
「札は、なんのためにあるとお思いです」
「腕を保つためと伺っております」
「半分です」
その方は、東の窓のほうへ歩かれた。板を外した跡の釘穴を、指で確かめておられる。
「腕の悪い者を締め出すためではありません。腕の悪い者は、放っておいても消えます。札があるのは——顔をひとつ壊した者を、二度と店に立たせないためです」
「壊す、と申しますと」
「鉛です」
夫人は振り返られた。
「白く見せるのに、いちばん早いのは鉛の粉です。安くて、よく伸びて、その日のうちに人が変わったように見えます。三年で肌が石のようになって、五年で歯が抜けます。十年で死にます」
わたしは黙っていた。
「わたくしが札を出すようになって二十六年で、鉛を使った者を七人止めました。七人とも、悪気はありませんでしたよ。お客に喜ばれるものを出しただけです」
「……はい」
「札のない店は、それを止める者がおりません。だから止めます。あなたが何を使っているかは、関係ありません」
筋は通っていた。通りすぎるくらい通っていた。だから、この方が本当に言いたいことは、まだ出ていないのだろうと思った。夫人の眉が、わずかに上がった。
「組合に入るには店が要り、店を借りるには札が要ると伺いました。どちらからも入れないのでしたら、順番を逆にするしかございません」
「逆にすると、規則に触れます」
「触れますね」
夫人は、しばらくわたしを見ておられた。
「あなた、いくつ」
「十九でございます」
「十九で、そこまで開き直る人は珍しゅうございますよ」
「開き直ってはおりません。困っております」
◇
「札の審査は、年に四度あります」
夫人は外套の袖を直しながら仰った。
「次は来月です。申請には、組合員二名の推薦と、店の登記と、三年ぶんの修業の証しが要ります。あなた、どれをお持ちですか」
「修業の証しは、ございません」
「どこで習われたのです」
「母に」
「お母さまのお名前は」
わたしは、少しだけ間を置いた。
「エレーヌ・ヴェルニエと申します」
夫人は動かれなかった。顔の筋も、目も、動かなかった。ただ、外套の袖を直しておられた手が、そこで止まった。
二つ数えるくらい。
それから、台の上へ目をやられた。台には、帳面が開いたまま置いてあった。今朝の頁だ。〈花の広場・晴。向かいの壁に日。白は半分引く〉夫人は、それを一瞥された。
「……懐かしい筆跡ですこと」
わたしは顔を上げた。
「母をご存じですか」
「王都の化粧師で、あの方を知らない者はおりませんでした」
「では」
「昔の話です」
それだけ仰って、夫人は扉のほうへ歩かれた。
「母は、こちらの組合に何か断ったことがございますか」
背中が止まった。
「帳面に二度、お名前が出てまいります。〈ラウレット殿へ返信。断る〉と。それだけしか書いておりませんので、何を断ったのか分かりません」
夫人は振り返られた。
手の甲が、こちらから見えた。日に焼けたのではない、古い染みが三つ。染料か、薬品か。長く指を使ってきた人の手だった。
「セラフィナ。ひとつ、教えてさしあげます」
「はい」
「この王都で化粧の材料を扱う商人は、十一軒あります。そのうち九軒は組合の預かりです」
「……はい」
「残る二軒のうち一軒は、来月には預かりに入ります」
言い方は静かだった。
「白粉も、紅の元も、油も、明日から、あなたには売られません。売れば、その商人が九軒ぶんの取引を失いますので」
「それは、規則でございますか」
「いいえ。ただの商売です」
夫人は扉に手をかけられた。
「来月の審査には、お出になれません。推薦する組合員がおりませんので。——お母さまのことは、お気の毒でしたね」
扉が閉まった。
馬車が動き出す音がして、通りの人がまた出てきた。わたしはしばらく台の前に立っていた。帳面の今朝の頁を見た。〈白は半分引く〉。ここに書いてある白粉が、明日から買えない。
棚の下段を見た。白粉は、あと三度ぶん。紅の元は、五度ぶん。油は、まだある。
三日はもつ。四日目からは、何もできない。
それから、もう一度、帳面の最後を開いた。破り取られた七枚の断面に、指を当てる。あの方は、母の名を聞いても顔を動かされなかった。動かさなかったのに、手だけが止まった。あの止まり方は、思い出した人の止まり方ではない。
思い出したくないことを、いま思い出した人の止まり方だ。
同業の組合というのは、たいてい人を守るためにできています。守る相手の中に自分が入っているかどうかは、入ってみないと分かりません。
次回、店の前に列ができます。ただし、材料はあと三日ぶんです。




